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第四章 下」(2009/05/25 (月) 19:11:43) の最新版変更点

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薄暗い通路を抜けると、そこは岩場だった。 「なにここ……本当にジムの中なの……?」 ヒナタが息を飲むのも、無理はない。 人工的に作られた空間だが、僕が初めて訪れた時に比べ、かなり自然に近く造られている。 照明は高く、岩の中にはかなり大きなものもあった。 先ほどの戦闘とは違い、三次元的な戦闘になりそうだ――と僕が考えていると、上方から声がした。 「よくここまで辿り着いたね、ヒナタ。  知っているかい?  電気タイプのポケモンでここまで辿り着いたトレーナーは、  過去にたった一人しかいないそうだ。僕の父さんが教えてくれた」 声質で男だと分かったものの、顔は逆光で見えない。 と、その男は器用に岩場を飛び移り、僕たちの前に姿を現した。 「あなたが、ここのジムリーダーなの?」 「いかにも。今は父さんの代理だけど、  ゆくゆくはこのニビシティジムのリーダーを任される男さ」 「……チュウ……?」 太い眉に、細い目。短い栗色の髪の毛は、彼の若い頃にそっくりで……。 僕はこの、ヒナタよりも若干年下の少年が、彼の息子であると確信した。 タケシ、大人の女性のお尻を追いかけ回していた君も、いつのまにか伴侶を見つけていたのか。 やれやれ、なんだか妙な気分だよ。 まるで停滞していた時間が、一気に押し寄せてきたみたいだ。 ヒナタは少年を頭の先からつま先まで眺めて、 「でもあんた、まだ子供じゃない?」 少年の顔が、爽やかな笑顔のまま凍る。 ヒナタに悪気はないのだろうけど……ストレートな物言いは、カスミ譲りか。 「ね、年齢で判断してもらっちゃ困るな。  あの永世の名を冠したポケモンリーグの英雄だって、  君くらいの歳でポケモンリーグを制覇していたんだぞ!」 ヒナタは慌てて両手を振った。 「ごめんなさい。何もあんたがジムリーダーに相応しくないとか、  見合うだけの実力を持っていないとか言ってるわけじゃないの。  さっき戦った人も、あなたのことを強いと言っていたし……」 「ほ、本当かい?」 「本当よ」 少年の表情が和らぐ。 この反応は、若くしてジムリーダー代理の名を背負い、自分に自信が持てないが故か。 それとも、雇いのトレーナーに対して、コンプレックスを抱いているが故か。或いは、その両方か。 「ご、ごほん」 少年はわざとらしく咳払いをしてから、 「雑談はここまでにして、勝負の説明に入るよ。  僕が使うのは、このイワーク一匹だけだ」 ベルトからボールを外す。 モンスターボールの上位互換――スーパーボール。 「対して君は、登録した二匹のうち、どちらも自由に使っていい。  僕のイワークが戦闘不能になれば君の勝ち、  君のポケモンが二匹とも戦闘不能になれば、僕の勝ちだ。  どうだい、シンプルだろ」 「ちょっと待ってよ。  そのルール、いくらここがあなたのホームグラウンドであることを差し引いても、不公平じゃない?」 「心配ご無用」 少年は再び、少し離れた岩場に飛び移った。 そしてスーパーボールを落とし―― 閃光。 ズシン、と足下が揺れる。もうもうと砂煙が立ち籠め、 僕たちはその先に巨大なシルエットを見た。美事に成長したイワークだ。 本当にこの少年が育てたのだろうか? 「どうだい? これでもまだ不公平に思えるかな?」 ヒナタはごくり、と生唾を飲みこんで、 「いいえ、むしろちょうどいいくらいよ!」 僕はやれやれと首を振る。声が震えている時点で、それは強がりとは呼べないというのに。 砂煙を隔てて、少年は応えた。 「それは良かった。じゃあ、そろそろ始めようか。  ――グレーバッジを賭けた戦いを」 言い終わる前に、砂煙が別たれ、イワークの尻尾が地面を叩く。 岩石が、それよりもずっと固い尻尾に砕かれ、石礫が辺りに飛び散った。 「きゃっ!!」 ヒナタが僕を守るようにして、近場の岩の影に隠れる。 唸るような咆哮。今のはただの威嚇だ。 これから、本格的な攻撃が始まる。 ヒナタは僕を抱きしめながら、言った。 「あたし、酷いトレーナーよね。  あんなに大きなイワークに、ピカチュウが勝てっこないのは分かってるの。  でも……あたし、諦めたくない」 「ピッ、ピカチュ」 「ねぇ、どうしてピカチュウにはそんなに自信があるの?  あたし、怖くて怖くてたまらないのよ。  さっきイワークの影を見たときだって、もしこれがジム戦じゃなかったら逃げ出してた」 「ピ、……チュ」 初めは誰でもそういうものなんだよ。 怖い。逃げ出したい。 そんな気持ちに正直になることも、或いは一つの選択だ。 潔い諦めは、時として賢明な判断でもある。 でも、ただ一つ、僕が君に言えることは、 君のお父さんは、どんなに強い相手の前でも、臆したりしなかったということ。 僕はそっと、彼女の体から離れた。 「チュウ!」 さあ、もう一度僕を信じて。 「ありがとう、ピカチュウ」 ヒナタは目をごしごしと擦って、立ち上がった。 「行きましょ。ピカチュウがこんなに頼もしいのに、  あたしがこんなんじゃ、あたし、いつまでたってもあなたのマスターを名乗れないわ」 岩の影から体を出す。イワークは少年と一緒に、その姿を消していた。 砂煙は綺麗に晴れている。僕の耳が、緩やかな空気の対流を感じ取る。 「人工的に、ちょっとだけ風が吹いてるのね。  砂煙を煙幕として使用する気は、あの子にはないみたい」 僕は素直に感心した。よく気づいたものだ、と思う。 ヒナタはかがみ込んで、僕の手を握る。 「焦らずにいきましょ  きっとイワークは、この岩場に紛れて、待ち伏せしているわ。  不意打ちされたり、真っ向勝負になったら、ピカチュウの勝ち目はほとんどない。  だから、こっちが不意打ちしてやるのよ」 「チュウ?」 「まずはあなたの小さな体を生かして、岩の影に隠れながらイワークを探して。  見つかったら、体の関節部に、思いっきり"でんきショック"を流すの。  もし頭部を狙えるのなら、目を狙って。  イワークの皮膚は、岩石よりも硬くて電気を通さないけど、  間接の部分や、柔らかい目なら、ピカチュウの電撃も効果があると思うわ」 僕は頷いて見せる。 ヒナタは冷静になれさえすれば、その場に応じて最良の戦略を用意できる子だ。 「チュ」 それじゃあ、行ってくるよ。 「待って!」 振り返る。ヒナタは言った。 「もしもイワーク探している間にみつかったら、すぐに逃げるのよ?  スピア―の時みたいに突っ込んでいって、怪我したら許さないんだからね……」 僕は右耳を傾けて、ヒナタへの返事とした。 ごめんねヒナタ。その約束は、半分、守れそうにない。 ヒナタの視界から外れたことを確認してから、 僕は近くにあった、大きな岩が重なり合うようにしてできた岩場の頂上に跳躍した。 フィールド全景を頭に入れる。 次に、擬似的な鳥瞰図の想定。 最後に両眼を閉じ、眼球に圧力をかけるようにして、作為的に角膜の形を変える。 目を開く。 倍加した視力で、僕は索敵を開始した。 イワークが地中に潜んでいる可能性は低い。 初撃の後、地面から揺れは伝わってこなかったからだ。 となると、イワークはヒナタの読み通り、 この地形と一体化して、待ち伏せていると考えるのが妥当だ。 無機物の岩石と、 有機物と無機物の融合体とも言えるイワークの差は何か。 それは、体に循環機能を持っているか、否かだ。 どんなに訓練されたポケモンといえど、完全に呼吸、鼓動を止めることはできない。 僕はさらに目を凝らす。 ――― ―――― ――――――いた。 最初にボールから出された地点から、30m離れたところで、とぐろをまくようにして息を潜めている。 岩と岩の間を縫うように駆けながら、 僕はかつての四天王の一角、キクコとの戦いを思い出していた。 影を移動するゲンガーに、僕は背後から幾度も襲われた。 ゴーストタイプと暗所の組み合わせは凶悪で、 それはほとんど、姿の見えない敵と戦っているのと同じようなものだった。 それに比べれば、ただ一カ所に留まって待ち伏せしているイワークは、まだ可愛い方である。 僕は程なくして、イワークのすぐ近くまで忍び寄った。 電気袋に充電を開始する。 ヒナタの命令に従うなら、僕はこのままイワークを倒してしまっても良かった。 出力次第ではイワークの強固な体に穴を開けることだってできるし、 柔らかい目を狙えば失明させることもできる。 だが、それでは何一つヒナタのためにならない。 