「ねぇ、お父さん。
 ちょっと寄ってほしいとこがあるんだけど、いい?。
 信号二つ先のとこの……」

「ペットショップか?ゆっくりの餌なら、この間買ったばかりだろ」

「餌じゃないの。
 足し算を覚えたら外に出してあげるって約束しちゃってさ。
 ちょっといろいろ買わないと……」

「馬鹿なことを言うんじゃない。
 観賞用だぞ、アレ以上は成長しないんだ。
 つまむだけでも危ないのに、外になんて出せるわけが……」

「治療薬があるってグー■ルが言ってた」

「グーグ■は人間じゃないだろう。 
 それにしても、お前。
 本当に外で飼うつもりなのか?
 前の……」

「……それってさ、
 小学生の時のことじゃないのよー。 

 大丈夫だってば。
 ずーっとケースの中なんて、軟禁みたいで可哀想でしょ。

 ……って。
 お父さん。
 信号。信号変わってるよ。
 うわ、煽られてる。すっごい煽られてる」

「いかんいかん。
 ……それで、■■子。
 本当にわかって言ってるんだろうな?
 母さん、どう……」

「寝てるってば。
 疲れてるんだからそっとしてあげようよ。
 それに、シツケとかなら心配ないってば。
 あの子、けっこう頑張り屋だもん。
 ケースの中の片付けとか掃除とか、全部あの子がやってんのよ?
 十までの数も覚えたし……今は足し算にチャレンジしてるの。
 運動だってさぼんないし。ホント頑張ってるんだから」

「驚いたな。
 足し算引き算ができるなら、銀バッヂにも手が届く。
 あのサイズでそれだから、育ったらきっとすごいことになるな。
 父さん、少し見直したぞ」

「へへー。 
 ま、本当に頑張ったのはあの子だけどね。
 お母さんも納得の秀才ぶりなんだから。
 あれなら絶対良い子になるわよ」

「黙っていると思ったら、当の昔に説得済みか。
 道理でさっきから、薄目を開けて見てるわけだな。
 ……不思議そうな顔をするんじゃない。
 バックミラーで丸わかりだ」 

「実は、私一人でお父さんを説得することが条件だったのよ。
 お母さんは試験官だったってワケ……で、お父さん?」

「……ズルいな、母さん。
 ここで反対したら悪者になるのは俺だけなんだろう?
 まあいい。ちゃんと躾けた■■子に免じて許す。
 ……と、ここか。
 早く買い物を済ませてくるんだぞ。
 予約の時間に間に合わなくなる」

「っしゃー!
 じゃ、行ってくるね……っとぉ!
 忘れてた忘れてた。
 ついでにお薬代もちょうだいね。
 バッジ試験の用紙ももらってくるね。
 署名とハンコもお願いね。
 じゃ改めて行ってきまーッス」

「……」








 れいむは叫ぶことも忘れて、まりさの事をぽかんと見つめた。

 とても、不思議だと思う。
 今の今までただの一度も他のゆっくりにあったことがないのに、ま
りさのことはまりさだと分かる。
 けれど、答えなんか出るわけもない。
 誰に習わなくてもれいむがお話できるのと、同じようなものだろう。

 れいむはゆっくり理解すると、視線をまりさに差し向けた。
 柔らかそうなほっぺは白いが、よくよく見るとあんよのあたりに、
黒く汚れが滲んでいる。
 尖った黒いお帽子は中ほどからへし曲がっており、ところどころに
穴が開いていた。



(れいむ。 
 ゆっくりには色んなゆっくりが居るんだけど──)



 もしかして、まりさは『野良』のゆっくりなの?
 野良のゆっくりはゆっくりできない。
 ゆっくり殺しのご飯泥棒。
 おうちを荒らす怖い存在。

 けれど、まりさの目は綺麗だ。
 目だけは透き通るような色をしていて、まるで水の雫のよう。
 こんな目をしているゆっくりが、悪いゆっくりであるはずがない。
 野良のゆっくりは汚いけれど、まりさのお目目はとても素敵だ。
 ならば、まりさは野良ではない。
 れいむはゆっくりと決心して、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「ここはれいむたちのゆっくりぷれいすだよ!
 ゆっくりしていってね!」

 叫ぶ。
 まりさははっとしたように、れいむの方に視線を向けた。
 お部屋の中に這い入ってくる。
 土に汚れたまりさのあんよが、草で編まれた地面(たたみ)を踏んだ。

