まだ私がドスと呼ばれる前の話だ。
 その日は、空一面に張った薄い雲の下、穏やかな春の陽気に包まれていた。
「あーさんぼうだー」
「ぱちゅりーっ」
 開けた野原を通り抜ける時に、子供らしい声が投げかけられる。初等教育を受けているゆっくりの一団からだった。口の端に木の枝をくわえていることから、剣の稽古をしているのだと推測できる。
「ぱちぇー! さんぼー!」
「むきゅー!」
「う~、ぱちゅりーっ」
 私は苦笑で応える。
「こらぁ! お前たち、くんれん中によそ見しないでね!」
 案の定、教官らしき成体ゆっくりに叱られていた。
 「ごべんなじゃいー」「ずびばぜんでじだー」「わだじはとかいもんでずー」という演技混じりの謝罪を背にして、私は再び木の林立する森の中へ入る。涼しげな緑の空気に身を浸しながらしばらく行くと、目的の場所が見えてきた。
 それにしても一体何の用事なのだろうか。
 何の前触れもなく長の住む洞穴に招かれたため、私は困惑を処理できなかった。
 珍しいことだった。大抵の会合は外か、会議室にて行われるからだ。長は一人暮らしであり、それほど広いスペースを有してはいない。成体ゆっくりが二体も入ればそれだけでいっぱいいっぱいだ。また、会議は複数で行われることがほとんどだ。長と参謀だけで話したとしても、その中で話題に上った担当部署のゆっくりを呼ぶことは稀ではない。以上のことから、やはり会合には不向きな場所だった。
 では何の用事だろう。公的な会議ではないとして、かといって私的なことでもないはずだった。群れは基本的に日の出から日の入りまで、全員が何らかの役割を担って活動している。群れの長も例外ではない。率先垂範の役目を持ってもいる。だから、会議についても、行われていることが周囲に明らかであったほうが良いのだ。それなのに、昼に仕事をサボタージュしていることを表す道理はない。
(となると……)
 以前にもこんなことがあったのを思い出す。
 恐らくは内密の話だ。多分、そうだ。外に漏れてはならない内容。群れの誰にも知られてはいけない事柄。ニトリ種の湖の件もそうだったし、加工場の件もそうだった。その時、私は長と二人きりで話をした。呼集役のゆっくりも傍に控えていなかった。同じ状況だ。
 洞穴の入り口を前に、私は身が引き締まるのを感じ、意を決して木漏れ日の鈍い光から、黒い影の中にその身を入れた。
(それにしても、本当に狭いわね)
 掘られた穴を奥へ進みながら思う。両の頬と頭が土に触れないようにするのがやっとだ。長は通常の成体サイズより小さめなため、それに合わせているのだろうが、そうなると当然私にとっては窮屈になるのだ。というか、前に来たときより狭い気がするのだが……その理由については深く考えないようにした。
「来たか」
 終点の開けた場所に行き着くと、暗闇から声が掛けられる。奥まったところにあるからか、あるいは私が入り口からの光を遮っているからか、目の前は本当に真っ暗闇で何も見えない。漆黒の身体を持つ長の姿も、当然「闇夜のカラス」で見えるはずもない。
「明かり入れないんですか」
「暗いところが好きなんだ。性格も根暗だしな。お前さんもだろう?」
「私は夜目が利かないので、少し明るくしてもらえると助かります」
 軽口を軽くいなす。
「ついでに煙も追い出してもらえますか。苦手なので」
「ん、臭うか?」
 ばつの悪い声がして、それから蓋を外す音が聞こえる。明かり取り兼通風口の役目を持つ竹製の筒から、申し訳程度の光が入る。じきに爽やかな外気も流れてくるだろう。
「いや、やはりいろいろ試してみないとな」
 ようやく長の姿が目に捉えられる。とはいえ、今も黒い身体は暗い部屋に溶け込んでいて、シルエットを気配で補って見ている状態だ。
「もう十分に試したでしょう。あれは身体に悪いんですから控えてください」
「おや、心配してくれるのかい? 優しいね、参謀は」
「いえ、あなたはどうでも。私の身体が弱いんです、パチェ種の例に漏れず。長は副流煙をご存じですよね」
「ハハ、厳しいね」
