それは、扉越しにまで響き渡る嬌声だった。

「すっきりー! ……ふふ、ありすがすっきりいちばんのりね!」
「すっきりー! にばんやりはありすよ!」
「すっきりー! ありすが真のなんばーすりーよ!」
「すっきりー! よばんのありすは、ばっくすたんどにぶちこんでやったわ!」

 最初の一声に続く、十数回にもわたったすっきりの声。
 壁越しに伝わってくるありすの晴れやかな声色。
 青年はこの扉の向こうで、今年も肉林パーティが開幕したことを確認する。

「すっきり、じだくながっだあああああ……」

 最後に、魂をへし折られたようなまりさの声。
 それら全てを聞き終えた青年は、扉に背を預けたまま頭をかいてため息。
 扉の向こうを確認しようと手をのばすが、ためらわれるのか再び手を頭に戻す。
 もう一度手を伸ばそうとしたとき、その背中に低い男の声がかけられた。
「おつかれさん。どうだ、様子は」
 振り向くと、そこにはまりさを連れてきた御者の男。
「あ、主任。今、一回目は終わったところです」
 応える青年の背筋はまっすぐにのびている。まりさにとって温和な御者の男も、青年にとっては厳格な上司だった。まりさに向けて微笑みを向けた初老の顔も今は表情が乏しく、真剣な眼差しで青年を射抜いている。
「そうか。じゃあ、すぐに二回目が始まる思うが、お前さんは今回が初めてだろう。今のうちにこいつをもう一度頭に叩き込んでおけ」
「あ、はい」
 押し付けるように渡された書類を受け取る青年。
 その「ゆっくりありすすっきり計画 マニュアル」とタイトル書きのされた表紙をめくると、上司の名前で記された序文が目についた。

  『序文。
   加工所におけるゆっくりの安定的供給の要はゆっくりありすである。ありすの管理を担当するわが部署は、加工所全体の生産調整に
  寄与する大変に重要な役目を負う。
   だが、本来は知性的で強固な理性を持つありす種。ストレス要因とした一時の激情で性欲を爆発させることがあるものの、その後は
  自己嫌悪に打ちのめされ、以後は生殖を厭うありす種すら珍しくはない。
   統計的に見れば、その性欲をもてあまして周囲に害をもたらすありす種はごく稀であり、通常は理性で制御して家庭を持ち、群れでは
  無謀なゆっくりたちの中で慎重な立ち回りを促す性質を持つ。
   それらの交尾の強制に耐えられない繊細なありすの心理が長年安定生産のネックといえよう。
   その解決のため、我々は多大な労力を費やし、ついに万年発情ありすの生産に成功する。過酷な環境で、何度も何度も生殖するだけの
  存在であると教え込み、それを阻害するありすの自尊心を長期のストレスと強制発情を繰り返すことで粉砕。ついに生殖行為以外の
  思考能力を奪うことに成功した。
   それが加工所で管理しているアリス種である。
   しかし、本質をかけ離れた生活とどれだけ交尾を重ねても満たしきれない性欲から、ありすたちのストレスは激増する。一瞬だけ理性を
  取り戻して自殺するもの、同種ですら襲うもの、性欲が殺意に変わるもの……その果てには相手を食しながらでなければすっきりできない等、
  異常な例が多発。それらの管理上の不安要素の解決策が、我々の近年の課題だった。求められたのは、発情状態のありすが獣欲を
  爆発させることなく、生殖使用の日までおとなしく発情状態を保つための方法。
   単純に性欲を全て生産に転化すればいいという話ではない。何しろ、ありすの性欲を完全に満たそうとすれば生産計画を大きく上回る
  生産量となってしまう。そのため、ストレス解消用に生産ラインから性奴隷ゆっくりを供給したこともあった。が、繁殖ゆっくりでは
  いつもの仕事と代わり映えがしないためにありすの嗜好に合致せず、結局は会社の資産がただ消費されるだけとなった。

   そこで、私たちは加工所の慈善事業(野生のゆっくりを保護して集落に住まわせ、ゆっくり資源を大切にするPR)を活用して、
  ある計画の実施を起案。
   事業権限を有する所長の決裁を受け、無事実施の運びとなった。
   計画の概要は以下の箇条書きのとおり。 

