さて、ヒトデマンのその後を少しだけ話そう。 彼女――ヒトデマンは雌雄同体なのだが、便宜上雌とする――は、ヒナタがスピア―に襲われた場所の近くで、 寸分も変わらぬ姿勢で倒れ伏していた。ヒナタはすぐにヒトデマンを抱え上げ、 「ごめんっ、ヒトデマン! あなたを置いていくなんて、あたし、どうかしちゃってた……え??」 目を見開いた。僕はヒナタの肩によじ登り、彼女の反応に倣った。 ヒトデマンが受けていた傷は、キレイに快癒していた。そこから導き出される結論は一つだ。 「スピア―にあんなにいたぶられたのに……、どうして傷が治ってるのかしら?」 「ピカ、チュ」 僕はヒナタのバッグの、図鑑があるあたりを指した。 彼女はすぐに図鑑を取り出して起動した。機械音声が、ヒトデマンのステータスを読み上げる。 「―――覚えている技――みずでっぽう――たいあたり――かたくなる――」 そして最後に、 「――自己再生――」 やっぱりそうか。感心する僕を余所に、ヒナタは驚嘆の声を上げた。 「うそ、もしかしてこの子レベルアップしてたの!?」 ポケモンは、純粋に戦闘を経たり、修羅場を切り抜けることでレベルアップする。 ヒトデマンはスピア―に瀕死にさせられた。 そこでそのまま息絶えるか、新たな技によって生き延びるかは、個体の生命力の差で決まる。 その点において、彼女は後者だった。 この子は……ヒナタの育て方によっては、強力な水ポケモンに成るかもしれない。 「凄いじゃない! これで戦闘中にも回復できるわ!」 ヒトデマンの五芒星の体のうちの、両側の二本と手を繋いで、無邪気に笑うヒナタ。 しかしいつまでたってもヒトデマンが反応しないことを不思議に思ったのか、 手を離すと、その途端に、ヒトデマンはへなりと地面に頽れた。 体力がなくなった訳ではない。彼女はヒナタを拒絶していたのだ。 倒れたままじりじりとヒナタのベルトににじり寄り、ボールに触れる。 赤い閃光。 静寂。 「………………………」 「………………………」 関係修復には、少し時間がかかりそうだった。 時は戻って、トキワシティ。 トキワシティについたヒナタと僕は、ポケモンセンターに寄っていた。 自己再生によって快癒したように見えたヒトデマンだが、一応センターで診てもらおうと、ヒナタが提案したのだ。 それが今の彼女にできる、精一杯の罪滅ぼしだった。 「はあ……どうやったら仲直りできるのかな……」 センター前のベンチ。ヒナタの溜息が、トキワの翠の風に運ばれていく。 「チュウ……」 僕は視線の置き場に困って、センターの隣にあるジムを見た。 かつて、ここカントーに存在する八つのジムの中で、最強の名を欲しいままにしていたトキワシティジム。 僕がサトシと共にここを訪れたとき、このジムを仕切っていたのは、ジムリーダーにしてロケット団のボスでもあったサカキだった。 サカキは強かった。 強力無比な岩、地面タイプのポケモンを次々と繰り出してきた。 彼らの表皮は本物の岩石より硬く、彼らの一撃はパイルバンカーよりも強力だった。 あのとき、僕が岩をも貫くかみなりを覚えなかったら、サトシはポケモンマスターへの道を閉ざしていただろう。 勝利を収めた僕たちは最後のバッジを受け取り、サカキはジムを去った。 その後、代理のジムリーダーがトキワにやってきたというが、詳しいことは分からない。 「……チュウ、ピカチュウ? 聞いてる?」 顔を上げると、目の前にヒナタの顔があった。 「チュ?」 「決めたわ。あたし、トキワシティジムに行く」 「ピカ!?」 僕は目の前が真っ白になった。ちょっと待ってくれ、それはいくらなんでも時期尚早だ。 君のポケモン――グレたヒトデマンと力をセーブした僕――じゃジム内のトレーナーにさえ勝てないぞ。 しかし僕の警告(ほっぺから紫電をバチバチ)も虚しく、ヒナタはベンチから腰を上げた。 