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第五章 - (2009/01/18 (日) 17:36:01) のソース

僕は"フラッシュ"が嫌いだ。 
体を発光させて辺りを明るく照らすこの技が、 
ヒナタがオツキミヤマ洞窟を安全に抜けるのに必須であるということは重々理解している。 
だが、僕はこの技を継続して使っているとき、どうにもイライラして仕方がないのだ。 
なんというかその、僕がただの懐中電灯になってしまった気がして――。 

「ピカチュウ、洞窟に入ってからずっと"フラッシュ"してるけど、疲れてない?」 
「ピッカ!」 

僕は軽くジャンプして、まだまだ余裕であることをヒナタに示した。 
チャンピオンロードで道に迷ったサトシに 

『頑張れピカチュウ、もうすぐ出られるからな!』 

と励まされながら、精根尽き果てるまでフラッシュし続けたあの悪夢の三日間に比べれば、 
こんなのまだまだウォーミングアップ程度だ。 

僕たちはほとんど野生ポケモンに出会わなかった。 
出会ったポケモンと言っても、精々ズバットが二、三匹飛んできた程度で、いずれもヒトデマンがみずでっぽうで追い払った。 
その間、僕は端っこの方で電灯と化していた。 
勘違いされるといけないので言っておくが、決して寂しくなどなかった。 
むしろ楽ができて良かったといえる。 
そう、これは洞窟における、電気タイプポケモンの宿命なんだから。 


緩やかに上下に繰り返す勾配を進んでいくと、 
ポケモンセンターの敷地くらい大きな空間に出た。 

「広い……。 
 あの大きなオツキミヤマの下に、こんなにぽっかり空洞が空いているなんて……。 
 崩れてきたりしないのかしら?」 

僕は光を強めて、広範囲を照らし出した。 
天井からは、石灰成分の二次生成物――即ち鍾乳石が、裏返した剣山のようにいくつも生えていた。 
空気は幽かに湿っている。中腹あたりまでやって来たと考えて良さそうだ。 

「近くにズバットの巣もないみたいだし、ここで休憩しましょ。 
 ピカチュウ、もういいわよ」 

ヒナタはリュックからランプを取り出し、火を灯す。 
ランプを中心に、温かい光が広がった。僕はフラッシュを抑えた。 
移動しないときはランプの明かりで充分だ。暗闇に慣れた野生ポケモンを刺激せずにすむ。 




休憩も兼ねたお昼ご飯を食べると、 
穏やかな睡魔が襲ってきたが、僕は絶対に眠らないと決めていた。 
トキワの森では、僕が眼を離した隙にスピアーがヒナタを襲った。 
同じ轍を踏むのは馬鹿のすることだ――。 

「チュ?」 

微睡みの最中、僕は視界の外れで影が揺らめくのを見た。 
続いて、鳴き声。 
言い表すのが難しい、独特の高い声だ。 
あえて似た発音を当てはめるなら、「piquent」が適当だろう。 
その意味の通り、こちらに興味を示しているような、しかし近づくのを躊躇っているような鳴き声だった。 

今朝の早起きのせいだろう、ヒナタは目を閉じている。 
さっきまでポケモンフードを食べていたヒトデマンも、今はボールの中だ。 
僕はちょっとだけ悩んでから、目を細めて眠ったふりをすることにした。 

下手に刺激すると、逃げ出してしまうかもしれない。 




気配が大きくなる。 
そいつはもう一度細く高い声で鳴き、ランプの明かりの中に入った。 

果たしてそいつの正体は、野生のピッピだった。 

白がかったピンクの体はまだ丸みを帯びていて小さく、 
頭頂部の独特のうずまきも未完成。きっと、まだ生まれて間もないのだろう。 
幼いピッピは、僕が気づいていることも知らず、そろり、そろりとヒナタに近づく。 
そしてヒナタの右手が乗せられた、ポケモンフードの袋に触れ―― 

「なに? ピカチュウ? どうしたの……??」 

意外と眠りの浅かったヒナタと、ばっちり目があった。 
ピッピはポケモンフードに触れたまま、まるで悪戯している現場を押さえられた子供みたいに硬直する。 
ヒナタのとろんとしていた目が、徐々に焦点を合わせる。そして、ヒナタは呟いた。 