  1.それぞれの集落から魅力的なゆっくりを集め、ありす種の慰めとする。
  2・ゆっくりにとっての魅力の要件には、体型や目鼻立ちも含まれるが、何より「ゆっくりと暮らしている」その状態が必須である。
  3.だが、あらかじめ自分がどうなるか知ってしまえば、ゆっくりできるはずもなく、その魅力が損なわれて凡庸なゆっくりと化してしまう。
  4.よって、目的を秘匿したまま、同時にゆっくりを「よりゆっくりしよう(魅力的になろう)」と努力させる動機が必要である。

   4の要件を満たすため、我々が群れに流した噂は二つ。資産家の間で話題の「ゆっくり歌劇団」が各集落へ新人募集をするという情報。
  さらにはその定員は毎年一名、もっとも群れで器量のいいゆっくりに限るという条件をつける。
   実際に歌劇団は「品評会」上位のゆっくりに限って毎年加入させているため、話の信憑性を信じ込ませることは容易だろう。
   それらのゆっくりの、ありすに対する有効性については、実験において確認ずみ。
   似たり寄ったりの養殖ゆっくりに飽きていたありすたちは、必ず夢中となる。
   後は数日間の交尾に耐えられるよう、ゆっくり用の避妊薬を食料に配合して投与を行う。

   以上の計画の直接的な成果はありすのストレス発散だが、長期的な暴発の予防にこそ、この計画の真の意義がある。今後も魅力的な
  ゆっくりが提供されるかもと、期待感が日々のストレスを軽減させるのだ。
   このように、計画の基本構想は「極上のゆっくり」というインパクトのあるゆっくりを使うことで、数匹の犠牲で大きな効果を
  上げることである。加工所の資産を損ねず、同時に最小の犠牲での問題解決を意図している。
   ありすの暴発のたびに逐次ゆっくりを多数投入することに比べ、集落ごとに年一匹の犠牲で済むことから人道的な手段といえよう。

   最後に、計画実行中のゆっくりの取り扱いについては注意点が一つ。
   前述の避妊処理を施した個体だが、ゆっくりの体は脆弱であるため、衰弱死、事故死は避けられない。だが、ありすたちが一通り
  満足できるまでの期間、提供ゆっくりには生き長らえてもらう必要がある以上、担当職員にはきめ細かいケアが求められる。職員各位の
  鋭意努力を期待したい。
   なお、十日間生き延びた個体(※)は、ありすのマンネリを防ぐためにも計画から外すことが望ましい。

  ※ これまでの提供ゆっくりの最長生存日数は五日間』


「んほおおおおおおおおおおおおお!!!」
 青年がマニュアルを読んでいるうちに2回目が始まったらしい。
 お菓子に偽装した避妊薬を飲まされたまりさは、簡単に死ぬこともできずに散々になぶりものにされ続けるだろう。
 一時間ほど前まで、輝かしい未来に向かって一直線に進んでいたはずなのに。
「だめえええええ、しんじゃうのほおおおおおお!」
「うふふううううう! じぬほどいいのねえええええ!」
 嬌声が響き渡る中、ようやくマニュアルを読み終えて、青年には嘆息がもれてしまう。
 不注意だったのは、それが上司の目前だったこと。
「どうした? やはり、入りたてでこの仕事はつらいか?」
「いえ、何でもありません。すいません」
 聞きとがめての言葉に、慌てて釈明する青年。
 だが、その素振りで初老の男の眼差しにかすかな影が差した。
 それでも、部下に任せて経験を積ませる重要性は理解しているだけに、上司も何気ない風を装う。
「じゃあ、三時間ぐらいしたらこの扉を開けてまりさを寝床まで運んでくれ」
「はい、わかりました」
「ああ、それと。もしまりさがこのことを何か訪ねてきたら、マニュアルの最後のページの対応例を参考にしなさい」
 ついつい老婆心を働かせながら忠告する上司に、頷いてみせる青年。
 だが、その目線はほとんどまりさの悲鳴すら聞こえてこなくなった部屋へと向けられている。
 再び誘われるため息。
 自分はこんなことをするためにここに勤めているのだろうか。
 誰も答えの出せない疑問を心の中で繰り返しつつ、長い三時間の待ち時間を潰していた。


