そのゆっくり一家は運が良かった。
エサも取れず衰弱し、巣も確保できず薄汚れ、誰の施しも受けること叶わず、誰の関心も惹かぬまま、人間の生活圏内の片隅で、静かにその生涯に幕を降ろすだけの存在でしか無かったのに、

「ゆぅ……おにぃしゃん、たすけて……れいむたちを、だずげでね……」

偶然出会った一人の青年に、その命を永らえさせてもらえたのだから。










青年がゴミ捨て場の片隅から拾って来たのは、成体れいむとまりさ夫婦とその子供達二匹という、ゆっくりの一家だった。
既に生ゴミは回収された後だったあの場所で、ボサボサに乱れた髪と汚く薄汚れた髪飾り、かつての弾力も失っていた皮を持つその一家は、今にも命運尽き果てようとしていた所だった。
子れいむと子まりさは既に目に生気を持っておらず、「ゆひゅー、ゆひゅー……」と小さく息を吐くばかりだったし、親れいむと親まりさも、既にそんな子を助ける気力も体力も無かった。

常の青年ならば、こんなありふれた、悲劇とも喜劇ともとれぬ事態に見舞われた饅頭の命なぞどうでもよい存在とばかりに無視しただろう。
だが、それをしなかったのは、それをせずにわざわざ拾って助けようなどという気まぐれに見舞われた原因は、親ゆっくり達の髪についていた存在にあった。

金バッジ。
ペットとして飼われているゆっくりには、髪飾りや帽子にバッジをつける慣習がある。
これは首の無いゆっくりにとって、他のペットにとっての首輪に相当する物だ。
普通ならば、ただそれのはずだった。逃げ出したのか捨てられる際に飼い主が取り忘れたのか、ただ元飼われゆっくりという事を示す存在でしか無かったはずだ。

だが、ことゆっくりのバッジには一風変わったモノがあった。
金バッジ、銀バッジ、銅バッジ。ゴールド、シルバー、ブロンズ。
飼いゆっくりがどれだけ人間に、人間社会に迷惑をかけないように躾されたのかその度合いを表すシステムだ。
最初はどこかのゆっくりブリーダー達が、仲間内でゆっくりの調教の度合いを示すために作っただけのシステムでしかなかった。

だが、次々に他のブリーダー達も便利そうだ、面白そうだ、などとそれを真似始め、徐々にそれは広まっていった。
ゆっくりの調教や躾に詳しく無い人も、ゆっくりに付けられたバッジを見ればどの程度躾をされていたのか一目で分かると好評だった。
ゆっくりは人語を喋る。非常に拙いそれだし、価値観が人間と違うので必ずしも意思疎通が出来るというわけではないが、お互いに言っていることはある程度理解できる。

これは長所でもあると同時に短所になりえた。人間に比べて遥かに理性が足らないのに、そんな言語という道具を持てば、それは悲惨なことも起こる。
空気を読まないワガママ発言は言うに及ばず、挙句には何処で覚えたのか口汚い暴言を吐くことさえある。
そんな、他の動物に比べて躾ける事が遥かに多く、また物覚えが猫、いや猫以上に悪いという性質も相まって、ゆっくりは躾をすることが難しいペットとされてきた。

そんなゆっくりを、困難に立ち向かわんとするブリーダー達は競って躾けてきた。他人に迷惑をかけぬよう、人間を不快にさせぬように。
それは一見人間のエゴの押し付けにも見えるが、ゆっくりに圧倒的強者である人間の怒りを買わずに済ませる術を学ばせる、ゆっくりの身を守る意味も持っていた。

そんな、手間のかかるゆっくりという存在と、ゆっくりの躾けに心血を捧げてきた人たちの存在が生み出したバッジシステム。
今や非公式とはいえ半ば公式化しているそれは、ゆっくりを飼う人間にとっては常識となっている。
飼っているゆっくりには必ず色付きバッジを。その大半はブロンズかシルバーだったが、稀にゴールドバッジを付けたゆっくりがいた。

