五代の馮道

「五代の馮道」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

五代の馮道」(2010/02/09 (火) 13:28:24) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

=五代の馮道 = 馮道は中国の五代十国時代に五朝八姓十一の天子に宰相として仕え、乱世にあって民のために戦争を極力回避した人である。 軍閥の割拠する状態の中で最も力を持ったのがべん開封に拠を置いた朱全忠だった。 朱全忠は後梁を建国して都を開封に定め、唐朝は滅びるに至った。 耶律阿保機による遼の建国、北の五代、南の十国という五代十国時代招くのである。 馮道が初めて仕えたのは幽州節度使であった劉守光の部下としてであった。 当時の幽州は盧龍軍のあった地で、これは安祿山部下であった李懐仙が唐に帰順したのだった。 盧龍において、李克用の推挙により節度使となった劉仁恭の息子が劉守光である。 劉守光は劉仁恭を捕えて幽閉し、義昌節度使を兼ねるようになる。劉守光は反対を押し切って皇帝を称えるに至る。そして彼は太原の李存勗の使者が皇帝に対する礼を取らなかったとして戦をしようとするが、これに反対したのが、幽州参軍の地位にあった馮道だった。しかし、彼の意見は容れられず幽閉されてしまう。 朱全忠による地方の藩鎮に目付として派遣されていた監軍使で匿われた人物もいた。 李克用に保護された河東監軍の張承業はその一人で、彼は李克用に信頼にされた片腕的存在だった。 李克用が李存勗に後事を託したとき、彼の養子たちが乱を起こそうとしたときでも、 李克用の遺志を守って彼らを殺したのは張承業であり、李存勗からの信頼も厚かった。 劉守光によって獄につながれていた馮道が幽州の混乱に乗じて脱出し太原に逃れたとき、 彼の才能を高く評価して河東節度巡官に採用したのも、張承業である。 後梁と晋王李存勗が一大決戦を行った胡柳の役918では、晋軍の勝利に終ったが晋軍も有能な人材を失った。 書記官であった王緘の戦死により、その後任に任命されたのが馮道であった。 李存勗は魏博節度使から編入した帳前銀槍軍、李嗣昭の財によって国力を増し、河北をまとめると皇帝になろうとする。 後晋の石敬塘、後漢の劉知遠が部下になるのもこの頃である。張承業は病の身でこれに反対するが、諌めることはできず彼の死後、李存勗は即位する。これが後唐の荘宗だ。 馮道は宰相と枢密使に次ぐ文官の重職である翰林学士に名を連ねることになる。 荘宗は即位の半年後に宿敵であった後梁を滅ぼして都を洛陽に移した。 馮道はそれに伴って中書舎人を兼ねるようになるが、その直後に父が亡くなったため官を辞して喪に服した。 この頃、都で起った反乱鎮圧に向かった勇将、李嗣源は反乱軍の一部に銀槍軍がいたことから逆にあらぬ疑いをかけられる。 女婿である石敬塘の助言に従って荘宗に軍を向け、荘宗が殺された後に明宗となった。 こうして馮道は明宗の元でそのまま仕えることになる。 当時、政治面で強い発言力を持っていたのは枢密使の安重誨と孔循で、彼らが宰相を補うために推挙した中のひとりが馮道だった。 明宗自身の薦めがあったのである。馮道は明宗が亡くなるまで宰相の地位におり、この間は五代を通じて最も小康状態も続いた。 明宗は自身の後ろ盾であった銀槍軍が後顧の憂いになると見るや全滅させてしまう辺り非凡なものがあり、 馮道は安重誨が失脚すると宰相としてこれを補佐した。 明宗の死後、馮道は宰相の地位を維持したが、政治の実権を得たのは枢密使の朱弘昭と馮贇だった。 彼らは自分たちよりも衆心の得ている石敬塘や李従珂を妬みその藩鎮を移そうとしたが失敗し、李従珂が末帝として即位した。 末帝は馮道を匡国軍節度使として事実上左遷させる。司空に任ぜられるが、実質的には閑職だった。 結局、オブザーバー的な司空の間に後唐は滅んで後晋となリ、彼はそこでまた宰相となるのである。 遼は当時の東アジアにおいては最大の強国といってよく、当時は太宗耶律徳光の時代で国力も盛んだった。 石敬塘は後唐の倒せたあかつきには雁門関以北の諸州を割き、属国の礼を取るといって後晋の高祖になる。 契丹の助力によって瞬く間に後唐を破った高祖は開封に遷都する。 馮道は末帝に遠ざけられていたことが逆に石敬塘にとっては好材料となリ、宰相の筆頭、即ち首相になる。 