「……かわいい」 

ぎゅむ、とヒナタの両手がピッピを掴む。 
まだ寝惚けているのか、力の加減が出来ていない。ピッピは思い出したように鳴いて抵抗するが、無意味だった。 
僕は思い出す。 
――ヒナタは昔から、可愛いものに目がなかった。 



ヒナタが力を緩めた頃には、ピッピは息も絶え絶えになっていた。 
可哀想に。今ので人間嫌いにならなければいいんだが。 

「ねっ、あなたどこから来たの?」 
「ピッピって確か、すっごく希少なポケモンなのよねー。 
 オツキミヤマの入り口が崩落したときは最悪だと思ったけど、あたしにも運が回ってきたのかな?」 
「あーもう可愛い。抱きしめたいくらい可愛い」 
「見たところまだ子供みたいだけど、 お母さんやお父さんはどこにいるの?」 

瞳を輝かせて質問攻めするヒナタに、ピッピはすっかり怯えてしまっていた。 
そして、さっきの締め付けで失った体力を取り戻した頃、 
ピッピはヒナタの隙を窺い、一目散に駆け出した。 

「あっ、待って!! 
 ピカチュウ、追いかけるのよ!」 

了解、マスター。 

「ピカ、チュ」 

僕はフラッシュを使って子供ピッピの追跡を開始する。 
これでは完璧に、僕たちが悪者だ。 
本気で逃げる幼いピッピと、それを追いかける相対レベル97のピカチュウ。 
……いったい僕は何をやっているんだろう。 

つかず離れずの距離を保ったまま、洞窟の中を駆ける。 



ピッピは妖精ポケモンだ。 
気配がほとんどないため、あちらから姿を見せない限り、 
捕まえることはほとんど不可能と言っていい。 
そしてそれを知っているが故に、ヒナタはこの僥倖を、絶対ものにするつもりなのだろう――と、僕は勝手に思っていた。 


あちらにとっては生死、こちらにとってはヒナタの信頼を賭けた追いかけっこは10分ほど続いた。 
終わりは突然だった。幼いピッピが前触れなく、走るのをやめたのだ。 

「ピカァ?」 

ヒナタに捕獲される覚悟を決めたのだろうか? 
僕は距離を詰め、そして、幼いピッピが立ち止まった理由を知った。 

道は、そこで途切れていた。 

その先にはさっき休憩した場所とは、比べものにならないほど、大きな空洞が広がっていた。 
僕の体から発する光が、大空洞の底にできた湖を照らす。 
壁面にはいくつも足場があって、それぞれに大小様々なピッピがいて、皆、眠っていた。 
……オツキミヤマの洞窟に、こんな場所があっただなんて。 

僕が言葉を失っていると、やがて、足音が聞こえてきて、僕の近くで止まった。 

「はぁっ、はぁ、やっと追いついたわ……もうどこまで逃げれば気が済むのよ………」 

膝に手をついたヒナタが、僕の頭越しに、大空洞を認める。 
生唾を飲み込む音。 
その光景に、彼女はただただ圧倒されていた。 

「……凄い……ピッピがこんなにたくさん……」 


僕は彼女の肩によじ登り、リュックサックの、ポケモン図鑑がある部分を押した。 
折角オーキド博士にもらったのに、こういうときに使わないでどうする? 

「えーっと……ピッピ、ピッピは、と」 

ヒナタがピッピの項目を探し当てると、お馴染みの機械音声が流れた。 

「――妖精ポケモン――目撃例は少なく、3年前に希少種に認定されている―― 
 ――満月の夜には行動が活発になり―――翌朝は仲間と寄り添い眠る―――」 

旅に出てからは日付の確認が忘れがちになっていたが、 
僕が最後に見た夜空には、太り気味の月が浮かんでいたような気がする。 

「このピッピたちは、昨夜に騒ぎ疲れて眠っているのね。 
 でも、それならどうしてこの小さなピッピは、眠っていないのかしら?」 
「ピッ、ピカチュ……」 

推察する。 
しかしヒナタの疑問の答えを出すには至らない。 
この大空洞で眠るピッピの中には、この小さなピッピよりもずっと幼いピッピも確認できた。 
活発化するのに成長の度合いは関係なさそうだ。 
なんらかの事情で、この小さなピッピだけ活発化しなかったのだろうか? 
それとも、この小さなピッピもここで眠っていたが、なにかの切欠に目覚めたのだろうか? 