「ともかくもうやめてください。でなければ、もうここには来ませんから」
「こう退屈だと吸わなければやっていけないよ」
「英国の探偵みたいなことを言わないでください」
 長は感心したように、呆れたように、「おや、だいぶツッコミが的確になったな」などとのたまわった。「お陰様で」と腹立たしさを表に出して答えておく。
 蔵書を読み自己の知識としているか、さりげなく確認しているのだろう。それはわかっているのだけれど、明らかにからかっている風なのはどうにも慣れない。いいように遊ばれている気がする。
「個人的には小説より実用書の方が読みたいのですが。無駄話に付き合える程度の能力を養う気はありませんし」
「多角的な知識は新しい発想を生むものだぞ。それに手に入る書籍は限られているんだ。そうそう希望するものが読めるわけじゃない」
「コナン=ドイルは借りてきたものですよね」
「おっと」
「それより本題に入ってください。先ほども言ったように、無駄話に付き合える程度の能力を養うつもりはありません」
「まあまあ、そう急くな。昼食はまだだろう? ここで取ったらどうだ」
「割り当てられた食料がありますから、それを食べますよ」
「草花と昆虫だけじゃ味気ないだろう。今、俺が食べているものを口にしてみないか? いい経験になると思うぞ。な、騙されたと思って」
 確かに本の知識だけでは得難いものが、体験にはある。味や食感などもその一つだろう。古今東西、五感の全てを記録した図鑑は作成されていない。それに長が勧めるものだ。何だか興味がある。そして、もしかすると今回の会合の真意に繋がるものかもしれなかった。
「俺は小食だから、遠慮無くどうぞ」
 そう言って長が出した物に「いただきます」と私は口を近づけた。目の前の物は、薄暗い部屋の中で円柱形のシルエットを浮かばせていた。
 私はそれに軽く歯を立て、さらに立てようとして、離した。
「……何ですか、これ」
「剪定した木の枝だ」
「食えるわけないじゃないですか! カミキリムシですか、私は!」
 あまりに硬かったので何だと思ったら、木の太枝を輪切りにしたものだったのか。無理に食べようとしていたら歯が折れるところだった。
「虫にできるのだから、ゆっくりにもできるだろう。俺にもできた」
「栄養にできるか以前に歯が立たないですよ。洒落でもなんでもなく」
「だが理屈の上では可能だろう? 木の皮では成功しているんだ。リグル種中心に試させてみてくれ。普通の食事にチップを混ぜることから始めてみよう」
「まあそれはいいですけど」
 ゆっくりの雑食性は訓練によってその幅を広げることが、これまでも実証されている。実際、この群れではほとんどの草葉は食用になっていた。理屈では、慣れれば木の幹でも消化・吸収できるようになるはずだ。いきなり食べさせる長のようなのは論外だが。ふと思い当たって、私は尋ねた。
「ところで、何で私にはチップでくれなかったんですか」
「いや、一言で表すのは難しいんだが……面白そうだったからな」
「一言で表せますね。わかりました、では私も面白そうなので、長には毎食岩石で過ごしてもらうことを提案します」
「それはハードだな」
「硬いですからね。けれど長にはロックな生き方が似合います」
「いやいや、そんなに怒るな。本当に食べてもらいたいのはこちらだ」
 そう言うと、長は背を向けて――と言っても、どこが前だか後ろだかわからないので、気配で感じるだけだが――ゴソゴソやりだした。嫌な予感しかしない。
「ほら、これだ」
 フワリと芳香が漂ってきた。何だろう。花? 果実? 朝日を浴びたワラを連想させるような、柔らかで暖かな香りだ。火を通してあるのだろう、香ばしさも混じっている。いずれにせよ、口に入れても問題なさそうだ。いや、むしろ食欲をそそられる。
「どこかで嗅いだような香りですね。ええと、キノコ、ですか?」
「正解。でも、これを食べたことはないだろう」
「いただいても?」
 どうぞ、と勧められたので、恐る恐る端を囓る。触感は確かにキノコだった。噛み砕いた物が舌に乗り、味蕾が味を知覚する。そして、
 …………!