「ピーカー、チュウ~~~~!!」 僕は出力を絞り、レベル15相当の"でんきショック"を、イワークの間接部分に流しこんた。 苦悶の叫びが、イワークの頭頂部から漏れる。 周りの土砂を巻き込んで、イワークが天井に届かんばかりに、その身を聳えさせた。 イワークは十メートル近い高さから、僕を見下ろす。 僕は十メートル近い高さにあるイワークを見上げる。 再び響いた咆哮に、しかし、最初のような覇気はなかった。 イワークは本能的に、実力の差を感じとり、怯えているように見えた。 ポケモンの第六感は、時に人間のそれを上回る。 「……どうしたんだイワーク、早くそいつを"締め付けろ"!」 その時、離れた岩山に、少年――否、ニビシティジムリーダーが姿を見せた。 彼は一目見て分かるほどに焦っていた。 待ち伏せがこうも簡単に見破られるとは、思ってもいなかったのだろう。 単純な戦法と、この育ちの良いイワークに頼りすぎていたとみえる。 僕は予備動作に移り、 「どうして動かないんだよっ。やれ、イワーク!!」 払われた尻尾をバックステップで躱し、岩場に飛び移る。 尻尾が通り過ぎていった部分は、平地になっていた。威力だけなら、かなりのものだ。 しかし―― 「そうじゃない、違う! 僕は締め付けろと言ったんだ!  尻尾を振るうだけの攻撃じゃ、すばしっこいピカチュウは捕まえられっこない」 イワークはこのジムリーダー代理の少年に、完全に従っていないようだった。 僕は左に視線を移す。そろそろ彼女が、この場所に辿り着く頃だ。 「ピカチュウ! 無事!?」 「チュ」 僕は両手を大きく振って見せた。 ヒナタの強張っていた顔が、安堵にゆるむ。イワークが聳え立った轟音を聞いて、気が気でなかったんだろう。 「ピカチュウ、今は退くのよ。早くこっちに来て!」 ヒナタは僕に手を差し伸べる。 君は本当に優しいな、ヒナタ。でも、今だけは君に従えないよ。 首を横に振って、電気袋から放電する。ヒナタは泣きそうな顔になって言った。 「ダメッ、この前のスピア―の時とはわけが違うのがわかんないの!?  あのときは偶然"たいあたり"がうまく決まったからよかったけれど、  今度も上手くいくとは限らないのよっ。だから、また隠れて、不意打ちして―――だめよピカチュウ、戻って!」 僕は岩肌を駆け下りる。 斜面で加速をつけ、ヒナタの目から見ても不自然でないような速度でイワークに近づき、 通りすがり様、初めに電流を流した間接の、一つ下に、電流を浴びせる。 苦悶。 遅れて、フィールド全体に響きわたるほどの咆哮。 「大丈夫か、イワーク!」 彼の声は、しかし、もうイワークに届いてはいなかった。 僕はイワークの目を見て、イワークが半暴走状態に入ったことを理解する。 再び、十メートル近くの距離を開けて、視線があった。 白が大半を占めるイワークの瞳からは、怯えの色が消えていた。 「危ないっ!」 ヒナタがそう叫んだのと、イワークが僕に向かって吶喊してきたのは、ほぼ同時だった。 轟音が響き渡り、地形が変わるほどの衝撃が、僕の隣を通り過ぎていった。 直撃は躱したものの、余波が僕を襲った。束の間の浮遊ののち、体が、固い岩肌にたたきつけられる。 薄く目を開けて辺りを見渡せば、 攻撃を終えたイワークが、むくりと体を起こしたところだった。 「やめるんだイワーク、そいつはもう戦えない。  戦闘不能になったポケモンに攻撃するのは、反則なんだぞ!」 イワークは無視して、僕に視線を注ぐ。 止めを刺すつもりだろうか。 そんな予感がしたが、僕はそれを振り払い、全身の筋肉を弛緩させた。 ヒナタは僕を信じると言った。僕がヒナタを信じなくてどうする? 「あたしのピカチュウに近づかないで!」 コツ、と。 小さな音がした。 コツ。 また音がする。 コツ。 音は繰り返し、繰り返し聞こえてくる。 それはヒナタが、イワークに向かって小石を投げている音だった。 イワークは唸り、眼を眇めてヒナタを睨み付けた。 今まさに振り上げられた手が、小石を握ったまま静止する。 さて、状況は整った。 ヒナタは金縛りにあったように、震えて、動けない。 その様はまるで、護身用のポケモンも持たずに夜の森に忍び込み、ゴースに遭遇した子供のようだ。 ただし、比喩と違って、今の彼女は一人ではない。 彼女は僕の他にも、もう一匹、ポケモンを持っている。 「ヒナタ、今すぐそこから離れるんだ!」 少年が必死に叫んでいるが、最早ヒナタには届いていないだろう。 僕は再び瞼を閉じて、視力を一時的に倍加させた。 ヒナタのベルトに収まったヒトデマンのボールが、何かに葛藤しているみたいに、カタカタと揺れている。 だが、ヒナタはそれに気がつかない。 イワークはその間にもゆっくりと、ヒナタの立つ岩場に滑り寄っていく。 ねえ、ヒトデマン。 君が拗ねてしまったのは、確かに致し方のないことだったと思う。 でもヒナタはもう十分過ぎるほどに悔悟した。 君だって本当は、ヒナタと仲直りしたかったんじゃないのか? それとも、君はヒナタのピンチを放っておくほど、彼女のことが嫌いになってしまったのかな。 ――カツン、と。 先ほどまでの粗雑な音とは、趣向の違った音がした。 赤い閃光が走り、ヒナタが金縛りからとける。 彼女の腰にあったボールは、今では岩の上に、口を開いて転がっていた。 「ヒトデマン……出てきてくれたのね」 あまりの喜懼で足の力が抜けたのか、ぺたん、とヒナタはへたりこんだ。 そしてそんな彼女を庇うようにして、ヒトデマンが五芒星の体を広げていた。 コアは透明な輝きを取り戻している。 それは彼女のヒナタに対する、忠誠心の現れでもあった。 両者の距離は直線にしておよそ10m。 イワークが僕にしたように吶喊すれば、ものの数秒で、ヒナタたちを岩場ごと吹き飛ばせる距離だ。 しかし、その数秒は、イワークにとって致命的だった。 イワークが、擡げた首を前に傾ける。 岩蛇ポケモンの名の通り、地面を滑るようにして距離を詰める。 ヒトデマンが、体を仰け反らせる。 そして、彼女の発射口から、ありったけのみずでっぽうが噴き出され―― 僕は舞い上がる砂塵の向こう側で、イワークが倒れ伏す音を聞いた。 ―――名もない丘の上で、僕たちは休息を取っていた。 『受け取れ、ピカチュウ』 『ピカピ!』 リンゴが宙を舞う。僕はそれを両手でキャッチする。 サトシが僕の隣に腰掛けると、それを合図にしたかのように、 春の香りを孕んだ風が一陣、丘の上を凪いでいった。 『マサラタウンを出発してから、ずいぶん時間がかかっちゃったな』 サトシの視線の先には、翠に霞むトキワシティ。 いくつもの冒険を乗り越えて、僕たちはついに最後のグリーンバッジに挑戦するのだ。 『トキワのジムリーダーは強いらしいぜ。  それも岩タイプや地面タイプのポケモンを得意としてるらしい。  ……不安か、ピカチュウ?』 『チュウ!』 『ごめんごめん。そうだよな。  ここまでお前と一緒に旅を続けて、バッジを集めてきたんだ。  グリーンバッジゲットだって、夢じゃないさ』 『ピッカ、チュ』 サトシは誇らしげに上着を開く。 七つのバッジが、それぞれ七色に煌めいていた。 それは魅入ってしまうほど美しい輝きだ。ゆっくりと、視界が狭まる。 丘の美しい自然が消え、サトシの顔が消え、 世界はバッジの光を中心に、どんどん小さくなっていって――― 「……チュウ? ピカチュウ?」 僕は重い瞼を開けた。 「はぁ……やっと起きた……」 夢? 僕は夢を視ていたのか? 微睡みの中から抜け出せずにいると、ふいに両頬が、つねりあげられた。 「チュウ!!」 「もうっ、どれだけあたしが心配したか、  ピカチュウ、あんたわかってるんでしょうね!」 ヒナタの顔が目の前にある。 僕はほっぺの痛みに耐えながら、あやふやな記憶を読み返した。 ヒトデマンが暴走したイワークを倒して……、 その後すぐに、ジムの中のトレーナーたちが駆けつけてきて……、 緊張が解けたヒナタが、僕の許で泣き出して……、 僕はすぐさまポケモンセンターに運ばれて、精密検査を受けて……、 「ピカ……」 僕は自分自身に溜息をついた。 演技をやめるタイミングを完全に逸した僕は、 ジムのトレーナーやポケモンセンターの医師になされるがまま、眠らされたのだった。 「奇跡的に目立った傷がなかったから良かったけど、  もしピカチュウが長引く怪我でもしてたら、あたし、あたし……」 ヒナタの大きな瞳が潤み出す。 僕は慌ててベッドから起き上がり、ぴょんぴょん跳ねて見せた。 大丈夫、ほら、僕はこんなに元気だよ。 それに僕が無傷だったのは、奇跡でもなんでもなく、 僕がイワークに攻撃される瞬間に躱して、ダメージを極限まで抑えたからさ。 