翌朝。 朝食をとるためにカエデと連れだって部屋を出たところで、 あたしは眠そうに欠伸をしているタイチを発見した。 「ふぁーあっ……よう、二人とも。遅かったじゃねえか」 ふにゃふにゃの顔はそのままに声をかけてくる。 服装もだらしない。 「おはよう」 わざわざこんなところで待ち伏せしてたの? あたしたちの部屋のドアをノックすれば良かったのに――と続ける間もなく、 「おーはーよーっ」 カエデが"ごく自然"な動作であたしとタイチの間に身体を割り込ませる。 「あたし思ったんだけど、タイチくんまだ疲れてるんじゃないの? 長旅を終えたその足でヒナタを助けに行ったんだし……、 あっ、あたし食堂から食事とってきてあげよっか?」 「いいっていいって。 食事ついでに雑談するのが目的だったんだよ。 さ、早いとこ三人で食堂行こうぜ」 食堂はがらがらに空いていた。 ルームナンバーに対応したテーブルには、質素な食事が人数分用意されていて、 タイチは自分のテーブルから盆を取り上げ、あたしたちのテーブルに移動してきた。 タイチの隣には当然のようにカエデが座った。 別に構わないけどね。 「いい具合に空いてるな。 ま、混む時間帯はとっくに過ぎてるから当然か」 「あたしは早起きしたんだけどー、ヒナタが中々起きなくてー、 廊下なんかで待たせちゃってごめんね?」 あたしは無言で頬を膨らませる。 何が「ヒナタが中々起きなくて」、よ。自分だってあたしと同じくらい寝坊した癖に。 ジョーイさんと別れる頃には深夜になっていて、 ポケモンの命が助かったことに安心したあたしは、部屋に着いてベッドに横になった途端に眠りに引き込まれたのだった。 夢も見ないくらいに深い眠りだった。 タイチは言った。 「そのことは気にすんなって。 俺は静かに飯食う方が好きだし、会話が周りに漏れるのはできるだけ避けたかったからな」 あたしは静かに合掌する。 「いただきます」 「ヒナタ、なんか怒ってる?」 「あの子、寝起きはいつもあんな感じなの」 さらりと嘘を吐くカエデ。 昨夜、処置室前の廊下で仲直りしてからというもの、 カエデの性格は反動を得て復活していた。 「そ、そういえば朝イチでジョーイさんに教えてもらったんだけど、 ポケモンはみんな快復するみたいだな?」 「うん」 自然と頬が緩む。 また元気なあの子たちと旅ができる。 そう思うだけで、冷たくなったご飯が美味しく感じられた。 「そういえばジョーイさん、こんなことも言ってたぜ。 四体のポケモンのうち、ゲンガーだけが変な鳴き声を出すようになって、周りを困らせてるって……」 あたしが反射的に答え、 「ああ、それはそれでいいの。普通なの」 カエデが後に続く。 「その変な鳴き声が、あのゲンガーのアイデンティティみたいなものなのよ。 タイチくんはゲンガーの鳴き声、聞いたことある? まだ無かったわよね?」 「ああ」 「その鳴き声は、最初に聞いたときはなんかすっごい間抜けで、 全然ゴーストタイプのポケモンらしくないの。 でも慣れるとその声が心地よくなってきて、ちょっと可愛く聞こえるようになるの」 「なあ、いったいヒナタはどこでそんな不思議なゲンガーを手に入れたんだ?」 まさかゴースから育て上げたのか、とタイチが魚の骨をとりわけながら訊いてくる。 あたしは水を一口飲んでから言った。 「また時間がたくさんある時に話すわ。 あたしだって、タイチが三ヶ月以上もどこで何してたのか知りたいけど、今聞いても中途半端になっちゃうでしょ?」 「それもそうだな。雑談ついでじゃ尺に余るもんな」 タイチが頷く。それからの話題はほとんどカエデの『ミニリュウ』に独占された。 カエデの話の中でミニリュウはカエデの手によって捕まえられたことになっていて、 タイチはちっともその話を疑わずに感心の相槌を打っていた。 あたしは終始黙々とご飯を口に運んだ。 ――ほんとにバカなんだから。肝心なところでは頭が切れるくせに。 「ごちそうさま」 食器を返却しようと立ち上がった、その時だった。 食堂の入り口でキョロキョロと何かを、あるいは誰かを探している風にしていたリュウジと視線が合う。 「ヒナタさん! こんなところにいたんですね」 どうやらその探し人はあたしだったみたいね。 