……分からない。 

固執する僕に比べて、ヒナタは淡泊に「ま、いっか」と言い、 
さっきからずっと隅で震えているピッピに、手を差し伸べた。 

「ほらー、そんなに怖がらないで。 
 なにもとって食べようってわけじゃないのよ。 
 まあ確かにあなたは食べたいくらいに可愛い外見してるけど……」 

ピッピは動かない。 
ヒナタは溜息をついて、リュックのジッパーを開けた。 
ニビシティのショップで購入したモンスターボールで、ピッピを捕まえるつもりなんだろう。 
今ならダメージを与えずとも、捕獲できる。 
しかし僕の予想に反し、ヒナタの手が持っていたのは、僕とヒトデマンが休憩中に食べていたポケモンフードだった。 

「あたしの目が覚めたとき、あなた、これに触ってたわよね?」 

ピッピはゆっくり頷く。 

「お腹、空いてたんじゃない?」 

さらに首肯。 

「好きなだけ食べていいわよ。どうせあたしたちは、ハナダシティで補充できるんだから」 

ヒナタはポケモンフードの袋から一つ、固形のものを取り出して、 
一瞬の逡巡もなく、口に放り込んだ。 

「ほら、安全でしょ?」 


それはどんな言葉にも勝る保証だ。 
幼いピッピは一歩、また一歩とヒナタに近づき、やがて、ポケモンフードを口にした。 

そして――。 
嬉しそうな鳴き声が、洞窟に反響する。 

「かーわいい」 

ヒナタがそっと、ピッピの頭に手を伸ばす。 
初めは体を強張らせたピッピだったが、その手の心地よさを知り、なされるがままになる。 
それはそのまま、一つの絵になりそうなほど、微笑ましい情景だった。 


だが、その温かい時間も、長くは続かなかった。 


「驚嘆に値するね。まさかピッピの幼子を手懐けるとは」 

パチパチパチ。 
乾いた拍手が洞窟に響く。 

「誰!?」 
「そう警戒しないでくれたまえよ。私は君の敵じゃない」 

濃い暗闇から現れたのは、ダークグレーのツイードスーツを着た、上品な感じのする男。 
僕は生理的嫌悪感を感じた。その男は、ニッコリと笑って言った。 

「君に名乗るような名はないが……そうだな、肩書きを教えよう。 
 私はポケモンの生態調査をしている。 
 そこで、見ず知らずの君にこんなお願いをするのもなんなんだが――そのピッピを、わたしに渡してもらえないだろうか?」 


「嫌です」 

即答だった。 

「何故かな? 
 見たところ、そのピッピはまだ君の所有ポケモンではなさそうだ。 
 研究のために、どうか協力してほしい」 
「何度頼まれても嫌です。 
 あなたが現れてからこの子、ずっと怯えっぱなしなの。 
 この子は確かに人見知りするけど、理由もなく震えたりしないわ」 

男は黙する。空気が張り詰めるのを感じた。 
その時初めて、僕はこの男の表情が、感情とは無関係に"微笑み"を形作っていることを理解した。 

「強情なお嬢さんだ。 
 ……だが勘違いしてもらっては困るな。これは命令だ。 
 私とて野蛮な手法はとりたくないが、大人しく寄越さないのなら、 
 そういった手段も辞さない考えだ。さあ、もう一度言う。ピッピを渡せ」 

