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第十九章 上 - (2009/03/31 (火) 08:46:33) の1つ前との変更点

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――――――― ――――― ―― ぼやけた視界に、10:46の数字が映る。 「こんな時間まで寝過ごすなんて」 自覚のないうちに、疲れが溜まっていたのかしら。 「ふぁ~あっ……」 大きな欠伸と伸びを一緒くたにしてから、ソファーセットの上で丸まっているタイチの存在に気付く。 見られてない? 見られてないわよね? あたしはタイチの長い睫を指先でそっとつついて、 熟睡していることを確かめてから、急いで着替えを済ませて、1Fのロビーに向かった。 「こんにちは」 昨夜の気さくなジョーイさんが話しかけてくる。 「あっ、おはようございます」 「ふふ、あなたには"おはよう"と言った方が良かったわね」 赤面する。ジョーイさんはくすくす笑って、 「お出かけ?」 「はい。ヤマブキシティは初めてなので、軽く見回ってみようと思って」 「急ぎの用じゃないなら、今伝えておきましょうか。  9時頃、ヒナタさんに電話が入っていてね。フユツグさんっていう男の人から。  あなたがまだ眠っていることを伝えたら、無理に起こさなくていい、って仰っていたわ」 シルフカンパニーのことで何か分かったのかしら。 でも、たった一日で? 「電話をお借りしてもいいですか?」 「ええ、自由に使ってね。彼の電話番号は分かる?」 「いえ……」 あたしのルームナンバーを教えただけで、フユツグの番号は聞いていなかった。 「それなら、はい、これ」 ジョーイさんが渡してくれたメモには、着信履歴が書かれていた。 「ありがとうございます!」 早速電話を借りる。 スリーコールで繋がった。 「もしもし、どちら様でしょうか?」 事務的な口調とは違う、優しい声。 「フユツグさん、ですか? ヒナタです。  今朝はお電話してもらったのに、あたし、まだ寝てて……。  あの、いつもはもっと早起きなんですけど、その、」 「構いませんよ。  長旅の疲れもあったでしょうし、  それを考慮せず、早朝から電話を掛けた僕に非がありました」 「あの、それで、何か分かったんですか?」 期待を込めて言うと、 「いえ、何も」 とフユツグはあっさり否定した。 あたしの困惑を電話越しに察したように、フユツグは「すみません」と謝って、 「実は今朝の電話は、私的なお誘いのためでして。  ヒナタさんは今日一日、何か御予定がありますか?」 「いえ……暇、ですけど……」 「それは良かった。  ヒナタさんがお暇でなければ、僕も退屈を持て余していたところです。  最近はジムの仕事ばかりで、休日の過ごし方を忘れてしまいまして。  ヤマブキシティで、何か興味を惹かれた建物や、文化財がありませんか?  ご迷惑で無ければ、僕が案内しますよ。  もっとも、依頼の内容を優先しろと仰るなら、そちらを優先しますが」 私は数秒の間を空けてから、「案内してください」と告げた。 シルフカンパニーの調査は確かに優先すべきだけど、 何故かその時のあたしには、フユツグの素性を深く知ることの方が大切に思えた。 それから待ち合わせ場所を話し合って受話器を置くと、笑顔のジョーイさんがやってきて言った。 「デートの約束?」 もうっ、この人は。 「違います!」 昨日待ち合わせした喫茶店があるビルの前に着くと、フユツグは支柱に凭れて雑踏を眺めていた。 服装は昨日の雰囲気と似た、落ち着いたものだった。 腕時計で時間を確認する。 約束の時間より、まだ15分も早い。 「ごめんなさい、待ちました?」 「僕もつい先程着いたところです。それでは行きましょうか」 と自然に嘘を吐くフユツグ。 「行き先は決めてあるんですか?」 「いえ、ノープランです。とりあえず歩き回ってみませんか。  時折僕がガイドとして、ヒナタさんの興味がありそうなところにお連れしますよ。  ところで、ヒナタさん」 「は、はい?」 「僕に対して敬語を使う必要はないと、以前言ったはずですが?」 