「誰だあいつ?」 「えっと、その」 一瞬上手く説明できなかったあたしの代わりにカエデが答えてくれた。 「リュウジくん。二ビシティジムリーダー、タケシの息子さん」 リュウジはテーブルの近くにやってくると、ホッとしたような笑顔になって、 「心配してたんですよ。昨日の夜に部屋を訪ねたら返事がなくて、 今朝になっても帰ってきていなかったらどうしようかと思っていたところです。 お別れの挨拶もなしに修行の旅に出るのは嫌でしたからね――」 カエデの隣に視線を移し、硬直した。 タイチが首を傾げ「なんだよ俺の顔に何かついてんのか」という表情になる。 「リュウジ?」 「…………」 「ねえ、タイチがどうかしたの?」 「…………」 カエデが茶化す。 「まるで彫像みたいね」 しかし小刻みに震える両肩が、リュウジが彫像になったわけではないことを証明していた。 「どうして……」 不意に、お父さん譲りの細い目がカッと見開かれる。 リュウジが吠えたのはその直後だった。 「どうしてお前がヒナタさんたちと朝ご飯食べてるんだぁあぁぁあぁぁ!!!!」 「ちょ、ちょっとリュウジくん!?」 「落ち着いて、リュウジ!」 「おっ、おお、落ち着けるわけがないじゃないですか! ヒナタさんには話したことがあるでしょう!? 僕がジムリーダー代理を務めていた時に、僕が小さな頃から育てたイワークを必要以上にボロボロにして、 その上僕よりも前に戦った雇いのトレーナーの方が強かったと捨て台詞を残していった、最低のトレーナーのこと。 それがこいつなんです!」 唇を戦慄かせるリュウジを宥めながら記憶を辿る。 二ビシティのポケモンセンターで、リュウジが直々に謝りにきてくれた時のことを思い出す。 リュウジが暴走させたイワークは、実はタケシさんの私物だった。 ジムリーダー代理を任された当初は自分のイワークを使っていたが、 ある時、一人のトレーナーにそのイワークとプライドを大きく傷つけられて、 以来、ジムの人間にも秘密で、タケシさんのイワークを使うようになった。 そしてそのトレーナーというのが、あの時は知る由も無かったけれど、タイチのことを指していたのだ。 「い、意味わかんないんですけどー……」 事情を知らないカエデが、タイチとリュウジを交互に見つめる。 リュウジは呼吸も荒くタイチを睨み付けている。 食堂にまばらに残っていた人もいつの間にかいなくなっている。 どうやってこの場を収めればいいんだろう。 頭を抱えたくなったその時、 「まあ座れよ」 タイチは旧知の友人に語りかけるような穏やかな調子で、リュウジに椅子を勧めた。 「とりあえず座りましょ?」 あたしが返却しようとしていた食器をテーブルに下ろして座ると、 リュウジも憮然とした面持ちで席に着いた。 「やっとお前のことを思い出せた。正直、カエデに言われてもあまりピンと来なかったんだ。 俺の脳みそはあんまりデキがよくねーから、どうでもいいことは古い順から忘れていくようになってるのさ」 「どうでもいい、だって?」 テーブルの下のリュウジの手が、かたく握りしめられる。 「ちょっと、挑発するようなことを言うのはやめて!」 「ヒナタは黙っててくれ。俺は別に挑発してるワケじゃない。 ただ、それだけこいつとの戦いは印象に残っていなかったって言いたいんだよ。 俺が二ビシティジムのことで覚えてたのは、タケシと戦えなくて残念だったことくらいだな。 どうやって代理リーダーのポケモンを倒したか、 倒した後にどんな台詞を吐いたかなんて、お前には悪いけどもう完璧に忘れちまってる」 「お前が忘れても僕は忘れないぞ!」 「結構。俺がお前のポケモンとプライドを酷く傷つけたとお前が言うなら、 それはきっとその通りなんだろうよ。別にそれを否定したりはしないさ。 でもよ……」 タイチがそれまで伏せていた顔を上げる。視線が交錯する。 「だからなんだってんだ?」 「ひ、開きなおるつもりか?」 「あのなあ、お前はふたつ、根本的に勘違いしてるんだよ。 まず一つ目に、俺に嗜虐趣味はない。 ポケモンバトルで理由もなく過剰攻撃することは絶対にない。誓ってもいい。 