「美味しい!」
 思わず声を上げてしまった。
「だろう?」
 得意げな声が応じる。遠出した際に見つけてきたものだろうが、なるほど、確かに自慢してもおかしくないだけの代物だった。
「驚きました、キノコでこんな美味しい物は初めてです! この森で取れた物じゃないですね。どこで見つけてきたんですか? これはすごいですよ。お祝い事に使ったりできます。栽培できるなら是非やりましょう! あ、ああ、すみません、つい喋りすぎてしまって。あの、これは一体何ですか?」
「コレラタケだ」
「ムギュボッ」
 噴き出してしまった。猛毒中の猛毒! 衝撃が気道にまで及び、咳が止まらなくなる。胃が蠕動して、吐き気がこみあげる。飛び散る唾液。目から涙までこぼれてきた。
 長が背中をさすりながら、「すまん、冗談だ」と詫びていたが、私は激しく身体を上下させて、しばらくむせ続けた。

 心なしか、先ほどよりも少し私から離れた場所に、長は座っていた。
 私はというと、デンと座って長を見下ろしていた。見下ろすつもりはないのだが、体格差によりそうなってしまうのだ。決して意図的なものではない。少なくとも建前ではそうだ。
 松茸だと明かされたキノコには一切手をつけず、試作したという猿酒とかいうものにも見向きすらしないで、ただ黙って長と向かい合っているだけだ。決して威圧するつもりはない。少なくとも表面的にはそうだ。
 まったく、重大な話だと考えた自分を叱りたい気分だ。
「いや、お前さんの言う通り、松茸は養殖するつもりだよ。シイタケ・ブナシメジ・エノキタケは成功してるしな。格段に手間は掛かるが、やってみる価値はあるだろう」
 長が取り繕うように喋っているが、私は答えない。
「毒への耐性も、メディスン種以外に手を広げてみよう。ベニテングタケ程度なら、毒性を半減させて与えてみてもいいんじゃないか?」
 私は答えない。
「ところで、最近太ったことを気にしていると聞いたが」
「気にしているとわかっているなら言わないでください!」
 耐えきれなかった。それは私の一番のコンプレックスだ。
「いや、ぽっちゃり系だと考えれば案外いけるぞ」
「案外って何ですか!」
「嬉しいね、一回り大きくなってくれて」
「それは体型に対して言う事じゃないでしょう!」
 一しきり言い返して、私は無い肩を落とした。長はゆっくりの群れのトップとしては有能な部類に入るはずだが、悪ふざけが好きな点だけはどうにも受け入れがたい。ここの群れの子ゆっくりがやんちゃで、いたずら好きで、よく問題を起こすのは、長の言動が遠縁ではないかと私は考えている。
「で、本題は何ですか。私をおちょくって楽しむのがメインならいいですけどねっ」
「まさか。それは前菜だ」
「オードブル?!」
「それはともかく、呼んだのはエイリン種のことだ。それを相談しようと思ってな」
「え? ああ、エーリンですか」
 エイリン種。通称エーリン種。多種多様なゆっくりがいる中でも稀少種中の稀少種で、その個体が確認されたのはとある竹藪の中の一例のみだということだ。少なくともこれまでは。冬が開けてから間もなく、群れの捜索班がもう一体の個体を見つけたのは僥倖であり、大発見だと言えるだろう。
「スカウトできそうなんですか?」
 長は様々な種のゆっくりを群れに呼び寄せている。群れにいない種を探し、見つけ、説得し、引き込むのだ。そのため、現在群れには十五種のゆっくりが混在している。長を含めれば十六種だ。
 私の問いに、長は「どうにも難しいな」とかぶりを振る。わかっていた答えだった。
「やはりカグヤ種ですか」
「うん、動かざること山の如しだ」
 カグヤ種。通称グーヤ種、あるいはテルヨ種などと呼ばれている。エイリン種と同じく、稀少種だ。これもまた、今まで確認された個体は竹藪の中の一例のみで、二例目は私たちの群れが最近発見した。
 というより、エイリン種とカグヤ種は二体一組で生活を共にする習性があるらしい。どちらか片方のみを発見する方がありえないのだ。