「あっ……でも、それを言うならフユツグさんだってあたしには敬語を使っているじゃないですか」 「僕のは職業病で治しようがない。けれどヒナタさんの口調は意識一つで変えられる。  どうしても、と言うなら無理強いはしませんが、できればこんなささやかな年齢差など気にせず、気さくに接して下さい」 「わ、分かりました……じゃなくて、分かったわ、フユツグ。これでいいの?」 「結構です」 満足そうに白い歯を見せるフユツグ。 フユツグが良くても、あたしはなんだかちぐはぐした気分だわ……。 あたしはフユツグに連れられて、ヤマブキシティの各所を回った。 シルフカンパニーの展示ブースに敵情視察ではなく見学としてして訪れたり、 超高層ビルの最上階からの展望を写真に撮ったり、 電車とは比べものにならないスピードで走るリニアモーターカーを眺めたりした。 フユツグは冗談が上手くて、機転が利いて、常にあたしが退屈を感じないようにしてくれた。 でも、その居心地の良さに気持ちが流れそうになる度、 今も爆睡しているタイチのイメージが浮かんできて、それを邪魔した。 昨日の夜に聞いた、あたしが小さい頃にお父さんに会っていたという事実が、あたしを沈ませた。 「ヒナタさん?」 「何?」 「いえ、気分が優れないように見えたので」 「何でもないわ。大丈夫よ」 フユツグはあたしの言葉の真偽を確かめるように目を細め、最後には微笑を浮かべて言った。 「次は、かつてこのヤマブキシティのジムを任されていた、格闘道場に参りましょうか」 格闘道場と呼ばれる建物は、遠目に見ても老朽化しているようだった。 「創設から一度も改修工事が行われていないことと、  師範代が昔気質の硬派な方で、滅多に入門生を取らないことで有名です」 と説明しながら、フユツグは門を開く。 勝手にお邪魔してよかったのかしら、と不安に駆られたのと、 「道場破りか? 入門希望か? どっちだ?」 海鳴りのような大声が降ってきたのは同時だった。 すっかり萎縮したあたしの隣で、フユツグが静かに、よく通る声で答えた。 「見学希望です」 「勝手にしろ。ただし邪魔と判断すれば放り出す」 「ありがとうございます」 筋骨隆々という言葉がぴったり当てはまる師範代らしい大男は、鼻を鳴らして門下生の監督に戻っていった。 フユツグが振り返り、「見学の許可を戴きました」と嬉しそうに言う。 あたしは軽い放心状態に陥ったまま、道場を見回した。 色褪せた畳の上で、これまた着古した道場着を纏った門下生が、 自分の体ではなく、自分のポケモンに組み手をさせている。 タイプはどれも格闘タイプで、エビワラーやサワムラーがほとんどだった。 「皆さん熱心ですね。  通常練習でフルコンタクトですから、怪我は当たり前。  いやはや、気合いの入れ方が違います」 藺草と汗の匂いで満ちた空気を吸い込むと、鼻の奥がつんとする。 時折寄せられる門下生の視線が、居心地の悪さに拍車をかける。 「ほら、ヒナタさん。見て下さい。  あのサワムラーの蹴りの鋭さ……。  軟弱なポケモンが食らえば、一撃で伸びてしまいそうです」 なのに、どうしてフユツグはこんなに暢気に解説なんか出来るんだろう。 「ねえ、フユツグ」 「なんですか?」 「あたしたち、ひょっとしたらお邪魔なんじゃないかしら?」 フユツグはあたしを安心させるように微笑んで、 眼鏡のフレームを押し上げ、 「僕たちが遠慮する必要はありませんよ。  師範代の許可は得ているのですから」 「そうは言っても……」 と、あたしがなんとかお暇する方向へ話を持っていこうとしたその時、 「おい、そこの兄ちゃん」 あたしたちの遣り取りを横目に伺っていたらしい門下生の一人が、組み手の相手に休憩を告げてこちらにやってくる。 年は二十代半ば、髪は角刈りで、師範代ほどではないにしても、 鍛え上げられた肉体は道場着で隠しきれないほどに盛り上がっている。 さっきから気になっていたんだけど、この道場ってポケモンを鍛えることが目的なのよね? どうしてトレーナーまで筋肉もりもりになってるの? 「僕のことですか?」 突然話しかけてきた門下生に、笑みを絶やさず答えるフユツグ。 「そうだ。隣の別嬪さんは疑いようもねえが、お前は男だろ?」 「はあ」 「ポケモンは持ってるか?」 