その上で彼は遼への使者という重職を無事にこなして帰国する。これによって帰朝後、高祖の信任は特に篤くなり、 高祖による枢密院の廃止と伴って初めて確たる政治的権力を得る。 高祖亡き後は、高祖の遺命に逆らい斉王を少帝として即位させた。 この頃、契丹が攻勢を取ると、国内では主戦論と和平論が激しく議論された。 馮道は軍事には一切の口を挟まずにいたが、左遷させられる。 しかし、馮道が都にいない間に、契丹によって後晋は滅ぼされてしまう。 馮道はかつて遼を訪れた際の耶律徳光と再会し、この異民族政権の元でも宰相格の任につく。 しかし、各地で略奪が行われるようになると、抵抗も大きくなり耶律徳光は引き上げざるを得なくなる。 そして馮道も北行に同行するが、耶律徳光はその途中で病に倒れてしまう。 このとき晋陽節度使だった劉知遠は耶律徳光が中原に進出すると後漢を立てて高祖となったが、 それを機に開封へ入城した。 馮道は鎮州で耶律麻荅に仕える状態が続いていたが、クーデターが成功したことにより開封へ戻った。 馮道を政治の世界に引き戻したのは劉知遠郭威だった。 そして、隠帝が自らの権力を回復すべく郭威らを殺そうとするが失敗すると、 逆に郭威が開封に入城する。かくして後周の太祖が生まれ、馮道はまたも宰相に返り咲くのであった。 郭威は中風で亡くなり、次いで即位したのが養子の柴栄だった。 これが五代一の名君後周の世宗で、その将軍だったのが後に宋の太祖となる趙匡胤である。 世宗は馮道の反対を押し切って北漢に親征し勝利する。 これで面目を失った馮道は病に冒されて遂に息を引き取った。顕徳元年954。72歳だった。 世宗は次いで契丹への反撃に転じた。世宗は燕雲十六州のうち南の莫州などを奪回するが、胸の病で倒れてしまう。 翌年、趙匡胤が擁立されて天下を統一する。こうして五代十国時代は幕を下ろすことになる。
=五代の馮道 = 馮道は中国の五代十国時代に五代王朝の後唐・後晋・後漢・後周と、契丹王朝の遼、五朝八姓十一の天子に宰相として仕え、乱世にあって民のために戦争を極力回避した人である。 ==唐末 875年~ == 唐は875年、黄巣の乱で長安を陥落させ、皇帝・僖宗は蜀へ逃亡した。 ここで活躍した節度使勢力李克用と朱全忠が中央を争っていた。この他に河北を支配した劉仁恭がいる。 ==後梁 朱全忠 907年~ == 軍閥の割拠する状態の中で最も力を持ったのがべん開封に拠を置いた朱全忠だった。 朱全忠は907年に唐朝廷を掌握し禅譲を受けて皇帝に即位した。後梁を建国して都を開封に定め、唐は滅びるに至った。 朱全忠が皇帝となると、これを良しとしない各地の勢力は自ら皇帝を名乗った。 遼、北の五代、南の十国という五代十国時代招くのである。 ==燕 劉仁恭 911年~ == 馮道が初めて仕えたのは幽州節度使であった劉守光の部下としてであった。 当時の盧龍において、李克用の推挙により節度使となった劉仁恭の息子が劉守光である。 劉守光は劉仁恭を捕えて幽閉し、911年8月、劉守光は幽州で皇帝を称え国号を大燕と定めるに至る。 そして太原の李存勗の使者が皇帝に対する礼を取らなかったとして戦をしようとするが、これに反対したのが、馮道だった。しかし意見は容れられず幽閉されてしまう。 しかし913年11月に李存勖によって幽州は陥落、劉守光は捕らえられ、桀燕は滅亡した。 =後唐 李存勗 923年~ = 李克用は908年に死去し、後を継いだ李存勗は913年、燕を滅ぼして併合。 後梁と晋王李存勗が大決戦を行った。晋軍の勝利に終ったが晋軍の書記官であった王緘の戦死により、その後任に任命されたのが馮道であった。 李存勗は923年に自ら唐の後継者と称し、唐皇帝荘宗に即位する。後唐を建て後梁を攻め滅ぼした。 馮道は宰相と枢密使に次ぐ文官の重職である翰林学士に名を連ねることになる。 荘宗は即位の半年後に宿敵であった後梁を滅ぼして都を洛陽に移した。 荘宗は岐王の李茂貞や四川の前蜀を滅ぼした。 馮道はそれに伴って中書舎人を兼ねるようになるが、その直後に父が亡くなったため官を辞して喪に服した。 この頃、都で起った反乱鎮圧に向かった勇将、李嗣源は反乱軍の一部に銀槍軍がいたことから逆にあらぬ疑いをかけられる。 女婿である石敬塘の助言に従って荘宗に軍を向け、荘宗は926年、李嗣源の軍が洛陽に迫ると荘宗は近衛兵たちにより殺された。李嗣源は皇帝明宗に即位した。 こうして馮道は明宗の元でそのまま仕えることになる。 