 群れに引き込む際には、双方を連れてこないといけないのだが、カグヤ種の特性として『動かない』というものがある。ひたすら活動しないのだ。
 ほとんどの時間を寝て過ごし、食べる時以外に起きるのは稀。しかも起きている時でさえ、目をつぶっているという筋金入りのナマケモノだ。
 実際の哺乳類のナマケモノは、常時冬眠に近い状態で、一日に食べる食事の量は八グラム、排泄行為も一週間に一度である。犬も歩けば棒に当たるという言葉があるが、ナマケモノは活動を極端に減らすことで、棒に当たる危険を回避する道を選んだ動物だと言える。
 カグヤ種はナマケモノに倣っているゆっくりなのかもしれない。ただ、ナマケモノは自分で食事を取るが、カグヤはそれすら捨てている。エイリン種が食事を採取し、自分の口に運ぶのがカグヤにとっての生活だ。洞穴の中に巣を作り、ずっと外に出ず、エイリンに全てを任せている。下の世話までしてもらうと聞いているが、これについては何しろ長の話なので半信半疑と言ったところだ。
「徹底したヒキコモリですからね」
「出不精とも言うな」
「ええ。……? 何ですか、どうして私の方を見て…………長っ!」
「いや、違う。決して出不精からデブ症と連想したわけではない」
「言ってるじゃないですか!」
「ともかくカグヤ種をこの群れまで連れてこない限りは、エイリン種も引き込めないんだ。俺としてはどっちも欲しいからそれはそれでいいんだが」
 はぐらかされたが、実際その通りだ。偕老同穴という言葉が脳裏に浮かんだ。
 カグヤ種はエイリン種に寄生している形だが、長に言わせると共生関係だそうだ。カグヤはともかく、エイリンは精神的に依存しているらしい。実利を超えた何かがあるのだろうか。私にはよくわからなかった。
「だが、大山鳴動が可能になるかもしれない」
「え?」
「カグヤ種を動かせる存在と言えば、分かるだろう」
「大山鳴動だから鼠……ではなくて、まさか」
「うん、モコウ種の手がかりを掴んだ」
「本当ですか、それはすごい」
 灯がともるような興奮が生じた。長ほどには私は稀少種に興味はないのだが、文献ですら目撃例しか記されてないゆっくりともなればやはり知的好奇心が疼く。
 モコウ種。通称モコ種。加えて酷い俗称もあるが、それはモコウユックリを縮めて……止めておこう、私の名誉のためにも。ともかく、エイリン種と同じく、カグヤ種とは縁の深いゆっくりで、親の敵のようにカグヤに戦いを挑むとのことだ。理由はわからない。本能に基づいた習性なのだろうか。
 さて、双方が争うとなるとゆっくり界のナマケモノたるカグヤに勝ち目はないように思えるが、その場合においてのみカグヤの活動は活発になり、モコウと互角の勝負をするとのことだ。
 ここまでが文献や伝聞による知識だが、実際に見てみないとにわかには信じがたい。カグヤ種の不動さは、長の苦労が存分に証明しているからだ。既に三回はくだんの場所に出向いて交渉を重ねた。それでも結果はサクラチル。三顧の礼を以てしても、エイリンは首を縦に振らなかったのだ。
 しかし、それに突破口が見えたことになる。
「モコウを上手く焚きつけて、それでカグヤをおびき寄せる、ということですね」
「なかなか意地が悪い考え方だな」
「長の思考を読んでますから」
「そうだな、これで難航していた案件も、渡りに船と言ったところで解決できるかもしれない。群れには呉越同舟という形で、三体の稀少種が乗り合わせることになるな」
「モコウが見つかればの話ですね」
「そういうことだ。その捜索を頼みたい」
「わかりました。内密に行います」
 エイリン種に対するスカウトは群れの中でも限られた者にしか知らされていなかった。当然カグヤ種に対してもそうだ。モコウ種も同様に行うべきなのは明らかだ。
 これには理由がある。
 エイリン種は人間の、特にゆっくりを研究する者にとっては喉から手が出るほど欲しい存在だからだ。特に加工場関係の人間に。取り合いになる事態は避けたい。
