ヤード帝国

国名 ヤード帝国(古代ヤード帝国)
年代 2019年~4202年
国旗
公用語 ヤード語
首都 帝都ヤードグラード
最大の都市 同上
通貨 ヤードルーブル
宗教 円十字教会
次代 西ヤード帝国
東ヤード帝国

概要

古代ヤード(こだいヤード、古代ヤード語: Yadia antiqua)は上古の時代に存在した国家である。
その版図はイクファターナを中心にタヴェリアまで支配し、中央海を囲う史上最大の世界帝国としても知られる。
正式名称は共和政期・帝政期を通じて元老院ならびにヤード市民であり、建前上は共和政を維持し続けた。
古代ヤード文明は高度な技術を要し、また、統治システムもよく計算されたものばかりで、後のイクファターナ諸国の中世時代に大きな影響を与えた。

政治体制

古代ヤードは大きく分けて王政・共和政・帝政の3つの時代に分かれる。
共和政はさらに貴族共和政と民主共和政に、帝政は第一市民制と専制帝政に分かれる。
時代が下る順でいうと貴族共和政、民主共和政、第一市民制、専制帝政となる。
それぞれ統治システムは異なるが、ヤード本国が多くの属州を従え、そこから搾取した富をヤード本国で消費するという図式は末期に至るまで変わらなかった。

歴史

建国神話

貴族共和政

民主共和政

征服の時代と市民の没落

スエビ戦争

ヤードがヤード半島地域を統一した頃、イクファターナ対岸東方平原では商業国スエビが繁栄していた。紀元前351年、現在のアトリオン島の植民都市アストラポリスの第一市民アポロドロスが内紛により軍事的庇護をスエビに求め、それに対抗するアストラポリスの将軍カッサンドラがヤードに出兵を求めたことが事件の発端となった。先に上陸したスエビ軍がカッサンドラを逮捕し処刑したことによってヤード軍との全面衝突が起こり、ヤードとスエビの戦争(第一次スエビ戦争)が勃発する。戦いは海戦ではヤード軍の優勢であったが、陸戦では騎兵を駆使するスエビ軍に苦しめられた。一進一退が続くも350年8月11日のサラサ湾海戦でヤード軍が完全に制海権を奪うと、12月10日スエビ本土を攻撃し、スエビ共和国は講和に応じ終戦した。講和条約で莫大な賠償金を毎年支払うことやアストラ地域におけるヤードの支配権を認めるなど、ヤードの勢力拡大が事実上確定した。
その後100年間は両国は特に戦火を交えることはなかったが、スエビは打倒ヤードを国是とし、軍事力を増強していくことになった。
紀元前213年、スエビはヤードとの講和条約を一方的に破棄し、リベルニア島を経由してヤード本土を直接急襲した。一時首都ヤードに迫ったスエビ軍だったが、本国からの後続の援軍が届かず、首都攻撃を延期しているうちにヤード軍は立て直しに成功。ヤード近郊のアサラーの戦いで遠征軍を撃破し、危機を免れる。しかしスエビ軍はその後も10年もの間抵抗を続け、紀元前205年ヤーマスの戦いでようやくスエビ軍を壊滅させるにいたり、スエビ本土は陥落し戦争は終結した。スエビ共和国は跡形もなく破壊され、ヤード領に編入された。敗北したスエビ人は全員奴隷とされたり、東方に逃れたりして離散した。

征服の時代

スエビを滅ぼして西方世界における超大国となったヤードはその野心を南方に向けることになる。
アトリオン島のアストラヴィチャニンや南西のクラリッサ平原に勢力を拡大し、北部のイースラント人を征服した。紀元前150年にはほぼイクファターナ全域を統一した。

古代ヤード内戦

ヤードは拡大していく一方で、国内の貧富の差も拡大していった。紀元前131年に、史上初の民衆の武装蜂起が起こり、国内は民衆派と貴族派に分裂する。貴族派政権は民衆派との間で武力衝突を繰り返し、貴族派筆頭のセルシウスが暗殺されると、貴族派優位は崩れ、100年間の内乱の時代に突入する