そして僕を抱きかかえ、 「安心して、ピカチュウ。何も戦いを挑みにいくんじゃないの。 トキワシティジムのジムリーダーを務めている、シゲルおじさんに会いに行くのよ」 「チュウ……!?」 シゲルがある女性と結婚してから、トキワシティで暮らしていることは知っていた。 また、半年に一度くらいの周期で、シゲルはカスミのもとを訪れて、昔の思い出話に花を咲かせていた。 彼もまた、ヒナタのことを大切に思ってくれている人間の一人だ。 だがしかし、驚いたな……僕が知らぬ間に、シゲルがトキワのジムリーダーになっていたなんて…… ヒナタは物怖じすることなく、トキワシティジムに足を踏み入れた。 高い天井に、入り組んだ壁。この一番奥に、ジムリーダーがいるのだ。 「うわあ、迷路みたい。ジムってこんな風になってるんだ」 「チュウ」 いやいや、他のジムはもう少し単純な構造だから。 「でも、どうやったらシゲルおじさんに会えるのかな」 と、ヒナタと僕が進むことも戻ることもできずにいると、 暗がりから、男が一人現れた。彼は威圧感たっぷりに言った。 「このジムに来たからには、覚悟はできているんだろう?」 ヒナタがひく、と震える。僕は反射的に身構える。 そして男は、影から姿を現した。 「よせよピカチュウ。俺だ。 そんでもって、大きくなったな、ヒナタ。随分早いお着きじゃないか」 「シゲルおじさま!」 ヒナタがシゲルの胸に飛び込んでいく。 僕はなんだかとてつもない違和感を感じた。 シゲル……おじさま? 「ははは、ついにお前もポケモントレーナーか。 カスミから電話で聞いていたんだけどな、まさかこんなに早く会えるとは思ってなかったよ」 「ほんとはあたし、ジムに寄るつもりはなかったんです。 旅の初めから、知っている人を頼ったりしちゃいけないと思って。 でも、おじさまに相談したいことができて……来ちゃいました」 「そーかそーか。ま、何にせよ俺は大歓迎だぜ。 ただ、日中はジムの仕事で忙しいから、また夕方に来て欲しいんだが、いいかな?」 シゲルはによによしながらヒナタの答えを待つ。 今すぐじゃなきゃヤダ、とヒナタが言えば、すぐにでもジムの看板をClosedにしてしまいそうな感じである。 「いいんです。あたしの方こそ、連絡もなしに来てしまって、ごめんなさい」 「謝ることないさ。んー……そうだな、別に外で待たせることもないか。 今からバッジを賭けた試合をするんだが、観ていかないか? ヒナタのためなら特別席を用意するぜ?」 「いえ、ポケモンセンターにポケモンを預けているので、また夜に来ます」 お辞儀。別れ際はあっさりしているヒナタだった。 「行きましょ、ピカチュウ」 「ピカ」 僕はヒナタの肩に乗った。僕は一度だけ振り返った。 シゲルはジムのトレーナーたちに、ヒナタとの関係について問い詰められているところだった。 まあ、それも仕方ない。ヒナタは、大人と子供の狭間の危うい美貌を持つ、16歳の少女なのだから。 その夜、僕たちは再びトキワジムを訪れた。 ちなみにポケモンセンターで受け取ったヒトデマンは、異常ナシ、とのことだった。 ジョーイさんの、 「物凄い自己再生ね。傷跡一つなかったわ」 という言葉が印象的だった。 ジムから出てきたシゲルは、一言、 「この近くに俺の家がある。 夕食はまだだろ? ごちそうするよ」 と言って、ポケモンセンターと反対の方向に歩いていく。 シゲルは大きめのTシャツに裾のすり切れたジーンズという、ラフな格好だった。 しかし、Tシャツによって覆われた腰の六つの膨らみは、彼が一流のトレーナーである証拠だ。 ほどなくして、僕たちはシゲルの家に到着した。 シゲルの妻は、話に聞いていたとおり、綺麗な女性だった。 年齢はシゲルよりも年上らしく、彼女の前に立つと、シゲルのヘラヘラした調子も封印されるようだった。 