「ゆゆっ?
 がけさんのうえにあかちゃんがいるよ?」

 そして、不思議そうに首をかしげる。

「れいむのあかちゃん。
 ここはあかちゃんのぷれいすなの?」

 声がまりさに届いたことに、れいむはゆっくりと安堵した。

「れいむとおねえさんのぷれいすだよ!
 まりさたちもゆっくりしていってね!」

 れいむの言葉に、まりさはスッと目を細めていた。
 すごくいい顔で笑っている。
 お姉さんとおんなじ顔だ。

「おちびちゃんありがとうね!
 ゆっくりしていくよ!
 ありす!
 あかちゃんたちー!
 がけさんのうえにあかちゃんがいるよ!
 ゆっくりあいさつしていこうね!」


 まりさの言葉に安堵したのだろうか。
 三匹ほどのゆっくりが、列を成して入ってくる。
 大きなありすに小さなまりさ、小さなありすが二人ほど。
 小さなゆっくりは、恐らく子供なのだろう、れいむと同じ大きさだ。
 大人のゆっくりと比べてみると、その小ささがよく判る。
 れいむは小さく苦笑した。
 お外に出してくれないわけだ。
 何かに踏んづけられてしまったら、潰れて死んでしまいそう。

「ゆゆっ!あんなところにあかちゃんのれいむがいるわね!」

 甲高い叫びを上げたのは母ありすだ。
 れいむの赤ちゃんに挨拶しようね、とにこやかに子供たちを振り返る。
 だが、その子供達はと言えば、

「あきゃちゃんどきょにゃにょ?」
「ゆーん?みえちゃわ!
 ちっちゃいれーみゅがいりゅわにぇ!」
「まりしゃにみょ、みえちゃのじぇ!
 ゆっきゅりしちぇるにょじぇ!」

 挨拶のことなどもう忘れていた。
 れいむへの興味もあらわにして、何度も跳ねながら叫んでいる。
 片眉を吊り上げた母ありすが、さすがに子供達をたしなめた。

「おちびちゃんたち!とかいはじゃないわよ!
 さきにあいさつしなさいね!」

「ゆゆ!ごみぇんにゃしゃいなのじぇ!」
「みえにゃいとあいしゃちゅできにゃいわ!
 れいみゅはどきょにゃにょ?」

 子供達はそれから10分ほども騒いだ末、ようやくのことで
「ゆっくりしていってね」
 と口をそろえて挨拶してきた。
 ゆっくりしていってね、とお返事を返しながら、れいむは少しだけ
苦笑する。
 まりさたちはゆっくりなのに、あんまりゆっくりしてないね。
 実際、まりさたちは驚くほどに活動的だった。
 地面の感触が気に入ったのか、転がりはじめる父まりさ。
 子供が皆を真似しはじめると、仕方ないわねと母ありすが皆に習
う。 そのままそろって机の影に転がり込み、れいむから姿が見えなくなっ
たかと思うと、

「おちびちゃんたち、おくちにはいってね!」
「ありす、ゆっくりとぼうね!」

 突然二つの黒い影が飛び上がってきた。
 父まりさと母ありすだ。
 ケースの前に佇むその姿を、れいむはゆっくりと観察する。
 近くで見ると、さながら山のように見えた。
 お姉さんの頭より、大きいかもしれないね。
 れいむは少しだけ圧倒される。
 と、親ありすの口が開いた。
 次から次へと子ゆっくりたちが、ありすの口から飛び出してくる。
 表情が明るい、元気一杯の子まりさたち。
 きっと、お父さんやお母さんにゆっくりさせてもらっているのだろう。 
 れいむはゆっくりと挨拶した。

「れいむだよ!ゆっくりしていってね!」

 途端、子まりさたちが驚いたように目を見開く。

「ゆゆッ!しゅぎょいのじぇ!
 おとにゃみたいにしゃべっちぇるのじぇ!
 ゆっきゅりしちぇいっちぇにぇ!」

「しゅぎょくときゃいはにゃれいみゅにぇ!
 れいみゅ、ありしゅとゆっきゅりしちぇにぇ!」

「おりびょんもまっかでときゃいはにぇ!
 いっちょにゆっきゅりしちぇみょいいわにぇ!」

 目をきらきら光らせながら、れいむのケースの方へ這い寄ってきた。
 しかし、途中でプラスチックの壁に阻まれてしまい、それ以上れい
むに近づくことが出来なくなる。
 途端、子ゆっくりたちの眉が八の字に垂れた。
 親の方を振り返り、何度も飛び上がっては口々に不満を訴える。

「おとーしゃん、いじわりゅなきゃべさんがありゅわ!」
「れーみゅのときょろにいけにゃいわ!ときゃいはじゃにゃいわ!」
「まりしゃはれーみゅとあしょびたいのじぇー!」