当時、政治面で強い発言力を持っていたのは枢密使の安重誨と孔循で、彼らが宰相を補うために推挙した中のひとりが馮道だった。馮道は明宗が亡くなるまで宰相の地位にあった。 明宗は自身の後ろ盾であった銀槍軍が後顧の憂いになると見るや全滅させてしまう辺り非凡なものがあり、 馮道は安重誨が失脚すると宰相としてこれを補佐した。 しかし明宗は933年、病死する。 李従厚が後を継ぐが、養子の李従珂によって簒奪され、李従珂は石敬瑭を排除しようとする。 明宗の死後、政治の実権を得たのは枢密使の朱弘昭と馮贇だった。 彼らは石敬塘や李従珂を妬みその藩鎮を移そうとしたが失敗し、李従珂が末帝として即位した。 末帝は馮道を匡国軍節度使として事実上左遷させる。実質的には閑職だった。 =後晋 石敬瑭 936年~ = 石敬瑭は独力では対抗し得ないと北の契丹に対して援助を求めた。 遼は当時の東アジアにおいては最大の強国といってよく、当時は太宗耶律徳光の時代で国力も盛んだった。 石敬塘は後唐を倒したら雁門関以北の諸州を割き、属国の礼を取るといって後晋の高祖になる。 契丹の太宗・耶律徳光は大軍を南下させて後唐を攻め滅亡させた。 石敬瑭は936年、皇帝高祖に即位して後晋を建て開封に遷都し、契丹に臣従した。 馮道は末帝に遠ざけられていたことが逆に石敬塘にとっては好材料となリ、宰相の筆頭になる。 その上で彼は遼への使者という重職を無事にこなして帰国する。これによって帰朝後、高祖の信任は特に篤くなり、確たる政治的権力を得る。 その高祖は942年に病死する。 高祖亡き後は、高祖の遺命に逆らい斉王を少帝として即位させた。 この頃、契丹が攻勢を取ると、国内では主戦論と和平論が激しく議論された。 馮道は軍事には一切の口を挟まずにいたが、左遷させられる。 甥の石重貴が後を継いだが、強硬外交で契丹の怒りを買う。 =遼 耶律徳光 946年~ = 契丹遼の太宗耶律徳光は946年、大軍を南下させ、後晋の開封を攻略。石重貴を捕虜とし、後晋を滅ぼした。 結局、馮道が都にいない間に、契丹によって後晋は滅ぼされてしまう。 馮道はかつて遼を訪れた際の耶律徳光と再会し、この異民族政権の元でもまた宰相となるのである。 遼は中国を支配しようとしたが、蛮族とに支配されることを嫌った住民は抵抗し、 各地で略奪が行われるようになると、引き上げざるを得なくなる。 そして馮道も北行に同行するが、困難を悟った遼の太宗は北へ引き返す途上で病死した。 =後漢 劉知遠 947年~ = それを傍観していた晋陽節度使だった劉知遠は947年に、皇帝に即位し高祖となった。 後漢を建て、軍を南下させ開封開封へ入城した。 それを機に馮道はクーデターが成功したことにより開封へ戻った。 しかし劉知遠は翌年に死去、次男の劉承祐が後を継ぐ。 側近たちは有力者の排除を図り、次々と軍人たちを殺していった。 隠帝が自らの権力を回復すべく郭威らを殺そうとするが失敗する。 =後周 郭威 951年~ = 粛清をを逃れた郭威は兵を挙げ、逆に郭威が開封を攻め落とし入城する。 誅殺を企んだ側近たちを殺していった。 その後、劉承祐のいとこ劉贇を殺し、郭威は951年に自ら皇帝太祖に即位。後周を建てた。 そして、かくして後周の太祖が生まれ、馮道はまたも宰相に返り咲くのであった。 郭威は中風で亡くなり、次いで即位したのが養子の柴栄だった。 世宗柴栄は954年に即位した。その将軍だったのが後に宋の太祖となる趙匡胤である。 世宗は馮道の反対を押し切って南唐・後蜀・北漢・遼などを攻め、領土を奪い取った。 また廃仏運動を行い、仏像を鋳潰して周元通宝という銅銭を鋳造した。 馮道は954年、病に冒されて72歳で息を引き取った。 その後、世宗は959年に統一への遠征から帰る途上、胸の病で倒れ病死した。 柴宗訓が後を継いだ。 ==宋 趙匡胤 960年~ == 軍人たちが翌960年に趙匡胤を擁立した。柴宗訓の禅譲を受け皇帝太祖に即位し宋を建てた。 太祖は963年に湖北の荊南を併合した。965年に四川の後蜀を併合し、971年には南漢を滅ぼした。 そして975年、南唐を滅ぼす。太祖は唐突に病死した。 後を継いだ太宗は、978年に呉越を併呑し、979年に北漢を滅ぼして遂に天下を統一果たした。 こうして五代十国時代は幕を下ろしたのだった。 ----

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。