 また、ゆっくりに害を為す者の手にエイリン種が渡った場合、いろいろとまずいことになる。エイリン種が研究対象になることが懸念されるわけでなく、エイリン種の能力が悪用されることが問題なのだ。
 人間はこちら側と違って手順を踏むことはないだろう。身柄の確保を――という言い方は不適切かもしれないが――急がなくてはいけない。道は遠く険しいだけに、なおさらだ。
「ただ、情報元がカラス天狗だというのが、気がかりと言えば気がかりだ」
「そうなんですか? それなら捜索班にはまず情報の収集を命じた方がいいのでは? 彼女の新聞、ゴシップ記事の含有率は伝説にすらなってますからね」
「いや、直接話をしてみた感じでは、完全な出任せでもないようなんだが……」
 と、その時、外から緊急の伝令が入った。

「A‐5区に侵入者ですか。襲撃者でも訪問者でもなく……一体何なのですか?」
「西からだな。東から来た人間とは逆の方向か。北のアリスと合わせると、後は南から来れば完璧」
「何がですか。そんなことより、向こうに何があるのか教えてください」
 中央からの指示を参謀補佐に任せ、長と私はくだんの場所へ向かっていた。浅く生えた草が後ろに流れていくのを脇目に、淡い木漏れ日の中を泳いでいく。
 普通は長もしくは私が中心に指示を出すべきなのだが、長の困りものの好奇心と悪戯心が現在の状況を作っている。何しろ伝令が要領を得なかった。
『巨大なゆっくりです! 現在、軍四番隊が対応!』
『種は?』
『わかりません! 恐らくはマリサ種!』
『恐らく? どういうこと?』
『すみません、わかりません!』
『……? 一体だけなのね?』
『はい! あ、いえ……ええと……わかりません!』
『??? 伝令は正確に!』
『はい、失礼しました! わかりません!』
 そんなやり取りに対して、長はわざとらしい苦笑を向けながら、通信システムを利用して問題の光景を直接見た。それから、今度はニヤリとした笑みを浮かべた。実に嫌な笑顔だった。
 そうして、嫌な予感は的中するもので、私は事の真相を知らされないままにA‐5区に向かうことになったのだった。
 侵入者が来たのは人里とは逆の方向からだ。西にも村はあるが、森を抜け、山を三つ越えた先にある。だから飼われていたゆっくりが迷子になったという線は、多分ない。野生を知らない者がその道のりを生きて渡れるはずがないからだ。では、群れの食料を狙った泥棒だろうか。いや、こんな昼からそれはないだろう。強盗でもない。それなら襲撃者と報告されるはずだ。要するに、全く見当がつかない。
「行ってのお楽しみだ。当面大事にはならないだろうし、気を楽に持ってくれ」
 長はどんな光景を見たのだろう。非常ににこやかでいることから、ろくでもないことだけはわかる。それに何だ、「当面」とは。
「長が傍にいる限り、気楽には永久になれません」
 正直な気持ちを伝えていると、茂みからチェン種が現れた。併走して伝令してくる。
「軍四番隊、侵入者を拘束! 待機中!」
「了解、ご苦労さま」
 労うと、チェンは目をきらめかせて茂みに戻っていった。長以外の笑顔は見ていて気持ちがいい。
「通信システムは順調に機能しているようだな」
「そうですね」
「やはり構築しておいて良かったろう」
 私は顔をしかめた。冬の会話を蒸し返しているのだ。
「あの時は戦力が欠けることを危惧していたんです。今とは状況が違います」
「無理してでもやる価値はあっただろう、と言いたいんだよ」
 ニヤニヤ。……全く嫌な笑顔だ。
 あの時私が言ったことについては、今でも間違ってはいないと思っている。だが、長の提案した通信システムの構築が、群れの防衛網の飛躍的な向上に繋がっているのは、紛れもない事実である。そのリターンを考えると、被る価値のあるリスクだったと認めざるをえない。えないのだが……やはり、私の返答はややふて腐れていたかもしれない。
