滞郷記

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滞郷記 - (2007/10/02 (火) 11:45:44) の編集履歴(バックアップ)


 二竪(やまい)漸く癒えんとして辞郷の日近きにあり。一篇を貽(のこ)して暫し旧閭に訣れむ。
 シューベルトの“Standchen”を想はす様な美しい朧月夜だ。沈丁花の冷たい匂ひにそそられて、静やかに月光のみちあふれた庭におり立ってうつつなく梢を眺める。帰ってきてから四たび仰ぐ満月の影。
 うつろとなったやうな自分の胸には張り詰めた哀愁もなく火のやうな情熱もない。身を包む沈丁花の薫りのそれにも似た心持。今私は限りなき夜の静寂を味ひながら夢の園をさまよふてゐる。

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 私は遠からず行かねばならぬ。この温い田園の慰撫から離れて再びけばけばしい幻惑の巷の混濁した空気に生きねばならぬ。一切の精神美を破壊する新文明の光に乱酔した人々のみずぼらしい仮面舞踏に面をそむけて息詰まるやうな日を送迎せねばならぬ。だんだんと春らしくなってゆくにつれ躰軀の元気も日に増し加はる。けれども一日一日と余す日数の消えてゆくのがどんなに残り惜しく思はれることだろう。
 私は病を抱いて郷にかえってからこのかたの長い追想を筆に任せて書き留めて置かうと思ふ。(三月十二日記)

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 私が帰って来たのは昨冬十二月二日の晩だった。せはしない東都の人たちに目慣れた私は帰郷の都度、広島駅の待合室に群がった人たちの諄朴な風刺や詞つきにあふれたローカルカラーに深い懐かしみをしみじみと覚えるのである。
「ごうぎお寒うがいますの」とお婆さん同志。
「もうぢき来てぢゃけん待っとりんさい」若い肩揚が鬚を撫で上げながら・・・
 残虐な物質文明の渦中に気息奄々として呻吟せる生存の弱者の悲しみを、屢(しばしば)目撃し来った痛惨な記憶は春の淡雪のごとく跡方もなく消え去って、さながら太平の夢幻郷を観るやうなゆったりとした気分になる。
 淡く煙る臥虎山頭(広島市の比治山)の松の翠を見返しつつ呉線を南への帰るさ、海浜づたひに走る列車の窓に弱い夕日が差し込む。金色に揺らめく内海の波のさざめきに、はしなくもウェーベルの舟唄を思ひ浮べつつ今宵の我が家の楽しい夕餉を心に画けば、緩やかに流れてくる潮の香もそぞろになつかしまれる。

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 稀に来る夜半もかなしき松風を
     絶えずや苔の下に聞くらむ
「おかあさん。唯今帰りました。おかあさん・・・・・・・」
 友が錦衣嬉しく帰ったのは、十二月二十八日の夜。饗宴の宵さざめき渡る村の古老たちの太古さながらの歓歌の声を聴き流しつつ友は私の青く冷たい手をひしと握り締めた。この夜二人は言葉少なかった。けれども私は友の笑ましげな顔ばせとその夜の感懐を永く忘れえぬであろう。
「えらくなって帰りました。喜んでください」
 遠く鐘愛の昔を顧みて慈母の霊前に涙ぐみつつ手向けた言葉はこれより他に何があらう。

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 昨日と過ぎ、けふと暮して飛鳥川・・・今更にいにしへびとの咏嘆も痛々しく身にしみて、大聖の臨終の如き落暉の光は音もなく薄れてゆく。かくして改暦第二の年は遠く悠久の彼方に没し去った。

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 病中の身には陶然とした屠蘇の酔心地も味へず心しづかな新春を迎へた。
 義太夫会。一月十日夜。語り物は今度新しく稽古したもので、この夜がその発表会(あけじ)。
 信仰記 御殿 菅原四ツ目 梅由 新口村
 連中は皆めきめきと腕が上ってきたのでどれも面白く聞かれた。
   梅は飛び桜は枯るる世の中に、なにとて
   松はつれなかるらん、女房よろこべ倅はお役に立ったぞよ。
 聴き慣れた物ながら、「寺子屋」は好きな浄瑠璃だ。「梅の由兵衛」では可憐温順な少年の死をいとほしむ。都雀氏の「梅忠」は稽古足らずで前半だけだったが、しんみりとした美しい語り口だ。
  イヤイヤ男気な忠三郎、頼んで今夜は爰(ここ)に泊り、死ぬるとも古郷の土、生みの母の墓どころ、一緒に埋まれそなたにも、
  嫁姑と引合せ、未来の対面させたいと、おろおろ涙梅川も、それは嬉しうござんせふ、さりながら、私がととさんかかさんは、
  京の六条球数屋町・・・
 我当の「梅忠」を観たことがあるが、封印切りの場も好ましいけれど私は「新口」の方を好ましく思ふ。

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  正月もごゥざった
     お逮夜もごゥざった・・・
 幼いころの童謡がフト心をかすめて過ぎってゆく。まだ月ものぼらぬ星明りの夜。円福寺には今読経の鐘がしめやかに響いて釈迦入滅(親鸞入滅の間違い?)の夜の哀調を伝へる。幾年ぶりかで賑やかに打揃ふてお逮夜の「夜茶」をたべた。

ーーーーーーーーー書きかけ。少し文章追加。