 親まりさが、困ったような表情を浮かべ、

「ゆーん、かべさんがじゃまであかちゃんたちがはいれないね!
 れいむのあかちゃん、かべさんをゆっくりこわさせてね!」

 とんでもないことを口にした。
 餡子がすっと冷える感触。一瞬体が震え上がる。
 冗談ではない、とれいむは思う。
 れいむはお姉さんに、物を壊すのはいけないことだと教わっている。
ずいぶん前にマッチの木馬を壊したときなど、定規で何度もあんよを
叩かれたのだ。
 木馬の時でさえあんなに痛い思いをしたのに、こんな大きな箱が壊
れたら。れいむは激しく体を打ち振った。

「あそんでもいいけど、はこさんをこわすのだけはやめてね!
 おねえさんがおこっちゃうよ!」

「ゆゆ?れいむにはおねえさんがいるの?
 おかしいよ、だってはこさんのなかには……」

 親まりさはケースの中を見回すと、ゆっくりと首を傾げている。
 広くケースの中には、れいむの他には誰も居ない。
 もちろんケースの外にも誰も居ない。
 不思議がるのは当然のことだろう。
 ゆっくり理解できるよう、れいむはまりさに説明した。

「おねえさんはかりばにごはんをたべにいったよ。
 れいむはおべんとうをたべながら、おうちでゆっくりおるすばんだよ」

「ゆゆ、ゆっくりりかいしたよ!」

 父まりさがゆっくりとうなずいた。
 母ありすは母ありすで、なにやらしきりに感心している。
 都会派な箱と何度も口にしている。

 と。
 父まりさが何かに気づいたような顔をした。
 先ほどと同じ、不思議そうな表情。

「そういえば、れいむはどこからでているの?
 げんかんさんないと、おそとにでられないよ?」

「れいむはあかちゃんだから、げんかんさんはひつようないんだよ」

「おそとにいちどもでたことないの?
 ひなたぼっこもしたことないの?
 おそとであそんだこともないの?」

 ありえない、という表情を父まりさが浮かべる。
 そんなに、変なことなんだろうか?
 れいむは怪訝に思いながら、

「おそとはまだあぶないから、れいむはおうちでゆっくりするんだよ。
 おそとはおおきくなってからだよ」

 親まりさと親ありすが、同時にゆっくりと顔を見合わせる。

「ゆゆ、ずっとおうちなんてかわいそうだね、ありす」
「かりがあるから、れいむのおねえさんはれいむとあそべないのね。
 でも、ずっとおうちのなかなのは、ぜんぜんゆっくりできないわ。
 いなかものになってしまう……ねえ、まりさ」

 不意に、母ありすが父まりさに目配せした。
 意味深な表情を浮かべている。

「ゆ?そうだね。
 れいむのおねえさんだって、おそとであそばせてあげたいはずだね」

 やがて二人は、れいむの方に向き直った。
 父まりさがゆっくりと口を開く。

「ねえ、おちびちゃん。
 いっしょにおそとであそんでみない?
 おそとはひろくてゆっくりできるよ?」

 その言葉を聞いた子まりさたちが、一斉に目を輝かせた。

「しょうだじぇ!れいみゅもいっしょにくるんだじぇ!
「ゆゆ!?」

 れいむは一瞬考え込んだ。
 お外に出られる?出してくれる?
 憧れのお外に?本当に?
 けれど、けれどお姉さんは、 

「おそとはあぶないよ。
 おねえさんにおこられちゃうよ……」

 れいむはゆっくりうな垂れた。
 もし外に出て怪我をしたら、きっとお姉さんは悲しむだろう。
 それに、怖い怖いがいっぱいあるとも聞いている。
 だから、れいむはお外に出れない。

 けれど、まりさは。

「まりさがいるからだいじょうぶだよ!」

 ばかばかしいと首を振って、れいむの恐怖を否定した。


───ゆっくり食いの灰色の猛獣。


「ねずみさんなんてひとくちだよ!」


───穢れと病の太古の悪魔。


「ごきぶりさん?おなかがやわらかくておいしいよ!」


───ゆっくりを溶かす多色の羽毛。


「かびさんだね。きれいきれいすればだいじょうぶだよ!」


───ゆっくり潰しの地獄の鉄輪。


「ばいくさんはおおきいからね、どうくつさんにははいれないよ!」


───漆黒に心を染めたゆっくり蛮族。


「のらでいぶやれいぱーなんて、まりさやありすのてきじゃないよ!」


 力強いまりさの言葉が、れいむの不安を払拭していく。
 こんなに大きなまりさなら、きっと敵なんていないんだろう。
 それなら、大丈夫かもしれない。
 れいむは、ゆっくりとうなずいた。