だからイワークが必要以上に攻撃されたとお前が言い張るのはお前の勝手だが、 俺にとってはその攻撃は必要な攻撃だったってことだ。 その時、何を考えてマグマラシに指示を出したのかは今となっては分かんねーけどな。 そして二つ目に、俺はどうでもいい嘘は吐かない。 お前より雇いのトレーナーの方が強かった、だっけか? その台詞は事実だろ。もし代理リーダーであるお前がジムの中で一番強いと判断したら、俺はそんなこと言わねえよ。 ジムリーダーの絶対条件は知ってるよな。 ジムで使用するレベルが制限されたポケモンは関係なしに、 私物のポケモンを使ったポケモンバトルで、ジムに存在する全てのポケモントレーナーより強いことだ。 なあリュウジ、お前は本当に二ビジムにいたトレーナーの中で一番強かったのか?」 リュウジは答えない。答えることができない。 タケシさん不在のジムにおいて、リュウジと雇いのトレーナーのどちらがジムリーダー代理に適任だったのかは、 おそらくリュウジが一番よく理解している。 それにこれは余計かもしれねーけど、とタイチは腕を組んで言った。 「お前さ、そんなこといちいち根に持ってたら、ポケモントレーナーやっていけないと思うぞ。 俺も親父がジムリーダーで――つっても俺が生まれた時からジムリーダーやってたわけじゃねえけど――、ガキの頃はよく稽古つけてもらったんだよ。 ほとんど毎日な。でも、俺は今まで生きてきて、一度も親父に勝ったことがない。 子供相手に手加減しない、ほんと意地悪な親父でさ。 それで俺のポケモンをコテンパンにした後で言うんだよ、俺がガキの頃は今のお前よりずっと強かったってな。 俺は半泣きで再挑戦する。負けてバカにされる。もう一度だけ戦ってくれと頼む。また負けて今度はもっとバカにされる。 その繰り返しだった。その時は、なんでこんな性格悪い親父が俺の親父なんだろうって思ったもんだけど、 後から考えてみれば、俺はそのおかげで、今こうしてポケモントレーナーやれてるんだと思うよ。 お前はもう十分強い、なんて言わたら、俺なんか絶対調子乗って練習やめてたと思うね」 タイチとシゲル叔父さまに抱いていた、過去のイメージが崩れていく。 タイチには生まれつきポケモンバトルのセンスがあるのだと思っていた。 シゲル叔父さまはタイチにとって、時に誉め、時に叱る、優しい師のような存在なのだと思っていた。 リュウジはいつの間にかタイチを睨むのをやめて、 テーブルの真ん中に並んだ醤油の小瓶に視線を落としていた。 「僕が甘かった……そう言いたいんですか」 「端的に言えばそうなるな」 あたしは気まずい空気に耐えかねて、口を挟むことにした。 「ねえタイチ、もうその辺でいいでしょう? リュウジも、こんな言い方が適当かどうか分からないけど、タイチのことを許してあげて欲しいの」 「本当は、心のどこかで分かってたんです。 僕の言っていることは、負け惜しみと同じだって」 リュウジは自嘲気味に笑った。 でも表情はちっとも笑えていなかった。 「こうやって、自分のプライドを傷つけた相手を目の前にして怒鳴ってみても、その続きが思いつかないんです。 挙げ句の果てに、逆に諭されて……ああ、なんかホントにダメだな、僕……」 出し抜けにカエデが言った。 「あたし不思議なんだけどさあ。 どうしてリュウジくんはポケモンバトルで見返してやろう、って思わないわけ?」 「それは……僕がまだポケモントレーナーとして未熟だから……」 「それを言うなら、ここにいる全員が、ポケモントレーナーとして未熟だと思うけど?」 あたしもその意見に賛成する。 「そうよ、タイチは調子に乗りやすいから、リュウジが頑張ればすぐに追いつけるわよ。 そしてリュウジが追い越したと思ったその時に、 ジムリーダー代理とか、そういう肩書きは関係なく、 一人のポケモントレーナーとしてポケモンバトルを挑めばいいじゃない。 タイチだってきっと断らないわ」 あからさまに面倒臭そうな顔をするタイチに、 「ね?」 と釘を刺す。 「俺は別にかまわねーけどさ。リュウジはそれで納得すんのか?」 リュウジは力強く頷くと、それまでの弱気を断ちきるようにタイチを真正面から見つめて言った。 「僕はいつかあんたに挑戦する。