4階では、先の4人から教えられた部屋に8世帯21人が息をひそめる様に集まっていた。
その殆どが比較的若い女性で恋人や夫が、帰宅するのを待っている内に孤立してしまったとの事だった。
他にも年配層の世帯が数世帯居たそうであるが、絶望的な状況に失望して自殺の道を辿った。
生存者はリーダー格で平沢という老人が、上手くまとめて居た為に一応の平静を保っていた。
平泉巡査長の訪問に、状況に対して冷静すぎるとも言える応対があった。
「随分近くで射撃音が聞えたのでな、こりゃ若しかしたら救援が来たのかと思って若いのを様子見に行かせたのだよ」
ご苦労さん、と労いの言葉に救援部隊の規模を聞かれて、平泉巡査長は応えた。
「警察側では本官を入れて4人です、他に自衛隊が12名ほど支援に来ています」
想像していたよりも、救援の人数が少ない事に軽い失望を感じつつ平沢老人は感謝の言葉を述べた
「ここに来るまでに大分、苦労をされた様じゃな、兎に角来てくれて助かった、あそこで震えとる奥さん方が
仏さんに喰われるかと思うと、不憫で不憫で仕方が無かったよ」
奥を覗くと、恐怖の一夜を過ごした真っ青ですがる様な表情をした女性達が肩を寄せ合うようにしていた。
「長い時間の確保は困難です、ここに居る吉田巡査が誘導致しますので急いで避難してください」
突然の解放に腰が抜け切ってしまった彼女達を、介抱しつつ吉田巡査の誘導で数人ずつエレベーターで
階下降りてゆく、避難作業が順調に進んでいよいよ自分達が避難する段階に差し掛かった時、平沢老人が居ない事に
気が付いた、奥を除くと老婦人と一緒に仏壇に線香を立てている所だった。
仏壇には30代の男性と女性に、その子供と思われる3人の家族が納まっていた。
「息子夫婦だよ、6年前に他界した、交通事故だった、、」
なんとも言えない雰囲気が静かに漂っていた。
「、、、避難は順調です、我々が最後ですから急いで下さい」言わなくても次の言葉が分かるような気がした。
「わし等はもう良いですから、お先に行きなさいワシは、こいつとここで最後まで残りますから、、」
説得不可能を思わせる、全てを悟り切った澄んだ目をして老人が言った。
「馬鹿な事は言わないで下さい、本官が責任を持って安全に送り届けますから、どうか避難してください」
「良い目をしているな、、責任感と若さに燃えた良い目をしている、昔はそんな目をした奴が大勢居た、
ワシもその1人だった、、」すうっと老人の目が細くなり何処か遠くの彼方を見ているようだった。
数十年の彼方を超え、目の前にいる責任感あふれる青年の目が遥か彼方の戦友にだぶる、、心は遠く時間を超え
其処にはテニアン島防衛歩兵第50連隊大隊本部付き、指揮小隊第一分隊長の平沢軍曹が居た
「軍曹殿! 平沢軍曹殿!、、」橋本伍長の切羽詰った煤けた顔が其処に有った。
「艦砲射撃で大隊本部は壊滅しました、小隊長の山田少尉は先ほど戦死されました小隊は10名を割っています!」
市街は既に陥落し、島内で唯一の水源地マルポも陥落した時だった、、あの時も全く絶望的な状態の中にいた。
風景が変わって、深夜になる、8月初め連隊は最後の総攻撃を敢行していた。
米軍から打ち上げられる、絶え間ない照明弾で辺りは青白い光を受け人々は幽鬼の様に前えと進んでいた。
激しく降り注ぐ巨弾に、人々は肉塊と成って飛散した、スコールの様に注がれる銃弾は人々を将棋倒しに打ち倒し
火炎放射器の炎は突進する将兵を焼き払う地獄の壁となって前進を阻んだ。
この戦いで生き残った将兵は、以後の戦闘で組織的行動が困難になり光輝ある皇軍から敗残兵へと転落していった。
激しい暑さの中で水源地を失った生存者は、戦死した戦友の遺品を漁り僅かな窪みに残されたスコールの恩恵に
群がり、兵も民間人も浅ましい争奪戦の中で戦友の血で汚れた水溜りを啜った、絶望的水飢餓が日本軍支配地域に
蔓延していた。
それでも僅かな希望に胸を抱いて平沢軍曹は残り少ない部下を引き連れて後退していた。
カロリナス台地へ、カロリナス台地へ、、珊瑚礁の隆起によって複雑な地形と無数の洞窟があるカロリナス高地は
天険の要害となって米軍の、特に戦車の侵入を阻んでいた、、島内で唯一の生存が可能な地域を求めて
部隊は、避難民は後退して行ったが、そこは決して彼等が求める安全な楽園ではなかった。
「敵襲!!」洞窟の中に響き渡った怒声と共に、手榴弾が投げ込まれた
毎日が絶望の日々の中で次々と崖から飛降り、海に到達し得ない者がドサッっと砂袋を落とす陰惨な状況の中で、
それは突然起こった。
爆発の轟音が立て続きに起こり、避難の間に合わない者の手が、足が、肉片が飛んで来た。
火炎放射器が洞窟内に注ぎ込まれ、酸欠状態の者が耐え切れずに飛び出し炎に巻き込まれてゆく。
次々と壕内に爆薬が投げ込まれ、日本軍最後の拠点は崩壊していった、そんな中でも生き残った者には
新たな試練が待ち構えていた。
