質疑応答その他の時間。

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質疑応答その他の時間。 - (2008/10/24 (金) 09:43:12) の編集履歴(バックアップ)



質疑応答


その他法律雑記


国籍法判決-司法権と立法権
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LPその他で、国籍法判決を取り上げた企画が行なわれるが、判決そのものについての見解が分かれているらしい。
特にintegral氏は、結論的にも論理的にも、賛成できないという。

結論的に、ということろはさておき、論理的に、という部分はどうだろうか。
沢山の意見がついているので、確かに論理的な問題がないではないだろう、とは思う。
ただその上で、どうして多数意見が、わざわざそんなに問題のある判決を書かなければならなかったのか。
まさか、論理的な問題点に気付かなかったわけではあるまい。
理由はおそらく、現実的な救済の必要性、ということに尽きるだろう。
司法権の担い手たる最高裁として、この問題を放置しておく訳にはいかない、という強い信念である。

「裁判官は法の口である」と考えるのは、およそ人間が当事者として、そして判断者として主体となる裁判においては、一面的な見方に過ぎるだろう。
しかし、よく法解釈の際に言われるように、「これは立法論として」と言われるような分野にまで、司法権が踏み込むことに問題はないのか。
いわゆる、三権分立の問題である。

無の状態で、いわばゼロベースで考えた時、在るべき姿を構想するのは政治の問題、すなわち立法権に属する権限である。
それに対して法がなし得ること、すなわち法司法権に属する権限とは、既に存在する法律の解釈と適用である。

そうした三権分立の建前自体を疑うことは、おそらく可能であろう。
しかしながら、あくまでいまだその前提にとどまるのであれば、司法権は、法律の解釈と適用を踏み越えることをしてはならないのではないか。
現実に存在する法律を解釈して適用した「だけ」だと言いながら、その実、法が想定しない新たな価値判断を行ない、理性による論理的な文言の解釈と適用を踏み越えるのであれば。

それは、司法権の命脈たる「論理」を侵し、人間の「理性」に対する不信へとつながりかねない。

司法が長らく、謙抑的に過ぎるとすら言われてきた背景には、そうした自覚が存在していたからではないか。
理屈で法律を解釈することは、頭が固くて、融通の利かない、意固地な法律家の連中に任せておいて、柔軟で現実的な「決断」をこそ、政治が担うべきであると考えるのは、少なくとも近現代が採用した立憲主義国家の、「論理的な」帰結ではないか。

その意味において、人権や社会正義の擁護(弁護士法1条)は、おそらく司法権の仕事ではない。
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