 きっかり三時間後。
 日は山々の向こうに沈んだばかりで、薄闇が色を濃くしつつある時刻。
 青年がまりさの逃亡を警戒しながらそっと扉を開けると、青年は自分の警戒が無意味であることを悟った。
 つやつやとした笑顔のありすたち。その中心で、まりさはひしゃげた体で横たわっていた。
 黒かったまりさ帽子は、ありすのカスタードでほとんど真っ白。ぜいぜいいと息がもれるたびに、たらりとまりさの口の端から白いものが流れていく。
 悶絶して目を見開いたまま気を失いかけているまりさ。
 しかし、気を失おうとするたびに、愛撫のように体をこすりつけるありすたちに揺り起こされていた。
「寝ないでええ、まりさああああ! ねえ、ありすをあいじでる、ありすはさいこうだっていってえええ! ぴろーとーくもちゃんとするのが、とかいはよおおおおおお!」
 意思を失った瞳で虚空を眺め続けるまりさ。
「今日はもう時間だ」
 青年が嫌悪感をこらえてありすを引き離すと、名残惜しそうにねっとりとした粘液がまりさとありすの間に橋をかけた。
 まりさは体力の消耗と、自らに降りかかったことのショックでただ丸まっているだけ。本当に饅頭のようだった。
 もちろん、自分で寝床まで歩かせることなどできるはずもない。
 青年は、まるで犬の死体を運ぶように猫車にのせ、別室のまりさの寝室まで運んでやる。
 まりさがようやくたどりついた、自らにあてがわれたの空間。そこは、中央にマットを置いただけの狭い部屋だった。窓には鉄格子。
顔を覗かせたばかりのお月様も、格子模様に抜き取られてまりさの目にうつる。
 群れで見たまん丸とは違う、いびつなお月様。だが、そんな月を見てもまりさの心には何も響かない。
「どうじで、どうじで、どうじで、どうじでえ……」
 まりさはうわ言を繰り返すだけの置物だった。
 体中についた白いものを青年がふき取る間も、その手の動きに任せたまま力なくへたっていた。
 体の汚れがあらかたふき取られ、部屋のマットに置かれるまりさ。弾力を失って広がる体。
「いだいいい、ぎもぢわるいいい……」
 青年がその片腹の桶で手ぬぐいを洗っていると、ようやく少しだけ我を取り戻したのか、まりさは意思のある言葉を呟きはじめる。
「体中が、死んじゃいそうなほど、いたかったよ……」
「大丈夫。寝ていれば明日までによくなるさ」
 手ぬぐいを桶に放り込みながらの青年の答えもまりさには何の慰めにもならない。
 まりさの心は、わずか三時間でくたくたに憔悴しきっていた。
 すっきりさせられ続けた体と、蹂躙され尽くした体。
 ぶるぶると恐怖の名残がまりさの芯を震わせている。
「まりさは、やめでって、なんどもなんどもいっだのにいいい! いだぐでっ! ごわがっだあああっ!」
 記憶に刻み込まされた、体中をこねくりまわすありすの汁気が滴る体の感触。何度も悪寒となって蘇り、まりさは叫ばずにはいられなかった。叫びながら震えていた。
 欲望のままに、押しつぶすように、叩きつけるように、粘液まみれの体がまりさの上を何度も這い回る。
 息もつけない苦痛と恥辱。その間、ずっとまりさを見つめていた瞳孔の縮んだありすたちの見開いた瞳。