ゴールドバッジ──それは一級の躾けを受けた、ゆっくりの中でも最高峰の礼儀正しさと可愛さを併せ持った存在であると示すモノだ。
そんな、飼いゆっくりにとって、ゆっくりを飼う者にとって一種の目標とも言えるゴールドバッジを、一家の両親がその髪に付けていたのである。

普通、ゴールドバッジを持てるまでに躾けられたゆっくりは捨てられない。
何故捨てられたのか、そこには何かしらの事情があったのかもしれないが、それを知る由は青年には無い。
だが、そんな稀有な存在は、青年の興味を惹くのに充分であった。

「ほら、まずはこれでも飲め」

自分の住む1LDKの一室にゆっくり一家を連れてきた青年は、衰弱した一家を床に敷いた新聞紙に置いてやると、深皿にオレンジジュースを注いで一家の前に置いてやった。
ゆっくりを回復させるには甘いモノが一番。
本当はお菓子の方が回復が早いのだが、ここまで衰弱していれば咀嚼するのも一苦労だと思い、青年は手軽に飲めるジュースを与えたのだ。

親れいむと親まりさは目の前に差し出されたオレンジジュースを見て、次いで青年の顔を見上げると、その目にジワリと涙を浮かばせた。
子れいむと子まりさは、既に青年に気付かないまでに衰弱していたのか、オレンジジュースの存在を嗅ぎ取るやいなや、ずりずりと体を這わせて、顔を突っ込むようにオレンジジュースを飲み始めた。

見れば子ゆっくり達にはバッジが無い。子供を産んだから捨てられたのか、捨てられてから産んだのか。
どちらかは分からないが、この子ゆっくり達は躾を受けていないのは確かだろう。
だが、どちらにせよここまで切羽詰った状況では、たとえ躾けられていようともその成果を示せというのは、酷な話だ。

青年がそんな風に子ゆっくり達を観察していると、親れいむと親まりさも、その体をずりずりと這わせてジュースの皿に群がった。
子ゆっくりと同じようにガブ飲みするのかと思っていた青年は、少し虚をつかれた。

「ゆぅ、おにいさん、ありがとう……ゆっくりできるよ……」

二匹が青年を見上げて、そう礼を言ったからだ。
そんな有様なのに、尚礼を言える。流石はゴールドバッジだと青年は感心した。
青年はゆっくりについては一般人程度の知識しか持ち合わせていないが、成る程、確かにこれほどならばゴールドバッジ取得は難しいと言うのも得心できる。

青年は前から一度ゆっくりを飼ってみたいと思っていた。
それはどうしてもいうほど切実ではなく、機会があれば、と言った程度で、自分で躾けるのも面倒そうだと辟易していた。
それがどうだ。既に一級品に躾けられたゆっくりが無料で手元に転がりこんできたではないか。
まさに棚から牡丹餅だ。

子ゆっくりは恐らく躾けられていないだろうが、子は親を見て育つもの。
既に躾けられた親を持っていれば、普通に躾けるよりも遥かに楽だろう。
自分勝手といえば自分勝手だ。そんな動機で命を助けるのかと非難されもするかもしれない。

しかし、そんな自分勝手のお陰で、このゆっくり一家の寿命が伸びたことは事実なのだ。









オレンジジュースを飲んでいくらか回復したゆっくり一家に、青年は自分の家に住まないかと提案した。
一緒に住むのならば、相手の同意を求めたほうが良いに決まっている。
普通のペットならばそれは望めない考えだが、言葉の通じるゆっくり相手ならばそれが出来る。

命が危ないところを助けてもらい、更に食住と命の安全が保証されるという提案。
さっきまで地獄の淵に居たゆっくり達に、これを断る理由は無かった。

「ゆっ、おにいざん……ありがっ、ありがどう……」

ゆぐっ、えぐっ、と感涙を零しながらそう言う親達を見て、子れいむと子まりさも「ありがちょう」と礼を言った。
これならばお互いに良い関係が結べるだろう。青年はそう思いながら、ゆっくりが今晩寝るための毛布を用意してやったのだった。







