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第十二章 Ⅱ - (2008/12/13 (土) 00:35:11) の1つ前との変更点

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屋上に通じるガラス製のドアを押し開くと、いっぱいの風があたしの髪を凪いでいった。 「涼しい……」 残暑もこの高さまでは熱気を運んで来られないようで、 まばらに設置されたガーデンベンチの許、同じくまばらな数の人間とポケモンが涼んでいた。 改装、改修が繰り返されたタマムシデパートだけど、 屋上だけは建造当時からちっとも変わらずに保存されているの、とカエデがバスの中で言っていたことを思い出す。 あたしは喉の渇きを覚えて、自動販売機で「ミックスオレ」を買って、近くのベンチに腰を下ろした。 レッドベルの店員さんも、ドラッグ・ストアの店員さんも、 とても親切に接してくれるのは嬉しいんだけれど……、 その分、手ぶらでお店を出る時の罪悪感がすごくて、何も買っていないのに疲れてしまった。 「隣、よろしいかしら?」 声がした方に、ちら、と視線を映すと、 秋空をそのまま写し取ったような、綺麗な覗色の着物の裾が見えた。 「どうぞ、お構いなく」 「ありがとう」 それきり、女の人は黙ってしまった。 全然気まずくないけど、どちらかと言えば壊されたがっているような沈黙。 何か話しかけた方がいいのかな? でも、何を話せばいいんだろう? そんなことを考えているうちに、 「あなたも、ポケモントレーナーですの?」 女の人の方から話しかけられた。 あたしは、女の人の奥ゆかしい声音と言葉使いを一切気に留めることなく答えた。 「はい。ポケモンリーグを目指して、旅を続けている途中です。  あの……あなたも、って……」 「わたくしも、かつてはポケモンリーグを目指して旅することを夢見ていたんですの。  家業の所為で、その夢は絶たれましたが……今では家業を継いだことに、満足しています。  あなた、ポケモンリーグを目指しているというのなら、  もうタマムシシティジムに、申請は済ませましたの?」 あたしは頷いた。 「そう。タマムシシティのジムリーダー、エリカは草タイプのポケモンを使うと聞きますが、勝算の程はいかが?」 「お恥ずかしながら、草タイプに有利なタイプのポケモンは、持っていません。  でも、ポケモンバトルは相性だけが全てじゃないとも思うから、  当日は自分のポケモンを信じて、頑張りたいと思っています」 「相性だけが全てではない――多くのポケモントレーナーが忘却していることですわ。  勿論、真意を知らずにその言葉を使う、野蛮な者も数多くいますが」 女の人は一息置いて、 「あなたは違うようですね。名前を伺ってもよろしくて?」 「マサラタウンの、ヒナタです」 「エリカに伝えておきましょう。わたくし、彼女とは知り会いなんですの」 エリカさんの知り会い? この女の人は、レッドベルか、ジムの関係者なのかしら? だとすると、この和風な佇まいや、 風に乗って運ばれてくる、香水と思しき甘い草花の香りにも納得がいく。 「ところであなた、このデパートの二階にある、レッドベルのことはご存じ?」 「はい……ついさっき行ってきたところなんですけど……。  あたし、説明してもらっている間に、逃げだしちゃったんです……」 女の人は、急に低い声になって、 「まあ。店員が何か粗相を働いたんですの?」 「いえ、違うんです。  香水が値段を知って、途中から買うつもりがなくなったのに、  店員さんが、凄く親身になって色々な香水を紹介をしてくれるから、  あたし、耐えきれなくなって……」 「行き過ぎた接客も考え物ですわね……。  レッドベルの宣伝では、若い世代の女性にも手頃なものが用意されていると謳っていますが、  あなたは実際に値段を見て、そんなに高く感じられましたの?」 「あたし自身、香水にあまり興味がないこともありますが、  そうですね、高い買い物だと感じました」 言ってから気づく。 もしこの女の人が、レッドベルの関係者だとしたら、 あたし今、物凄く失礼な発言をしてしまったのでは……。 「忌憚なき意見、ありがとう。  事業部に伝えておきますわ。  でもわたくし、一つだけ、許せないことがありますの」 許せない――。 物騒な単語に身を竦める。 そんな心配を払うように、女の人は優しげな声で言った。 