 自分のいた群れの優しく親切なありすとはまったくかけ離れた姿だった。
「あんなの、ありすじゃないよ。ありずの中身が誰かに食べられちゃって、代わりにバケモノが中に入っちゃったんだよね? だっで、ありずは……あんなバケモノじゃないよおお! 本当のありずにもどじでえええええ!!!」
 青年は何もいえなかった。
 ありす種の本質は、本能を押さえ込める気位の高さ。本能は理性ある生き物にとっては本質ではない。旺盛な性欲を上回る理性こそがありすの本分。
 そんなありすの心を徹底的に追い詰め、蹂躙し、打ち砕き、群れを維持するための生殖本能だけを肥大した存在にしたのは、彼ら自身だ。
「なんで、ありすも、おにーさんもゆっぐりじでないのおおおおおおっ!!!」
 まりさの絶叫に応じるには、青年の持つ言葉と人生経験はあまりに貧相だった。
 青年は上司から言われたとおり、マニュアル本から「ゆっくりのストレスを軽減させ、長持ちさせる用例」のページを思い出していた。
「でも、歌劇団に入るには必要な試練なんだよ。歌劇団のみんなも、一度は体験しているんだ」
「……みんな、しているの?」
「ああ、そうだ。舞台に立つ子は、必ずしている」
 悲嘆にくれたまりさの目が、考え込むような遠くを眺めている。
 やがて、ぷるぷると首をふった。
「そう……なんだ。でも、まりさはもう一日だって耐えられないよぉ」
 うわごとのような口調で呟く。
 今、その心をどれだけの不安と苦痛が押しつぶそうとしているのだろう。
 青年はいまさらながら、余計なことを気にしたと悔いが芽生え始める。
 何か声をかけなければと、慰めの言葉を思いつくまま口にしていた。
「でも、今日乗り切ったじゃないか」
 だから明日も大丈夫と言葉を続けようとした。
 だが、弾けるように顔を上げたまりさによって妨げられる。
「ゆ! じゃあ今日でおしまいなんだね!」
 それはあまりにも浅はかな早とちり。
 これからも死ぬまで続くと訂正をしなければならない青年。伝えようと、口を開くことまではした。
 それなのに、悪夢から覚めたようなまりさの表情を見て、何もいえなくなった。安堵に緩んだ表情は、片栗のしとやかな花弁のよう。
「明日からのお歌やお芝居の練習が楽しみだよ」
 目の前に自分でぶらさげてしまった希望に、必死に食いつこうとしているまりさ。
 力いっぱい飛び跳ねたところで、最初から餌などなかったと知るだけなのに。
「まりさ、たくさんお歌を知っているんだよ……」
 音階らしきものがまりさの口からこぼれるのを、青年はいたたまれない気持ちで聞いていた。
 無言で、しばらくまりさの歌声に耳を傾け続ける。
「今日は早く眠ったほうがいい」
 散々に迷った挙句、歌声が途切れたところで表情を隠して声をかける青年。
 しかし、青年の言葉が届くよりも早く、まりさはほっとした心地のまま静かに寝息を立て始めていた。とうに身も心も限界を迎えていたのだ。
 寝息が熟睡の深さとなるまで、身動きもせずにまりさを見下ろしていた青年。
 が、やがて逃げるように、その場を後にしていた。