衰弱した体が回復して、命の危険から解放された安心感からか、礼を言った後一家は揃って眠りについてしまった。
青年は無理もないかと小さく微笑みながら、毛布を取りに言っている間に眠ってしまった一家に優しく毛布をかけると、明日の事を考えながら眠りについた。
それは、一家を歓迎する準備のことだった。

翌朝、土曜日。この日は青年の仕事も休みだ。
部屋に差し込んで来た朝日を浴びて、親れいむはもぞもぞと起き出した。自分にかけられていた毛布から這い出ると、昨日の事は夢ではないのだと涙した。
一体、こんなにゆっくりと眠れたのは何時以来だろう。温かい部屋と柔らかい毛布。
いつ死んでもおかしくない野良生活。毎晩毎晩怯えながら眠りにつき、起きる度に生きていることに感謝していた日々。

そんな、そんな生きることが苦痛にさえ思えてしまう日々と、ようやく別れることが出来たのだ。
生きてさえいればいつかきっと幸せになれる。そう信じて、信じきれず生きることを放棄してしまいかねない中、信じきって今日まで来た。
信じる者は救われる。親れいむは神の存在など知らないが、教えられればきっと神を信仰することだろう。

親れいむは、そんな今の幸せを噛み締めながら、生きていることに感謝して、まだゆっくり出来るのだと喜びで体を一杯にして、その喜びが体の外にもれ出たかのように、大きく口を開けた。

「ゆっくりしていってね!!!」

ゆっくりがゆっくりと呼ばれる所以。ゆっくりが事あるごとに言うそれを、親れいむは部屋中に響き渡るように発した。
一体、こんなに大声で、ゆっくりとした「ゆっくりしていってね」を言えたのは何時以来だろう。
野良生活時には言う暇すら無く、言っても外敵に見つからぬように小さく発していただけだった、この言葉。
それを、こんな風にまた幸せに満ちた状態で言える日が来た。その事実に親れいむは現状を再認識して、再び涙した。

親れいむの声に反応したのか、親まりさも子れいむも子まりさも起き出してきた。
柔らかい毛布から這い出て、温かい日差しに包まれた部屋にてその身を起こす。
親まりさも子達も、そんな幸せを、ゆっくりを表したかのような今の環境に、涙して、親れいむと同じように、幸せを込めて声を発した。

『ゆっくりしていってね!!!』

「お、起きたか」

親まりさと子達が幸せ一杯の「ゆっくりしていってね」を言ったのと、青年が帰ってきたのは同時だった。
青年はゆっくり達が寝ている間に外へと買い物に出ていたのだ。時間は既に午前十一時。野良生活の時には考えられないほどゆっくり達は寝ていた。
青年がその手に持っていたのは、昼食の材料が詰まったスーパーの袋と、白い箱。

それは青年が新たな家族を歓迎するために用意したものだった。
昼食はそれほど料理に自身があるわけでもないが、それでも腕によりをかけてやろうと意気込んだ青年の手料理。
そして、ゆっくり達の大好物である甘味の、その代表格とも言え、祝い事には必ずと言っていいほど用意される、ケーキだ。

「ゆゆっ、おにーしゃん、それなぁに?」

早速好奇心旺盛な子まりさが目ざとくケーキの箱に気付いた。
青年はそれに対して楽しそうに笑うと、「これはな」と言いながらケーキの箱をゆっくり達の目線に合わせるように床に置いた。
子れいむも子まりさも、親れいむも親まりさも注視する中、青年は嬉しそうにその箱を開こうと手をかける。
親二匹はもしかしたら既に気付いているかもしれない。これまでの飼い、もしくは野良時代に見たことがあるのだろう。
その目は箱の中身を知っているかのように、輝いていた。

青年は童心に帰ったかのように「じゃーん」と言いながら箱を開く。
箱の中身はイチゴを乗せ、純白のクリームをこれでもかと塗られ、盛られたショートケーキだった。

「ゆゆぅぅぅぅぅぅ!!!」

ゆっくり達はその目を目一杯見開かせ、狂喜の声を上げた。
親れいむと同じぐらいの大きさを持つケーキ。ゆっくりの大好物、甘味、あまあま。
それが今、目前にあるのだ。ちょっと顔を出せば届く範囲にある。
野良時代に食べてみたいと零し、結局欠片も口に入れることすら叶わなかったソレがある。