「野郎!撃ち殺してやる」橋本伍長が怒りで真っ赤に喚き散らした。
「何だ如何したんだ?」との問い掛けに橋本伍長が答える
「隣の壕内に居た、鈴木って野郎が攻撃の最中でテメェの命惜しさに自分の娘を殺しやがった!」
今では当然のように聞かれる話に、未だ怒りを感じる橋本伍長の人間らしさが感じられた。
「それで、、今如何している?」、一瞬の沈黙の後で橋本伍長が悲しげに応えた。
「野郎、自分で絞殺しておいて今では娘の遺体抱えて泣いてやがる」
怒り狂う伍長を抑えて話のあった洞窟内に入っていった、奥に男が1人小さな遺骸の前で嗚咽していた。
「可哀想な事をしたな、、」
問い掛けには答えず、男は涙を流しながらゆっくりとこちらを見た。
「済んでしまった事は諦めろ、それより娘の遺体を海に流してやれ、早くしないとまた艦砲が来るぞ」
男がおずおずと懐から何かを取り出して言った
「兵隊さん、マッチを1本頂けませんか?、今迄持って居たのですが火が無くて出来なかったのです」
飛行場拡張用に使っていた、ダイナマイトが手に握られていた、、マッチを渡すと感謝しつつ
男は洞窟を出るように促した、数分後に壕内で新しい爆発が轟いた。
ふと意識が現在に戻る、あの橋本伍長も今は居ない、、同じ目をした若い警官に言い知れない懐かしさを感じた。
「巡査さん、あの若い人達を宜しく頼みます、わし等はもうこれ以上逃げ回るのは嫌なんです
どうかそっとして置いてください」
固い決意の澄んだ目で応える平沢老人に、説得不能を感じて平泉巡査長は老夫婦を置いて出て行く事にした。
扉を閉める老人に、静かな敬礼を送った、、閉められた扉は軽い音と共に内側から鍵がかけられた。
踵を返してエレベーターホールに急ぐと、階下の高田巡査から通信が入った。
「避難民は自衛隊の小型車両で退避中です、我々は階下で待っています急いで下さい」
1階に戻りエレベーターホールを出ると、ちょうど自衛隊車両が避難民を乗せて走り去る所だった。
焦りまくった浅田巡査の引き攣った表情と、吉田巡査の実直な報告が平泉巡査長を迎えた。
「平泉さん、随分遅かったですね、第3班の方で30人規模でゾンビとの交戦があり自衛隊が支援に向かっています
我々には退避命令が出ました」「高田巡査は?」
「退避方向の確保で大通り方面を視察しています」
急ぎましょうと急かす浅田巡査を先導にマンションを出たところで高田巡査が迎えた。
走り去った自衛隊トラックを追いかけるように平泉巡査長は部下を促した。
平泉巡査長は全員が良く見えるグループの最後尾に占位して、退避の指揮を取った。
「走るな浅田、意識を前方だけでなく周囲に向けるんだ、気持ちを抑えて確実で迅速な行動を取れ。」
走り去った自衛隊に追い付こうと必死の浅田巡査を抑える、こういう時は決して焦ってはいけない
焦った結果に殉職した例を平泉巡査長は、今回の事件以外でもいくつか知っていた。
部下を決して失いたくない平泉の強い義務感がはやる気持ちを抑え、着実に部下を指揮していた。
「大通りに出るぞ、吉田巡査は先行して退路の確保、高田巡査は周囲警戒、浅田巡査は高田巡査の後に付け」
いきなり飛び出しては、交戦中の緊張した自衛隊の射撃を受けかねないので実戦経験が豊富な吉田巡査に
先行を命じて、一番経験の少ない浅田巡査を押えることにした。
そして大通りにでる直前に道幅1.5メートル程度の間道を横切る、、、何かが動いた。
高田巡査に必死に付いてゆく浅田巡査は全く気が付かなかったようだが、経験豊富で優秀な平泉巡査長には
それが白いブラウスを着た人であると直感した、距離は7メートル程で近い。
瞬間的に平泉は迷った、人か?ゾンビか? 大通りの反対側では第3班がゾンビと交戦中で自衛隊の
銃撃音が激しく響く状況下で判断ミスは死に直結する、自分だけなら未だ良い、しかし部下が、、。
短い時間の中で実戦経験を積んだ平泉巡査長だったが、それよりも長い警察官としての経験は
心の葛藤に悩んだ、警察官は治安の維持に全力を尽くし、善良な市民の安全と生命を守るべし!
市民の生命と安全!、、呪わしい呪縛。
一瞬の間に悩み悩んで遂に決断した、確認しよう、見捨てては置けない、ここは大通りに近い、
ゾンビなら先ほどの戦闘時に出て来るか自衛隊に向かっていた筈だ・・・・。
今見捨てれば絶対に助けられない現実が警察官としての平泉巡査長の決断を突き動かした。
「吉田巡査、今路地方で人らしき者が動いた、本官が確認するので貴様は高田巡査と浅田巡査を
纏めて退路を確保しつつ現状で待機しろ!」
吉田巡査が狼狽した表情で振り向く。
「平泉さん、、きっ危険すぎます、本官が援護に、、」
心の決算が付いた平泉巡査長は怒鳴った。
「馬鹿野郎!上官の命令には従え、貴様は浅田巡査が飛び出さんように注意しろ。」
言い捨てて、路地方に侵入して行った。
最終更新:2011年11月04日 16:04