「ええ、おっしゃる通りです。次の冬には戦力不足の心配はなくなるでしょうしね」
「だろう? では、賭けはこちらの勝ちかな」
「何も賭けてません」
「命かけるよな?」
「書けますよ」
 そんな他愛のない会話を繰り返しているうち、目的の場所に着いた。
 私は、そして、あの意味をなさない伝令の意味を知ることになった。

「……これはまた」
「ある程度予想できたかな?」
「まさか」
 誰にもわかるはずがない。
 優に五メートルを超える巨大な顔がそこにあった。ゆっくりだった。ユユコ種に匹敵、いや明らかに一回り大きい。
「離せぇーっ! 離すんだぜぇえええぇッ!」
 口の巨大さに見合った大きな叫びが辺りに響く。この口調から恐らくマリサ種であるらしいことが伺える。なるほど、確かに「恐らく」というのは的確な表現だった。
 何しろトレードマークたる帽子も無く、それどころか頭髪すら無かった。剃られているのだろう、丸い頭部が晒されている。正確に言うと、完全な丸ではなく、ところどころが出っ張っている。
 そして、その出っ張りの一つ一つが、十人十色の悲鳴を上げていた。
「ゆぎゃぁあ!」
「たすけて! みてないでたすけてね!」
「ゆっくりできないぃいっ!」
 ゆっくりが埋め込まれているのだった。巨大マリサの頭部に底部を埋没する形で、癒着していた。
 頭部だけではない。全身至る所に同じようにゆっくりが埋もれていた。何かの呪いで巨大マリサの身体から一斉に人面瘡が生えてきたかのようだ。眼球までがくり抜かれ、ゆっくりが代わりに収められていた。
 そして、それらが不協和音の合唱を思い思いに叫んでいるのだ。
「わからないよぉーッ!」
「ごんなのどがいはじゃないー!」
「むぎゃぁあああああ!!」
 子ゆっくりから成体ゆっくりまで、種もレイム種とマリサ種が多く見えるが、ざっと見ただけでも六種、それらが無差別に無造作に無慈悲に巨大マリサに埋入されている。そう、「されている」だ。こんな畸形の例はありえない。人の手によるものだ。
 周囲の大木ごと縄でがんじがらめにされたその侵入者を、グルリと周回してから長はフム、と一息ついて言った。
「顔だけオバケならぬ顔だらけオバケだな。こんな妖怪が確かいたな。『百人一首』だったか」
「それは妖怪じゃないです」
「土台の種はドスマリサだな。お仕置きでもされたか」
「ドス、ですか」
「そこは京都風に言ってほしかったが、まあいいか。そう、“This is DOS”だ」
 話には聞いていたが、見るのは初めてだった。成体サイズのゆっくりがさらに長く生き続けると、身体が驚異的に肥大し、身体能力だけでなく高い知能を身につけ、さらに特殊な能力を備えるようになるらしい。それが「ドス」と呼ばれる存在だ。
 実際、縛り付けてある数本の大木が暴れる巨体にギシギシと軋みを上げていることから、膂力は相当のものであることがわかる。さらに、人に何かされたということは人里から来たということになる。つまり、盲目の状態で山と森を挟む道程を踏破したのであり、体力だけでなく知能と精神力の高さも伺える。
 ドスが群れに接触したのはこれで二度目になるはずだが、私は前回事情があって見ることができなかった。ドスになるのはマリサ種が多いと聞く。つまり、今回のケースはオーソドックスなタイプということになる。つくづく前回の件が悔やまれる。無理をしてでも見ておきたかった。
「それにしても、ずいぶんと手が込んでる。これまで見た中でもベスト3に入るな」
「そうですね。どんな意味があるのやら」
「無意味なものに意味づけするのは人間の得意技だからな。だが、これに関しては意味はあるだろう」
「意味? ありますか?」
 私にはただの悪趣味にしか思えなかった。長にとっては、同好の士として通じるものがあるのだろうか。
「この異様な風体が辺りを練り歩けば、人間への恐怖を強く宣伝することになる。ゆっくりだけじゃなく、低級の妖怪にも効果が期待できるかもな」
