賭け(引用)

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>&bold(){賭のパトスは絶対的な喪失に九分どおり賭けているという戦慄に存する。その時彼は99%までの敗北を予感しているのである。勝利の機会はただ1%である。確率的にはどうあろうと、心理的にはまさにそうである。}客観的に賭の偶然性を支配する確率の法則と、賭ける者の情熱とは全く別のものである。&bold(){勝利した時の喜びは、むしろ奇妙な期待はずれの失望感をまじえた安堵にさえ似ている。だから。彼は再び賭けるのだ。彼は負けるまで賭ける。あたかも、賭は負けなければならないものであるかのように。敗北することにこそ賭の目的があるかのように。} >                       石原吉郎
>かくして、賭金が期待される金額とそれが得られる確率との積に等しい場合でさえ、このゲームは不利なのである。このことより、期待される金額がこの積よりも小さいゲームは、いかに不道徳であるかが判断できるであろう。このような賭は、誤った推論とそれが助長する貪欲さによってのみ存続するにすぎない。人々を奇怪な期待のために必要物までをも犠牲にするように仕向け、その期待のありそうになさは見積りなど論外というこれらの賭は、限りない不幸のもとである。 >                                    ラプラス『確率の哲学的試論』 >&bold(){賭のパトスは絶対的な喪失に九分どおり賭けているという戦慄に存する。その時彼は99%までの敗北を予感しているのである。勝利の機会はただ1%である。確率的にはどうあろうと、心理的にはまさにそうである。}客観的に賭の偶然性を支配する確率の法則と、賭ける者の情熱とは全く別のものである。&bold(){勝利した時の喜びは、むしろ奇妙な期待はずれの失望感をまじえた安堵にさえ似ている。だから。彼は再び賭けるのだ。彼は負けるまで賭ける。あたかも、賭は負けなければならないものであるかのように。敗北することにこそ賭の目的があるかのように。} >                                              石原吉郎 >もし神があるとすれば、神は無限に不可解である。なぜなら、神には部分も限界もないので、われわれと何の関係も持たないからである。したがって、われわれは、神が何であるかも、神が存在するかどうかも知ることができない。 >(中略) >それではこの点を検討して、「神はあるか、またはないか」と言うことにしよう。だがわれわれはどちら側に傾いたらいいのだろう。理性はここでは何も決定できない。そこには、われわれを隔てる無限の混沌がある。&bold(){この無限の距離の果てで賭が行なわれ、表が出るか裏が出るのだ。君はどちらに賭けるのだ。}理性によっては、君はどちら側にもできない。理性によっては、二つのうちのどちらを退けることもできない。 >                                        パスカル『パンセ』 (zsphereコメント:究極の丁半博打としての信仰。           なおパスカル先生によれば、神がいない方に賭けてもリターンは無いが、もし神がいる方に賭けて           当たっていれば死語に絶大なリターンが来る、という論法になるわけである。           しかも、この博打からは降りられない)

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