ヒナタはピッピを庇うようにして立ち上がった。 
そして思いっきりその男を睨み付け、 

「誰が渡すもんですか」 

感服したよ、ヒナタ。僕は君がマスターであることを誇りに思う。 

「交渉、決裂だな」 

男がベルトに手をかける。並んだボールは三つ。 
うち二つはスーパーボールで、残りの一つは、Hを模した黄色のライン、上下が黒と白に別れた、ハイパーボールだった。 

男はスーパーボールの一つを掴んだ。 
対するヒナタのベルトには、モンスターボール一つしかない。 

――たとえ勝ち目がないと分かっていても、ヒナタはヒトデマンを繰り出すだろう。 
――僕ならあの男をなんとかできるが、この狭い空間でヒナタを欺くことは難しい。 
――ヒナタは暗闇でのポケモンバトルの経験がない。ここはフラッシュで辺りを照らし続けるべきか? 

僕の頭の中にいくつもの選択肢が用意されるが、プライオリティが定まらないまま時が過ぎてしまう。 
同時に閃光。洞窟が一瞬、赤い光で隅々まで照らされる。 

「ヒトデマン? はは、笑わせてくれるな。 
 そんな低レベルのポケモンで、私のエーフィの相手をするつもりかね?」 

しなやかな肢体。 
艶やかな藤色の体毛。 
瞳孔の開いた切れ長の瞳。 
そしてその瞳よりも美しい輝きを放つ、額の紅い結晶。 
エーフィ――初めて見るポケモンだ。 

「なめてると痛い目見るわよ!」 
「その言葉、そっくりそのまま返させてもらおう。 
 行け、エーフィ。"念力"で軽く揉んでやるといい」 
「ヒトデマン、高速スピンで躱して!」 

エーフィの額の玉が、輝きを増す。 
ヒトデマンは高速で回転しながら、エーフィの死角に回ろうとする。 
不味い――ヒナタは"念力"の特性を忘れている。男は言った。 

「無駄だよ。エーフィの念力に、物理的な距離や相対速度は無関係だ。 
 攻撃を阻止したいのなら、彼女の集中を反らす以外に方法はない。知らなかったのかな、お嬢さん?」 


ばたり、とヒトデマンが倒れる。 
それを一瞥して、男は薄く憫笑した。 

「ヒトデマン……あたしのせいで……」 
「ポケモンバトルでは、トレーナーの判断が全てだ。 
 もっとも、高レベルのポケモンは自ら適時適切な判断を下し、 
 低レベルなポケモンは本能に従ったまま暴走するがね――。 
 君のヒトデマンは低レベルの割りに君によく恭順していたみたいだが、それが仇になったのだよ」 

ヒトデマンのコアが、静かに明滅している。 
僕は頭の芯が冷えていくのを感じた。 
確かにヒナタは判断を誤ったかもしれない。 
だが彼女はまだ一つ目のバッジを手に入れたばかりだ。 
この男とは、トレーナーとしての経験値に懸隔がある。 
それはエーフィとヒトデマンにしても、同じことが言える。 
この男はヒナタの心を嬲って、楽しんでいるのだ。 
それは僕にとって、二番目くらいに許せないことだった。 

「趨勢は決した。さあ、ピッピをこちらに渡しなさい」 

ヒナタは両手を広げ、自らの身を楯にして男の前に立ちはだかった。 

「往生際が悪いな。どうしてさっき出会ったばかりピッピのためにそこまでするのか……。私には理解できない」 
「理解できなくて結構よ」 
「チュウッ!」 

逃げろヒナタ。そいつは君のことを攻撃するつもりだぞ! 

「ピカチュウは来ちゃダメ! あたしなら、大丈夫だから」 
「やれやれ……非常に残念だが致し方ない。やれ、エーフィ。"念力"だ」 


次の瞬間――色々なことが一遍に起こった。 
僕はフラッシュを消して場に躍り出た。 
しかしエーフィの念力は予想以上に素早かった。 
相手が人間だったためか、予備動作には四半秒もかからず、 
フラッシュが消えた直後には、彼女の額の珠は、紅く光り輝いていた。 

間に合わない――僕はヒナタに視線を送った――が、ヒナタに別状はなかった。 
暗闇に押しつぶされそうなほど薄い"光の壁"が、彼女を"念力"から守っていたからだ。 

あの"光の壁"は誰が――? 