だからその時は………よろしくお願いします」 「お、おう」 突然の敬語に戸惑うタイチ。 少し空気が和んだところでカエデが言った。 「ヒナタ、ポケモンの様子を見に行かない? きっともう面会可能になってると思うわ」 「うん、そうしましょ」 「タイチくんやリュウジくんはどうする? ここで一度解散する? それとも一緒に来る?」 タイチとリュウジは一瞬顔を見合わせて、 「俺はやめとく」「僕は遠慮しておきます」 と同時に言い、一拍おいて、 「昼過ぎに二人の部屋に行くよ」「お昼過ぎに二人の部屋にお邪魔させてもらいます」 とまたしても同時に言葉を重ねた。無言で啀み合う。 もしかしたらこの二人は結構気が合うのかもしれない、とあたしは思った。 --- 病棟に赴いて簡単な手続きを済ませ、 お昼前に部屋に戻ってきたあたしのベルトには、三つのボールが収まっていた。 カエデと一緒にソファに腰掛け、一つ目のボールのボタンを押す。 閃光。 「ぴぃっ」 ボールの中から飛び出してきたピンク色のボール――じゃなくてピッピは、 身体の所々に包帯を巻かれてはいるものの、もうすっかり元気になっていた。 胸に飛びついてきたのを、そのまま抱き留める。 一頻りピッピの温かみと柔らかみを味わってから、二つ目のボールのボタンを押す。 閃光。 スターミーが五芒星の身体をくるくると回転させて、動くのに支障がないことをアピールする。 コアが明滅する度に、赤い宝石のような結晶にうっすらと残った罅の痕が、光を乱反射する。 あたしはその部分に触れてみる。表面は滑らかに修復されていた。 「なんて凄い回復力なのかしら……」 スターミーを撫でながら、三つ目のボールのボタンを押す。 閃光。現れた影の塊は、アヤとの戦いを経て、前世との繋がりを断って、いくらか痩せてしまったように見えた。 それでもでっぷりとしたお腹は健在で、ピッピは自分を受け止めてくれると信じて、そこに飛び込んでいく。 「うー」 ヘンテコな鳴き声が響く。優しい赤色を湛えた瞳があたしを映す。 あたしは何も言わずに、ピッピごとゲンガーを抱きしめた。 ひんやりと冷たいはずの身体は、何故かとても温かかく感じられた。 「ありがとう」と「ごめんなさい」、どちらを先に言うべきなんだろう。 優先順位をつけ倦ねているうちに、目頭が熱くなってくる。 「うーう」 ゲンガーは優しく抱擁を解くと、 まるで何度も練習したみたいに自然な動作で跪き、頭を垂れた。 ポケモンタワーで見たキクコお婆さんのゲンガーと、目の前のゲンガーが重なる。 それは疑いようもなく、主への忠誠を示す仕草だった。 もう暴走したりしない。 そんな声が聞こえた気がした。 「ゲンガー……」 どこまで優しいのよ。 あたしはあなたに酷い仕打ちをして、結局何も出来ずに、ただ泣いていただけなのに。 あなたにとっては、最低のトレーナーのはずなのに。言葉に詰まる。 やがて構ってもらえないことに立腹したピッピが、 ゲンガーの頭に乗って耳を引っ張り始め、あたしはゲンガーに返事をする機会を逸してしまった。 「もうっ、ピッピったら!」 「いいじゃないの。きっとうーうーだって、ヒナタの気持ち分かってるわよ。 わざわざ口に出して言わなくてもね」 カエデが、あんたもあのお腹で遊んできなさい、とワニノコを嗾ける。 ゲンガーはそれを満面の笑顔で受け止める。 「それにしても不思議よねー。 初めて見たときはどこの変質者かと思うくらいに不気味な笑顔だと思ったのに、、 今見たらすっごく感じのいい笑顔に見えるんだもの」 「誤解だったのよ、きっと」 「誤解?」 「ゲンガーは最初からこんな感じの笑顔だったのよ。 でもあたしたちの変な思い込みが、それにフィルターをかけてたんだと思うわ」 「見方が変われば印象も変わる、か。 ま、当然っていったら当然だけど、 それとは関係なく、目の光とか柔らかくなったと思わない?」 「言われてみれば……」 ルビーの原石を思わせる濁った赤の瞳は、いつしか研磨されたルビーのように、澄んだ光を放っていた。 「あたしが推理するに、前世の凶暴な記憶が消えたことによって、 同時にうーうーの性格も純化されたんじゃないかしら。 