料理は言うまでもなくおいしかった。 彼女は僕にも、ポケモンフードではない、特製の料理を作ってくれていたのだ。 「ピカチュ!」 「あらあら、行儀の良い紳士さんだこと」 僕はすぐに彼女が好きになった。 食事中、ヒナタとシゲルは色んな話をした。 ヒナタは、お母さんがどうしているか心配だということや、 トキワの森で襲いかかってきたスピア―のことを話し、 シゲルはポケモントレーナーとしての心構え、ルールや、 ジムリーダーとして認められるまでのエピソードを話した。 悠に一年ぶりとなる再会は、二人をいつになく饒舌にさせたようだった。 時計の針が9時を指し、話の種が尽きた頃――シゲルは言った。 「そろそろ話してくれないかな。俺に相談したいこと、あるんだろ?」 それまでニコニコしながら二人の話に耳を傾けていたシゲルの妻は、静かに席を立ち、 「わたしは席を外しているわね。 ヒナタちゃん、何かあったらすぐに呼んでちょうだいね」 ヒナタに優しく微笑んで、部屋を出た。気を遣ったのだろう。シゲルには勿体ないくらいだな、と僕は思った。 ヒナタはおずおずと口を開く。 「あの、おじさま。やっぱりわたし、」 「後で後悔しても遅いんだぜ?ヒナタ。 お前がトキワを発てば、俺とお前が再び会うのはずっと先になる。 聞きたいこととか相談したいことは、今のうちに全部聞いとけよ」 軽い調子だが、シゲルの瞳は真剣そのものだ。 「でも、」 言いよどむヒナタ。 僕はヒナタとシゲルの様子を、ポケモン専用椅子の上で、交互に眺めていた。 きっとシゲルは、ヒナタが抱えている悩みの正体を知っている。 シゲルはふっ、と息をついて、語り出した。 「ヒナタが俺に色々話してくれたのは嬉しかったけどさ、 俺だって伊達に30年以上生きているわけじゃない。 お前の心がどっか違う方向に向いていることは、すぐに分かったよ。 なあヒナタ、もう一度お前の夢を教えてくれ」 ヒナタは僅かに逡巡して、答えた。 「ポケモンマスターに、なること」 「違う。嘘を吐くときは、せめて相手の目を見て言うもんだぜ。さもなきゃ一瞬でバレるからな。 なあヒナタ。お前本当は、親父に会いたくてポケモントレーナーを目指してるんじゃないのか?」 ヒナタは無言で頷く。 彼女が父親の不在が、特別な事情であることに気づいたのは、ちょうど物心がついた時期と重なっていた。 情報に翻弄される、多感な時期だ。彼女は無垢に、その疑問をカスミにぶつけた。 あるいはカスミの答え方次第で、ヒナタの父親に対するイメージはどうとでも変わっていただろう。 しかしカスミは―――決してサトシのことを悪く言ったりはしなかった。 ポケモンマスターになり、今も旅を続けている、最高のトレーナーだとヒナタに教えたのだ。 ヒナタは言った。 「わたし、生まれてから一度もお父さんに会ったことがないんです。 写真は見たことがあるけど、どれも色褪せてて、実感が持てなくて。 だから、子供の頃からずっと、お父さんに会いたかったんです」 「………」 「シゲルおじさまは、お父さんが駆け出しの頃からの友達なんでしょう? 少しでもお父さんの居場所の手掛かりがあるなら、教えてもらえませんか」 シゲルは下唇をかみ、視点を彷徨わせた。 僕はシゲルの心境がよく理解できた。 ヒナタは何も知らない。 与えられた情報だけを信じて、会ったことのない父親に憧憬を抱いている。 もし彼女が父親、つまりサトシとと再会したときに、彼女が受ける精神的ショックは計り知れない。 だが、今真実を教えるのは、果たしてヒナタのためだろうか? ヒナタにとって、サトシは、原動力なのだ。 もちろんポケモンマスターになりたいという夢もあるだろうが、 父親に会いたい想いは、それを遙かに上回っているはずだった。 やがてシゲルは口を開いた。 「友達、だった、と言った方が正しいな。 