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Admiral Hipper アドミラルヒッパー 第一次世界大戦、ジェットランド沖海戦にて巡洋戦艦からなる索敵部隊を指揮した Franz Ritter von Hipper 提督(中将)から。
Blücher ブリッヒャー プロイセンの将軍 Gerhard Leberecht von Blücher (1742-1819) から。同将軍の名を冠した艦船は同艦級以外に2隻存在した。 1935年8月15日、キール Deutsche Werke 造船所にて起工。 開戦後はバルト海で訓練を行い、1940年4月、Weserubung 作戦(ノルウェー攻略)に参加。 シュバイネミュンデ(現ポーランド領)で陸軍兵士を乗せ、装甲艦リュッツオゥ、軽巡洋艦エムデン、他水雷艇3隻等で第5戦隊を形成。 4月9日午前5時21分(ドイツ時間)、ブリュッヒャーを先頭に戦隊はオスロフィヨルドの最も狭い地点、Drobak に差し掛かり、 Oskarborg 要塞から28cm砲による砲撃を受け、ブリュッヒャーは艦橋及び砲撃指揮所、艦載機燃料タンクに被弾。 反撃を行うものの、重要施設への命中弾は得られず、逆に沿岸魚雷の射程に入り込み、2発の魚雷を受け、 午前7時23分、830名余と共に沈没した。 Oskarborg 要塞に配置されていたのは47年前の、ドイツ製の28cm砲だったのは皮肉だろう。 なお、ブリュッヒャーは沈んだ今でも燃料やオイルを流出させているらしく環境に対する影響が心配されているらしい。
Prinz Eugen プリンツオイゲン トルコ、フランス、 スペインとの多くの戦争で勝利した Prinz Eugen von Savoyen-Carignan (1663-1736) から。 1936年4月23日、キール Germaniawerft 造船所にて起工。 幾度か爆撃や雷撃を受けたものの、終戦まで生き延びた幸運艦。 開戦後は戦艦ビスマルク等と行動を共にし、 1941年5月24日、ブレスト西方沖でビスマルクと共に英国艦隊と砲火を交えた。 ビスマルクは撃沈されたが、プリンツオイゲンは無傷でブレストへ辿り着き。7月2日に英国軍機から爆撃を受け損傷。 1942年2月11日、ドーバー海峡を突破してドイツへ帰還する Cerberus 作戦を実施。 シャルンホルスト、グナイゼナウ、他駆逐艦6隻、14隻の水雷艇と共に作戦を遂行し、プリンツオイゲンは無傷でドイツへ帰還した。 1942年2月23日、ノルウェーのトロンハイムフィヨルド沖で英国潜水艦トライデントから放たれた魚雷が艦尾に命中し、 航行不能に陥るが曳航されトロンハイムで応急修理を受け、本修理のため5月にキールへ向け出港、 英国軍の攻撃を受けるも無傷でキールに到着し、修理を行った。 1942年末には復帰し、バルト海方面で行動し、1944年10月にはメーメル(現リトアニアのクライペダ)の後退するドイツ陸軍を支援。 10月15日、軽巡洋艦ライプツィヒと衝突。損傷軽微。 終戦後は英国の管理下に入り、1945年12月に米国海軍へ譲渡され、原爆実験に供された。 1946年7月1日、二発の原子爆弾の試験に付き合わされ、浸水こそ起こしたが沈没せず、 クアジャリン(クェゼリン)環礁へ曳航され、12月22日、傾斜が増大し転覆、沈没した。 スクリューの一つは引き上げられドイツ海軍記念館に展示されている。 原爆実験前に取り外された一番砲塔は、米国ヴァージニア州ダルグレン海軍研究所に、 搭載機はスミソニアン博物館にある・・・・・らしい。 (余談ではあるが、クェゼリン環礁にはプリンツオイゲンらしき残骸が衛星から確認できる。ページ末に画像を掲載)
Seydlitz ザイドリッツ プロイセンの将軍 Friedrich Wilhelm von Seydlitz (1721-1773) から。高名な騎兵司令官。 1936年1月19日、ブレーメン Deschimag 造船所にて起工。 1942年8月26日、補助航空母艦(Project Weser1)への転換工事が始まるが、1943年1月には工事を中断し、ケーニヒスベルグへ移動。 1945年1月29日、侵攻してきたソビエト軍に鹵獲されるのを防ぐため、自爆自沈。 戦後、ソビエトが浮揚接収しレニングラードへ回航し、1947年3月10日にはソビエト海軍の艦籍簿に載っていた。 が、損傷が酷かったせいか4月9日は艦籍簿から削除されている。 ザイドリッツの部品がリュッツオゥに流用されたのではないかとする説もある。
Lützow リュッツオゥ プロイセンの将軍 Ludwig Adolf Wilhelm von Lützow (1782-1834) から。ナポレオン戦争時、プロイセン義勇兵の指揮・編成で有名。 1937年8月2日、ブレーメン Deschimag 造船所にて起工。 1940年5月、物資の見返りとしてソビエトへ未完成のまま売却、レニングラードへ曳航された。9月にペトロパブロフスク Petropavlovsk と改名。 1941年9月17日、未完成のまま独ソ戦に突入したペトロパブロフスクは浮き砲台とり、ドイツ軍地上部隊に対して砲撃を敢行したものの、 逆にドイツ軍重砲の攻撃を受け(210mm砲弾53発が命中)、沈没。港内であったため全没には至らず。 その後、致命的な爆撃を受けたが復旧し、1944年1月には退却するドイツ軍へ対し、1036発を超える砲撃を敢行。 1944年9月、タリン Tallin と改名。 1945年夏以降、工事続行のため(まだ未完成だった)バルト海へ移動。 以後、装備の変更に伴い(8インチ連装砲から6インチ三連装砲へ、等)、艦種が軽巡洋艦へ変更を行ったり、 老朽化のため係船練習船、係船兵舎となるなどし、1958年にソビエトの艦名簿から削除された。 後に解体された。
満載排水量 :18600t 全長 :205,9m 全幅 :21,3m 喫水 :7,7m 乗員 :1600名 武装 :20,3cm L/60 C/34 連装4基8門 :10,5cm L/65 C/33 連装6基12門 :4cm L/56 Flak 28 6門 :3,7cm L/83 C/30 8門 :2cm L/65 C/30 32門 :53,3cm魚雷発射管 3連装4基 搭載航空機 :Arado Ar-196 3機 装甲 :水平12-50mm :垂直70-80mm :艦橋50-150mm :砲塔70-105mm 機関 :3軸 Blohm & Vos type turbines 3基 その他性能 :機関出力(軸馬力) 132000shp :最大速度 32,5knot(およそ60km/h) :航続距離 20knotにて8000mile(およそ37km/hにて12870km) ※アドミラルヒッパーの数値であるが資料によって数値が違う場合がある。