全てはヒナタとヒトデマンに仲直りさせるためのきっかけ作り、 つまりは演技だったんだ―――なんて言葉が、ヒナタに届くはずもなく。 「今度あたしの言うことを無視して勝手に突っ込んでいったら、  ほんとのほんとに許さないから!」 電気袋から手を放して、痛いほどに僕を抱くヒナタ。 やれやれ。怒りながら抱擁とは、珍しい感情表現の仕方もあったものだ。 しかしその晩。 僕は久しぶりにヒナタの抱き枕の座から降ろされた。 ヒナタが消灯すると、僕はいつものようにしてヒナタに抱き枕にされるのを待っていたのだが、 肝心の腕がいつまで経っても回ってこなかったのだ。 ヒナタは僕とは反対側を向いて眠っているようだった。 そしてその反対側には、すっかりヒナタと仲直りしたヒトデマンがいた。 僕は妙な喪失感に襲われた。 なんだこれは。 嫉妬? この僕が? ニビシティジムでの一件が完全に決着したのは、 結局、僕が目覚めてから二日経った、麗らかな午後のことだった。 ヒナタにはジムからの申請で、 ポケモンセンターの宿泊施設で一週間、無償宿泊することが許可されていた。 普段のヒナタなら断っていたに違いないが、 お月見山の入り口復旧を待たなければならないことや、僕の良い休養にもなると判断して、 それを受け入れたのだ。 ポケモンショップで購入した傷薬や毒消しなどを整理していると、 ドアがこんこん、とノックされた。ヒナタは整理していた手を止めて、 「はぁ~い。今行きま~す。  ……ジョーイさんが、部屋の掃除に来てくれたのかしら」 無警戒にドアを開けた。 「きゃあっ」 小さな悲鳴。 僕とヒトデマンは顔を見合わせ、すぐにドアに向かった。 するとそこには―― 「すいませんでしたッ!!!  僕のせいでヒナタさんや、ヒナタさんのポケモンを傷つけてしまって、  本当にごめんなさい。全部、僕が悪かったんです!!」 床に額ずけ、叫ぶように謝罪するジムリーダー代理の少年と、どん引きしているヒナタの姿があった。 凍て付いた空気に割ってはいるように、 一人の青年が、少年の背後から現れる。 「あっ、あなたはジムリーダー戦の前に戦った……」 「覚えていてくれたんだね。  実は今日は、こいつと、君に正式な謝罪をしに参ったんだ。  それでよければ、部屋に入れて欲しいんだけれど」 「ど、どうぞ」 「ありがとう。ほらリュウジ、いつまでそうやってるんだ。  顔を上げて、部屋の中で、きちんと自分の非を説明しなさい」 リュウジ? それがこの少年の名前だろうか。 ならば、先ほどからこの少年の兄のように振る舞うこの青年は誰だ? 僕の疑問を余所に、リュウジと呼ばれる少年と青年は、二対のソファの片側に腰掛けた。 反対側に、ヒナタを真ん中にして、僕とヒトデマンも座る。 ヒトデマンはあの時のことがまだ許せないのか、仄かにコアを発光させていた。 その光にチラチラ視線を遣りながら、リュウジは訥々と語り出した。 「僕が、父さんにジムリーダーを任されていたのは本当だったんです。  僕は小さい頃からずっと、父さんに憧れていました。  だから、久しぶりに帰ってきた父さんに、ジムリーダー代理を任された時、僕はすごく責任を感じました」 青年が補足する。 「リュウジの父親は有名なポケモンブリーダーで、  今も各地のブリーダーの指導で、精力的に旅を続けているんだ。  タケシという名前、聞いたことないかな?」 「あ、雑誌で見ました!  希少なポケモンの人工的な繁殖方法を発見した、とか」 リュウジの顔が、ぱぁっと明るくなる。 しかし青年に一睨みされて、再び口を開いた。 「僕がジムリーダーを任されるまでは、雇いのトレーナーさんのうちの誰かかが代理を務めていたんです。  その頃は、挑戦者との勝敗の数も、ある程度調整されていました。  負けすぎず、勝ちすぎず、といった風にです。  でも、僕が代理を担うようになってからは、そのバランスが崩れるようになっちゃったんです。  その、僕が……、弱かったから」 重い空気を払拭するように、ヒナタはリュウジをフォローする。 「それは言い過ぎよ。確かにあんたのイワークは暴走したけど、全然弱くなかったわ」 「違うんです。あのイワーク……実は、僕のイワークじゃないんです」 この小さな部屋の中で、ヒナタだけが「えっ?」という顔をしていた。 事情を知っている二人は勿論のこと、僕やヒトデマンはイワークとの戦闘中に、その事実に気づいていたからだ。 「あんたのじゃないって、どういうことなの?」 「代理を任されてから最初のあいだは、自分が捕まえた、小さめのイワークで戦ってました。  でも、三ヶ月くらい前に、僕よりも少し年上の男が現れて、言ったんです。  お前よりもこの手前で戦ったトレーナーの方が強かった、って」 リュウジは幽かに震えている。よほど悔しかったのだろう。 「それから僕は、父さんの研究室に、黙って入り込みました。  そして、前に父さんが持ち帰ってきたモンスターボールの中から、  一番大きくて、強そうなイワークをくすねたんです。  このことは、ジムの雇いのトレーナーさんたちには、秘密でした。  その日を境に、僕はほとんどの相手に負けなくなりました。  たまに負けることがあっても、相手が強力な水ポケモンであったりする時だけでした」 「しかしこいつは大切なことを忘れていた。  自分のプライドを優先するばかり、  その巨大なイワークを完全に従えることができると、思い込んでいた。そうだな?」 青年の強い語調に、 「はい。だから今回のイワークの暴走も、ある意味、予測できていたことだったんです」 リュウジは萎縮する。 そして彼は膝頭にぶつけんばかりに頭を下げると、絞り出すような声で言った 「謝っても許されることじゃないのは分かってます。  でも、謝らせてください。本当に――本当にすみませんでした」 続いて、青年も頭を垂れて、 「今回の一件は俺にも監督責任があった。  こいつの言うように、謝っても許されることじゃないが……。  言わせてくれ。君や、君のポケモンを危険に晒して、本当にすまなかった」 部屋の中は、厳粛な雰囲気で満ちていた。 窓のブラインドの向こうには、数日前とはうって変わった、抜けるような青空が広がっているというのに。 言葉を選ぶようにして、ヒナタは言った。 「頭を上げてください。  確かにイワークの暴走は怖かったけど、  幸いにもピカチュウに怪我はなかったし、  それが切欠で、ケンカしてたヒトデマンとも、仲直りすることができたんです。  だから、わたし、もう怒ってません」 台詞は一字一句、僕の予想通りだった。 心優しいヒナタが、誠意を込めて謝罪する相手を、許さないわけがないのだ。 それを契機にして、部屋の空気が少しだけ緩む。 ヒナタは青年に質問した。 「ところで、さっきから気になっていたんですけど、あなたは一体……?」 「ああ、そういえば君には俺が何故リュウジについてきたか説明していなかったな。  俺は形式上は、ジムに雇われたトレーナーの代表だ。  リュウジが代理を任されるまで、タケシさんの代わりにニビシティのジムリーダーを任されていたんだ」 青年はリュウジの頭のてっぺんに手を乗せて、 「もう五、六年も昔になるが……。  有名なポケモンブリーダーの噂を偶然耳にした俺は、ジョウトのから単身、タケシさんの許に弟子入りしたのさ。  それがいつの間にかブリーダー兼トレーナーという肩書きを得て、ニビシティジムを任される身だ。  リュウジとは長い付き合いで、まあ、兄弟みたいなものかな」 僕の直感は当たっていた。 ジムではレベルの低いイシツブテを繰り出していたが、この青年の実力はかなりのものだろう。 しかしヒナタは青年の実力などどうでもよいらしく、 「ジョウト出身なんですか!?」 と、彼の出身地方に興味津々のご様子である。 「ああ、そうだけど――」 「そっちに生息しているポケモンのこと、教えてください!」 それからリュウジを交えた三人で熱いポケモン談義が行われたことは、最早語るまでもないだろう。 部屋に立ち籠めていた暗い空気は、いつしか、見る影もなく霧散していた。 「そろそろお暇させてもらうよ。  君と話していると自分がポケモンブリーダーを志した時のことを思い出して、  いくらでもジョウトの話をしてやりたいんだが、これでは何をしに君のもとを訪れたのか、わからなくなってしまう」 「あら、もうこんな時間。……質問ぜめしちゃって、すみません」 「いいんだよ。知識欲があるのは、良いポケモントレーナーの素質の一つだからね」 瞼を薄く開けると、青年が腰を上げているところだった。 少し遅れて、リュウジもそれに倣う。しかし彼の視線は自らの足許に固定されていて、 僕には彼が、何か、口籠もっているように見えた。 