昔はあいつと、ポケモンバトルの強さを競い合ったりしたもんだが、 いつの間にかあいつは俺を追い抜かして、ポケモンマスターになって、どこかに消えちまったんだ」 「それは、お父さんが今どこにいるか、おじさまも知らない、ということですか」 テーブルの上のヒナタの拳は、固く握りしめられていた。 雪のように白い手が、朱く染まる。 それは、ヒナタの父親に対する想いの強さを物語っているようにも見えた。 「知っている、というよりはただの想像だ」 「想像でもいいんです。教えてください!」 「俺は、サトシがジョウト地方にいるんじゃないかと考えている。 最後にあいつと出会ったのは、あいつがポケモンリーグを制覇して、一ヶ月ほどたった時のことだった。 その時にあいつは、俺にこういったんだ」 ――ジョウトには俺たちが知らない、新種のポケモンがいるらしいぜ―― 「サトシはやけに興奮していた。 まるで初めてポケモンを捕まえた子供みたいに瞳を輝かせていたよ。 でも、今から思えば、俺は何が何でもサトシを止めるべきだったんだろうな」 「どうしてですか? 新種のポケモンがいると分かったら、あたしだって、見に行きたいと思います。 それにわたしのお母さんだって、そのことを認めたんでしょ?」 「ふふ、確かにお前には親父の血が流れているみたいだな」 シゲルは髪を片手でかきながら、疲れたように笑った。 「今のお前は、まだ不思議に思うかもしれないがな。 ポケモンが好きだから、何をしても許されるわけじゃないんだよ。 大人になると、人間、色んなものを背負い込むもんなんだ。 サトシの場合は、家族だった。 そりゃあ、カスミは………カスミは、認めたかもしれないが……… それでもサトシは、家庭を顧みるべきだったのさ」 シゲルは、サトシがカスミと、当時カスミのおなかの中にいたヒナタを捨てたことを、明かさなかった。 それはシゲルの意志だろうか。それとも、カスミと取り決めたことなのだろうか、と僕は束の間、推理する。 「まあいい。それは過去の話だ。 とにかく今は――サトシの居場所だな。 正直に言うと、あいつが今どこでどうしてるか、俺は正確なことは何も言えない。 さっき話した、サトシがジョウト地方に興味を示していたことだって、所詮は15、6年も昔の話だからな。 昨今、両地方のポケモンは、他地方のトレーナー同士の交換や、 心ないトレーナーによるポケモン売買によって、それぞれ生息範囲を拡大している。 つまり、サトシがいつまでもジョウトに固執している可能性は低いんだ。 かといって、ここ、カントーに戻ってきている可能性が高いとは言い難いんだがな」 「ちょっと待ってください、おじさま。 それじゃあ、わたしはどうやってお父さんの手掛かりを探せばいいんですか?」 「泣きそうな顔するんじゃねえよ。 俺はな、サトシがどこかでポケモンの研究をしているんじゃないかと思っているんだ。 サトシはセキエイのポケモンリーグで、永世の称号を得た。既に一介のトレーナーからは身を引いていると考えた方がいい」 「そう、ですか」 「どうした? 親父がポケモントレーナーをやめているかもしれないと知って、残念だったか?」 「いいえ、そうじゃないんです。 ただ、もしお父さんが研究者になったのなら、余計に見つけ出すことが難しいんじゃないですか」 シゲルは険しい顔で、しかしどこか面白そうに言った。 「そうでもない。 研究者は、必ずどこかの研究所に所属する。 個人でポケモン研究をやってるヤツなんざ、俺は一人しか知らないよ。 研究所に所属するということは、サトシの経歴が、上書きされるということだ。 そしてヒナタ、知ってるか? この世界でたった一つ、サトシの情報を記録し続ける機械があるんだぜ」 なるほど。 僕にはシゲルの言わんとしていることが、容易に予測できた。 ヒナタは小さく首を振る。