ルキウス・ガイウス・シゾーカヌスの独裁と暗殺

紀元前35年、民衆派で台頭した将軍ルキウス・ガイウス・シゾーカヌスが内乱をおさめ、国内機構を掌握すると、翌年終身執政官に就任する。
独裁官となったシゾーカヌスは安定した権力を背景に、南方征服に乗り出し、圧倒的武力を背景にカルブ犬人王朝の女王クレープ10世と政略結婚する。生まれた子供を後継のカルブ王とするという条約を結び、タヴェリア北部を無血征服することに成功した。
さらにスエビ滅亡後途絶えていた東方平原のさらに向こうの姫王朝との交易を行うなどその勢力をさらに拡大していった。
しかしシゾーカヌスが権力を拡大していく一方で旧来の貴族勢力は旧権奪回を狙い、紀元前30年、元老院議場にてブルーレットら守旧派によってシゾーカヌスは暗殺されてしまう。

帝政の開始

シゾーカヌス暗殺後その混乱を速やかに収めたのがその盟友にして側近であったオクトパス将軍であった。オクトパスは暗殺に加担した貴族たちを一斉に逮捕し、権力の掌握に努めた。首謀者ブルーレットらはカルブ王国に逃れ、カルブ貴族たちは元来シゾーカヌスを快く思っていなかったことからブルーレットを歓迎しシゾーカヌスとクレープ10世との王子ショコラ(イヌ23世)を担いでシゾーカヌスの正統な後継者としてヤードに宣戦布告した。
これを口実にオクトパスはカルブへの出兵を行い、紀元前28年の中央海海戦でカルブ海軍を打ち破りカルブ王国を滅ぼす。
国内における反乱勢力を一掃したオクトパスは一切の官職を退いて引退する旨を元老院に通告する。
元老院は官職復帰を要請し、一旦は固辞するものの、最終的にパーテル(国父)の称号を与えられ、国内における全権力を委任されることになった。パーテルは以後ヤード皇帝の称号となり、パーテルはそのままオクトパスをも指すようになった。これ以降のヤードを帝政ヤードと呼ぶ。
パーテル帝には子がいなかったため、次期皇帝には甥のミシマヌスが即位した。この後5代にわたってミシマヌスの家系が帝位を継承していき、パーテル帝を合わせてフェリクス・ミシマヌス朝と呼ばれる。
第3代トートゥス帝はヤーディア暦33年南方遠征を行い、タヴェリア南部の諸国を従えた。
第6代皇帝ハママトゥヌスは大規模な円十字教迫害を行い、円十字教の使徒の一人、聖マティアが殉教している。
ハママトゥヌスは元老院議員の半数を処刑するなどの暴政で人心を失いヤーディア暦86年、宮廷クーデターにより廃位され翌年殺害された。

三大帝の時代

ハママトゥヌスの死後、新帝をどうするかで紛糾したが、ハママトゥヌスの側近の一人で、クーデターの首謀者でもあったエモドラヌスが元老院に推戴された。
エモドラヌスはハママトゥヌスの暴政によって混乱していた国内政治を収拾させた。在位期間は6年と短かったが、民政に力を入れ元老院との協調姿勢をとったことから名君として高い評価を得た。死後神格化されヤード神殿に列せられた。
エモドラヌスには実子がいなかったため、妻の甥にあたるキテレトゥヌスが後を継いだ。征服帝と異名をとるキテレトゥヌスは南イースラントに進駐し、ヤード帝国の最大版図を築いた。彼が遠征中に残した見聞記を元に百科事典が作られ、キテレトゥヌス大百科として後世に伝わっている。
キテレトゥヌスにも実子がいなかったため後継には側近トゾモヌスの孫ティヴィ・マルクスがなった。ティヴィ・マルクス帝は内政に力を入れるため外征政策を転換した。学術面で優れた功績を残し、帝都ヤードに学術機関大ヤード図書館を建設し、古今東西あらゆる書物を集め、様々な学術研究を行わせた。この中で蒸気機関の原型となる物理学的な発見などが行われた。
エモドラヌス、キテレトゥヌス、ティヴィ・マルクスの3人の皇帝はいずれも優秀で優れた功績を残したことから三大帝と呼ばれる。

円十字教の国教化

東西分割統治の開始

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最終更新:2019年04月12日 01:37