「あ、あのっ」 ヒナタがドアに向かおうとしたとき、リュウジはその口を開いた。 「何か僕に、ヒナタさんを手伝えることはありませんか。  何でも良いんです。その、大金とか、ポケモンは無理ですけど……」 ヒナタは小首を傾げ、唇に指先を当てる。 彼女なりの思案のポーズだった。 僕はヒナタがそのポーズを取ったとき、結局何も考えが浮かばないことを知っている。 「うーん、いきなりそんなこと言われても困るわ」 やれやれ。仕方なく僕は行動を起こした。 「チュ!」 ガラステーブルに駆け寄り、ヒナタに呼びかける。 「どうしたの、ピカチュウ?」 無造作に広げられていた地図。その一点を指差して、 「ピッカ、チュ!」 忘れていたのかい? オツキミヤマの入り口復旧が滞って、洞窟への道が、未だに閉ざされたままだということを。 どうやってハナダに向かうか、ヒナタは一昨日からこっちずっと悩んでいたけれど、 この二人なら、その問題を解決してくれるんじゃないのかな。 「……あ」 ヒナタは僕の言わんとしていることを、理解してくれたようだ。 パン、と両手を叩いて彼女は言った。 「あのね、あたし、次はハナダシティに行くつもりなの。  でもこの前の大雨で、オツキミヤマの入り口が崩落しちゃったでしょ?  それでどうしようもないから、復旧が終わるまでニビシティに留まるつもりだったんだけど……、  あんた、オツキミヤマの洞窟に入るもう一つの入り口とか知らない?」 リュウジはすまなそうに言った。 「ごめんなさい。僕は地元の人間だから何度もオツキミヤマに行ったことがあるけど、  入り口は、あそこ一つだけだったと思います」 「一昔前には抜け穴がいくつかあったらしいが、ニビシティの発展に伴って、塞がれたんだ。  他の地方の人や、旅の人が、誤って迷いこんだりしないようにね。  オツキミヤマは、ポケモンを持たない人にとっては危険な山だから」 青年が補足する。ヒナタの表情は落胆に沈んだ。 やはり復旧を待つしかないのか、と僕も諦めかけたその時――青年はこう、付け加えた。 「だが、塞がれた抜け穴の場所を、俺は一カ所だけ知っている。  君のお願いとあらば、その抜け穴を、再び開通させることも不可能じゃない」 「本当ですか!?」 「ああ。勝手にそんなことをするのは、条例で禁止されているんだが……。  バレさえしなければ無問題だ。  それに、それで君が滞りなく旅を続けられるなら、たとえバレてしまったとしても、構わないよ」 「やったっ、これでハナダシティに進めるわ!」 ヒナタは僕の手を取り、ひとしきり振り回してから、青年に深々と頭を下げる。 青年は首を振って言った。 「礼はいい。これは罪滅ぼしのようなものなんだから」 その横で、リュウジは酸欠のコイキングみたいに口をぱくぱくさせて、 「……バ、バレたらただ事じゃ済まないよ……滅茶苦茶怒られるに決まってる……」 ごつ、と拳骨が頭とかち合う音。 「ばーか。今更怒られるとか怒られないとか心配してどうすんだよ。  お前、みんなから耳にタコができるくらい説教受けただろ」 「……はい」 まるで本当の兄弟みたいだな、と思った。 まあ、絆の太さから言えば、その表現は決して誇張したものではないんだろうけど。 翌日の早朝、まだオツキミヤマの上半分が朝霧に覆われている時間帯に、 僕たちは崩落した入り口近くに集合した。 「チュウゥ……」 KEPPOUTのテープで囲われた中心地には、 依然、大量の土砂が堆積している。復旧には、まだかなりの時間がかかるだろう。 「塞がれた抜け穴は、ここから少し歩いたところにある。  ここらは水はけが悪くてまだ足許がぬかるんでいるから、転ばないようにね」 ヒナタはぴょんぴょんと泥濘を避けながら、先を歩く青年に尋ねた。 「あの、今日はリュウジくんはいないんですか?」 「あいつならジムにいるよ。  フィールドの準備や、ジムリーダー代理のポケモンのコンディションチェックで、忙しく走り回っている頃だろう」 昨日の余談で、青年はリュウジが代理の座から降ろされたことを話してくれた。 僕はそれが可哀想だとは思わない。 何故ならそれは、彼自身のためでもあるからだ。 これから背伸びをやめた彼は、彼が捕まえた小さなイワークと一緒に、本当の意味で強くなっていくのだ。 10分ほどして青年は歩みを止めた。 オツキミヤマの急な傾斜をした山肌で、その箇所だけ、傾斜が緩く色が淡い。 「少し離れていてくれ」 ヒナタと僕が距離をとったことを確認してから、青年はベルトから、ボールを外す。 そして辺りの空気を振るわすような、閃光が走り――。 10mを悠に超す金属質の巨体が、朝日を受けて輝いていた。 眼は細く、顎は鋭利に前に突きだしており、 その巨体を構成する鋼鉄の塊一つつづが、隙のない関節で連結されている。 ヒナタは空を仰ぐようにしてそのポケモンを見上げ、 「すっごぉい……」 「ハガネールだよ。俺が小さな子供だった時から一緒の、相棒さ」 青年の手が鋼の体に触れる。 ハガネールは静かな挙措で首だけを捻り、 その細い眼で、自らのマスターを見つめていた。 ――ほう、よく躾けられている。 このハガネールがあと二回り洗練された頃に、手合わせしてみたいものだ。 「さあ、お前の力を見せてやれ。"穴を掘る"んだ、ハガネール!」 ハガネールはその巨躯を滑らせて、削岩作業を開始する。 大きな音が響いたり、削った山肌が飛んできたりはしなかった。 作業は終始、円滑に進んだ。そして、 「よくやった。戻れ」 閃光が走り、ハガネールの巨体がボールに消える。 つい半刻前まで閉ざされていた抜け穴は、今では大きな口を開けていた。 まるで新鮮な空気を吸えて喜んでいるかのように、ひゅうひゅうと、時折、高い音が鳴っている。 「あの、本当にありがとうございました」 お辞儀するヒナタに対し、青年は微笑む。 「はは、礼はいいよ。  それより、お願いが一つと、渡したいモノが一つあるんだけど、いいかな」 「なんですか??」 「まず最初に……渡したいモノはこれだ」 青年はポケットから、グレーに光るバッジを取り出すと、 「これを、あの事件当日、君が取り乱している時に渡したグレーバッジと、交換してほしい」 ヒナタは疑問符を浮かべながらも、グレーバッジを取り出した。 青年の手がそれを新しいグレーバッジと交換する。 「あの、どうして交換するんですか?  これ、同じグレーバッジですよね?」 「バッジにはそれぞれ効果がある。  例えばこのグレーバッジは、ポケモンの攻撃力を少しだけ上げる。  でも年々、バッジの効果は弱体化しているんだ。上からの指示でね、そう製造せざるを得ないんだよ。  だが、今渡したそのバッジは、何年も前の古いタイプなんだ」 ヒナタはバッジを矯めつ眇めつしていたが、違いが分からないようだった。 僕も分からなかった。効果の弱体化――初めて聞いた話だ。 「次に、これは本当に私的なお願いなんだが、  またいつかニビシティに寄る機会があれば、リュウジに会ってやって欲しい。  そして、今度はあいつの本当のポケモンと、バトルしてやってくれないかな」 ヒナタは満面の笑顔で頷いた。 「はいっ!」 「良かった。それじゃあ、人が来ないうちに行きなさい。  俺はここでしばらく、見張りを続けているから」 青年は近場の岩に座り込む。ヒナタは深々と頭を下げて、僕を抱え上げた。 懐かしい浮遊感が僕を襲う。 「行こっか、ピカチュウ」 「ピカ!」 青年が視界から消える直前、僕は青年と視線を交わした。 もしかすると彼は、僕がただのピカチュウでないことを見抜いていたのかも知れない。 フィールドに駆けつけた時、彼は僕とヒナタを他のトレーナーに任せ、倒れたイワークを介抱していた。 それは身内の優先意識とは無関係に、僕がほとんど無傷で、 イワークの方が治療が必要であることを、一瞬で見抜いたからではないか、と僕は考えている。 僕が二カ所の関節に流した"電気ショック"で、イワークは正常な姿勢を保つことが難しくなっていた。 その状態で加速したところに"みずでっぽう"を浴びせかけられ、イワークはかなり不安定な状態で、地面に倒れ込んだのだ。 きっと、今も治療中だろう。 「ピカ?」 と、入り口から10mほど歩いたところだろうか。 僕は違和感を感じて耳を欹てた。 外界から差し込む光と、洞窟の闇が反比例するにつれて、 その違和感は大きくなっていく。しかしヒナタは歩みを止めない。 まだ淡い光が届いているからと、油断している。 僕は耳に神経を集中させて、違和感の正体を探った。 だが、探りきる前に、違和感は消えてしまった。 「~♪ ~~♪」 オツキミヤマの暗い洞窟に、場違いなヒナタの鼻歌が響いている。 僕は再びヒナタの腕の中に丸まり、先ほどの違和感が、ただの錯覚であると思い込んだ。 &bold(){第四章 下 終わり }