僕は思考を断ち切り、エーフィと対峙する。 
彼女の光彩は驚くほど綺麗で、主人の非道な指示に対する疑いというものが、まったく感じられなかった。 
男の余裕たっぷりな声が響き渡る。 

「明かりを消しても意味がないぞ。エーフィの目は暗闇をも見通す」 

哀れな。僕が明かりを消したのは、視界を奪うのが目的じゃない。 
この暗闇はね、僕が戦っていることをヒナタの目から覆い隠すための、暗幕なんだよ。 

「実力の差を分からせてやるといい。エーフィ、"サイコキネシス"だ」 

彼女の切れ長の目が、一際大きく見開かれる。 
そして彼女は、そのまま地面に崩れ落ちた。優美な曲線を描いていた二本の尾が、無様に垂れる。 

「どうしたエーフィ? 何をもたついている!?」 

熱い頬を押さえて、僕はホッと胸を撫で下ろす。 
流石にこれだけは衰えようがない。いかなる敵の攻撃よりも先手を取るために鍛えた、高速照射型の"電磁波"。 
僕の十八番だ。上手く発動してよかった。もしエーフィに先手を取られていたら、今頃地面で呻いているところだ。 


――全ては、十秒にも満たない時間での出来事。 

僕は元いた場所に戻り、再びフラッシュで辺りを照らした。 

「エーフィ!」 
「ピカチュウ!」 

二人が同時に叫ぶ。 
その後の反応は、見事に別々だったが。 
ヒナタは僕にかけより、頬に触れ、目を覗き込んだ。 

「だいじょうぶ!? 
 気分は悪くない? あいつのサイコキネシスは外れたの? 
 あたし、いきなりフラッシュが消えて、どうしていいのかわかんなくなって……」 

言葉は支離滅裂だったが、僕にはヒナタが駆け寄ってきてくれただけで、満足だった。 
不幸なのは――彼女の方だ。 

「お前に睡臥を許可した覚えはないぞ。 
 あれだけ贅沢をさせてやったのに、主人に恥をかかせるつもりか? 
 起きろ。立ち上がって、奴らにサイコキネシスを浴びせかけるんだ」 

エーフィは弱々しく、苦悶する。 
彼女は既に戦闘不能だ。 
僕の電磁波をまともに受けて立ち上がったポケモンを、僕は、一匹しか知らない。 

僕には彼女の――エーフィの心情が理解できなかった。 

どうして君は、こんなに残酷な男を主人と認めているんだ? 
この男は君が苦しんでいるときに介抱しないどころか、さらに戦闘続行を強制するような人間なんだぞ。 

やがて、男は冷徹に言い放った。 

「お前には失望した。戻れ」 

閃光。エーフィはボールの中に消えた。 

「さて、どうしたものか」 

男は左手をポケットに手を突っ込み右手で目頭を押さえながら、 

「こんなに不快な気分にさせられたのは久方ぶりだよ。 
 年端もいかぬ生娘になめられ、エーフィが原因不明の戦闘不能に陥り……。 
 分かるかい? わたしは今、物凄く怒っているんだ」 
「見たら分かります」 

男のアルカイックスマイルに、青筋が浮かぶ。 

「……調子に乗るのもいい加減にしろ」 

男の手が再びベルトに伸びる。僕は男の一挙一動に注目した。 
ハイパーボールに入っているポケモンは、総じてレベルが高い。 
ハイレベルのポケモンが放つ技は、時に環境を変えるほどの威力を持つ。 
ここは四方を岩壁に囲まれた閉鎖空間だ。近くにはピッピの住処もある。 
崩落だけは絶対に避けなければならない。 

もしも男がハイパーボールに手をかけるようなら、 
ヒナタに正体を明かす覚悟で、"電光石火"を使うつもりだった。 
男がボールに触れるより早く開閉機構を電流で破壊すれば、どんなに強力なポケモンも、中から出ることは出来ないからだ。 