「あなたのようなうら若き女性が、香水に興味がないなどと、悲しいことを仰らないでくださいな。  こちらに、レッドベルが今冬に発売する、新製品が御座います。  差し上げますわ」 あたしは顔を上げて、女の人の、白磁のように白い手の平に乗った、香水の瓶を見た。 "sweet rose"と刻銘されている。素人目にも、一目で高価なものだと分かった。 「こんな物、あたしが戴いてもよろしんですか?  まだ一般には発売されていない商品なのに……」 「どうか遠慮なさらずに。  全ての女性に香の嗜みを――それがわたくしたちの夢ですの。  これが、あなたが香水を好きになる切欠となれば幸いですわ。ただし、どうかこのことは秘密になさっていてね」 受け取る。 女の人に体を近づけると、今度ははっきりと、甘い草花の香りがした。 良い匂い。 季節はもう秋に差し掛かろうとしているのに――この女の人の周りだけ、まるで、春みたい。 あたしはお礼を言おうとして、 女の人の胸元から上にいかずに留まっていた視線を上げた。 予想に違わぬ、妙齢の美しい女性だった。 肩口に切り揃えられた黒髪に、端正な横顔。 あれ? あたしこの人、どこかで――。 「一服のつもりが、つい、長居してしまいましたわ。  そろそろ、皆がわたくしの行方を捜し始める頃でしょう」 あたしが既視感の正体を掴むよりもさきに、女の人は腰を上げた。 着物を少しも着崩さない、優雅な身熟しだった。あたしは言った。 「この香水、大切にします。ありがとうございました」 「お礼を言わなければならないのは、わたくしの方ですわ。  あなたとお喋りできて、少し、肩の荷が下りたような気がしますの。  最近はずっと仕事続きで、潤いがありませんでしたから」 「あの、お仕事、頑張ってください」 立ち上がって、お辞儀すると、 女の人も丁寧にお辞儀を返し、最後に微笑みを見せてから、屋上から去っていった。 その後ろ姿は、同性から見ても、純粋に綺麗だな、と思えた。 それからあたしは、しばらく夢見心地のまま、 香水の瓶を眺めて、オレンジ色に反射する光で、夕方近くになっていることに気づいた。 腕時計を見れば、ちょうど五時前だった。あたしは急ぎ足で、デパート前に向かった。 そして、その夜。 あたしは目をつり上げて頬をぴくぴくさせたカエデの正面で、正座することになった。 怖かった。今までに見たカエデの表情でベスト3に入るくらい怖かった。 どうしてそんなことになったかというと、 あたしがあの女の人の約束をたった数時間で破ってしまったからで、 原因は結局、あたしにある。 「わかんない」 「何が?」 「どうしてヒナタにだけこんなに幸運が転がりこんでくるのかわかんない」 「あ、あたしだって分からないわよ」 「黙ってて」 「……はい」 「エリカさんが本店視察に訪れて、  日頃の激務に疲れて、一時、関係者の目を潜り抜けて屋上に出向いたところに、  ヒナタが偶然居合わせて、半時ほどお喋りの時間を持ち、  エリカさん自らプロデュースした新作の香水を、販売予定日よりも二ヶ月早い段階で手に入れた。  間違いないわね?」 「確たる証拠はないけど、まあ、そう考えるのが普通なのかしら……?」 「なに他人事みたいに言ってんの?  この香水がどれだけ価値のあるものなのか、全然分かってないんだから」 カエデは香水の瓶をつんつんと指差し、 急に静かになって、香水の瓶を掴んだ。 「――これ、ちょうだい」 「ダメ! それだけはダメよ。  その香水はあたしがエリカさんからもらった、大切な物なの」 奪い返す。 カエデは意外と抵抗せず、すぐに手を離した。 どうしちゃったの? 肩を揺すると、カエデはコテンと横に倒れて、 「ずるい」 「え?」 「……ヒナタばっかり、ずるい」 それきり電池の切れた玩具みたいに、何も言わなくなった。 パウワウとワニノコが、非難がましい視線をあたしに送ってくる。 『あーあ……マスター拗ねちゃった』 あ、あたしだって、何も抜け駆けしようとしていたわけじゃないわよ。 あたしと別行動することに決めたのはカエデだし、 帰りのバスに乗るまでは、屋上で出会った女の人がエリカさんであることに、 全然気づいてなかったんだから。 逃げるようにして自分のベッドに戻る。 ベッドランプを消灯すると、残る明かりはカエデのベッドランプだけになった。 香水をバッグに直した時、何か固いケースに触れたような気がしたけれど、 疲れもあって、あたしは深く考えずに眠ってしまった。

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