薄暗い通路を抜けると、そこは岩場だった。 「なにここ……本当にジムの中なの……?」 ヒナタが息を飲むのも、無理はない。 人工的に作られた空間だが、僕が初めて訪れた時に比べ、かなり自然に近く造られている。 照明は高く、岩の中にはかなり大きなものもあった。 先ほどの戦闘とは違い、三次元的な戦闘になりそうだ――と僕が考えていると、上方から声がした。 「よくここまで辿り着いたね、ヒナタ。  知っているかい?  電気タイプのポケモンでここまで辿り着いたトレーナーは、  過去にたった一人しかいないそうだ。僕の父さんが教えてくれた」 声質で男だと分かったものの、顔は逆光で見えない。 と、その男は器用に岩場を飛び移り、僕たちの前に姿を現した。 「あなたが、ここのジムリーダーなの?」 「いかにも。今は父さんの代理だけど、  ゆくゆくはこのニビシティジムのリーダーを任される男さ」 「……チュウ……?」 太い眉に、細い目。短い栗色の髪の毛は、彼の若い頃にそっくりで……。 僕はこの、ヒナタよりも若干年下の少年が、彼の息子であると確信した。 タケシ、大人の女性のお尻を追いかけ回していた君も、いつのまにか伴侶を見つけていたのか。 やれやれ、なんだか妙な気分だよ。 まるで停滞していた時間が、一気に押し寄せてきたみたいだ。 ヒナタは少年を頭の先からつま先まで眺めて、 「でもあんた、まだ子供じゃない?」 少年の顔が、爽やかな笑顔のまま凍る。 ヒナタに悪気はないのだろうけど……ストレートな物言いは、カスミ譲りか。 「ね、年齢で判断してもらっちゃ困るな。  あの永世の名を冠したポケモンリーグの英雄だって、  君くらいの歳でポケモンリーグを制覇していたんだぞ!」 ヒナタは慌てて両手を振った。 「ごめんなさい。何もあんたがジムリーダーに相応しくないとか、  見合うだけの実力を持っていないとか言ってるわけじゃないの。  さっき戦った人も、あなたのことを強いと言っていたし……」 「ほ、本当かい?」 「本当よ」 少年の表情が和らぐ。 この反応は、若くしてジムリーダー代理の名を背負い、自分に自信が持てないが故か。 それとも、雇いのトレーナーに対して、コンプレックスを抱いているが故か。或いは、その両方か。 「ご、ごほん」 少年はわざとらしく咳払いをしてから、 「雑談はここまでにして、勝負の説明に入るよ。  僕が使うのは、このイワーク一匹だけだ」 ベルトからボールを外す。 モンスターボールの上位互換――スーパーボール。 「対して君は、登録した二匹のうち、どちらも自由に使っていい。  僕のイワークが戦闘不能になれば君の勝ち、  君のポケモンが二匹とも戦闘不能になれば、僕の勝ちだ。  どうだい、シンプルだろ」 「ちょっと待ってよ。  そのルール、いくらここがあなたのホームグラウンドであることを差し引いても、不公平じゃない?」 「心配ご無用」 少年は再び、少し離れた岩場に飛び移った。 そしてスーパーボールを落とし―― 閃光。 ズシン、と足下が揺れる。もうもうと砂煙が立ち籠め、 僕たちはその先に巨大なシルエットを見た。美事に成長したイワークだ。 本当にこの少年が育てたのだろうか? 「どうだい? これでもまだ不公平に思えるかな?」 ヒナタはごくり、と生唾を飲みこんで、 「いいえ、むしろちょうどいいくらいよ!」 僕はやれやれと首を振る。声が震えている時点で、それは強がりとは呼べないというのに。 砂煙を隔てて、少年は応えた。 「それは良かった。じゃあ、そろそろ始めようか。  ――グレーバッジを賭けた戦いを」 言い終わる前に、砂煙が別たれ、イワークの尻尾が地面を叩く。 岩石が、それよりもずっと固い尻尾に砕かれ、石礫が辺りに飛び散った。 「きゃっ!!」 ヒナタが僕を守るようにして、近場の岩の影に隠れる。 唸るような咆哮。今のはただの威嚇だ。 これから、本格的な攻撃が始まる。 ヒナタは僕を抱きしめながら、言った。 「あたし、酷いトレーナーよね。  あんなに大きなイワークに、ピカチュウが勝てっこないのは分かってるの。  でも……あたし、諦めたくない」 「ピッ、ピカチュ」 「ねぇ、どうしてピカチュウにはそんなに自信があるの?  あたし、怖くて怖くてたまらないのよ。  さっきイワークの影を見たときだって、もしこれがジム戦じゃなかったら逃げ出してた」 「ピ、……チュ」 初めは誰でもそういうものなんだよ。 怖い。逃げ出したい。 そんな気持ちに正直になることも、或いは一つの選択だ。 潔い諦めは、時として賢明な判断でもある。 でも、ただ一つ、僕が君に言えることは、 君のお父さんは、どんなに強い相手の前でも、臆したりしなかったということ。 僕はそっと、彼女の体から離れた。 「チュウ!」 さあ、もう一度僕を信じて。 「ありがとう、ピカチュウ」 ヒナタは目をごしごしと擦って、立ち上がった。 「行きましょ。ピカチュウがこんなに頼もしいのに、  あたしがこんなんじゃ、あたし、いつまでたってもあなたのマスターを名乗れないわ」 岩の影から体を出す。イワークは少年と一緒に、その姿を消していた。 砂煙は綺麗に晴れている。僕の耳が、緩やかな空気の対流を感じ取る。 「人工的に、ちょっとだけ風が吹いてるのね。  砂煙を煙幕として使用する気は、あの子にはないみたい」 僕は素直に感心した。よく気づいたものだ、と思う。 ヒナタはかがみ込んで、僕の手を握る。 「焦らずにいきましょ  きっとイワークは、この岩場に紛れて、待ち伏せしているわ。  不意打ちされたり、真っ向勝負になったら、ピカチュウの勝ち目はほとんどない。  だから、こっちが不意打ちしてやるのよ」 「チュウ?」 「まずはあなたの小さな体を生かして、岩の影に隠れながらイワークを探して。  見つかったら、体の関節部に、思いっきり"でんきショック"を流すの。  もし頭部を狙えるのなら、目を狙って。  イワークの皮膚は、岩石よりも硬くて電気を通さないけど、  間接の部分や、柔らかい目なら、ピカチュウの電撃も効果があると思うわ」 僕は頷いて見せる。 ヒナタは冷静になれさえすれば、その場に応じて最良の戦略を用意できる子だ。 「チュ」 それじゃあ、行ってくるよ。 「待って!」 振り返る。ヒナタは言った。 「もしもイワーク探している間にみつかったら、すぐに逃げるのよ?  スピア―の時みたいに突っ込んでいって、怪我したら許さないんだからね……」 僕は右耳を傾けて、ヒナタへの返事とした。 ごめんねヒナタ。その約束は、半分、守れそうにない。 ヒナタの視界から外れたことを確認してから、 僕は近くにあった、大きな岩が重なり合うようにしてできた岩場の頂上に跳躍した。 フィールド全景を頭に入れる。 次に、擬似的な鳥瞰図の想定。 最後に両眼を閉じ、眼球に圧力をかけるようにして、作為的に角膜の形を変える。 目を開く。 倍加した視力で、僕は索敵を開始した。 イワークが地中に潜んでいる可能性は低い。 初撃の後、地面から揺れは伝わってこなかったからだ。 となると、イワークはヒナタの読み通り、 この地形と一体化して、待ち伏せていると考えるのが妥当だ。 無機物の岩石と、 有機物と無機物の融合体とも言えるイワークの差は何か。 それは、体に循環機能を持っているか、否かだ。 どんなに訓練されたポケモンといえど、完全に呼吸、鼓動を止めることはできない。 僕はさらに目を凝らす。 ――― ―――― ――――――いた。 最初にボールから出された地点から、30m離れたところで、とぐろをまくようにして息を潜めている。 岩と岩の間を縫うように駆けながら、 僕はかつての四天王の一角、キクコとの戦いを思い出していた。 影を移動するゲンガーに、僕は背後から幾度も襲われた。 ゴーストタイプと暗所の組み合わせは凶悪で、 それはほとんど、姿の見えない敵と戦っているのと同じようなものだった。 それに比べれば、ただ一カ所に留まって待ち伏せしているイワークは、まだ可愛い方である。 僕は程なくして、イワークのすぐ近くまで忍び寄った。 電気袋に充電を開始する。 ヒナタの命令に従うなら、僕はこのままイワークを倒してしまっても良かった。 出力次第ではイワークの強固な体に穴を開けることだってできるし、 柔らかい目を狙えば失明させることもできる。 だが、それでは何一つヒナタのためにならない。 「ピーカー、チュウ~~~~!!」 僕は出力を絞り、レベル15相当の"でんきショック"を、イワークの間接部分に流しこんた。 苦悶の叫びが、イワークの頭頂部から漏れる。 周りの土砂を巻き込んで、イワークが天井に届かんばかりに、その身を聳えさせた。 