もちろん根っこのところは変わってないんだけど、 もうその衝動と戦う必要がなくなって、うーうーにも余裕ができたっていうか、」 「ねえ、カエデ。確か前にも聞いたと思うんだけど、 なんでゲンガーのこと、うーうーって呼ぶの?」 「だって分かりやすいじゃん。ね、うーうー?」 「うー?」 ゲンガーが太い首を傾げ、カエデを見つめ返す。 あたしは心の端っこに芽を出した、正体不明の苛立ちに戸惑っていた。 確かに『うーうー』というあだ名は何もおかしくない。普通だわ。 でも何故かしら、カエデがそれを口にして、ゲンガーが反応する度に、 まち針で刺されたくらいの痛みが胸に広がるのよね。 あたしが黙りこくっていると、カエデは何かに気付いたように素早く瞬きを繰り返し、 下からあたしの顔を覗き込んできた。 「分かった。ヒナタ、あたしがうーうーをあだ名で呼ぶの、ヤなんでしょ? 自分よりカエデとゲンガーが仲良くなったらどうしよう、とか思ってない?」 「そ、そんなこと、」 否定できない。あたしは本当に、そんなくだらないことで苛立っているのかしら。 自分で自分が分からない。カエデはとても単純明快な解決案を提示してくれえた。 「ヒナタも呼んでみたら? うーうーって。 きっとうーうーもあだ名で呼ばれて、悪い気はしないと思うけど?」 「うっ?」 ゲンガーがぴたりと動きを止める。 そして何かを期待するような視線を、ちらちらとあたしに寄せてくる。 何故かピッピとワニノコもはしゃぐのをやめて、部屋はしんとした空気に包まれる。 うーうー。 そう一言口にするだけでいいのに、 どこからともなく湧き出てきた気恥ずかしさが邪魔をする。 「さあさあ」 「もう、急かさないでよ。 それじゃあ、えっと……」 ゲンガーはまるでお見合いしているみたいにカチコチになっていた。 ポケモンの世界にお見合いがあるのかどうかは知らないけど。 あたしは言った。 「う、」 否、言おうとした。 けたたましいノックの音の後に、タイチの大きな声がドア越しに響いてくる。 「よーっす。二人ともいるか? 俺だよ、タイチだ。 ついでにリュウジも一緒だぜ。 昼過ぎってアバウトな時間設定だったのに、偶然ぴったり合っちまってさ」 ―――――― ―――― ―― 「あれ、おかしいな。 俺は確かゲンガーは心地よい鳴き声を出すって聞いてたんだが。 まあ奇妙なのは奇妙だけどさ、 なんか泣いてるみたいに聞こえねえか?」 「タイチくん、それはね、」 「何も言わないで、カエデ。 これでタイチの空気の読めなさ加減がはっきりしたわ」 あたしは溜息を吐いて、部屋の隅を眺める。 そこではゲンガーが「ううううう」と哀愁漂う声で鳴いていた。 あたしが「うーうー」と呼んであげればすむ話なのかもしれないけど、 何故かあのタイミングを逃してしまってからは、 気恥ずかしさがそれまで以上に激しく邪魔をして、出来なかった。 リュウジが恐る恐るといった風に言う。 「ヒナタさん、なんか顔が怖いです……」 「そ、そうだよヒナタ。笑えよ」 笑えるわけないじゃない。 あたしは何か言う代わりに、重い溜息を吐いた。 タイチ全面擁護派のカエデが助け船を出す。 「そろそろ建設的な話をしましょう」 「俺は、俺がいなかった間に何があったのか知りたい。 あと昨日の夜にヒナタがどうやってアヤと遭遇したのかも聞かせてくれ。 俺は途中参加だったからな」 とタイチが言い、小さな声でリュウジが続いた。 「僕は……僕はヒナタさんやカエデさんが、昨日の夜に何をしていたのか知りたいだけです。 あの、もしかしたら僕、邪魔ですか? ヒナタさんやカエデさんはこいつ……じゃなくてタイチさんと知り合いみたいですし、 なんだか色々と事情があるみたいだし……」 「気にしなくていいのよ。 でもその代わり、今から話すことを無闇に人に話したりしないで欲しいの。約束してくれる?」 はい、とリュウジが安堵したように頷く。 あたしは紅茶を一口飲んで喉を潤してから、 タイチが不在の間の出来事を、かいつまんで話した。 シオンタウンでキクコお婆さんと出会ったこと。 ゲンガーに一旦は襲われそうになったものの、お婆さんの仲介によって、あたしのポケモンにできたこと。 タマムシシティでエリカさんに挑んだこと。 