親達はかつて口にしたその味を思い出し、子達は生涯一度として口にしたことのないその味を夢想して。
ゆっくり一家はそろって涎を垂れ流しながらも、すぐにはがっつかなかった。
それはかつて生ゴミではない、綺麗な食べ物に食いつこうとして人間にしこたま殴られたトラウマから来る自制だったのだが、青年はそれをよく出来た躾の成果だと思った。

青年は広げたケーキを一度床からひょいと、離してテーブルの上へと置いた。
その際遠ざかるケーキを物欲しそうな目で追っていたゆっくり一家に再び微笑ましさを感じて、青年は口元を綻ばせた。

「これはお前らを歓迎する、俺からの気持ちだ。皆で食べような」

そう言った瞬間の、ゆっくり一家の笑顔は青年がこれまで見た中で一番のゆっくりの笑顔だった。

「ゆゆ~♪ あまあましゃん、あまあましゃん♪」
「れいみゅ、たべたい、れいみゅたべたい~♪」
「ゆっくりありがとう、おにいさん!」
「とってもゆっくりできるよ!」

ゆっくり一家は喜色満面で青年の足元へと群がってきた。
青年は足元に感じるこそばゆさに笑いながら、

「まぁ待て。まずは体を綺麗にしてからな」

と、ゆっくり達に言い聞かせた。
そう聞いて子れいむと子まりさは「ゆっ?」と首を傾げた。
無理もないのかもしれない。この子ゆっくり達が綺麗だった時なんて、母親の体の中に居た時か生まれた直後しかないのだから。
それとは対照的に親れいむと親まりさは再び目を輝かせていた。きっと、飼い時代の入浴経験でも思い出しているのだろう。

「じゃあ、風呂の用意してくるから、大人しく待ってろよ。つまみ食いしたらダメだからな」

今年五歳になる甥に言い聞かせるように優しくそう言うと、青年はキッチンを去って風呂場へと向かっていった。
後に残されたのは箱を開かせたケーキと薄汚れたゆっくり一家。
残されたゆっくり一家は当然、ゆっくり待とうとした。
だが、甘味を求める本能が、昨日まで絶望のどん底にいた幸せを求める渇望が、ゆっくり達を動かした。

親れいむは子れいむを、親まりさは子まりさを自分の口に入れさせた。
そして、跳ねる。ひかれていたイスを中継地点にして、ケーキがあるテーブルの上へと飛び乗ったのだ。
そして、口を開いて子達を出す。一家揃って、並んで、テーブルの上にあるそれを凝視する。

ショートケーキ。あまあま。ゆっくり出来るもの。
それを、一時でも長く見ていたい。ただ待つにしても、ずっとそうしてゆっくり待っていたい。
すぐにはがっつかない。青年の言いつけがあるからだ。
でも、この溢れる涎は我慢しがたい。

「ゆゆ~、とってもおいししょうだよ……」
「まりさおかーしゃん、あれおいしいよね?」
「そうだよ、と~~~ってもゆっくりできるんだよ~」
「とってもあまあまさんなんだよ~」

ゆっくり一家は揃って口を阿呆のように開き、口の端から砂糖水の涎をテーブルに垂らしている。
無理もない。昨日まで口にしてきたのは苦い雑草か虫の死骸、たまに食べられるご馳走は生ゴミぐらい。
ようやく口にしたマトモな物はわずかなオレンジジュースのみ。
そんな状況で、目の前に親ゆっくりにとって待望の、子ゆっくりにとって未知の甘味を出されれば、涎が出るのもやむなしだ。