イワークは十メートル近い高さから、僕を見下ろす。 僕は十メートル近い高さにあるイワークを見上げる。 再び響いた咆哮に、しかし、最初のような覇気はなかった。 イワークは本能的に、実力の差を感じとり、怯えているように見えた。 ポケモンの第六感は、時に人間のそれを上回る。 「……どうしたんだイワーク、早くそいつを"締め付けろ"!」 その時、離れた岩山に、少年――否、ニビシティジムリーダーが姿を見せた。 彼は一目見て分かるほどに焦っていた。 待ち伏せがこうも簡単に見破られるとは、思ってもいなかったのだろう。 単純な戦法と、この育ちの良いイワークに頼りすぎていたとみえる。 僕は予備動作に移り、 「どうして動かないんだよっ。やれ、イワーク!!」 払われた尻尾をバックステップで躱し、岩場に飛び移る。 尻尾が通り過ぎていった部分は、平地になっていた。威力だけなら、かなりのものだ。 しかし―― 「そうじゃない、違う! 僕は締め付けろと言ったんだ!  尻尾を振るうだけの攻撃じゃ、すばしっこいピカチュウは捕まえられっこない」 イワークはこのジムリーダー代理の少年に、完全に従っていないようだった。 僕は左に視線を移す。そろそろ彼女が、この場所に辿り着く頃だ。 「ピカチュウ! 無事!?」 「チュ」 僕は両手を大きく振って見せた。 ヒナタの強張っていた顔が、安堵にゆるむ。イワークが聳え立った轟音を聞いて、気が気でなかったんだろう。 「ピカチュウ、今は退くのよ。早くこっちに来て!」 ヒナタは僕に手を差し伸べる。 君は本当に優しいな、ヒナタ。でも、今だけは君に従えないよ。 首を横に振って、電気袋から放電する。ヒナタは泣きそうな顔になって言った。 「ダメッ、この前のスピア―の時とはわけが違うのがわかんないの!?  あのときは偶然"たいあたり"がうまく決まったからよかったけれど、  今度も上手くいくとは限らないのよっ。だから、また隠れて、不意打ちして―――だめよピカチュウ、戻って!」 僕は岩肌を駆け下りる。 斜面で加速をつけ、ヒナタの目から見ても不自然でないような速度でイワークに近づき、 通りすがり様、初めに電流を流した間接の、一つ下に、電流を浴びせる。 苦悶。 遅れて、フィールド全体に響きわたるほどの咆哮。 「大丈夫か、イワーク!」 彼の声は、しかし、もうイワークに届いてはいなかった。 僕はイワークの目を見て、イワークが半暴走状態に入ったことを理解する。 再び、十メートル近くの距離を開けて、視線があった。 白が大半を占めるイワークの瞳からは、怯えの色が消えていた。 「危ないっ!」 ヒナタがそう叫んだのと、イワークが僕に向かって吶喊してきたのは、ほぼ同時だった。 轟音が響き渡り、地形が変わるほどの衝撃が、僕の隣を通り過ぎていった。 直撃は躱したものの、余波が僕を襲った。束の間の浮遊ののち、体が、固い岩肌にたたきつけられる。 薄く目を開けて辺りを見渡せば、 攻撃を終えたイワークが、むくりと体を起こしたところだった。 「やめるんだイワーク、そいつはもう戦えない。  戦闘不能になったポケモンに攻撃するのは、反則なんだぞ!」 イワークは無視して、僕に視線を注ぐ。 止めを刺すつもりだろうか。 そんな予感がしたが、僕はそれを振り払い、全身の筋肉を弛緩させた。 ヒナタは僕を信じると言った。僕がヒナタを信じなくてどうする? 「あたしのピカチュウに近づかないで!」 コツ、と。 小さな音がした。 コツ。 また音がする。 コツ。 音は繰り返し、繰り返し聞こえてくる。 それはヒナタが、イワークに向かって小石を投げている音だった。 イワークは唸り、眼を眇めてヒナタを睨み付けた。 今まさに振り上げられた手が、小石を握ったまま静止する。 さて、状況は整った。 ヒナタは金縛りにあったように、震えて、動けない。 その様はまるで、護身用のポケモンも持たずに夜の森に忍び込み、ゴースに遭遇した子供のようだ。 ただし、比喩と違って、今の彼女は一人ではない。 彼女は僕の他にも、もう一匹、ポケモンを持っている。 「ヒナタ、今すぐそこから離れるんだ!」 少年が必死に叫んでいるが、最早ヒナタには届いていないだろう。 僕は再び瞼を閉じて、視力を一時的に倍加させた。 ヒナタのベルトに収まったヒトデマンのボールが、何かに葛藤しているみたいに、カタカタと揺れている。 だが、ヒナタはそれに気がつかない。 イワークはその間にもゆっくりと、ヒナタの立つ岩場に滑り寄っていく。 ねえ、ヒトデマン。 君が拗ねてしまったのは、確かに致し方のないことだったと思う。 でもヒナタはもう十分過ぎるほどに悔悟した。 君だって本当は、ヒナタと仲直りしたかったんじゃないのか? それとも、君はヒナタのピンチを放っておくほど、彼女のことが嫌いになってしまったのかな。 ――カツン、と。 先ほどまでの粗雑な音とは、趣向の違った音がした。 赤い閃光が走り、ヒナタが金縛りからとける。 彼女の腰にあったボールは、今では岩の上に、口を開いて転がっていた。 「ヒトデマン……出てきてくれたのね」 あまりの喜懼で足の力が抜けたのか、ぺたん、とヒナタはへたりこんだ。 そしてそんな彼女を庇うようにして、ヒトデマンが五芒星の体を広げていた。 コアは透明な輝きを取り戻している。 それは彼女のヒナタに対する、忠誠心の現れでもあった。 両者の距離は直線にしておよそ10m。 イワークが僕にしたように吶喊すれば、ものの数秒で、ヒナタたちを岩場ごと吹き飛ばせる距離だ。 しかし、その数秒は、イワークにとって致命的だった。 イワークが、擡げた首を前に傾ける。 岩蛇ポケモンの名の通り、地面を滑るようにして距離を詰める。 ヒトデマンが、体を仰け反らせる。 そして、彼女の発射口から、ありったけのみずでっぽうが噴き出され―― 僕は舞い上がる砂塵の向こう側で、イワークが倒れ伏す音を聞いた。 ―――名もない丘の上で、僕たちは休息を取っていた。 『受け取れ、ピカチュウ』 『ピカピ!』 リンゴが宙を舞う。僕はそれを両手でキャッチする。 サトシが僕の隣に腰掛けると、それを合図にしたかのように、 春の香りを孕んだ風が一陣、丘の上を凪いでいった。 『マサラタウンを出発してから、ずいぶん時間がかかっちゃったな』 サトシの視線の先には、翠に霞むトキワシティ。 いくつもの冒険を乗り越えて、僕たちはついに最後のグリーンバッジに挑戦するのだ。 『トキワのジムリーダーは強いらしいぜ。  それも岩タイプや地面タイプのポケモンを得意としてるらしい。  ……不安か、ピカチュウ?』 『チュウ!』 『ごめんごめん。そうだよな。  ここまでお前と一緒に旅を続けて、バッジを集めてきたんだ。  グリーンバッジゲットだって、夢じゃないさ』 『ピッカ、チュ』 サトシは誇らしげに上着を開く。 七つのバッジが、それぞれ七色に煌めいていた。 それは魅入ってしまうほど美しい輝きだ。ゆっくりと、視界が狭まる。 丘の美しい自然が消え、サトシの顔が消え、 世界はバッジの光を中心に、どんどん小さくなっていって――― 「……チュウ? ピカチュウ?」 僕は重い瞼を開けた。 「はぁ……やっと起きた……」 夢? 僕は夢を視ていたのか? 微睡みの中から抜け出せずにいると、ふいに両頬が、つねりあげられた。 「チュウ!!」 「もうっ、どれだけあたしが心配したか、  ピカチュウ、あんたわかってるんでしょうね!」 ヒナタの顔が目の前にある。 僕はほっぺの痛みに耐えながら、あやふやな記憶を読み返した。 ヒトデマンが暴走したイワークを倒して……、 その後すぐに、ジムの中のトレーナーたちが駆けつけてきて……、 緊張が解けたヒナタが、僕の許で泣き出して……、 僕はすぐさまポケモンセンターに運ばれて、精密検査を受けて……、 「ピカ……」 僕は自分自身に溜息をついた。 演技をやめるタイミングを完全に逸した僕は、 ジムのトレーナーやポケモンセンターの医師になされるがまま、眠らされたのだった。 「奇跡的に目立った傷がなかったから良かったけど、  もしピカチュウが長引く怪我でもしてたら、あたし、あたし……」 ヒナタの大きな瞳が潤み出す。 僕は慌ててベッドから起き上がり、ぴょんぴょん跳ねて見せた。 大丈夫、ほら、僕はこんなに元気だよ。 それに僕が無傷だったのは、奇跡でもなんでもなく、 僕がイワークに攻撃される瞬間に躱して、ダメージを極限まで抑えたからさ。 全てはヒナタとヒトデマンに仲直りさせるためのきっかけ作り、 つまりは演技だったんだ―――なんて言葉が、ヒナタに届くはずもなく。 「今度あたしの言うことを無視して勝手に突っ込んでいったら、  ほんとのほんとに許さないから!」 