勝利してバッジは手に入れたものの、試合の最後でゲンガーが暴走してしまったこと。 ピカチュウを探す援助に、エリカさんからウツギ博士への手紙を賜ったこと。 ヒトデマンが進化の石によってスターミーに進化したこと。 セキチクのポケモン協会本部にて、ウツギ博士にピカチュウの端緒を断たれてしまったこと。 そこからは描写を密にして、サファリパークでアヤと対峙するまでの経緯を語った。 サファリパークを一望できる丘で、キュウコンの鳴き声が聞こえたような気がしたこと。 園内に広がる夕闇の中に、炎タイプの技の残滓がわずかに見て取れたこと。 知り合いの女の子二人の手を借りて園内に侵入したこと。 火傷を負った野生ポケモンが、まるでアヤの通り道を示すように倒れていたこと。 そしてそれを辿っていくうちに、十数体のポケモンに包囲されたアヤを見つけたこと――。 「今から思い返すと、ほんっと、色々あったわねー。 ヒナタ、落ち着いたら自叙伝書いてみなさいよ。絶対売れるわ」 「嫌よ。あたしの記憶を本にするなんて。 それにどうせカエデのことだから、印税のうちの何割かは自分のものにする気なんでしょ?」 「あら、分かってるじゃない」 出し抜けにリュウジが呟く。 「なんだかカエデさんとヒナタさんって、従姉妹っていうよりも姉妹みたいですね」 「だってさ、ヒナタ」 「姉妹、ねえ」 あたしとカエデは同時に答える。偶然にも台詞まで一緒に。 「別に悪い気はしないわ」 顔を見合わせて笑う。つい半年前には想像もしていなかった。 会う度に険悪な雰囲気になっていたカエデと、こんなに仲良くなれるなんて。 タイチはそれまでの思案していたような相好を崩すと、 「オーケー、大体のところは掴めたよ。 それからヒナタはアヤに追いついてポケモンバトルを持ちかけ、 少し遅れて、俺が二人を発見した」 「その通りよ」 あたしがタイチに奇跡的なタイミングで救ってもらったことは、 カエデに教えると面倒なことになりそうなので割愛する。 「でも、ヒナタの話には不思議なトコがいくつかあるよな」 「どうしてアヤが閉鎖中のサファリにいたのか。 園内の野生ポケモンを無差別に攻撃していたのか。謎だ」 カエデが腕を組み、唸る。まるで推理ドラマの探偵役みたいに。 「確かにピカチュウの拉致に関わってるアヤが自分から姿を見せてくれたのは幸運だったと言えるけど、 何の理由と目的があってセキチクのサファリパークにいたのか、まったく解らないわ」 「あのう……」 とリュウジが遠慮がちに口を開く。 「どうしたの?」 「ヒナタさんはそのアヤという人を追っていくうちに、 最終的にエリア1とエリア2の境界に着いたんですよね?」 「そうよ。アヤを追っていくうちに、というよりは、 アヤに攻撃された野生ポケモンを辿っていくうちに、だけどね」 「これは僕の想像で、ヒナタさんもカエデさんもタイチさんも、 とっくに思いついてることなのかもしれないけど、 もしかしたらそのアヤという人は、 野生ポケモンをエリア移動させたかったんじゃないかな」 カエデはすぐさま反論した。 「でも、リュウジくんのお父さんは言ってたじゃない。 ポケモンを無理矢理に移動させるのは難しいって。 サファリの膨大な数の野生ポケモンを、アヤ一人でどうこうするのは流石に無理だわ」 あたしは言った。 「ううん、無理じゃない」 「どうしてよ?」 「中途半端に追い立てれば、野生ポケモンだってすぐにまた元の場所に戻ろうとする。 でも、実際にアヤによって攻撃された野生ポケモンを目の当たりにして、分かったの。 あのポケモンたちはアヤを、人間を、怖れるようになるって。 多分アヤがサファリパークに訪れたのは、昨日の夜が初めてじゃないと思うわ。 継続的にエリア1のポケモンを駆逐していたと考えても、おかしくない」 タイチは昨夜の戦闘を思い出すように目を細めて、 「 多勢に無勢が有効なのは、そこに圧倒的なレベル差がない時だけだ。 ハイステータスのキュウコンに、キュウコンよりもレベルの高いヘルガー、最後に離脱用のオニドリルとくれば、 サファリパークの野生ポケモンじゃ、たとえ束になっても歯が立たなかっただろうな」 カエデは言った。 