シゲルは言った。 「ポケモンリーグ優勝者のみが記録され、閲覧することを許される、セキエイ最奥のコンピュータだ。 あそこにリーグ優勝者は、己のあらゆる情報と、ポケモンの情報を刻み込む。 そしてその記録は、永遠に更新され続ける。 情報をどうやって集めているかは知らないが、その情報の精度は非常に高い」 「じゃあ、もしお父さんがどこかの研究所で働いていたら、そのコンピュータに情報が載せられているということ……?」 「当たりだ」 僕は、ヒナタの瞳が輝くのを見た。 「ただし、だからといって安心するのはまだ早い。 サトシのヤツが研究者になっている、というのはあくまで俺の想像なんだ。 まだあいつが悠々自適のポケモントレーナーをやって旅を続けているとしたら、 コンピュータに表示される情報は、常に遅れているということになる。お前は親父に追いつけない。 それにもしかすると……、」 数泊の沈黙。僕は察する。 シゲルが、サトシが新しい家庭を築いている可能性を示唆しようとして、その言葉を飲み込んだことを。 「もしかすると、何ですか?」 「いや、関係のないことだった。話を続けよう。 仮にサトシがどこかの研究所で働いていて、その情報がセキエイのコンピュータに載っているとする。 これが現時点で考えられる、最良の未来だな。 でも、お前には本当にそこまでたどり着く自信と決意があるか? ポケモンリーグ制覇がどれだけ過酷で熾烈を極めるものなのか、俺は身を以てよく知っている。 いいか。セキエイのコンピュータにたどり着けるのは、たった一人だけなんだ。 お前がそこにたどり着ける確率は、例えお前があいつの娘であることを足しても、限りなくゼロに近い。 それでもお前はセキエイを、ポケモンリーグを目指すのか?」 ヒナタは言った。 眼差しはどこまでも真っ直ぐに。僕はその姿に、サトシの若かりし頃を重ねる。 「目指します。それが、お父さんに会える手掛かりになるのなら」 「だろうな。そう言うと思ったぜ」 シゲルはおもむろに立ち上がる。 そしてポケットをまさぐって、 「煙草、いいか?」 「かまいませんよ。……煙草は嫌いですけど」 「ならやめとこう」 シゲルはダッシュボードの中を漁りながら、 「言い忘れていたが、ジョウトでサトシの行方を捜す、という方法もある」 「お父さんが、今もジョウト地方にいるとは限らないんですよね?」 「まあな。しかしポケモンリーグ制覇後、少なくとも永世を冠するまでは、ジョウトにいたことは確かだ。 なんらかの手掛かりがあるかもしれない。 こっちの方法は、いわば博打だな。 当たればリーグ制覇よりもずっと早くあいつに会えるかもしれないし、外れれば永遠にすれ違うかもしれない。 どちらの方法を選ぶかは、ヒナタ、お前次第だ」 シゲルが再び椅子に座り、机上に、何かの紙を広げる。 それは地図だった。 「カントーとジョウトの地図だ。お前にやるよ。俺にはもう要らないものだからな。 落書きみたいなのは、一昔前に、ジョウトに赴いたときに書き込んだもんだ。無視してくれていい」 「あっ、ありがとうございます」 「そう畏まるなっての」 ヒナタは地図を眺めた。僕も覗き込む。 本当に書き込みだらけだ。シゲルはわざとらしく欠伸をしながら、 「一晩、悩んで考えるんだな。別に俺は、強制しないさ。 ポケモンリーグを目指すもよし、ジョウトでサトシの手掛かりを探すもよし。ヒナタ、お前が決めることさ」 ヒナタは神妙な面持ちで頷いた。 その後、シゲルは妻の名を呼び、自分は先に寝ると言って、寝室に行ってしまった。 シゲルの妻は、まるで実の娘を扱うように、ヒナタに話しかけた。 「疲れたでしょう。お風呂が出来ているから、入りなさい」 本当に出来た細君だ。僕が感心していると、ひょい、と体が浮遊した。 「ピカ!?」 「ピカチュウも一緒に入るの。