「……なるほど」
 納得はできないが、理屈は通っている。この群れにおいても、人間に対する注意を喚起する際、この件を例として挙げれば効果的だろう。
「もちろん、ただの嗜虐性向による変態行為かもしれないがな。それにしてもこれは面白い。そうだ、この群れに畏怖の念を抱かせるために、同じ事をやってみるのはどうだ」
「やめてください」
 やっぱり悪趣味だ。
 妖怪相手か人間相手か知らないが、少なくとも私はそんな施術はしたくない。
 その時、遠巻きに見ている野次馬たちからどよめきが湧いた。ドスに目を向けると、身体の一部から黒い餡が漏れているのが見えた。潰れた突起が絶え絶えの声を上げる。「も……と、ゆっくぢしだかっ……」。そうして、事切れた。埋め込まれた子ゆっくりの一匹だった。
 ドスが感情に任せて身体を揺するのを止めなかったがため、縛っている縄に当たっている子ゆっくりは、すり下ろされてしまったのだ。その残滓も、すぐに擦られて平面と化してしまった。
 よくよく見れば、ドスの体表には同様に黒い斑点となっている箇所がいくつもある。ここに来るまでにあちこちに身体をぶつけたのだろう。黒ぶちは、先の断末魔を含んだ数だけあるわけだ。
 しかし、自分の仲間であろうゆっくりが死んでも、ドスは周りの大木を揺らすのを止めない。縛る縄がきつく張られ、弦楽器のように震える。
 四番隊の面々が落ち着くように呼びかけてはいるのだが、一向に聞く気配がない。むしろドスのパニックに拍車を掛けているようにすら思える。このままでは早晩犠牲者が増えるだろう。
 とはいえ、聞き分けのないドスだと断じるのは乱暴だ。昼夜を問わない暗闇の中で、常に身体中から発せられる無数の身勝手な叫びに囲まれ、蓄積される疲労と恐怖は癒されることはない。死ぬまで続く拷問。無明地獄。これで精神を正常に保てる方がおかしい。
「で、どうするんです?」
 宙に浮いて横に並ぶ長に尋ねる。ドスたちの叫びと軍の指示や呼びかけ、そして野次馬たちのざわめきで、辺りは雑音の結界が生じている。こうして話しかける自分の声すら雑音と化してしまわないか心配になる。
「参謀はどうしたい?」
 視線と問いを返され、私は考えた。長の中で答えは決まっているのだろうが、ただ唯々諾々と上からの指示を聞くだけでは参謀は務まらない。私は私の理を考え、示していかなくてはならないのだ。
 選択肢は大まかにして三つある。放置、殺傷、治療。このうちのいずれかだ。
 放置。つまり、このまま何もせず拘束を解く。この選択肢は外していいだろう。彼らがそのまま何もせずに、私たちの縄張りから離れることはありえない。再び危険の待つ森や山に自ら身を投じる可能性は低い。私たちに助けを求めつつ、甚大な被害をもたらすことだろう。そうなったら、結局残りの選択肢二つのいずれかを選ぶはめになるわけで、だったら始めから選べということになる。
 殺傷。それなら痛めつけて群れに近づかないように脅すか、あるいは殺してしまって後顧の憂いを断つか。確かに危険な存在ではある。だからこそ、放置できない。だが、ドスはまだ実際には群れに対して危害を及ぼしていない。一匹たりともこちらの群れには被害が出ていないのだ。「かもしれない」というだけで殺傷はできない。少なくともこの群れの掟にはそぐわない。その上、拘束して完全に無力化しているのだからなおさらだ。
 答えは決まった。
「治療しましょう」
「そうか、殺して食料を増やすのもいいと思ったが」
「嘘でしょう」
「どうして」
「台所事情に不安はありません。故に群れの規律へのデメリットが目立ちます」
 長は頷いて、再びドスに目を向けた。相変わらず巨体は激しく叫び、暴れている。
「しかし、これではインフォームド・コンセントも使えないな」
「何ですか、それ」
「外の世界の医学会では必須のスペルカードらしい」
「嘘でしょう」
「どうして」
「外にスペルカードはありません」