 起き掛けのまりさのまぶたに、まばゆい朝の光。
 寝ぼけ眼で二日目を迎えたまりさ。
 うっすら開いた視界は、いつもよりずいぶんと高い。
「ゆー、おそらとんでるみたいー」
 眠たげに呟くまりさ。
 だが、意識が鮮明になるにつれて、廊下に投げかけられる影の形で自分が人間に抱えられていることに気がついた。
 見上げた先には、青年の考え込むような仏頂面。
「……おはよう、おにーさん」
 控えめに声をかける。
「ああ、おはよう」
 青年は足を止めると、まりさを見下ろして静かに朝の挨拶を交わす。
 そのまま、じっとまりさを見下ろす青年。
 なんだろうとまりさが疑問を口にするよりも早く、青年はため息だけを残して視線を外した。
 無言で再び歩き出す青年と、その腕の中のまりさ。
 元はおしゃべりなまりさだが、まりさも一言も話さない。音は廊下に反響する靴音だけだった。
 まりさは緊張していた。
 青年の連れて行く先が、あの昨日の悪夢の舞台ではないかと。
 だから、その部屋へ通じる廊下を素通りして、階段をおりていく時、まりさは心底ほっとしていた。
 よかった。おにーさんは約束を守ってくれたんだ。
「おにーさん、今日はどこにいくの?」
 たずねるまりさの声も、少しだけ明るさを取り戻しつつある。
「中庭だよ」
 足元をみながら階段を下りていく青年の言葉に、まりさの顔がほころぶ。
 自分の体を、冷たくて硬い床じゃない柔らかな土の上に置ける喜び。目に浮かぶのは、お花さんや、ちょうちょさん、おひさまさん。ゆっくりできる空間で、お楽しみのお歌とお芝居のお稽古。
「おにーさん、まりさがんばるね!」
「え!? あ、そうか。そうだね、がんばって」
 まりさの言葉に目を見開く青年。だが、苦しそうに目をつぶって、まりさを応援してくれた。
「うん、がんばるよ! ゆふふー。まりさのおうたの上手さに、おにーさんびっくりするよ! まりさのおうたは、れいむも褒めてくれたんだから!」
 得意そう笑っていたまりさ。
 だが、まりさの笑い顔は視界にあるものを映して凍りつく。
「ゆぎいいいっ!?」
 短い悲鳴。
 そこは、中庭に面した廊下。その等間隔にならぶ中庭の窓と、金属の枠に全面ガラスをはめた扉越しに、鈴なりにびっしりとはりつくありすたちの姿があった。
「まりさあああ、まりさあああああ、まりさああああああああ!」
「なにもじないがら、ゆっぐりあぞびましょおおおおおおおおお!!!」
 すでに相当に息が荒い。
 窓がありすたちの吐息で白くかすみがかり、べろりとありすの舌が窓をぬぐうと、その向こうに爛々と輝くありすたちの目がひしめきあっている。
 一目見ただけで、昨日より数が若干多い。見える範囲で十四匹はいるだろう。
 昨日の部屋に入りきらなくなったがゆえの、中庭への移動だった。
「お、おにーさん、ちがうよね? あそこは、なかにわじゃないよねええええ!?」
 すがるようなまりさの言葉に、青年は反応しない。
 扉の方角へ向けてただ歩いていくのみ。暴れ始めるまりさの体をぎゅっと押さえ込んだままに。
「も゛う゛っ、あんなごど、もうじなぐでもいいのに、なんでえええええ!?」
 まりさの脳裏に、昨日のおぞましい感触が蘇ってわめき散らす。
 が、青年の拘束は小揺るぎもしない。
「ありすのしろいのっ、もういやだああああ! もうみだぐないいいい! ざわりだぐないいいいい!!!」
「これも劇団に入るための試練だから、がんばれ」
 焼け石に水とはこの言葉だな自嘲しながら、ぎこちない激励を送る青年。
 だが、あのありすの群れに責め立てられれば、例えにんしんしなくても無茶をされて殺されかねない。
 命と劇団。天秤にかけるまでもなかった。
「劇団はもういいよおおお! おうぢがえだいいい! いぎで、おうぢがえるのおおお! れいむにあわぜでえええ!!」
 ついに言ってしまったと、まりさの心にわきあがる罪悪感。
 群れのみんなの期待も、群れのみんなが得られるはずだった冬越しの食料も場所も、この言葉で失ってしまった。
 でも、その代わり生きて帰れる。れいむたちにもう一度会える。