「護身用に一体だけ、携帯していますが」 「なら一丁腕試しといこうや」 フユツグは困ったようにあたしを一瞥してから、門下生に答えた。 「すみませんが、僕たちは見学希望なもので」 「女々しいこと言ってんじゃねえ。  この道場に一歩でも入ったからにゃあ、一戦交えるのが作法ってもんだ」 「あの、あたしも戦わなくちゃダメ、ですか?」 と恐る恐る尋ねてみると、門下生は急に表情を和らげて言った。 「や、この道場は女の入門生を認めてないんだ。  姉ちゃんが頑張る必要はねえ。後ろの方で彼氏さんを応援してな」 「か、彼氏とかじゃありません!」 フユツグはあたしの彼氏と間違われてどんな反応をしているんだろう、と思って様子をうかがうと、 あたしと門下生の遣り取りが聞こえないくらい、 「弱りましたね」 本当に弱っていた。 「もし僕があなたに勝てば、解放してもらえるのですね?」 「ああ。だが俺を負かしたとなりゃあ、他の連中が黙ってねえだろうな。  ここにいる奴らは強えトレーナーが大好きだからな」 「となればこの腕試し、ともすれば他流試合、即ち道場破りに発展するのではありませんか?」 「なあに、そんな小難しいことは考えなくていいんだよ。  兄ちゃんが俺に勝つなんて、万に一つも有り得ねえんだからよ……。  出ろッ、カポエラー!」 豪快なかけ声と共に、顔は黄土色、足裏は鮮やかな水色の、 あたしよりも頭一つ分背が低い人型ポケモンが現れる。 逆立ちした状態で、頭の天辺の突起で、巧くバランスを取っている。 それを見て、あたしは昔遊んだ独楽を思い出した。 「さあ、兄ちゃんもポケモンを出しな」 「……ふむ」 「そうビビるな。手加減は心得てるからよ」 もしかしたらこの人は、こうやって見学に来たトレーナーをあしらうことに慣れているのかもしれない。 もういいわフユツグ、帰ろう?――あたしがそうフユツグに声を掛けようとしたその時、 「僕が怖れているのは」 門下生を見据えたフユツグの目から、それまでの物腰柔らかな光は消え失せていた。 「僕が腕試しと称してあなたと戦ってしまえば、  なし崩し的に、道場破りを果たしてしまうことになるからです。  何故なら僕は、あなたたちが大嫌いなエスパーポケモンの使い手ですから」 途中まで笑いを堪えていた門下生の目つきが一変する。 真面目に組み手をしていた他の門下生たちも、動きを止めて、あたしたちに注目する。 「今なんつった?」 「僕はあなたたち格闘ポケモン使いの天敵、エスパーポケモンの使い手だ、と」 なにがなんだか分からないあたしを置いてきぼりにして、 一触即発の空気が流れ始める。 なに? 何なの? どうしてみんなこんなにピリピリしてるの? 「てめえ、まさか……」 「お察しの通りですよ。僕は"現"ヤマブキシティジムの者です」 その一言で、さらに周囲の門下生たちが殺気立つ。 しかも間の悪いことに、 「何の騒ぎだ?」 師範代が奥からこっちにやってくる。 フユツグは涼しい顔で余裕を見せてるけど、本当は心臓バクバクに違いないわ。 ここはあたしが何とかしないと……。 必死に門下生や師範代の注意を反らせそうなものを探して、 自分の真後ろの壁にずらりと並んだ、門下生の名前が刻まれた小さな木板に気付く。 「あの……これっ! この板のことなんですけど!」 あたしが木板を指さして叫んだのと、師範代が近くにやってきたのは同時だった。 フユツグ、門下生、師範代。皆、あっけにとられてあたしに注目している。 何か言わなくちゃ言わなくちゃ……そう思う度に頭の中が真っ白になっていく。 あたしは何度も数十の木板に視線を往復させた。 そして門下生のものでも歴代師範のものでもない、奇妙に統一感のない名前の連続を見つけ出した。 「師範代の右隣にあるいくつかの名前は、一体誰のものなんですか?」 師範代はしばしの黙考の後、 『そんな下らんことで騒いでおったのかッ!!』 とあたしを一喝したり、門下生が騒いでいた本当の理由を問い質したりすることなく、 「それはこの格闘道場創設から約半世紀、  他流試合を申し込み、見事師範代に到るまでを勝ち抜いた者の名だ」 昔を懐かしむように木板に触れた。 「そ、そうだったんですかあ」 内心ホッとして、改めて木板に刻まれた名前を確認する。 