「れいむはゆっくりおそとにでたいよ。
 けど、どうすればでられるの?
 はこさんこわすとおねえさんがこわいよ。 
 けれど、こわさないとでられないよ……」

 れいむには決して乗り越えられない壁は、同時に外のゆっくりを阻む障壁。
 壊さなければ進入できない。 
 壊せばお姉さんに怒られてしまう。
 それは致命的な二律合反。
 けれど、親まりさはゆっくりと笑って体を振る。

「まりさにまかせてね!」

 ずりずりとれいむの方に近づくと、父まりさは体を前に傾けた。
 父まりさの帽子の広いつばが、ゆっくりとケースに進入してくる。
 その先端はゆっくりとれいむに近づいて、もう跳ねれば届きそう───

「おちびちゃんは、ゆっくりまりさのおぼうしのさきをくわえてね!」

 父まりさの声を聞く。
 れいむは迷わず、ツバの縁へと齧りついた。
 全ての体重が、れいむの顎と歯にかかる。
 れいむは目をきつく閉じ、必死に顎に力を込めた。
 お帽子のツバは思っていたよりも柔らかく、小さなれいむの歯でも噛み
やすい。けれどどれほど強く噛んでも、噛み切れないほど程度には頑丈だ。

 ゆっくりと体が持ち上がり───そして、ゆっくりと降りていく。
 あんよに伝わる冷ややかな感触。

「もう、おくちをはなしてもいいよ!」

 父まりさの声。
 言葉に、れいむはゆっくりと口を開いた。
 目を開ける。
 そして、呆然となった。
 視界の右側には、とうに見慣れたアクリルの壁。
 けれど、あんよは土を踏んでいない。
 つるつるとした感触。
 壁越しに見ていただけの、茶色の地面を踏んでいる。
 月の実がなる真っ黒な木は、いつもよりくっきりと見えていた。
 ここはもう、お外なのだ。
 あんなにも憧れてきたお外。
 未知が一杯に詰まった広大な世界の中に、れいむはもう踏み込んでいる。
 邪魔だった壁さんを飛び越えて。
 れいむはあんよの続く限り、どこへだって行けるのだ。

 れいむは頭上を振り仰ぐ。
 とてもゆっくりとした父まりさの笑顔。
 いつくしむような眼差しが、ゆっくりとれいむを見下ろしていた。
 振り返れば、母ありすがいて、子供たちが──

「ゆっきゅりしちぇいっちぇにぇ!」

 れいむの思考が、不意に静止した。

 頬だ。
 生まれて初めて味わう感触。
 とても暖かくて、柔らかい。
 触っているのか触られているのか。
 それは、とてもしあわせな感触で───

「こりぇでれいみゅはともだちなんだじぇ!
 れいみゅ、まりしゃとゆっきゅりしちぇにぇ!」

 今度は反対側の頬に。
 そして、後ろ頭にまで。

「ゆッ!まりしゃ、じゅるいわにぇ!」
「れいみゅはありしゅとしゅりしゅりしゅるにょ!」

「ゆ?ゆ!?ゆ、ゆー!?」

 気づけばもみくちゃにされている。
 何がなんだか分からない。
 れいむはただされるがまま、子まりさたちの行為を受ける。
 コレではまともに話もできない。

「おちついてね!
 まりさたちゆっくりおちついてね!
 れいむなんだかわからないよ!」

 れいむは悲鳴じみた声をあげた。
 とたん、まりさたちがすりすりを止めた。

「ゆゆ?
 れいみゅ、しゅりしゅりだめにゃのじぇ?」
「ゆゆ?そんなことないよ!
 すりすりするのははじめてだからおどろいただけだよ!」
「ゆふっ、へんにゃれいみゅだじぇ!」

 子まりさがおかしそうに笑う。

「へんなれいむでごめんね!」

 れいむもゆっくりと笑みを返した。
 今までにないくらいゆっくりした気分が、れいむの餡子に染み渡る。
 ゆっくりしたお父さんまりさと、ゆっくりしたお母さんありす。
 それに、ゆっくりした子供たち。

 何て今日はいい日だろう。
 こんなに素敵なゆっくりに会えて、お外にだって出ることができた。
 これだけでも餡子が一杯になりそうなほど幸せなのに、今日はまだまだ
これからなのだ。
 父まりさが微笑みながら、れいむたちに呼びかけてくる。