「で、でも、もし仮にアヤがそのやり方で野生ポケモンをエリア2に追い立てようとしていたのだとしても、 まさかボランティアってわけじゃないでしょう。誰か、アヤにそうするよう命じた人間がいるはずだわ」 「サファリ管理局の人間……はありえないわよね。 長期的に誘導するよりも、短期的に暴力による恐怖で強制移動させる方が高効率だってことは、 多分、管理局の人たちだって感付いていたと思うの。 でも同時に、強攻策を実行に移してもしその事実が露呈した時に、 どれだけ非難を浴びることになるかについても想像していたはずよ」 「アヤがサファリにいた理由としては、 アヤを抱えてる組織のお偉いさんの命令、ってのが一番考えるにしちゃ楽だ。 でも、そうすると避けられない繋がりが一つ出てくるよな」 発言が途切れる。 そこには暗黙の了解があった。 ――アヤの組織とサファリ管理局は、秘密裏に繋がっている。 ややあってカエデは顔を上げ、 「サファリ管理局は工事の早期完了を望んでいた。 しかし強制的な野生ポケモンの排除はリスクが高い。 そこで外部から有能なポケモントレーナーを派遣させて、その作業に当たらせた。 万が一発覚したとしても、サファリ管理局は管理責任を問われはするものの、 サファリパーク内で起きたことについては知らぬ存ぜずを貫きとおせる。 筋書きとしてはこんな感じかしらね」 とスラスラと推理を述べた。 リュウジは不安そうな表情になって言った。 「た、確かにその話には筋が通っています。 でも、仮にもサファリパークを管理しているのは"国"なんですよ? 個人単位ならともかく、国営機関に内通している組織なんて、ホントに実在してるんでしょうか。 それにもし実在していたとしても、今までにそんな大それた組織の情報が、 ほんの少しでも出回らなかったのはどうしてなのかな」 あたしはウツギ博士の言葉の片鱗を思い出した。 ――肥満した組織はその存在がそこかしこから露呈するものだ。自重に耐えきれなくなってね―― カエデもあたしと同じようで、その矛盾を解こうとウンウン唸っている。 小さな沈黙が降りる。しばらくしてタイチは言った。 「考えても分からねえことは保留にしとこうぜ。 ヒナタ、アヤとの会話で印象に残ってることは何かないのか?」 これは直接アヤの組織に関係していないことかもしれないけど、と前置きしてからあたしは答えた。 「あたしがピカチュウの居場所を尋ねた時、 アヤは予想通り何も教えてくれなかった。 けど、その後でアヤは奇妙なことを口走ったの」 「奇妙なこと?」 瞼を閉じる。 そしてその裏に、アヤの澄んだソプラノが興奮に乱れていた時のことを思い浮かべる。 「――ピカチュウはあたしのものだって。 あのピカチュウは元々、あなたのものじゃないって」 分かったアレだ、と茶化すようにタイチが言った。 「我儘だよ、我儘。 アヤは雰囲気は大人びてる、っつーか冷たいけど、一応は子供だからな。 ピカチュウの強さに惚れ込んで、欲しがっていたとしてもおかしくない。 もしかしたらカントー発電所の一件以来、あのスーツ着たおっさんにピカチュウをくれるよう、せがんでるのかもしれないぜ」 はいはーい、とすかさずカエデが手を挙げる。 「あたしもタイチくんと同意見。 ねえねえタイチくん、あたし前から思ってたんだけど、もしかしてももしかしなくても、あたしたち気が合うんじゃないかしら」 「いや、今のは冗談のつもりだったんだけど」 カエデが媚びるような笑顔のまま石化する。 それに気付かないように(多分本当に気付いていない)タイチは続けた。 「アヤはヒナタに諦めさせたかったんじゃないかな。 アヤは多分、ヒナタの親父が誰であるか知ってる。そしてその関係で、ピカチュウがヒナタの手に渡ったことも知ってる。 アヤはピカチュウが自分を新たな主として認めたと嘘をつくことで、ヒナタのピカチュウを追う気持ちを削ごうとしたんだよ」 「そう……なのかしら……」 考えるだけ無駄なことなのかもしれない。 ただ単純な、アヤの独占欲の発露だったのかもしれない。 でも――それでも糸屑のような違和感が心にまとわりついている。 ピカチュウはあなたなんかよりも、わたしにこそ相応しい。 ピカチュウがあなたに付き従っていたのは義務の延長に過ぎない。 