そして四つ目の木板に目を通したところで、あたしは雷に打たれたみたいに、身動きが取れなくなった。 「―――?、―――さん?」 異変に気付いたフユツグが声をかけてくれたけど、 その意味が分からないくらい、あたしは周りのことが見えなくなっていた。 「これ……この、名前……」 師範代があたしの指さす木板を見つめて、表情を崩す。 「サトシか。この小僧のことは昨日のことのようによく覚えているぞ。  良い機会だ。お前ら、組み手は終わりだ!  近くに寄れ。知っている者もいるかもしれんが、あのサトシがこの道場にやって来た時のことを話してやる」 有無を言わせぬ師範代の言葉に、 フユツグに詰め寄っていた門下生も、その他の門下生も、 大人しく円を描くようにして座り込む。 「あれは十六、いや、十七年も昔のことだ。  保護者みてえな男と女を連れたサトシは、見るからにガキだった。  顔つきもやっと幼さが抜けてきたぐらいで、  ポケモントレーナーとしてもまだまだ未熟そうに見えた。初見ではな。  サトシは当時師範代を務めていた俺の親父に向かって開口一番、こう言った。  『バトルしようぜ』  一気に肝っ玉が冷えた。  親父は癇性で生意気な口の利き方をする奴はたとえガキでも殴り飛ばす人間だった。  ところが親父は笑い出した。自分のことをちっとも怖れていないサトシが気に入ったんだ。  一頻り笑った後で、『この道場に入門したいのか』と親父は尋ねた。  サトシは首を振って『ただポケモンバトルしたいだけ』と答えた。  奴はガキで、恐らく道場破りの意味が分かっていなかったんだろう。  だが親父は真剣な顔つきになって、すぐに試合の準備をするよう、俺や兄弟弟子に言った。  当時俺たちは親父の気が触れたんじゃないかと心配していたが、  もしかしたら親父は、サトシの実力をその時既に見抜いていたのかもしれん。  そして結果は、あの木板が示す通りだ」 師範代の視線が木板に注がれ、門下生たちの視線もそれに続く。 「全てが終わったあと、サトシは『どうもありがとう』と一礼して去っていった。  自分より十歳以上も歳の離れたガキに負けた俺や兄弟弟子の悔しさは、相当なものだった。  が、誰よりも悔しい思いをしているはずの親父が、何故か誰よりも満足そうな顔をしていたのを、俺はよく覚えている。  サトシがポケモンリーグで優勝したのは、それから二年後のことだ。  それを知って、やっと俺はあの時の敗北を納得できるようになった。  トレーナーとして早熟なサトシが、俺や親父に勝ち得た理由とは何か。  それは奴がポケモンとほぼ完全に対話できていたからだ。  修練に修練を積んだ親父でさえ成し遂げられなかった奇跡を、奴は生まれ持ち、しかも昇華させていた。  ポケモンの感覚を介して敵を知り、人の智慮によって最大の攻撃を生み出す。  お前たちにもいずれ理解できる時が来るだろうが、それにはまず……」 おもむろに師範が息を吸い込み、 「修行だ!  持って生まれた才能が無い人間に出来ることは、努力だけだ!  組手を再開しろ!」 「押忍!!!」 大合唱が道場を震わせ、門下生が散っていく。 あたしはその波に逆らって、師範代の背中に向かって言った。 「貴重なお話、ありがとうございました」 「話したくなったから話した。それだけだ。  お前らもいい加減に帰れ。見学はもう十分だろう」 「はい」 会釈して、踵を返す。 「フユツグ、帰りましょ」 師範代がお話をしてくれるまで門下生に塞がれていた入り口は、今では解放されている。 あたしは無言で後ろを着いてくるフユツグの気配を確認しながら、 逃げるように道場の外に出た。 別に門下生とフユツグのいざこざを怖れているわけじゃない。 誰かに、今のあたしの動揺を悟られたくなかった。それだけだった。 けど、フユツグには全部バレていた。 「ヒナタさん」 「な、なに?」 普段通りの声を出そうと頑張ってみても、こんな時に限って、いつもの声の調子を思い出せない。 フユツグは自然と早歩きになるあたしの腕を、すぐに捕まえて言った。 「あなたはサトシの娘ですね」

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