「あかちゃんたち、れいむのあかちゃん、まりさのおぼうしにゆっくり
のってね!ゆっくりどうくつをたんけんするよ!」


 父まりさが出発を促した。
 帽子のツバに乗りやすいよう、体をへたりと潰している。
 洞窟の探検ってなんだろう。
 なんだかよくわからないけれど、すごくゆっくり楽しそうだ。
 生まれてはじめての冒険への期待に、れいむの餡子は沸き立っていた。

「ゆっきゅりのりゅわにぇ!」
「おとーしゃんまっちぇにぇ!ありしゅおぼうちにのるわにぇ!」
「れいみゅもくるんだじぇ!」

 子まりさたちは次から次へと父まりさの帽子へと飛び乗って、気づけば
残っているのはれいむ一人。 
 子まりさたちの視線を感じた。
 父まりさのお帽子の、広い広いつばの上で、れいむが来るのを待っている。

 ほんの少しだけ、考える。
 お姉さんは怒るかな?
 勝手に箱さんから出たって、れいむのことを怒るかな?
 危ないところに勝手に行くのは、ゆっくりできないことだから。

 けれど、きっと大丈夫。
 こんなにゆっくりしたまりさがいて、こんなにゆっくりしたありすがいる。
 危ないことなんてあるわけない。
 お姉さんが帰ってきたら、まりさたちのことを紹介しよう。
 そうだ。
 お姉さんにこの冒険の話を聞かせたら、いったいどう思うだろう?
 よろこんでくれるかな?
 ゆっくりしてくれるかな?
 うん、そうに決まってる。 
 だって、今までれいむは聞くだけだったんだから。 
 けれど、やっと話せることができる。
 れいむのゆっくりしたお話で、お姉さんをゆっくりさせられる!

 素敵な予感がつまりに詰まって、もう一杯の胸なのに、夢はどんどん
膨らんで、止め処もなしに溢れかえる。
 迷いはどこかに失せ果てて、残るものは大きな決意。

「れいむのことをゆっくりのせてね!」

 期待と勇気を心に秘めて、れいむは思い切り跳躍した。 





「それにしても、やっぱり評判の店は違うよねー。
 あんなに美味しいボンゴレビアンコなんて初めて食べた。
 んー、思い出すだけでつばが出るー♪」


「そうか?
 ソースは確かに美味かったが、パスタが柔らかすぎるのがなぁ」


「あーもー、人がせっかく喜んでるのに覚めるようなこと言わないでよ。
 固めが好みならそういう風に注文すればいーんじゃないの?」


「いいか?パスタの基本はアルデンテと言ってだな……」


「お父さん古すぎー。アタマ硬すぎー。
 美味しいのなら別に柔らかくてもいいっていうのが今時の常識ですー。
 だいたい、あのソースでアルデンテになんかしたら、味がパスタに絡ま
ないってば」


「そうなのか?」


「そうなんです。ねえ、お母さんも言ってやってよ……駄目だ。完璧に自
分の世界に入ってる……」


「……母さん、美味いもの食うと無口になるからなぁ……」


「食べてなくても無口だよね……
 それはともかく。
 にしても驚いたね、ペットが入れるレストランなんて。
 ペット同伴のフロアなんて、フツーにまりさが跳ね回ってるんだもん。
……犬に追い掛け回されて涙目になってたけど」


「なら、今度はれいむも連れて行くか?」


「駄目駄目、まだまだ当分先。薬飲ませたからって、急に大きくなるわけ
じゃないんだって。
 ……それ以前に、まずは飲ませる努力をしないと……」


「?」


「いや、なんかね。馬鹿みたいに苦いらしいのよ、この薬。
 ゆっくりに苦いのだよ?だったらカプセルにでもしてくれればいいのに、
なんでアンプル入りなんだか」


「ゆっくりなんだから、飲ませても注射しても問題ないんだろう。
 なら、アンプルの先を刺せばいいじゃないか」


「やだー!そんなかわいそうなことできないー!」


「なら、頑張って飲ませるしかないな」


「苦すぎて餡子吐いちゃうかもしれないじゃない!」


「……。
 家に着いたぞ。
 お前が自分でどうにかしなさい。父さんは知らん」


「お父さんの鬼、悪魔……って、あれ?
 居間のサッシ、開いて……
 嘘。
 やだ。勘弁してよ……」





「ゆっくりはやいよ!」

 父まりさの帽子の上で、れいむはゆっくりと歓声を上げた。
 どこまでも続く茶色の大地──お姉さんの言う『ろうか』だろうか──の左右、見上
げるほどの高い壁が、驚くほどのスピードで、後方へと流れていく。
 それほどまでに、父まりさが這うのは速かったのだ。
 れいむが一日跳ねたところでたどり着けるかどうかわからない距離を、わずか三分。