「ゆゆぅ、れいむおかーしゃん、まりしゃあれたべたいよぉ……」
「ゆゆっ! だめだよ、おちびちゃん。おにいさんとのやくそくだよ!」

一歩、ケーキへとにじり寄ってそう言った子まりさを、親れいむは慌てて嗜めた。
そう、それはダメだ。人間の言いつけを破っては、絶対にいけない。そのせいで、自分達はあの生活から突き落とされたのだから。

「でも、れいみゅもうがまんできないよ……」

子まりさに続いて、子れいむもそう涎を垂らしながらケーキへとにじり寄った。
親れいむも親まりさも、その姿に胸が苦しめられる思いに駆られた。

ずっと、ずっと苦しんできた我が子。産まれてからずっと、ゆっくりを知らない哀れな子。
かつて一時でも幸せを享受してきた自分達とは違い、一度たりとも幸せの味を知ったことのない子達。
そんな、そんな子達の前に今、その幸せの味、ゆっくり出来るあまあまがある。それを、前にして我慢しろと言う。
なんて、拷問か。なんて、哀れなのか。
そう思うと涙が溢れるのを我慢出来ない。でも、大丈夫だ。あと少し、ほんのあと少し我慢すれば、それを腹いっぱい食べることが出来るのだ。

「ゆゆっ、だめだよ。ゆっくりがまんしてね」

親まりさは今すぐにでも食べさせてあげたい気持ちを堪えて、苦しげにそう言い聞かせた。
子れいむも子まりさも、寂しげに振り向いた。その、親まりさを見る目には「でも……」と言った切望の気持ちが満ち満ちている。
親れいむも親まりさもそれで、折れた。心が折れた。
ずっと、自分達はどうなってもいいから、子供達は幸せになってもらいたい。ゆっくりしてもらいたい。

毎日毎日、そう願いながら生きるために跳ねた。毎晩毎晩、そう願いながら明日も生きていることを願って眠りについた。
その願いが今、叶えられる所まで来ている。ほんの、ほんの少し体を前に出せば口に入れられるところまで来ている。
そうして目の前には、これまで不幸しか知らず、目の前の幸せを噛み締めたいと切に願う我が子の姿がある。
これで、尚我慢しろと言うには、親れいむも親まりさも不幸を知りすぎていた。

「ゆぅ、じゃあ、ちょこっとだけだよ。ちょっとなめるだけだよ」
「あとはおにいさんがきたらいっぱい、むーしゃ、むーしゃしようね!」

ほんの少し、舐める程度なら。バレない程度ならば大丈夫。
それでバレてしまっても、こんなにお腹を空かせた子達相手に本気で怒るほどあのお兄さんも鬼ではないはずだ。
そう信じて、親れいむと親まりさは許可した。
その瞬間、子れいむも子まりさも指で弾き飛ばされたかのようにケーキへと突っ込んでいった。

勢い余って、ケーキへと顔面を沈み込ませてしまう。一瞬親れいむと親まりさが心配して身を乗り出したが、その直後に

「ちあわちぇ~~~♪」

と喜び跳ねた子れいむの姿を見て、ほっ、と胸をなでおろした。
子れいむは顔面をクリームまみれにして、その甘さと美味しさを目一杯表現しようとケーキの周りを跳ねている。
その顔はまさしく、ゆっくりしていた。

「ぺ~ろ、ぺ~ろ、ちあわちぇ~♪」

子まりさはまるで中毒者のように一心不乱にケーキのクリームを舐めている。
口一杯に広がるそのケーキの甘みに、一舐めごとに昇天しかねない程だ。目の淵からは幸せのあまりに涙が零れていた。

親ゆっくり達はそんな我が子の姿を見て、胸が幸せで満たされるような気持ちになった。
長かった野良生活の苦しみを思い出し、目の前の我が子の幸せな姿を見て、ホロリと雫を零す。
そんな、感動に打ち震えていた親ゆっくり達に子れいむは、言った。

「おかーしゃんたちもいっしょにぺーろぺーろ、しようっ!」

その提案をどうして断れようか。今まさに幸せが目の前にある。その幸せを一緒に味わおう。
最愛の我が子からの、愛に溢れるこの誘いを断る理由がどこにあろう。
親れいむも親まりさも、ふらふらと蜜に誘われる蝶のようにケーキへとにじり寄ると、ペロリとクリームを一舐めした。

