摠見寺

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・[[安土城]]内に[[織田信長]]が作らせた寺院。 ・現在、楼門と三重塔が現存しているが、    楼門は[[滋賀県]]水口町の近江柏木神社から、    三重塔は同甲賀郡石部町の長寿寺から移築したものであると判明している。 (『信長と天皇』今谷明) ・安土城炎上の際にも消失を免れたが、江戸時代末に伽藍を焼失。    現在は三重塔と二王門(いずれも重要文化財)を残すのみ。 ・伽藍は通常の寺院と同じく南面しているが、参道が慶大を東西に横切る特異な配置。    この参道は安土城の百々橋口道でもあり、城と城下町を結ぶ唯一の地点で、    江戸時代の絵図にはここに高札、下馬札が立てられ、    馬繋(=馬屋)があったことが確かめられる。 ・二王門は二階建ての楼門。安土城炎上以前からの姿を留めるが、    有事の際に城の防衛に役立つような設計ではない。 ・現存する二王門、三重塔のほか、本堂、鐘楼、総門、また本堂の東側に    鎮守社と拝殿があった。これは中世の密教寺院にもっとも普通に見られる構成とのこと。 (zsphereコメント:鎮守社があった? そして密教寺院? 摠見寺って禅寺じゃないの?) ・本堂西側、桃山時代には豊臣家によって庫裏と書院が建っていた地点に、    能舞台が建っていたと見られる礎石がある。    『信長公記』などに、摠見寺内の能舞台について言及があるが、    江戸時代の記録や絵図には見られず、おそらくこの場所が能舞台であったのを    改修されたものと考えられる。 ・[[1854年]](嘉永七年=安政元年)十一月十六日朝、堂内からの出火により本堂焼失。 ・本堂内部は、礼拝場所である外陣(礼堂/らいどう)と、本尊を安置する内陣(=正堂)に    仕切られたもので、近江の密教寺院本堂に数多く残る形式。    特に甲賀郡石部町にある[[長寿寺]]本堂と酷似している。 ・本来、密教寺院は一重の仏堂だが、フロイスの「諸仏の上に仏龕を設けて~」の記述や、    江戸時代の記録に「本堂の上に二間半四方の閤(=閣)があった」とされていることから、    二重仏殿(=二階建て)だったと考えられる。    おそらく、甲賀から移築された際に大きく改造されたのでは、とのこと。 ・創建当初、一階内陣には本尊の[[十一面観音]]と並び、信長自ら[[竹生島]]から勧請した    [[弁財天]]が祀られていたという。 ・おそらく、二階に「盆山」が安置されていたとみられる。    信長の死後は本尊が二階に移され、一階には信長の木造が安置されていた模様。 (『安土城・信長の夢』滋賀県安土城郭調査研究所編) #amazon(4883252620)
・[[安土城]]内に[[織田信長]]が作らせた寺院。 ・現在、楼門と三重塔が現存しているが、    楼門は[[滋賀県]]水口町の近江柏木神社から、    三重塔は同甲賀郡石部町の長寿寺から移築したものであると判明している。 (『信長と天皇』今谷明) #amazon(406159561X) ・安土城炎上の際にも消失を免れたが、江戸時代末に伽藍を焼失。    現在は三重塔と二王門(いずれも重要文化財)を残すのみ。 ・伽藍は通常の寺院と同じく南面しているが、参道が慶大を東西に横切る特異な配置。    この参道は安土城の百々橋口道でもあり、城と城下町を結ぶ唯一の地点で、    江戸時代の絵図にはここに高札、下馬札が立てられ、    馬繋(=馬屋)があったことが確かめられる。 ・二王門は二階建ての楼門。安土城炎上以前からの姿を留めるが、    有事の際に城の防衛に役立つような設計ではない。 ・現存する二王門、三重塔のほか、本堂、鐘楼、総門、また本堂の東側に    鎮守社と拝殿があった。これは中世の密教寺院にもっとも普通に見られる構成とのこと。 (zsphereコメント:鎮守社があった? そして密教寺院? 摠見寺って禅寺じゃないの?) ・本堂西側、桃山時代には豊臣家によって庫裏と書院が建っていた地点に、    能舞台が建っていたと見られる礎石がある。    『信長公記』などに、摠見寺内の能舞台について言及があるが、    江戸時代の記録や絵図には見られず、おそらくこの場所が能舞台であったのを    改修されたものと考えられる。 ・[[1854年]](嘉永七年=安政元年)十一月十六日朝、堂内からの出火により本堂焼失。 ・本堂内部は、礼拝場所である外陣(礼堂/らいどう)と、本尊を安置する内陣(=正堂)に    仕切られたもので、近江の密教寺院本堂に数多く残る形式。    特に甲賀郡石部町にある[[長寿寺]]本堂と酷似している。 ・本来、密教寺院は一重の仏堂だが、フロイスの「諸仏の上に仏龕を設けて~」の記述や、    江戸時代の記録に「本堂の上に二間半四方の閤(=閣)があった」とされていることから、    二重仏殿(=二階建て)だったと考えられる。    おそらく、甲賀から移築された際に大きく改造されたのでは、とのこと。 ・創建当初、一階内陣には本尊の[[十一面観音]]と並び、信長自ら[[竹生島]]から勧請した    [[弁財天]]が祀られていたという。 ・おそらく、二階に「盆山」が安置されていたとみられる。    信長の死後は本尊が二階に移され、一階には信長の木造が安置されていた模様。 (『安土城・信長の夢』滋賀県安土城郭調査研究所編) #amazon(4883252620)

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