しかし、思わぬところで男の方に邪魔が入った。 
男は耳に手を当てて、 

「……何?………ああ、最深部近くだ……いや、まだ確保できていない……ああ……そうだ……了解、帰還する」 
 チッ。君との勝負は預けなければならないようだ」 
「逃げるの?」 

溜息を吐き、笑った。 

「何とでも言うがいい。 
 運が良ければ――無論、君にとっては運が悪ければ、だが――また出会うこともあるだろう。 
 それと最後の言っておくがな、私がそのピッピを欲した理由は、 
 父親や母親と一緒にいた方が、その子にとっても幸せだと思ったからだ。ふふ、私なりの配慮だったのだよ」 
「なんですって? 
 あなたまさか、この子の両親を拉致したの?」 
「拉致とは心外だな。純粋な研究目的のために、回収したのだよ。 
 そのために満月の夜の翌朝を選んで、ここに訪れたんだ。 
 回収作業中にその子が起きて、逃げ出しさえしなかったら、 
 もっと事はスムーズに進んでいただろうが………さて、閑話は終わりだ。こちらも時間がないのでね」 

男はエーフィとは別のスーパーボールに手をかけて、 
地面に勢いよく叩き付けた。通常よりも、ずっと眩しい閃光が洞窟内に満ちる。 

「きゃっ!」 

ヒナタが目を覆い、僕もたまらず目を瞑った。 
次に瞼を開いたとき、辺りは異様な静けさに満ちていた。 
――気配がない。 
ボールの閃光を目眩ましにし、ポケモンの能力で離脱したのだろうか。 
僕は夜目で暗闇の先を視通したが、男の姿は、まるでその存在が幻であったかのように、消え失せていた。 


ヒナタは男がいなくなったことを確認すると、すぐにヒトデマンの介抱に向かった。 
今までエーフィと男が隔てていたせいで、中々助けにいけなかったのだ。 

一撃でやられてしまったヒトデマンを、僕は決して弱いと思わなかった。 
今回は相手が悪かったのだ。レベルの差が少なくとも、30は開いていた。 
怖じけずに立ち向かっただけ、勇敢だったと言える。 

ヒトデマンをボールに戻してから、ヒナタは僕を振り返った。 

「ピカチュウ、あの男を追える?」 
「チュウ……」 

僕は横に首を振った。 
恐らくヤツは、もうオツキミヤマ洞窟を脱出している頃だろう。 
追跡することはできない。 
ヒナタは大空洞を眺めながら、 

「……ポケモンを無理矢理攫ったり、ポケモンの親子を引き離すなんて、 
 たとえ研究のためでも最低よ。きっとあの男、何かを隠してるに決まってるわ。 
 このオツキミヤマ洞窟にも、あいつ以外に仲間が誰かいたようだし…… 
 今度会ったら、絶対にぼこぼこにしてやるわ」 

さらりと物騒なことを言う。 
まあ、僕としてもその意見に異存はないけどね。 
法改正がなされていないのであれば、研究目的にポケモンを乱獲するのは違法なはずだ。 

僕は、かつてポケモンを道具のように扱っていた、ロケット団のことを思い出す。 

彼らはサトシの手によって壊滅させられたが、 
あれから十数年、それに準ずる組織が台頭してきているとしても不思議ではない。 


ヒナタは大空洞から僕の方に視線を移した。 

腑に落ちない点はいくつもあるが、とりあえず、ハナダシティに向かおう。 

僕はヒナタの肩によじ登った。 
しかしヒナタの視点は、僕にまったく気づかないほどに、ある一点に集中していた。 
辿ってみる。 

「ピッピ……あなたが助けてくれたのね」 

ヒナタがエーフィから"念力"を受けた場所で、 
ピッピは男が消えた後も、ぎゅっと目を瞑ったまま、その小さな指を振り続けていた。 
なるほど、あの"光の壁"はこの子によるものだったのか。 

"ゆびをふる"――その技以外の技が、ランダムに発動する、珍しい技。 

しかし、僕の記憶が正しければ、"ゆびをふる"はある程度成長したピッピでなければ使えない技ではなかったか。 
このピッピはあまりにも幼い。 
矛盾している。 
が、現にピッピの目前には、薄いながらも"光の壁"が展開されており、 
それがエーフィの"念力"を無効化するのを僕はこの目で確かめた。 