「し、しあわせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

親れいむは涙した。親まりさは歓声をあげた。
久しく口にした、記憶の片隅に、忘却の淵へと追いやられた味が口の中に広がる。その幸福の奔流を、止めることが出来ない。
この圧倒的な甘さの前に、一体どれだけかつての躾が役に立つだろう。
気付けば親まりさはケーキの上に乗っていたイチゴを口の中に入れていた。

「む~しゃ、む~しゃ、しあわせ~~~♪」
「ゆゆ~、まりしゃおかーしゃん、れいみゅも~!」

当然、そのつもりだ。自分が先に食べてしまったことを侘びながら、親まりさは別のイチゴをくわえて子れいむの前に差し出した。
子れいむは自分の体の半分程もあるイチゴをその小さな口で思いっきり口に含むと、先ほどクリームを舐めた時と同等、またはそれ以上に跳ねて喜びを表した。

「し、し、し、しゃ~わちぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

親れいむは気付けばクリームがふんだんに塗られたスポンジを口に含んでいた。

「む~しゃ、む~しゃ、しあわせ~~~♪」
「ゆゆ~、れいみゅおかーしゃん、まりしゃも~!」

当然そのつもりだ。自分が先に食べてしまったことを侘びながら、親れいむは子まりさを咥えてケーキの上に置いてやった。
子まりさは自分の体より遥かに大きいショートケーキに、体全体を使って咥えついた。子まりさもまた、体中にクリームをつけながら、飛び跳ねる。

「しあわちぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
良かった。あぁ、生きていて良かった。
こんな、こんな幸せを味わうことが出来るのならば、諦めず生きてきたあの絶望の日々も、無駄では無かった。
そう信じて再び感動の涙を零していたゆっくり達は、その一言で我に返った。

「あっ、お前たちつまみ食いしたな!」

ゆっくり達の嬌声を聞きつけて風呂場から戻ってきた青年のその声に、親れいむと親まりさはビクゥ、と身を飛び上がらせた。
そして、青年の言いつけを思い出す。つまみ食いしたらダメだ、というあの言葉を。
ガタガタと全身を震わせ、先ほどとは違う種類の涙をボロボロと流す。
そして、幸せから一転、恐怖に全身を支配されながら振り向いた二匹を待っていたのは、予想外の言葉だった。

「……まぁ、しょうがないか。長いことケーキなんて食べたことないだろうしな。冷蔵庫に仕舞わなかった俺が悪かった」

いくら躾けられていようとも、こんな極限状態では自制が効くまい。理性ある人間だってどれだけそれが出来るか。
欠けたケーキと飛び跳ねたことでテーブルの上に散らばったクリームを見て苦笑いしながら、青年はビクビクと震える親れいむの頭に手を置いた。

「まぁそうビクビクするな。怒ってないから。それよりクリームで更に汚れちゃったな。先に風呂にしよう」

頭を撫でながら優しく言う青年の言葉に、親れいむはきょとん、とした。
親れいむが予想していたのとは、違う言葉だったからだ。
親れいむと親まりさは飼い主の言いつけを守らず子を作って家を追い出された。
だから、人間の言いつけを破ることがどれだけ恐ろしいことかと認識していた。それでもケーキを破ってしまったのは、ゆっくりの性か。

我に返ってその恐ろしさを想起させた親れいむと親まりさは、またあの不幸のどん底に叩き込まれるのかと戦々恐々したが、そうはならなかった。
その事に安堵し、優しいおにいさんに拾われて良かった、と再び涙した次の瞬間。
























その瞬間から、この一家は再び坂を転げ落ちることとなる。
かつて居た場所へと、再び舞い戻ることとなる。


「あれ、お前ら……このバッジ……」

ゆっくり達を風呂に連れて行こうと、親れいむを持ち上げた時だった。青年がようやくそれに気付いたのは。
親れいむと親まりさがつけていたバッジ。最高の躾をうけた証であるゴールドバッジ。
それが、なんで髪飾りではなく髪についているのか。青年にとっては些細な違いで、すぐには気付かなかった。
親れいむを持ち上げて、その姿を眼前で見てようやく気付いた。