「おとーしゃんはにぇ、むりぇでいちばんはやかっちゃのじぇ!」

 子まりさが我が事のように自慢する。
 強くて、凄くて、偉大な父。誰にも誇れる父なのだろうとれいむは思う。
 一息に茶色の大地を這い抜けると、視界がさらに拡大し──


───瞬間。
   れいむの思考が、揮発した。


 何もかもが、未知だった。
 すべてが、驚愕に値した。

 お姉さんの世界──「おへや」の空よりも高い空。
 大地はどこまでも白く広がり、頂きが銀色に染まる四角い山脈が連なる。
 白い長方形の山などは、天に届いてしまいそうなほど。
 お姉さんより大きいかもしれない。
 まりさがゆっくりと右に曲がる。
 進路の先にはテーブルに四本の足が生えたような、巨大な台地が聳えていた。
あんよが痛くなるほど見上げても頂上は見えず、その平らかな裏側が、黒々とした
影に包まれているのが見えるだけだ。

「みんな!あのやまさんをたんけんするよ!
 おちないようにきをつけてね!」

 父まりさの声。
 どうやら、さきほど「つくえ」山から下りたのと、逆の要領で上るようだ。
 四本足の台地の周りには、台地そのものを縮小したような、これも四本足の台地
が連なっている。まりさはそれらを足場にして、この巨大な台地を登攀しようと考えて
いるのだろう───母ありすの不安そうな声が、後ろの方から聞こえてくる。

「まりさ、おくちにあかちゃんたちをいれないと──」
「だいじょうぶだよ!まりさにまかせてね!
 おちびちゃんたち、しっかりあしをふんばるんだよ!」

 跳ぶんだ、とれいむは理解した。
 子まりさたちを見習って、帽子のつばにぴったりと張り付く。
 瞬間、奇妙な浮遊感──次いで、体が猛烈に重くなる。
 視界が一瞬暗くなり、意識までもが遠くなった。
 そして刹那の浮遊感──落下、衝撃。
 再び体が重くなり──気づけば、台地の上に居た。

「ゆゆ、ごはんさんいっぱいあるよ!
 これはいいかりばだね!」

 父まりさの声が弾んでいる。
 ゆっくり餡子が理解しているので、見たことは無くとも理解できた。
 これが、狩場。ご飯を狩る場所。
 広々として、不可解だ。
 れいむはしげしげと観察する。 

……台地の上。
 黒く平らな地面の上に、二つの白く丸い花が咲いている。
 花びらは、一見しただけで硬質とわかった。
 見たことも聞いたことも無い、実に奇怪で不可解な花だ。
 一つの花の中央には、やわらかそうな緑の葉っぱがしんなりと山になっていた。
 もう一つの花は、赤く毒々しい色をした蜜をふんだんに湛えており、蜜の中には白く
四角い何かが、いくつもいくつも浮かんでいる。

「あれがごはんさん?」

 れいむは子ありすの、大きいほうに聞いてみる。
 子ありすも首をかしげている。どうやらわからないようだ。

「おにゃきゃしゅいたのじぇ!
 たべてみりぇばわきゃるのじぇ!」

 子まりさが、待ちかねたようにお帽子から飛び降り、赤い蜜へと跳ね寄っていく。
 見咎めた父まりさが、とっさに警告の声を発した。

「ゆゆ!だめだよおちびちゃん!
 まだおかあさんがのぼってきてないよ!ゆっくり───」

「きゃわっちゃにおいのみちゅしゃんだにぇ!
 ゆっきゅりいただきましゅにゃのじぇ!」

 子まりさはまったく聞いていない。
 花の白い花弁に飛び乗ると、お帽子のつばが蜜で汚れるのにも構わず前かがみになり、
 赤い蜜の水面にゆっくりと舌を差し入れて───
 次の瞬間、ゆ皮を裂くような悲鳴を上げてのたうちまわりはじめた。

