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若松勉

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若松勉


  • 皆さんご存知、「ミスター・スワローズ」
  • 1999年から2005年までヤクルトの総統を務めてた人。
  • 現役時代は「小さな大打者」としてヤクルト一筋の現役時代を送る。詳細は下段を参照。
  • 2009.1.13に2009年度野球殿堂表彰者選考でプレーヤー表彰で選出され、野球殿堂入りが決定!スワローズからの野球殿堂入りは1997年の故・大杉勝男さんが最初であるが、スワローズ生え抜きでは初めて。
  • やくせんでも歓喜に沸いたが、この日に早速野球殿堂入りに関する単独スレが立ち、他球団ファンからも「おめでとう」の書き込みが殆どだった。
  • 2009.7.24に地元北海道の札幌ドームでオールスターゲーム第1戦前に表彰式が行われた。スピーチも無難にこなし住民一同安堵w
  • 2009.12.3に行われた野球殿堂入りを祝うパーティーではNPBコミッショナー、王、長嶋、金田、中西、古田、高田の各氏をはじめ現役選手では岩村、五十嵐、青木などおよそ1100人が出席した。

  • めちゃくちゃいい人。謙虚。そしてアガり症。
  • 2001年にリーグ優勝した際のお立ち台ではアガりにアガり、「ファンの皆様、本当に…あの…おめでとうございます」という迷言を生み出す。
  • そして同年の日本シリーズ前には「一戦一戦頑張りますので、オールスターでも、いや日本シリーズでもご声援よろしくお願いします」。
  • さらに同年の日本シリーズ優勝のときの胴上げではギコ久の陰謀で宙返り、腰を痛める。
  • 2004年に起こった近鉄とオリックスの合併問題で、監督という立場ながら「一野球人として」と選手会の反対署名活動に署名している。
  • 2005年にチームのBクラス確定もあり退任…その記者会見の席では「1度しか日本一になれず申し訳ない」と発言。ノムさんの後任としてID野球からの脱却、4年間Aクラス保持した凄腕監督のその謙虚すぎる発言に全ヤクルトファンは仰天。
  • 監督在任中、トレードは球団(編成部)主導で幾度かあったが本人自ら希望したことはなかったらしい。理由は自チームから選手を出したくなかったから。一方、新人獲得は弱点を見極めたうえで、ざっくりとした希望は伝えていたとのこと。
  • 2008年の真中やワタライ達の引退試合の中継に解説として参加するが、実況から真中やワタライ達の軌跡を紹介され半泣き、そのまま数十分間涙声で解説を続ける。
  • このような人柄、選手・監督としての実績から初代監督であった王氏をはじめ第2回WBCの監督に推薦する人もいた。
  • 以前、野球chで野球解説者を評価するスレが立ったが、彼の解説に関しては前述のような人間性の影響もあってか明らかに嫌いという書き込みはなかった。ただ、「声がボソボソと小さいけど…」という書き込みがありましたが。
  • しかし2008年をもってフジの解説陣から引退し、今はラジオでしか声が聞けないのが残念…。
  • 2009.7.12に神宮で行われた台覧試合で皇太子殿下御一家への解説役を務め、やはりスワローズの顔であることを再認識させられた。



  • 現役時代について少し振り返ってみる。

  • 1970年のドラフト3位で電電北海道(現・NTT北海道)から入団。この年の同期入団は渡辺進編成部長(4位)、会田氏(8位)、杉浦氏(10位)、大木球団取締役(16位)。他球団で主な選手は淡口氏(読売)、石渡氏(近鉄・日シリで「江夏の21球」の最後の打者)ら。

  • 父親が社会人野球チームの選手であったため、幼少時から野球に興味を持っていたが当初は右打ち。左打ちになったのは父親の薦めと言われている。
  • 本格的に野球に取り込んだのは中学からであるが1年生のときからセカンドのレギュラーとして活躍していた一方で、陸上やバスケット、バレーボールの試合にも借り出され出場。また子供の頃から行っていたスキー大会でも実績を残している。

  • 高校では2年生の夏に甲子園出場を果たしたが本人は大会前に気管支炎を患い出場ならず。翌3年生の夏に外野手に転向、2年連続の夏の甲子園出場となり出場、4盗塁の決め活躍するも1回戦で敗退となる。
  • 高校卒業後に電電北海道に入社。チームそのものは都市対抗野球に出場できなかったが、当時のライバルであった大昭和製紙北海道、北海道拓殖銀行の補強選手として4度出場している。

  • この都市対抗野球の活躍が注目されヤクルトから3位指名を受けるが、当の本人は小柄な体格でプロ野球でやっていく自身がなかったため、担当スカウトが指名後に幾度も本人の元へ訪れ説得にあたるもずっと断りを入れ交渉は難航していた。球団サイドはこれを打開すべく当時の打撃コーチであった中西太氏が直接説得にあたり「体は小さくとも下半身を鍛えればできる」と言われ、やっと入団を決意。
  • これで入団の運びかと思われたが、ここで終わらず今度は夫人に入団の意思を伝えると夫人から反対され、何と再度ヤクルトへ入団を断りを入れる。これを聞いた球団側が担当スカウトと中西氏が今度は夫人に直接説得にあたり、やっと入団。入団発表は夫人を同伴。理由は「自分は口下手で思ったことの半分も言えないので、横にいたほうが気持ちが落ち着くと思って…。」