アヤが本当にそう言いたかったのなら、もっと冷ややかな皮肉として投げかけてきていたと思う。 あんなに感情を露わにする必要なんて、どこにもなかった。 「ヒナタさんはこれからどうするつもりなんですか」 というリュウジの声があたしを現実に引き戻してくれる。 返事をしたのはタイチだった。 「とりあえず今のところはエアームド待ちだ。 アヤを乗せたオニドリルが降りた場所がどこになるかは予測できないが、 その場所が組織に関係していることは100パー間違いない。 エアームドが帰ってきたら、アヤと組織が引き払わないうちに急いでそこに向かわねーとな」 真剣な声音に心強さを感じる。 タイチがいなければあたしは全身に大火傷を負っていた。 タイチがいなければあたしはアヤの行方を追うことができなかった……。 なんだよ?とタイチが訝しげに見返してくる。 なんでもない、とあたしは裏返りそうな声で言い、目を逸らす。 「尾行が撒かれてる心配はないが、ちょっと遅いな――」 と、タイチが窓辺に寄ってブラインドを下げた、その時だった。 笛に思いきり息を吹き込んだような、それでいて不快さを感じない高音が響き渡る。 「やっと帰って来やがった」 ――――― ――― ―― 「はいヒナタ、受け取って」 カエデが下から、最小限に荷物を絞ったリュックを渡してくれる。 二人乗りでの長距離飛行を考えると、軽量化は詮無いことだった。 「滞りなく飛べれば、片道に半日もかからない。 カエデ、一日だけだ。一日だけ、ここで待っててくれ」 「いいのよ、あたしのことは気にしないで。 そりゃあ本音を言えばー、タイチくんに早く迎えにきて欲しいけどー、 長い間空を飛んだら、タイチくんもエアームドも疲れるでしょ? あっちについたら遠慮なく休憩して。 一日や二日くらい遅れても、あたしは全然構わないから」 「正直、そう言ってもらえると助かる。でも、なるべく早く迎えに来るようにするからさ」 表裏のない、屈託のない笑顔を見せるカエデ。 あたしは訊いた。 「本当にあたしの後で良かったの?」 エアームドの積載量は大人二人が限度で、三人同時に乗ることは出来ない。 指示を出すタイチは固定として、あたしとカエデ、 どちらが先にエアームドに乗るのか、あたしたちは相談しなければならなかった。 結果的に相談はカエデの一方的な譲歩ですぐに終わってしまった。 「あんたの記憶力が薄弱だってこと、すっかり忘れてたわ。 いい? アヤはあんたがギリギリのトコで掴んだ最後の手がかりなのよ。 あたしが先に行って、タイチくんがあんたを迎えに行ってる間に色々起こったらどうするわけ?」 バカにした言い方の裏にあるカエデの優しさに気付いて、 「それじゃ、遠慮無く置いてくからね」 「ええ、そうしなさい」 タイチは風の具合を確かめるように空を見上げた。 青い絵の具を刷毛でさっと塗ったような秋晴れの空に、ちぎれ雲が転々と浮かんでいる。 「そろそろ行くか」 タイチの手がエアームドの首を撫でる。 鋭い音とともに、金属質の赤い羽が展開される。 リュウジは言った。 「もし向こうで父さんに偶然会うことがあったら、 僕は大丈夫だって、伝えておいてもらえませんか」 「分かったわ」 「これでまた、お別れですね」 「寂しくなるわね。セキチクでの再会が嬉しかったぶん」 「僕もです」 とリュウジは顔を伏せ、すぐに顔を上げて、 「頑張ってください。 僕はヒナタさんの力になれるほど強くないけど、いつも応援してます」 「リュウジ……」 突然、エアームドが大きく羽ばたく。 「ありがとう」の言葉が、風に掻き消される。 それでも唇の動きでリュウジには伝わったようだった。 「しっかり掴まってろよ。上昇する時は特に不安定なんだ」 「うんっ」 返事をした次の瞬間に、エアームドの羽が一際大きく羽ばたいて――。 あたしは空を飛んでいた。黄緑と茶色が織りなす秋の草原に、 小さくなったカエデとリュウジが大きく手を振っているのが見えた。 エアームドが"上昇"から"飛翔"へ飛び方を変える。 高空の冷気が容赦なくあたしを包み込む。あたしはタイチの背中に身を寄せた。 そして目を瞑り、山吹色がシンボルカラーの経済都市、ヤマブキシティに思いを馳せた。