「いぢゃい、いぢゃいよぉ!ばりじゃのじだがいぢゃいょぉ!!!」

 れいむは慌てて帽子から飛び降りた。
 跳ね寄る。そして、呆然となった。
 子まりさのお顔は、茹だったように真っ赤だったのだ。
 お帽子が脱げたのにも気づかないまま、苦痛に転げまわっている。
 見開かれ充血した目からは、とめどなく涙がこぼれ出していた。
 一瞬、まりさのあんよが頬を掠めた。
 熱い。子まりさの体、信じられないほどに熱くなってる───これほどまでに苦しむゆっくりを、
れいむは一度も見たことが無かった。痛みで泣いた経験はれいむ自身にもある。だが、せい
ぜいがジャングルジムから落ちた程度。
 のた打ち回るような痛みなんて、れいむの想像の埒外だ。
 もしかして、死ぬの?
 ゆっくりできなく、なっちゃうの?
 恐怖が背筋を這い登る。ゆっくり楽しい気分なんて、とっくの昔に霧散していた。
 誰かが死ぬところなんて、れいむは一度も見たことが無い。
 未知であるということが、恐怖とイコールだったなんて。
 そんな当たり前のことに、いまさらきづいてしまうなんて!

 どうしよう。どうしよう。どうすれば!

 れいむにはわからない。
 ただ狼狽しながら救いを請うことしかできない。

「まりさ、ありす、まりさがおかしいよ!すごくあついよ!」
「ゆゆ!」

 ようやく台地の上に上がってきた母ありすが、慌てて子まりさに這いよった。
 心配げに子まりさのほっぺを舐め、次いで赤い蜜を舐める。
 やがて、小さく安堵のため息をついた。

「とうがらしさんをなめただけね──ちょっとでよかったわ。
 すこしいたくてあついけれど、しばらくすればなおるわね。
 そっちのみどりのはっぱさんは……あら、ほうれんそうさんだわ。
 とかいはなごはんよ。
 しんなりやわらかくなっているから、おちびちゃんでもあんしんだわ」

「ありすがいうならあんしんだね!
 みんな、みどりいろのはっぱのほうをゆっくりたべようね!
 あかいほうはどくだから、ぜったいなめたりしないでね!」

 父まりさがゆっくりとうなずく。
 子ありすたちは心配そうに子まりさとれいむの方を見ていたが、お腹が空いていたのだろう、
待ちかねたかのように緑の葉っぱの乗った花のほうに跳ねていった。
 れいむは痛い痛いと呻く子まりさの頬を何度か舐めて落ち着かせると、ゆっくり父まりさの
ことを見た。

「ごはんさんをとるのは、たいへんなんだね」
「そうだね、たいへんなことだよ」

 父まりさが、ゆっくりと頷く。

「それなりーなごはんをとるのはたいへんだし、しあわせーなごはんをとるのはもっとたいへん。
 まして、あまあまーなごちそうなんて、ほとんどたべられないんだよ」

「あまあまをとるのは、そんなにむずかしいことなの?」

 れいむは目を見開いた。
 狩りの大変さはうすうす想像していたが、まさかそれほどまでに難しいこととは想像もして
いなかった。
 もっとも、考えてみれば当然のことだろう。お姉さんのお部屋から、狩場まではまりさの足
でも三分ほどだ。お姉さんのあんよなら、もっと早くたどり着くだろう。
 それなら、毎日、お姉さんは。

「あのみどりいろのはっぱさんは、あまあまさんじゃないんだね」

 れいむは、小さくため息をついた。
 父まりさが、怪訝そうな表情をする。

「ゆ?れいむはたべたことないの?
 ほうれんそうさんはあまあまさんじゃないけれど、しあわせーなごはんだよ?」

「うん・・・・・・わかるよ」

 多分そのとおりなのだろうとれいむは思う。
 きっとあの葉っぱさんも、ゆっくりできるご飯なのだろう。
 だが、恐らく甘々さん──まりさたちにとってのご馳走には劣るのだ。
 そして、この狩場には甘々さんがない。
 お姉さんは近くに狩場があるというのに、わざわざ遠くの狩場まで足を伸ばし、れいむの
ために危険を冒して甘々さんを狩っているのだ。
 子まりさのほうに、視線を投げる。まだ、体から赤みが引いていない。すんすんと、まだぐず
るように泣いている。
 ちょっとで良かった──そう、母ありすは言っていた。
 もしたくさん食べてしまったら、いったいどうなっていたんだろう?
 むしゃむしゃされるだけの食べ物でさえ、ときに牙を剥くなんて。
 百戦錬磨のまりさたちでさえこんな憂き目にあうのなら、れいむなんてひとたまりもない。
 お姉さんは、うそなんてついていなかったんだ。
 お外は本当に危ないところなんだ。
 れいむはそれを確信する。
 お姉さんは、れいむのためにどれほどの苦労をしているのだろう?
 お姉さんは、れいむのためにどれほどの危険を冒しているのだろう?
 そんなお姉さんとの約束を、れいむは破ってしまっている。
 れいむのための、約束なのに。

「ゆぅ……」

「どうしたの、まりさとれいむ?
 こっちにきてごはんにしましょうね?」

 母ありすが、呼びかけてくる。
 皆で一緒に食べるのが、まりさたち一家の慣わしなのだろう。
 だから、れいむは言い出せずにいる。
 けれど、言わなければならないだろう。
 約束は、とても大事なことなのだから。
 ゆっくりとれいむは息を吸って──

「あのね、れいむは──」

 言いかけて。

「ゆっくりできないものおとだよ……」

 ───え?