電気袋から手を放して、痛いほどに僕を抱くヒナタ。 やれやれ。怒りながら抱擁とは、珍しい感情表現の仕方もあったものだ。 しかしその晩。 僕は久しぶりにヒナタの抱き枕の座から降ろされた。 ヒナタが消灯すると、僕はいつものようにしてヒナタに抱き枕にされるのを待っていたのだが、 肝心の腕がいつまで経っても回ってこなかったのだ。 ヒナタは僕とは反対側を向いて眠っているようだった。 そしてその反対側には、すっかりヒナタと仲直りしたヒトデマンがいた。 僕は妙な喪失感に襲われた。 なんだこれは。 嫉妬? この僕が? ニビシティジムでの一件が完全に決着したのは、 結局、僕が目覚めてから二日経った、麗らかな午後のことだった。 ヒナタにはジムからの申請で、 ポケモンセンターの宿泊施設で一週間、無償宿泊することが許可されていた。 普段のヒナタなら断っていたに違いないが、 お月見山の入り口復旧を待たなければならないことや、僕の良い休養にもなると判断して、 それを受け入れたのだ。 ポケモンショップで購入した傷薬や毒消しなどを整理していると、 ドアがこんこん、とノックされた。ヒナタは整理していた手を止めて、 「はぁ~い。今行きま~す。  ……ジョーイさんが、部屋の掃除に来てくれたのかしら」 無警戒にドアを開けた。 「きゃあっ」 小さな悲鳴。 僕とヒトデマンは顔を見合わせ、すぐにドアに向かった。 するとそこには―― 「すいませんでしたッ!!!  僕のせいでヒナタさんや、ヒナタさんのポケモンを傷つけてしまって、  本当にごめんなさい。全部、僕が悪かったんです!!」 床に額ずけ、叫ぶように謝罪するジムリーダー代理の少年と、どん引きしているヒナタの姿があった。 凍て付いた空気に割ってはいるように、 一人の青年が、少年の背後から現れる。 「あっ、あなたはジムリーダー戦の前に戦った……」 「覚えていてくれたんだね。  実は今日は、こいつと、君に正式な謝罪をしに参ったんだ。  それでよければ、部屋に入れて欲しいんだけれど」 「ど、どうぞ」 「ありがとう。ほらリュウジ、いつまでそうやってるんだ。  顔を上げて、部屋の中で、きちんと自分の非を説明しなさい」 リュウジ? それがこの少年の名前だろうか。 ならば、先ほどからこの少年の兄のように振る舞うこの青年は誰だ? 僕の疑問を余所に、リュウジと呼ばれる少年と青年は、二対のソファの片側に腰掛けた。 反対側に、ヒナタを真ん中にして、僕とヒトデマンも座る。 ヒトデマンはあの時のことがまだ許せないのか、仄かにコアを発光させていた。 その光にチラチラ視線を遣りながら、リュウジは訥々と語り出した。 「僕が、父さんにジムリーダーを任されていたのは本当だったんです。  僕は小さい頃からずっと、父さんに憧れていました。  だから、久しぶりに帰ってきた父さんに、ジムリーダー代理を任された時、僕はすごく責任を感じました」 青年が補足する。 「リュウジの父親は有名なポケモンブリーダーで、  今も各地のブリーダーの指導で、精力的に旅を続けているんだ。  タケシという名前、聞いたことないかな?」 「あ、雑誌で見ました!  希少なポケモンの人工的な繁殖方法を発見した、とか」 リュウジの顔が、ぱぁっと明るくなる。 しかし青年に一睨みされて、再び口を開いた。 「僕がジムリーダーを任されるまでは、雇いのトレーナーさんのうちの誰かかが代理を務めていたんです。  その頃は、挑戦者との勝敗の数も、ある程度調整されていました。  負けすぎず、勝ちすぎず、といった風にです。  でも、僕が代理を担うようになってからは、そのバランスが崩れるようになっちゃったんです。  その、僕が……、弱かったから」 重い空気を払拭するように、ヒナタはリュウジをフォローする。 「それは言い過ぎよ。確かにあんたのイワークは暴走したけど、全然弱くなかったわ」 「違うんです。あのイワーク……実は、僕のイワークじゃないんです」 この小さな部屋の中で、ヒナタだけが「えっ?」という顔をしていた。 事情を知っている二人は勿論のこと、僕やヒトデマンはイワークとの戦闘中に、その事実に気づいていたからだ。 「あんたのじゃないって、どういうことなの?」 「代理を任されてから最初のあいだは、自分が捕まえた、小さめのイワークで戦ってました。  でも、三ヶ月くらい前に、僕よりも少し年上の男が現れて、言ったんです。  お前よりもこの手前で戦ったトレーナーの方が強かった、って」 リュウジは幽かに震えている。よほど悔しかったのだろう。 「それから僕は、父さんの研究室に、黙って入り込みました。  そして、前に父さんが持ち帰ってきたモンスターボールの中から、  一番大きくて、強そうなイワークをくすねたんです。  このことは、ジムの雇いのトレーナーさんたちには、秘密でした。  その日を境に、僕はほとんどの相手に負けなくなりました。  たまに負けることがあっても、相手が強力な水ポケモンであったりする時だけでした」 「しかしこいつは大切なことを忘れていた。  自分のプライドを優先するばかり、  その巨大なイワークを完全に従えることができると、思い込んでいた。そうだな?」 青年の強い語調に、 「はい。だから今回のイワークの暴走も、ある意味、予測できていたことだったんです」 リュウジは萎縮する。 そして彼は膝頭にぶつけんばかりに頭を下げると、絞り出すような声で言った 「謝っても許されることじゃないのは分かってます。  でも、謝らせてください。本当に――本当にすみませんでした」 続いて、青年も頭を垂れて、 「今回の一件は俺にも監督責任があった。  こいつの言うように、謝っても許されることじゃないが……。  言わせてくれ。君や、君のポケモンを危険に晒して、本当にすまなかった」 部屋の中は、厳粛な雰囲気で満ちていた。 窓のブラインドの向こうには、数日前とはうって変わった、抜けるような青空が広がっているというのに。 言葉を選ぶようにして、ヒナタは言った。 「頭を上げてください。  確かにイワークの暴走は怖かったけど、  幸いにもピカチュウに怪我はなかったし、  それが切欠で、ケンカしてたヒトデマンとも、仲直りすることができたんです。  だから、わたし、もう怒ってません」 台詞は一字一句、僕の予想通りだった。 心優しいヒナタが、誠意を込めて謝罪する相手を、許さないわけがないのだ。 それを契機にして、部屋の空気が少しだけ緩む。 ヒナタは青年に質問した。 「ところで、さっきから気になっていたんですけど、あなたは一体……?」 「ああ、そういえば君には俺が何故リュウジについてきたか説明していなかったな。  俺は形式上は、ジムに雇われたトレーナーの代表だ。  リュウジが代理を任されるまで、タケシさんの代わりにニビシティのジムリーダーを任されていたんだ」 青年はリュウジの頭のてっぺんに手を乗せて、 「もう五、六年も昔になるが……。  有名なポケモンブリーダーの噂を偶然耳にした俺は、ジョウトのから単身、タケシさんの許に弟子入りしたのさ。  それがいつの間にかブリーダー兼トレーナーという肩書きを得て、ニビシティジムを任される身だ。  リュウジとは長い付き合いで、まあ、兄弟みたいなものかな」 僕の直感は当たっていた。 ジムではレベルの低いイシツブテを繰り出していたが、この青年の実力はかなりのものだろう。 しかしヒナタは青年の実力などどうでもよいらしく、 「ジョウト出身なんですか!?」 と、彼の出身地方に興味津々のご様子である。 「ああ、そうだけど――」 「そっちに生息しているポケモンのこと、教えてください!」 それからリュウジを交えた三人で熱いポケモン談義が行われたことは、最早語るまでもないだろう。 部屋に立ち籠めていた暗い空気は、いつしか、見る影もなく霧散していた。 「そろそろお暇させてもらうよ。  君と話していると自分がポケモンブリーダーを志した時のことを思い出して、  いくらでもジョウトの話をしてやりたいんだが、これでは何をしに君のもとを訪れたのか、わからなくなってしまう」 「あら、もうこんな時間。……質問ぜめしちゃって、すみません」 「いいんだよ。知識欲があるのは、良いポケモントレーナーの素質の一つだからね」 瞼を薄く開けると、青年が腰を上げているところだった。 少し遅れて、リュウジもそれに倣う。しかし彼の視線は自らの足許に固定されていて、 僕には彼が、何か、口籠もっているように見えた。 「あ、あのっ」 ヒナタがドアに向かおうとしたとき、リュウジはその口を開いた。 「何か僕に、ヒナタさんを手伝えることはありませんか。  何でも良いんです。その、大金とか、ポケモンは無理ですけど……」 ヒナタは小首を傾げ、唇に指先を当てる。 