金バッジが、髪飾りについているのではなく、ボサボサになった髪に絡みつかせるようについていることに。

この金バッジは、元々親れいむと親まりさの物ではなかった。
このバッジを持っていたゆっくりは、既にこの世に居ない。
このバッジの持ち主だったゆっくりは寿命で永遠にゆっくりすることとなった。
そうして用済みとなったバッジは、ゴミとして捨てられたのだ。

親れいむと親まりさはゴミ捨て場からそのバッジを取って、なんとか自分達の髪に絡みつかせたにすぎない。
親ゆっくり二匹は、元飼いゆっくりの経験から、このゴールドバッジが一級のステータスだと知っていた。
だから、このバッジをつけていればもしかしたら誰か拾ってくれるかもしれない。そんな淡い希望を持ってバッジをつけた。

そうして最初に出会ったのが、この青年だったのだ。

「このバッジ、お前たちのじゃ……」

普通、ゴールドバッジゆっくりは捨てられない。
たとえ飼い主がなんらかの原因で飼えなくなったとしても、ゴールドバッジならば引く手数多だからだ。
万が一捨てられることがあったとしても、バッジは取り上げられた上で捨てられる。それがマナーだからだ。
野良ゆっくりは駆除対象である。そんな駆除対象がゴールドバッジをつけていたら飼いゆっくりかと勘違いして手を出しにくいから。

「お前たち、俺を……」

騙したのか、という声は出ない。
ゆっくりごときに騙されたという事実を認めたくないように。
この程度の偽装を見破れぬ知識しかないことを認めたくないように。

こんな、子供だましで騙された。こんな子供じみたやつらに騙された。
人の優しさにつけこんで、騙して、施しを受けようとした。

「ゆっ? おにいさん……?」

青年の手が震えていることに親れいむは気付いて首を傾げた。
だが、覗き込むようにして見た青年の顔を見て、親れいむの顔は疑問から恐怖、そして絶望へと歪んでいく。
そうして青年は、一家から一切の希望を怒りに任せて奪い取っていった。


























「ゆぐっ、えぐっ、まじゅい、まじゅいよ゛ぉ…………」

また、生ゴミの汁をすする日々がやって来た。
薄汚く汚れ、いつ死ぬのかとビクビクし、生きて起きることさえ保証されない日々が。
しかも、今回は前よりも更に悲惨。辛うじて生命を繋いでいた生ゴミや雑草さえ、満足に食べられないからだ。

青年の家で食べたあのショートケーキ。あれは青年が奮発して買ってきたかなりの高級品だった。
それを幸せに頬張って肥えた舌では、かつて食べていた草や虫の死骸、生ゴミなど既に食べられたものではなかった。
親れいむと親まりさはかつて同じような経験をしたから、まだ慣れる可能性があるかもしれない。
だが、多感な子ゆっくりはそうでない。

「ゆ゛っ、ゆげぇ……ゆぶぅ……」

空腹に我慢できず生ゴミの汁をわずかに口に含んだ瞬間、過度なストレスで餡子を吐き始めた子まりさ。

「ゆえ゛ぇぇぇぇぇぇん、まりじゃぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!! じっかりじでぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛!!」

子れいむはそんな子まりさの傍らでわんわん泣き喚いている。
親まりさと親れいむはそんな子を助けたく、でもどうしようもなく涙目でオロオロとしている。
その髪には金バッジはもうない。青年に、絡みつかせていた髪ごと奪い取られたのだ。

勢い任せに引き抜かれた際、髪ごと頭皮の一部も引きちぎられていったのだ。

「泥饅頭風情が、よくも謀ったな!」

青年は親れいむと親まりさから最後の希望であったバッジと髪と、頭皮の一部を奪い去ると、ゴミ袋に一家を詰め込んで、ありったけの暴行を加えた末にゴミ捨て場へと放り込んだ。
青年は確かに一度は一家を拾って育てようとした。
しかしそれは、躾ける手間が省けるかもしれないという利己的なもの。
捨てたのもまた、そんな目論見が外れて、しかもゆっくりごときに騙されたという怒りから来た利己的なもの。