「確かに。すると『必殺技』の方だったかな?」
「殺してどうするんですか」
「そうだな。実は俺にもよくわからん。ともかく聞いてみるか」
 長はスッと宙を舞い、ドスの正面で停止した。
「失礼」
 いつものように鷹揚に呼びかける。
「ゆっがあぁあああ! 早く縄をほどくんだぜぇえ!」
 だが、ドスマリサの耳には全く入ってないようだった。無理もない。私の耳にも届くか届かないかという声だ。それだけ周りの雑音が酷い。必死かつ盲目のドスには自分が話しかけられているということすら理解できていないだろう。
「失礼」
 もう一度、長が呼びかける。
「ゆがあああぁあっ! 離せええぇっ!!」
 まるで聞いてない。
「少し、いいかな」
「ゆぎぃいいいいい!」
「あーもしもし?」
「がぁあああぁあッ!!」
 ――長が戻ってきた。
「生きる気力が根こそぎ奪われた」
「凹みすぎです。というか、何がしたかったんですか」
「本人たちの了解を取ってから手術したかったんだが。まあ、無理だろうな」
「無理でしょうね」
「仕方ない。事後承諾でやってしまおう」
 妥当な線だろう。落ち着くまでにドスの体力は消耗し、移植された数々のゆっくりたちにも犠牲は増える。そもそも落ち着くことがありえるのかすら不透明だ。やるなら早めがいい。
「しかし、どこでやるんです? 収容できる場所はありませんよ」
 手術は密閉された清潔な空間でやることになっている。この群れでは洞窟に手術専用の一室を設けている。ニトリ種やアリス種が中心となって建造した自慢の手術室だ。ただ、それほど広くなく、通常サイズの成体ゆっくりまでしか収容・施術できない。この群れにおいても、レティ種やユユコ種は収容不可能だ。
 彼女らに施術する際は、その巨体が入る洞窟を熱殺菌し、木組みの板を敷いて……といった風にして、臨時の手術室を設けるのだが。このドスが入ることのできる洞窟がない。ギリギリ収納できたとしても、頭部に対する施術が極端に困難なものになる。
 いや、その前にここから移動させることも難しいかもしれなかった。
「ここでやってしまおう」
 あっさりと長は言った。
「はい?」
 屋外で? 確かに曇り空で、風も吹いてないが……。
「大丈夫大丈夫。お前さんの手術の腕なら、弘法筆を選ばずさ」
「いや、しかし……」
 言葉の先をピシリと長の言葉が遮る。
「無理なら無理でいいさ。だが、無理かどうか正確に判断してから発言することだ」
 むきゅ、と口元と気が引き締まった。改めて対象を見つめる。
 瘤のようなゆっくりが潰れた箇所。そこから漏れた餡は流れ出ていない。中身は流動体でなく、固形物よりだと言える。化膿の様子は見られない。一部、皮膚の再生が始まってもいる。そして、相変わらず四方八方にまき散らされる絶叫はかしましい。
 結論、
「可能です」
「よし、流石は『森の賢者』だな」
「その呼び名は止めてください。フクロウの別称じゃないですか」
「じゃあ『森の人』というのはどうかな」
「オランウータンも勘弁です」
 長は茶化しているが、私の見識程度は既に持っていただろう。どこで試されるものかわかったものじゃない。気の抜けないところだ。
「さて、それでは対象を大人しくさせようか。このまま手術しようとしたら、患者を量産することになるからな。どうする、チルノ種に凍らせるか? 『生きながら一つに氷る海鼠かな』みたいに」
「長、患者に対して不遜ですよ」
「いや、いまのはブソンでなくてバショウ……」
 戯言に最後まで耳を傾けず、私は麻沸散の指示を出した。同時に、献餡や医療班などについても指示する。滅多にない大がかりな手術だ。辺りがそれまでとは別種の慌ただしさに包まれる。だが、その時の私は、自分でも不思議なほど緊張していなかったと思う。



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最終更新:2022年05月04日 22:49