お風呂、気持ちいいわよ?」 僕は四の五の言えぬまま、そのまま浴室まで持って行かれた。 これ以後の描写は、割愛しよう。ヒナタのプライバシーに関わることだからだ。 抽象的な表現をするなら、ヒナタの体は、見事にカスミのコンプレックスを克服していた。 僕に言えるのは、精々これくらいが限度である。 翌日。 僕たちの起床は早かった。 シゲル夫妻に起こされるまでもなく、ヒナタはベッドから起きて、支度をした。 ヒナタの睡眠時間は、精々2時間といったところだ。彼女は夜、ずっとシゲルから貰った地図を眺めていた。 そして一晩明けて、彼女の心は決まったようだった。 「もう一晩くらい、泊まっていったって構わないんだぜ」 「あら、わたしは一週間くらい泊まっていってくれても良かったわよ?」 「いいんです。これ以上お世話になったら、あたしの決心が揺らいでしまうかもしれませんし」 「そう。一晩だけだったけれど、娘ができたみたいで、楽しかったわ。 またトキワシティに来ることがあれば、遠慮無く寄ってね?」 シゲルの妻の優しい言葉に、しかし、ヒナタとシゲルは顔を見合わせる。不敵な笑み。 「次に合うのは、当面先になりそうだな」 「あら、そう遠くない未来かもしれませんよ、シゲルおじさま」 ヒナタが選択したのは――ポケモンリーグを制覇し、セキエイのコンピュータから、父親を捜す方法だった。 つまり、これからヒナタは、バッジ集めの旅に出ることになる。 そして次にこのトキワシティを訪れるのは、晴れて七つのバッジを集め、グリーンバッジを最後に残した時なのだ。 「次は挑戦者とジムリーダー、という関係ですね。おじさま」 「手加減はしないぜ。強くなって戻ってこいよ、ヒナタ」 シゲルの妻が、おどけたように言った。 「酷いわ。わたしだけ仲間はずれだなんて」 その時、シゲルが思い出したように口を開いた。 「そうだ。カントーを旅している途中に、タイチに会ったら、俺たち夫婦は元気にやってると伝えてやってくれないか」 「タイチ?」 「わたしたちの一人息子のことよ。ちょうど三ヶ月くらい前に、 あなたと同じように、ポケモンリーグを目指して旅立ったの」 「俺に似て生意気なガキなんだが……、頼めるか?」 「はい、会ったら伝えます」 シゲルは満足そうに頷いた。 トキワシティからニビシティへの道は、ジムを越えた先にある。 途中まで、シゲルはヒナタと並び、最後となる会話を交わしていた。僕は邪魔しないよう、距離を置いて続いた。 ただし、耳はぴんと立てたまま。 「おじさま。ジョウトのポケモンが、カントーにも生息しているという話は、本当ですか」 「本当さ。全部が全部、というわけじゃないが、新種のうち半分くらいは、旅の途中に出会うことになるだろうな」 「楽しみだわ……。でも、そうやって棲息圏が重なることで、生態系が崩れたりはしないのかしら?」 「いい指摘だな。確かにその問題は、ポケモンの生態調査の槍玉に挙がった。 しかし、調査結果は、むしろ生態系が安定した、という棲息圏の重なりを奨励するものだったんだ」 朝靄を透かして、巨大な建造物が浮かび上がる。 トキワシティジム。カントー地方に置いて、最強のジムリーダーが君臨する場所。 ヒナタは足を止めた。シゲルも足を止めた。 「ここでお別れだな」 「ええ。短い間でしたが、お世話になりました」 「だから畏まるなって言ってるだろ。俺はいつでもお前の味方なんだからよ。 なんならお父様と呼んでくれてもいいんだぜ」 「ふふ、それは無理です。でも、本当に、ありがとうございました――シゲルおじさま」 「ああ。それとこれは、俺とあいつの、気持ちだ」 シゲルは懐から、茶封筒を取り出し、半ば強引にヒナタに手渡した。 中身を確認したヒナタの目が、みるみるうちに丸くなる。 「こ、こんなお金は、もらえません!」 「遠慮すんじゃねえよ。