彼女なりの思案のポーズだった。 僕はヒナタがそのポーズを取ったとき、結局何も考えが浮かばないことを知っている。 「うーん、いきなりそんなこと言われても困るわ」 やれやれ。仕方なく僕は行動を起こした。 「チュ!」 ガラステーブルに駆け寄り、ヒナタに呼びかける。 「どうしたの、ピカチュウ?」 無造作に広げられていた地図。その一点を指差して、 「ピッカ、チュ!」 忘れていたのかい? オツキミヤマの入り口復旧が滞って、洞窟への道が、未だに閉ざされたままだということを。 どうやってハナダに向かうか、ヒナタは一昨日からこっちずっと悩んでいたけれど、 この二人なら、その問題を解決してくれるんじゃないのかな。 「……あ」 ヒナタは僕の言わんとしていることを、理解してくれたようだ。 パン、と両手を叩いて彼女は言った。 「あのね、あたし、次はハナダシティに行くつもりなの。  でもこの前の大雨で、オツキミヤマの入り口が崩落しちゃったでしょ?  それでどうしようもないから、復旧が終わるまでニビシティに留まるつもりだったんだけど……、  あんた、オツキミヤマの洞窟に入るもう一つの入り口とか知らない?」 リュウジはすまなそうに言った。 「ごめんなさい。僕は地元の人間だから何度もオツキミヤマに行ったことがあるけど、  入り口は、あそこ一つだけだったと思います」 「一昔前には抜け穴がいくつかあったらしいが、ニビシティの発展に伴って、塞がれたんだ。  他の地方の人や、旅の人が、誤って迷いこんだりしないようにね。  オツキミヤマは、ポケモンを持たない人にとっては危険な山だから」 青年が補足する。ヒナタの表情は落胆に沈んだ。 やはり復旧を待つしかないのか、と僕も諦めかけたその時――青年はこう、付け加えた。 「だが、塞がれた抜け穴の場所を、俺は一カ所だけ知っている。  君のお願いとあらば、その抜け穴を、再び開通させることも不可能じゃない」 「本当ですか!?」 「ああ。勝手にそんなことをするのは、条例で禁止されているんだが……。  バレさえしなければ無問題だ。  それに、それで君が滞りなく旅を続けられるなら、たとえバレてしまったとしても、構わないよ」 「やったっ、これでハナダシティに進めるわ!」 ヒナタは僕の手を取り、ひとしきり振り回してから、青年に深々と頭を下げる。 青年は首を振って言った。 「礼はいい。これは罪滅ぼしのようなものなんだから」 その横で、リュウジは酸欠のコイキングみたいに口をぱくぱくさせて、 「……バ、バレたらただ事じゃ済まないよ……滅茶苦茶怒られるに決まってる……」 ごつ、と拳骨が頭とかち合う音。 「ばーか。今更怒られるとか怒られないとか心配してどうすんだよ。  お前、みんなから耳にタコができるくらい説教受けただろ」 「……はい」 まるで本当の兄弟みたいだな、と思った。 まあ、絆の太さから言えば、その表現は決して誇張したものではないんだろうけど。 翌日の早朝、まだオツキミヤマの上半分が朝霧に覆われている時間帯に、 僕たちは崩落した入り口近くに集合した。 「チュウゥ……」 KEEPOUTのテープで囲われた中心地には、 依然、大量の土砂が堆積している。復旧には、まだかなりの時間がかかるだろう。 「塞がれた抜け穴は、ここから少し歩いたところにある。  ここらは水はけが悪くてまだ足許がぬかるんでいるから、転ばないようにね」 ヒナタはぴょんぴょんと泥濘を避けながら、先を歩く青年に尋ねた。 「あの、今日はリュウジくんはいないんですか?」 「あいつならジムにいるよ。  フィールドの準備や、ジムリーダー代理のポケモンのコンディションチェックで、忙しく走り回っている頃だろう」 昨日の余談で、青年はリュウジが代理の座から降ろされたことを話してくれた。 僕はそれが可哀想だとは思わない。 何故ならそれは、彼自身のためでもあるからだ。 これから背伸びをやめた彼は、彼が捕まえた小さなイワークと一緒に、本当の意味で強くなっていくのだ。 10分ほどして青年は歩みを止めた。 オツキミヤマの急な傾斜をした山肌で、その箇所だけ、傾斜が緩く色が淡い。 「少し離れていてくれ」 ヒナタと僕が距離をとったことを確認してから、青年はベルトから、ボールを外す。 そして辺りの空気を振るわすような、閃光が走り――。 10mを悠に超す金属質の巨体が、朝日を受けて輝いていた。 眼は細く、顎は鋭利に前に突きだしており、 その巨体を構成する鋼鉄の塊一つつづが、隙のない関節で連結されている。 ヒナタは空を仰ぐようにしてそのポケモンを見上げ、 「すっごぉい……」 「ハガネールだよ。俺が小さな子供だった時から一緒の、相棒さ」 青年の手が鋼の体に触れる。 ハガネールは静かな挙措で首だけを捻り、 その細い眼で、自らのマスターを見つめていた。 ――ほう、よく躾けられている。 このハガネールがあと二回り洗練された頃に、手合わせしてみたいものだ。 「さあ、お前の力を見せてやれ。"穴を掘る"んだ、ハガネール!」 ハガネールはその巨躯を滑らせて、削岩作業を開始する。 大きな音が響いたり、削った山肌が飛んできたりはしなかった。 作業は終始、円滑に進んだ。そして、 「よくやった。戻れ」 閃光が走り、ハガネールの巨体がボールに消える。 つい半刻前まで閉ざされていた抜け穴は、今では大きな口を開けていた。 まるで新鮮な空気を吸えて喜んでいるかのように、ひゅうひゅうと、時折、高い音が鳴っている。 「あの、本当にありがとうございました」 お辞儀するヒナタに対し、青年は微笑む。 「はは、礼はいいよ。  それより、お願いが一つと、渡したいモノが一つあるんだけど、いいかな」 「なんですか??」 「まず最初に……渡したいモノはこれだ」 青年はポケットから、グレーに光るバッジを取り出すと、 「これを、あの事件当日、君が取り乱している時に渡したグレーバッジと、交換してほしい」 ヒナタは疑問符を浮かべながらも、グレーバッジを取り出した。 青年の手がそれを新しいグレーバッジと交換する。 「あの、どうして交換するんですか?  これ、同じグレーバッジですよね?」 「バッジにはそれぞれ効果がある。  例えばこのグレーバッジは、ポケモンの攻撃力を少しだけ上げる。  でも年々、バッジの効果は弱体化しているんだ。上からの指示でね、そう製造せざるを得ないんだよ。  だが、今渡したそのバッジは、何年も前の古いタイプなんだ」 ヒナタはバッジを矯めつ眇めつしていたが、違いが分からないようだった。 僕も分からなかった。効果の弱体化――初めて聞いた話だ。 「次に、これは本当に私的なお願いなんだが、  またいつかニビシティに寄る機会があれば、リュウジに会ってやって欲しい。  そして、今度はあいつの本当のポケモンと、バトルしてやってくれないかな」 ヒナタは満面の笑顔で頷いた。 「はいっ!」 「良かった。それじゃあ、人が来ないうちに行きなさい。  俺はここでしばらく、見張りを続けているから」 青年は近場の岩に座り込む。ヒナタは深々と頭を下げて、僕を抱え上げた。 懐かしい浮遊感が僕を襲う。 「行こっか、ピカチュウ」 「ピカ!」 青年が視界から消える直前、僕は青年と視線を交わした。 もしかすると彼は、僕がただのピカチュウでないことを見抜いていたのかも知れない。 フィールドに駆けつけた時、彼は僕とヒナタを他のトレーナーに任せ、倒れたイワークを介抱していた。 それは身内の優先意識とは無関係に、僕がほとんど無傷で、 イワークの方が治療が必要であることを、一瞬で見抜いたからではないか、と僕は考えている。 僕が二カ所の関節に流した"電気ショック"で、イワークは正常な姿勢を保つことが難しくなっていた。 その状態で加速したところに"みずでっぽう"を浴びせかけられ、イワークはかなり不安定な状態で、地面に倒れ込んだのだ。 きっと、今も治療中だろう。 「ピカ?」 と、入り口から10mほど歩いたところだろうか。 僕は違和感を感じて耳を欹てた。 外界から差し込む光と、洞窟の闇が反比例するにつれて、 その違和感は大きくなっていく。しかしヒナタは歩みを止めない。 まだ淡い光が届いているからと、油断している。 僕は耳に神経を集中させて、違和感の正体を探った。 だが、探りきる前に、違和感は消えてしまった。 「~♪ ~~♪」 オツキミヤマの暗い洞窟に、場違いなヒナタの鼻歌が響いている。 僕は再びヒナタの腕の中に丸まり、先ほどの違和感が、ただの錯覚であると思い込んだ。 &bold(){第四章 下 終わり }

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