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良源 - (2011/08/07 (日) 11:07:12) の1つ前との変更点
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・[[912年]]、近江国浅井郡に生まれる。
•[[945年]](天暦三年)八月より横川にて[[藤原忠平]]追善のための三百日の護摩。
この祈りの後、忠平の子[[藤原師輔]]の娘安子が皇子[[憲平親王]]を出産し、
良源が師輔の信頼を得る契機となる。
•[[970年]](天禄元年)七月、「二十六箇条起請」と呼ばれる延暦寺内の寺院法を制定。
・藤原師輔の息子、[[尋禅]]を弟子にしている。
・『山家要記浅略』という史料に、良源が僧兵創始者であるという伝説が見える。
曰く、良源が「文武相兼ねて天下を治む」と文武両道を説き、
増加しつつある僧侶集団の中から「愚鈍無才の僧侶」を選抜し
「武門一行の衆徒」に仕立て上げたと。
ただし『山家要記浅略』は応永十六年([[1409年]])成立で、信頼性には疑問が残る。
・『扶桑略記』天元五年([[982年]])正月十日条に、勅使が伝えた[[円融天皇]]の言葉として
「千手院経蔵や観音院、一乗寺への放火、そして余慶・穆算(もくさん)ら五人の殺害に
関する風聞があり、それが良源のしわざであるらしい。極めて遺憾なことだ」
という記事がある(ただし、良源は否定、その後具体的な処罰が行われた形跡はない)
・『平家物語』覚一本巻六に、慈心坊尊恵が閻魔王から以下のような話を聞いた記事が載る。即ち、
「清盛入道はただの人ではない。慈恵僧正(良源)の化身であり、
天台仏法を護持するために日本に再び誕生したのである。だから私は毎日三度、
清盛を礼賛する文を読んでいる。これを彼に捧げよ。
敬礼慈恵大僧正
天台仏法擁護者
示現最勝将軍身
悪業衆生同利益」
慈恵がこれを現世の清盛に伝えると、彼はこの上なく喜んで
慈恵を僧綱(律師)に昇進させたと云々。
(zsphereコメント:よく分からない話。ていうか同じ平家物語の巻一で、
延暦寺強訴の日吉神社の神輿に矢をあてちゃったのは
清盛の軍勢じゃなかったっけw)
(『僧兵 祈りと暴力の力』衣川仁)
・[[912年]]、近江国浅井郡に生まれる。
•[[945年]](天暦三年)八月より横川にて[[藤原忠平]]追善のための三百日の護摩。
この祈りの後、忠平の子[[藤原師輔]]の娘安子が皇子[[憲平親王]]を出産し、
良源が師輔の信頼を得る契機となる。
•[[970年]](天禄元年)七月、「二十六箇条起請」と呼ばれる延暦寺内の寺院法を制定。
・藤原師輔の息子、[[尋禅]]を弟子にしている。
・『山家要記浅略』という史料に、良源が僧兵創始者であるという伝説が見える。
曰く、良源が「文武相兼ねて天下を治む」と文武両道を説き、
増加しつつある僧侶集団の中から「愚鈍無才の僧侶」を選抜し
「武門一行の衆徒」に仕立て上げたと。
ただし『山家要記浅略』は応永十六年([[1409年]])成立で、信頼性には疑問が残る。
・『扶桑略記』天元五年([[982年]])正月十日条に、勅使が伝えた[[円融天皇]]の言葉として
「千手院経蔵や観音院、一乗寺への放火、そして余慶・穆算(もくさん)ら五人の殺害に
関する風聞があり、それが良源のしわざであるらしい。極めて遺憾なことだ」
という記事がある(ただし、良源は否定、その後具体的な処罰が行われた形跡はない)
・『平家物語』覚一本巻六に、慈心坊尊恵が閻魔王から以下のような話を聞いた記事が載る。即ち、
「清盛入道はただの人ではない。慈恵僧正(良源)の化身であり、
天台仏法を護持するために日本に再び誕生したのである。だから私は毎日三度、
清盛を礼賛する文を読んでいる。これを彼に捧げよ。
敬礼慈恵大僧正
天台仏法擁護者
示現最勝将軍身
悪業衆生同利益」
慈恵がこれを現世の清盛に伝えると、彼はこの上なく喜んで
慈恵を僧綱(律師)に昇進させたと云々。
(zsphereコメント:よく分からない話。ていうか同じ平家物語の巻一で、
延暦寺強訴の日吉神社の神輿に矢をあてちゃったのは
清盛の軍勢じゃなかったっけw)
(『僧兵 祈りと暴力の力』衣川仁)
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