 そうしたら、もう歌劇団のことは諦めさせて、二人で群れから外にでよう。
 それだけで、十分しあわせなんだから。
「それは、だめだ」
「どぼじでえええええええええっ!?」
 まりさの身もさけんばかりの絶叫。
 あまりに素直なまりさの心は、これはあくまでも歌劇団の選考か何かだと思い込んでいた。だから、信じていた。降りればそれで終わりだと。
 ありすの犠牲の羊とするためだけに呼ばれたことに、まるで気がついていなかった。
「今日は昨日より少し多いけど、まりさなら大丈夫だ。4時間がんばれば必ず助けにいく」
「いやだあああああああああああ! 4時間も、ゆっぐりしちゃ、だめええええええ!!!」
 まりさの絶叫を無視して中庭への扉を開く青年。
 未だ絶叫のほとばしるまりさの頭をわしづかみし、アリスのこもる中庭へと放り込んだ。
 すぐさま殺到するありすたち。
 ありすたちの頭の上に担ぎ上げられ、その上をころころと中庭中央へ転がされていく。
「みんな、ゆっぐりじでよおおおほおおおおおお!!!」
 窓越しにビリビリと伝わるまりさの叫びをBGMに、一斉に前後左右、上から下から愛を押し付けてくるありすたち。
 蟻の巣の手前に飴玉を放り投げたらああなるのだろうか。
 まりさを核に一つの玉となった集団を見ながら、青年はどうでもいいことを考えて気持ちを落ち着かせている。
 が、一人になってしまうとどうしても考えてしまうことがあった。どうして自分は昨日、あんな誤解を解こうとしなかったのだろう、と。
 余計、打ちのめされるだけとわかっていたはずなのに。
 座り込んで、自分の行き当たりばったりな言動を悔やんでいる。
 その場限りの優しさがどれだけゆっくりまりさを弄んだか、人語と感情を有するゆっくりだけに、青年の心へも少なからぬ負担をかけていた。
 誰かに話して、助けてほしい。
 青年がふと、そんなことを思ったときだった。
「そっちは始まったか?」
 青年を我に返したのは、上司の初老の男。
 御者の頃のしゃれた服装は今日はもうしていない。着古された作業服で、胸には加工所主任の札が揺れている。
「はい、今はじまっています」
 立ち上がって応答しようと腰を浮かした青年を、「いいから」と手で制してその隣に座り込んだ。
 そうして、ちらりと青年の顔を除きこむ。
「悪いな。急に場所が変わって」
「いえ、一日目で死んだゆっくりがいたから、仕方ないですよ」
「ああ、まったく。自殺を許すなんて信じられん管理だ」
 主任の声色が苦々しいそれに変わる。
 昨日、一人の職員の担当する別のまりさが、夜に壁に何度も体をぶちあてて死亡した。目を離していた隙の出来事。
 自殺前、担当する職員が正直にこの苦しみは死ぬまで続くこと、歌劇団が嘘であることを告げていたという。
「おかげで、あぶれたありすは他で分担することになった。今回は、早く終わりそうだね」
 この加工所に連れてこれれたゆっくりは、一匹につき十数匹のありすが割り振られている。それが、一匹死ぬごとにありすがが分配されていく。
 同時に、ゆっくりを犯すだけでは飽き足らず死亡させた性質の悪いありすが他の場所に入り込み、後半になるほど致死率が高い。 
 どうせ、後で苦しんで死ぬぐらいなら……
「早く終わったほうが、いいかもしれませんね」
 ありすの囲いから這い出して、よたよたと逃げ始めるまりさ。その白濁した足取りの痕跡を眺めながら、青年は呟いていた。
 その汚れた足取りをかき消すのは、後を追いかけていく体力気力充実のありすたちの群れ。
 弾む体の地鳴りの中から、「まりさはありすとふたりっきりになりたいのねええええ! いま、いぐわああああああん!!」という嬉しげな声がもれてくる。
「そうかね? 早く終わってしまうと、ありすのストレスが解消しきれないから私はごめんだな」
 憮然とした主任の表情を見て、青年に思わず薄笑いがこぼれる。
 ぎこちなく頷く青年。
「加工所のため、ですね」
「ん? お前、どうした?」
 その表情にさした影に、主任の男が疑問を感じたそのときだった。
 窓を振るわせる鈍い振動。

