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殺生石 - (2011/08/05 (金) 19:00:47) の1つ前との変更点
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・金毛[[九尾の狐]]「玉藻前」が退治されて後、那須野ヶ原で毒石となったという伝説。曹洞宗の僧、源翁和尚が柱杖(もしくは鉄槌)にて打ち砕いたとされる。→[[源翁]]
・源翁の破砕した殺生石が飛来したという謂れ地は多くある。『源翁能照和尚行状記』では白河の常在院と会津磐梯山に、『伯耆民談記』では那須の湯村、白河常在院、美作高田の化生寺に飛来したと伝える。
他にも岡山市上高田の五后社(『岩田村誌』)、愛知県額田郡岩津村の村績神社の境内にも殺生石の残片と信じられた霊石がある。
・美作の化生寺には、境内に殺生石を祀る玉雲大権現(高田稲荷)がある。玉雲と書いて「たまも」と読む。
・京都、真如堂には「鎌倉地蔵」と呼ばれる、「飛散した那須野の毒石の破片を刻んで作ったと伝えられる地蔵」が安置されている。
縁起書によれば、元々鎌倉にて信仰を集めていたが、甲良豊後守の夢枕にて京都への移動を告げ、豊後守の尽力により京都へ移されたと言う。
ここで出てくる甲良氏は工匠の家柄で、慶長十一年の江戸城改築の他、日光東照宮造営において大棟梁を勤めたという家柄。
『江戸の怪異譚』の中で堤邦彦氏は、大工言葉で石を砕くための鉄槌を「げんのう」と呼ぶ事などとも合わせ、源翁和尚と殺生石の伝説も甲良氏を中心とした大工職たちが広めていったのではないかと述べている。
参照:『江戸の怪異譚』
・なお、上記「真如堂縁起」に、鎌倉地蔵を京都へ移動させた甲良豊後守宗広を慈眼大師天海の「肉弟」とする記述がある。→[[天海]]
・金毛[[九尾の狐]]「玉藻前」が退治されて後、那須野ヶ原で毒石となったという伝説。曹洞宗の僧、源翁和尚が柱杖(もしくは鉄槌)にて打ち砕いたとされる。→[[源翁]]
・源翁の破砕した殺生石が飛来したという謂れ地は多くある。『源翁能照和尚行状記』では白河の常在院と会津磐梯山に、『伯耆民談記』では那須の湯村、白河常在院、美作高田の化生寺に飛来したと伝える。
他にも岡山市上高田の五后社(『岩田村誌』)、愛知県額田郡岩津村の村績神社の境内にも殺生石の残片と信じられた霊石がある。
・美作の化生寺には、境内に殺生石を祀る玉雲大権現(高田稲荷)がある。玉雲と書いて「たまも」と読む。
・京都、真如堂には「鎌倉地蔵」と呼ばれる、「飛散した那須野の毒石の破片を刻んで作ったと伝えられる地蔵」が安置されている。
縁起書によれば、元々鎌倉にて信仰を集めていたが、甲良豊後守の夢枕にて京都への移動を告げ、豊後守の尽力により京都へ移されたと言う。
ここで出てくる甲良氏は工匠の家柄で、慶長十一年の江戸城改築の他、日光東照宮造営において大棟梁を勤めたという家柄。
『江戸の怪異譚』の中で堤邦彦氏は、大工言葉で石を砕くための鉄槌を「げんのう」と呼ぶ事などとも合わせ、源翁和尚と殺生石の伝説も甲良氏を中心とした大工職たちが広めていったのではないかと述べている。
参照:『江戸の怪異譚』
・なお、上記「真如堂縁起」に、鎌倉地蔵を京都へ移動させた甲良豊後守宗広を慈眼大師天海の「肉弟」とする記述がある。→[[天海]]
(『江戸の怪異譚』堤邦彦)
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