青年が一家を拾って飼おうと思ったのは、そもそも親ゆっくりが金バッジ持ちだと思ったから。
そうでないならば、青年が一家を飼ってやる理由は無くなる。
それに青年が一家を助けようと思った理由には、強者が弱者へ行なう施しの意味合いも持っていた。
圧倒的強者が弱者へと行なう、助ける者が助けられる者へと行なうもの。一種の優越感を含む行動。
だというのに、その圧倒的弱者に謀られた。この事実は青年の自尊心を著しく傷つけた。
それでも尚一家を助けようと思うには、青年の器は大きくなかった。

その程度の気持ちで命を拾おうとしたのかと非難されるかもしれない。
だが、ゆっくり達が利己的な打算で人を騙そうとしたのもまた、事実なのだ。

親れいむと親まりさはボコボコに殴られた体で、それでもなんとか死力を振り絞ってゴミ袋を食い破った。
あと数十分食い破って逃げるのが遅れていたら生ゴミとして業者に処理されていたことだろう。
しかし、それが良かったのか悪かったのか。

生き延びることは出来たが、更に苦しむことになるというのに。
人間に見つからぬように、ずりずりと音を立てずに這って逃げた。
音を立てないように気を配っていたが、堪えきれない嗚咽と子ゆっくりの「そろーり、そろーり」という声で人間の子供に見つかり、玩具のように、サッカーボールのように蹴り飛ばされた。

それでも、それでも必死に体に鞭打って、生き延びようと、あるはずのないゆっくりを求めて彷徨った。
彷徨う先に、ゆっくりなどないのに。
そうして数日彷徨った果てにようやく生ゴミを見つけた結果が、瀕死の子まりさである。

雑草も、虫の死骸もダメだったがかつて人間の食べ物であった生ゴミならばあるいは、という淡い幻想は粉々に打ち砕かれた。


一家はかつて、希望を持った。こんな生活から脱して、人間に再び飼われる日々が来るという希望を持った。
希望は絶望を二乗させる。あんな希望を持ちさえしなければ、こんな悲しみに涙することもなかったかもしれないのに。
既に一家に笑顔は無い。あるのはただ、苦悶の呻き声と涙だけだ。

かつていた地べたから引き上げられた。引き上げられて、とてつもない高所からかつていた地べたへと叩きつけられた。
一度は掴んだ幸せな生活、夢。
ようやく叶ったと、幸せな生活が出来ると思ったのに。目の前まで来て、その幸せの欠片を味わう所まで来たというのに。
それら全てを目の前で破壊され、奪われ、また元の場所まで叩き落された。

心が死んでもおかしくない。それでも、それでも一家は心を死なせることなく足掻いた。
足掻いて、今苦しんでいる。

このゆっくり一家は運が良かった。
凶運も悪運も、運には違いないからだ。

親まりさは痙攣しながら餡子を吐く子まりさを、涙をボロボロと流しながら運んでいく。
なんとか見つけた、ダンボールハウスへと連れ込んで、回復しますようにに祈る。祈るしかなかった。
親まりさも親れいむも子れいむも、なんとか子まりさが元気になりますようにと、ダンボールハウスの中で身を寄せ合った。

身を寄せ合って、なんとか明日も生きて目を覚ますことが出来ますように、明日こと幸せが訪れますように、と目を瞑った。
この一家が出来ることなど、既にそのぐらいしかない。祈るだけだ。信じるだけだ。いつか報われると信じて、泥水をすすって生き延びるだけだ。

だが。この一家に再び幸せが訪れることは絶対にない。
翌朝一家を迎えるのは、家族が欠けるという不幸のみである。






おわり

─────────────────────

あとがきのようなもの

本当は4月1日に投下する予定でした




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最終更新:2022年04月16日 23:54