人の好意は黙って受け取るもんだぜ」 「だってあたし、お母さんからもお金もらってるし、それに――」 「お前は旅の辛さを知らない。 金なんてあっという間になくなるぞ。だから旅の初めくらいは、有り余るくらいでちょうど良いのさ」 「………あたし、おじさまに助けてもらってばかりですね」 「なあに、未来への投資ってヤツだ」 シゲルは笑う。ヒナタは泣きそうになりながら、笑い返した。 そして、今度こそ別れるかと思ったその時、シゲルはヒナタに二言三言耳打ちして、 僕を手招きした。僕は首を傾げて、シゲルに走り寄る。 ヒナタといえば、ニビシティに向う道路に進んだところで、振り返り、僕とシゲルの様子を見守っていた。 「チュウ?」 「ピカチュウ。昨晩からこっち、お前とサシで話し会う機会がなかったから、今言うがな」 ふいにシゲルが、僕の両耳を束ねて掴む。 「チュウウッ!」 痛みに悲鳴を上げる。 僕は耳を捕まれたまま、ヒナタの死角に移され――突然、解放された。 シゲルは毅然とした態度で、僕に告げた。 それはヒナタに対するふやけた姿勢でも、かつての旧友のポケモンに対する姿勢でもない、 一人のジムリーダーとしての、依頼だった。 「ヒナタのことをよろしく頼む。 お前がレベルを隠してヒナタに同行していることは、カスミから聞いている。 お前自身、カスミから聞いていると思うが、ヒナタはいろいろな意味で特別だ。 ヒナタに関わろうとする人間は、この先ごまんと現れるだろう。 どうか、ヒナタを危険から遠ざけてやってくれ。 俺もヒナタがグリーンバッジ奪いにくるまで、現役張ってるからよ」 「ピカ、チュ」 言われるまでもないよ。 僕はヒナタのポケモンだ。彼女の夢を叶える手助けをして、彼女を危険から守るのが僕の役割。 彼女がリーグを目指すというなら、僕はそれに従うまでだ。 「そうか。お前がそう言うなら安心だ」 シゲルの皮膚の厚い手が、僕の頭を撫でる。 それは到底心地よいと言えない感触だったが、何故か安心できた。同時に、責任を帯びた気がした。 「じゃあ、ご主人様の許に行きな。 実はさっきから、ボールの中のウインディがうるせぇんだ」 耳を澄ませれば、たしかに、カタカタとボールが鳴っていた。 ウインディ。僕は記憶を読み返す。 そう、彼との戦いは一瞬だった。しかし偶然で雌雄が決したわけではない。 彼の"神速"はあと一歩のところで、僕の"電光石火"に及ばなかった。 そして彼は"だいもんじ"を繰り出す一刹那前に、僕の電磁波によって全身麻痺したのだ――。 「ピカ!」 僕は尻尾を二回振ってから、ヒナタの許に走った。 「おかえり、ピカチュウ。 シゲルおじさんとどんなお話してきたの?」 「チュウ」 君の未来について、だよ。 ヒナタはどこか遠い目をしながら、呟く。 「あたしね、本当のことを言うとね、今すっごく不安なんだ。 昨日の夜は、おじさんにあんなこと言っちゃったけど、リーグで優勝するってことは、 誰よりもポケモンバトルで強くならなくちゃならないのよね?」 「チュ、ピカ、チュ!」 そう、その道は困難極まりない。 でも君は一つ、忘れているよ。君はポケモンマスターの娘なんだ。 君のお父さんに出来たことが、娘に出来ない道理はないんだよ。 「ありがとう、ピカチュウが傍にいると、リーグ優勝も夢じゃない気がしてくるの。 どうしてかしら………」 ヒナタは小首を傾げる。 少しドキリとした僕はヒナタに背をむけて、ニビシティに続く道路を先導した。 次第に緑が薄れ、鈍色の風景が、広がり始める。 トキワシティの名は、常磐――常しえの緑という意味が由来だ。 対してニビシティの名は、鈍色――そのまま風景色が由来になっている。 灰燼を塗したような灰色の景色が増えてくるに連れて、 僕は、かつて旅を共にした彼のことを、鮮明に思い出していった。 &bold(){第三章 終わり}