 それは、親まりさのつぶやき。視線がどこか遠くを見ている。
 親まりさの眉根には、深い皺が浮かんでいる。
 鋭く細められた目には、極度の緊張が色濃い。
 親まりさの心がすでに死線にあることを示していた。
 れいむには聞こえていない音を、まりさの耳は聞いているのか。

「おとーしゃん!?どうしたにょじぇ?!」 

 呆気にとられた赤まりさが問う。事態がまったくつかめていない。

「ゆっくりごろしのばけものがくるよ。
 ゆっくりにげないとあぶないよ!」

 にげるよ、とまりさは口にした。
 その意味を脳が理解する。けれど心が拒絶する。
 餡子が固まってしまいそうなほどの緊張。
 れいむが生まれて初めて味わう心地。
 ぜんぜんゆっくりできていない。

 まりさたちが誰だかわからなかったときも、怖かった。
 けれど、まりさたちを知って安心できた。

 でも、今度は違う。親まりさたちは知っている。
 百戦錬磨のまりさたちが、どうして敵を間違えるだろう。
 その上で、『ゆっくりできないもの』だと断じている。  

 こんな気持ちは、ゆっくりが味わってはならないものだ。
 れいむには分からない。何も考えられないでいる。
 こんなに大きくて強そうなまりさにとっても『こわいもの』があるなんて。
 そんなゆっくりできないものが、この世界に存在するの?
 そんなわけがない。そんなものは嘘だ。 
 悪い冗談に決まってる。

 ゆっくりできないことをいわないでね。
 れいむたちをゆっくりさせてね。

 言おうとして、自分の歯の根が合っていないことに気づく。 
 子まりさたちに視線を投げた。 
 一様にがたがたと震えながら、涙をぼろぼろこぼしている。
 やっぱり、まりさたちはしってるんだ。
 れいむはゆっくり理解した。
 子まりさの体を犯した毒や、お姉さんが語り父まりさが一笑に伏した化け物なんて問題に
ならないくらい、何か途轍もないものが、ゆっくりしないでやってくる───

「おちびちゃんたちにれいむ、まりさのおくちにはいってね!
 まりさ、おちびちゃんたちといそいでにげるのよ!」

 何かを決意した表情で、母ありすが叫んだ。
 父まりさが目を見開いた。ありえない、という顔をしている。

「ありすもいっしょににげようね!つかまったらゆっくりできなくなるよ!」

「ありすはあしがおそいもの!だから、にげるよりもかくれるの!
 かくれんぼさんならまりさよりとくいだもの!
 あんしんしてゆっくりにげてね!」

 しかし、ありすはゆっくりと頭を打ち振った。まりさが諦めの表情を浮かべる。

「ありす、ゆっくりきをつけてね。……おちびちゃんたちは、まりさのおくちにはいってね!
 まりさがまもってあげるからね!」

 父まりさの口がバクリと開く。
 肉色の空洞(シェルター)の中へ、つぎつぎに子まりさたちが飛び込んでいった。

「りぇいみゅ、ゆっきゅりきちぇね!
 あんしんいしちぇにぇ!おとうしゃんはしゅぎょくちゅよいにょ!」

「おちょうしゃんがまもってくれりゅわ!」

 子ありすたちが、舌の上から呼びかけてくる。
 頬をなでる生暖かいまりさの吐息に、れいむはきつく目を閉じた。
 まりさたちは親ではない。
 食べられるかもしれないという、本能的な恐怖がある。
 けれど、子まりさたちはゆっくりできた。それなら、きっとゆっくりできる。

 バタン、とドアが開く音。
 時間がない。
 お姉さん達が出かけるとき、お姉さん達が帰ってくるとき、決まってあの音がするこ
とをれいむは知っている。 
 ゆっくりできないやつは、もう目前。
 れいむが一秒でも遅れれば、それは───

「ゆっくりはいるよ!」

 れいむは眼前の肉色へ向かって必死に跳躍した。
 バクン、と何かが閉じる音。
 暖かな何かにあんよが触れた瞬間、視界の全てが闇に閉ざされた。

続く

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2022年05月03日 22:49