  • 入団時、電電北海道応援団からヤクルト応援団に応援歌(でんでんマーチ:野手の汎用テーマ曲)が譲り渡されたのは有名なお話し。

  • 入団後はプロ入りを説得した中西コーチの元でバットを振り込みなど猛練習に励み、入団1年目の1971年夏頃からレギュラーに定着。112試合出場、打率.303・3HR・15打点の記録を残し、新人王の候補に挙げられたが残念ながら新人王は入団4年目の読売・関本四十四氏(10勝11敗・防御率2.14)へ…。
  • 同年オフにはこの活躍が認められ背番号「57」から「1」へ変更。入団2年目の1972年は開幕1軍で115試合に出場し、打率.329・14HR・49打点・20盗塁で首位打者に。またこの年に初のオールスター出場を果たす。
  • 以後、3割を切ったのは1975年の打率.295に1度だけで打率トップ10の常連となり1977年に打率.358・17HR・70打点・13盗塁で2度目の首位打者となる。
  • 翌1978年はマニエル・大杉の両氏とともにクリーンナップを形成し主に3番・センターで出場、首位打者は打率.348を記録した広島・水谷氏となったものの打率341・15HR・71打点で球団初の優勝に貢献。リーグMVPに輝く。
  • 1981年に右肩脱臼で入団して初の長期欠場。10年連続規定打席到達、5年連続3割も途切れてしまうが、ケガ明けの翌1982年から4年連続3割を記録するなど、永らくヤクルトの主力打者として活躍。
  • 1985.10.9の阪神戦で2000本安打を達成する。(21人目)
  • 1987年シーズンは開幕こそ順調だったものの右足を痛めて欠場。以後は若手の台頭もあって代打としての出場が多くなり、1989年に現役を引退。

  • 現役通算成績は2062試合出場、打率.31918(NPB歴代2位、日本人1位)・220HR・884打点・151盗塁。プロ19年で打率3割以上15回(規定打席到達12回)!首位打者は2回のみであったが、2位の年が4回。
  • そのほか数々の記録はWikipediaなどを参照。

  • 正確なミート力、バットコントロールの達人と言われていたとおり、三振数は現役通算で463と極端に少ない。特に1977年の三振は14!打席数は503(打数:441、犠飛:5、犠打:4、四死球:53)であったので約36打席で1三振、1試合を仮に4打席として単純に換算すると9試合に1回の割合となる。
  • また、小振りな打撃フォームからボールをバットに乗せて運ぶ典型的な中距離打者のイメージがあるが、通算220HRと一発の魅力も兼ね備えていた。これは単に当てるのみではなく力強くしっかり振り切っていたことを証明する。若松氏が単なる「安打製造機」に留まらず「小さな大打者」と言われたのはこのあたりかもしれない。

  • 勝負強さでも一級品で
    ・1シーズンでのサヨナラHR:3本(1981年)
    ・サヨナラHR:通算8本
    ・代打サヨナラHR:通算3本 うち2本は2試合連続(1977.6.12~13)
    と人並み外れていた。サヨナラHRは読売・王氏と並ぶ記録であり本人も「王さんに本塁打数ではかなわないが、これだけは自慢」と語っている。
  • 勝負強さは更に代打成績でも現れており、サヨナラHRは上記の通り。起用回数300以上で通算代打打率.349でNPB歴代1位。2位は広島の浅井樹氏の打率.315と大きく引き離しダントツの記録である。(但し、起用回数が若松氏が305に対し浅井氏は582と差が大きくあり浅井氏の記録も素晴らしい数字である。ちなみに真中は.2691で9位) 特に1987年は36打数20安打で打率.444を記録している。

  • 上記のような謙虚な性格からか、契約更改でゴネることもなかった。NPBを代表する打者であったにもかかわらず推定最高年俸は1988年の5200万円。これは当時球団の日本人最高年俸であったが、球団はもうちょっと…。
  • あまり知られてないが大の飛行機嫌いで「飛行機移動に比べれば練習は天国」と言ってたとか。
  • また全盛期では50m5秒台の俊足であったが、後ろに大杉、マニエル、杉浦など長距離砲が控えていたため盗塁のサインはなかなか出なかったらしい。もし今、現役なら現・読売のラミレスと3・4番を組んでみたいと言う。理由はラミレスなら1球待って走らせてくれそうだから。

  • 背番号1はその後、池山、岩村とヤクルトを代表する選手が着けていたが、2010年からこの背番号を背負うと報道されたこの男は、若松氏の誰からも好かれる人柄と輝かしい数々の記録に、どのように追いつき追い越すのか期待するのであった。

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