ヒナタを助けたいがために、土壇場で"ゆびをふる"が使えるようになったか、 
或いは――。いや、いくらなんでもこの想像は大それているな。 




ヒナタがピッピの元に跪き、振り続けている指を、そっとつまんだ。 

「怖いヤツはいなくなったのよ。 
 だから、もうあなたは指を振らなくていいの」 

そして脇を抱えて、額をつける。 

「あなたには御礼を言わないとね。 
 ありがとう。でも……やっぱり、ごめんなさい。 
 折角あなたに助けてもらったのに、 
 あの男から、あなたのお父さんとお母さんを取り戻すことは出来なかったの」 

幼いながらに、ピッピにもヒナタの言葉の意味が分かったのだろう。 
つぶらな瞳に涙が滲む。ピッピはまるで母親と父親を呼ぶかのように、高くよく通る声で鳴いた。 
……返事はない。 
それでもピッピは、鳴くのをやめない。 
ヒナタはそっと、ピッピを抱きしめた。 
僕は彼女の瞳が、涙をこらえるように湿っているのを見た。 



それからどれくらい経っただろう。 
鳴き止んだピッピを地面に降ろして、ヒナタはリュックから、今度こそモンスターボールを取り出した。 
コトン、とそれをピッピの目の前に置く。 

「こんなことを言っても分からないかもしれないけど、 
 あたしはポケモンリーグを目指して、旅をしているの。 
 あの男はどこかに消えてしまったけど、もしかしたら旅の途中で、また出会うかもしれないわ。 
 その時に、あなたのお母さんとお父さんを取り戻せるかもしれない」 

ピッピは首を左右に傾ける。ヒナタは根気よく説明を続けた。 

「あなたはまだ小さいけど、"ゆびをふる"の威力は凄かったわ。 
 あんなに強いエーフィの"念力"を、軽々受け止めたのよ。 
 だからね、ピッピ、あなたの力をあたしに貸して欲しいの。 
 勿論あなたがここで他のピッピたちと暮らしたいというなら、それでも全然構わないわ。 
 でも、もしあたしと一緒に旅をしてくれるなら……このモンスターボールに入ってくれないかしら」 

やれやれ、苦笑を禁じ得ないな。 
ポケモンに、モンスターボールに入ってと頼むポケモントレーナーを見たのは、君が初めてだよ、ヒナタ。 

ピッピはボールの開閉スイッチと、すぐ背後に広がる大空洞を交互に眺める。 

そして――― 

ヒナタが固唾を呑んで見守る中、ピッピはその小さな指で、開閉スイッチを押した。 
閃光。若干質量が増えたことを示すように、ボールがころころと転がり、ヒナタの膝にぶつかった。 




「ピッカ、チュウ」 

おめでとう。 
ボールを両手で拾い上げて、ヒナタの目の前に差し出す。 

「本当にピッピを仲間にできるなんて……なんだか夢みたい……」 

両手で包むようにして受け取ったヒナタの姿に、僕は彼女の父親の姿を重ねた。 
胸の奥が懐かしさと切なさで、いっぱいになる。 


サトシ――。 
あなたの娘は本当にあなたの若い頃とそっくりに育った。 
ポケモンと触れあうことを喜びとし、ポケモンを無条件で愛する、素敵な子にね。 
だからこそ――僕はもう、同じ過ちは犯さないよ。 
この先、どこかでヒナタが道を踏み外しそうなことがあっても、全力で僕はそれを止める。 
それは、君を止められなかった過去の過ちに対する、贖罪でもあるから。 


僕はヒナタの許を離れて、もう一度大空洞を見下ろした。 
足場で眠っていたピッピたちは、忽然と姿を消していた。 
それはつまり、朝が終わり、彼らがオツキミヤマ洞窟各所に散ったということ――。 
僕は耳を欹てる。 
鍾乳石から滴り落ちる雫だけが、誰もいなくなった湖の静寂を乱していた。 

&bold(){第五章 終わり }