「おじさん!? ゆ、ゆっくりしないでたすけてねええええ!!!」

 まりさが、ありすに追われながら必死にガラス張りの扉にはりついていた。
 主任の男は、まりさの記憶の中ではまだ優しい御者の男。甘いお菓子をくれた親切な人のままだ。
「きっとおじさんがまりさをちがうところに連れてきちゃったんだよ! はやく本当の歌劇団につれていってね!」
「なるほど。実にゆっくりらしい、ポジティブな善意の解釈だね」
 感心しきりの主任に比べ、青年の表情はこわばっていた。
 なぜなら、土煙をまきあげるありすの一群が、まさにまりさへと飛びかかろうとする、その間際だったからだ。
「ま、まりさああああああ!! 人に見られながらするのがこのみなのねええええええ!?」
「まりさがそんなへんたいなんて、しらなかったわああああああ、すてきいいいいいいいい!!!」
「やめ……っ、げびっ!」
 後ろから扉に押し当てられ、まりさの嘆願は押しつぶされた。
 ゆっくりたちの体重の乗せられたガラス戸。しかし、ゆっくりの脱走に備えて格子状に細い針金を組んだガラスは割れる気配もなく、ただまっ平らにひしゃげたまりさたちの顔を写すだけ。
 まりさの唇がぱくぱくと鯉のように開いて閉じる。
 その苦悶の表情は、苦しい、気持ち悪い、たすけてくださいと声なき声が聞こえてくるようだ。
 ありすたちの表情は対照的に悦楽の笑顔。
「おじさん! ありすのあいを受けて、しあわせなまりさをきちんと見てあげてね!」
 ガラス腰にくぐもったありすの声が響くが、そんなまりさなどどこにもいなかった。
 それでも、主任は楽しげなありすの様子に満足そうに頷く。
 ガラスを何度も打ち鳴らす激しい交尾を始めても、表情一つ変えない。
「ふー、ちょっとだけすっきりしたわ! 次は向こうでお仕事している人たちに見せ付けてあげようね」
 やがては、向かい側に引きづられていくまりさ。
「たずげでよおぉぉぉ……」
 弱弱しい声もすぐに聞こえなくなり、姿も草むらの影へ消えた。
 もう、こちらからはどうしようもない。ありすが何をしようと、4時間はありすの好きなようにさせるしかない。
 ここで4時間後を待てるほど、新入りの青年はゆっくりしていない。この間に書類仕事を片付けなければと、腰を浮かしかける。
「ちょっと、いいかな?」
 が、その背中に低い声がかけられた。上司の落ち着いた声。
 言外にこめられた有無を言わせない響きに、青年は上げかけた腰を再び下ろしていた。
「君はさっき、『早く終わったほうがいい』といったね。どうしてだい?」
 咽が鳴る。まりさの乱入で忘れてしまったと思っていた言葉を聞きとがめられて、青年は我知らず唾を飲み込んでいた。
 青年は上司の興味深げな眼差しをいなす言葉を捜し始める。
「ええと、深く考えていませんでした。計画の目的からいえば、確かに早く終わってしまうと加工所のためになりませんね」
「深く考えていなかった、か。君は思慮深いタイプだと思っていたのだがね。勝手な想像で悪いが、早く終わればまりさたちが苦しまないでいいとか、思っていたんじゃないかい?」
「そ、そうですか?」
 はははと、誤魔化そうとした愛想笑いは上司の眼光の前にあえなく凍りついていた。
 上司が口の端だけをゆがめて笑う。
「わかるさ。誰もが通った道だ」
 言いながら、ふと遠く見る上司に、青年は下手ないいわけを謹んで、その言葉を待つ。
「この仕事はな、ゆっくりが可愛いとか、憎いとか、そういう思いで続けるとつらくなる」
「え、憎んでいてもですか?」
「ああ、ゆっくりという生き物に特別な感情……餡子の材料以外の意味をつけると、この仕事は苦しくなるんだ。だから、新人は一年間、加工所の敷地から出さずにみっちりと慣れさせる。厳しいとは思うが、仕方が無いんだ」
 青年は自分を振り返る。
 養殖もののゆっくりなら何度か加工に参加した。みんな同じ環境、同じ反応、同じ最後。機械的に工程に従事することができた。
 ただ、外部で様々な個体と触れ合った個性的なゆっくりともなると話は違う。あまりにも人間的すぎて、それでいて愚かで素直。機嫌がよければ愛らしくもある。青年は、すでにものとして見られなくなっていた。
「主任は、あらゆるゆっくりを材料として見ているのですね」
 聞きながら、青年は無駄な問いかけをしていると自覚していた。
 この、現在携わっている計画を立案実行しているのはこの男なのだから。
「ああ。それ以上でも以下でもない。扱いがデリケートなだけの材料」
 予想通りに言い切った主任の言葉だったが、突然にその表情を和らげる。
「……という考えを持つようになったのは、私も最近のことでね。要するに、そのうち慣れるから今はまだ悩んでいなさい」
 さりげない寛容さだった。
 ふうと、ため息とともに青年の緊張が解けていく。
「さて、と」
 そんな青年の様子をおかしそうに見届けて、ようやく立ち上がる主任。青年も慌てて後に続く。
「それじゃあ、私は他のところの様子を見に行くからね」
「あ、はい。おつかれさまです」
 軽く会釈しようとする青年。
 が、上司の話はそれで終わりではなかった。
 もっとも重要なことを、まだ上司は話していなかった。
「最後に、一つだけいいかな」
 静かだが毅然としたその口調に青年は息を飲む。
「私たちが責任を持ったり、正面から付き合わないといけないのはゆっくりではないよ。それを材料につくりあげる商品の質と安定。そして、それにお金を払うお客さんたちだ。忘れるなよ」
 若い心に大きな釘を刺されて、ぎこちなく頷く青年を残し、主任の男は次の現場へと立ち去っていった。

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最終更新:2022年05月03日 16:40