纒向遺跡

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纒向遺跡 - (2012/04/29 (日) 02:41:47) のソース

・奈良県の大和平野に所在。

・[[1971年]]、炭鉱離職者向けアパートの建築計画を機に本格的に調査が始まる。

・遺構の東側から発見された溝周辺で、鍛冶滓や羽口が少量出土した。
  これは大和平野の中では最古の鍛冶遺構であり、
  纒向遺跡に鍛冶関連の工人がいたことを示すと見られる。

・同遺跡には前方後円墳のほか、従来型の方形周溝墓もある。
  摂津や河内地方で多く見られる組み合わせ式の木棺墓や、
  瀬戸内から山陰にかけての大型の土器棺墓も発見されている。
 (それだけ広範囲から人が流れてきた事を示すか)

・同遺跡辻地区の土坑4より、尾張地区、伊勢地区の土器などと共に、
   大量の籾殻(もみがら)が出土。さらに同じ場所に、
   黒漆と赤漆による花柄文様の描かれた大型高坏、
   さらに機織り具、鳥船型木製品などの儀礼用具が発見されている。
   これを、新嘗に相当する共食儀礼の痕跡ではないかとする説もある。

・土器も各地のものが持ち込まれており、西は九州から東は相模地方、
   北は北陸から南は四国・阿波のものまである。
  一番多いのはS字口縁甕とよばれる東海系土器で、搬入土器の約半分を占める。
  山陽・吉備地方の土器はわずか。
  また北部九州系の土器もごくわずか。2008年段階で10点も見つかっていない。
  歴年代で言うと、西暦210年頃から、280~290年頃にかけて、
  外来系土器がもっとも多くなっていると見られる。
 (こうした、他地域の人々が集住した形跡の見られる遺跡には
  九州にも福岡市[[西神町遺跡]]、佐賀県[[吉野ヶ里遺跡]]などがあるが、
  その外来住民の出身地の範囲が最も広く、また土器中の外来系土器の比率が最も多いのが
  纏向遺跡である、とのこと)



・一方、祭祀遺物は弧文円板や弧文石板、[[特殊器台]]片など吉備系のものが多い。
   →[[直弧紋]]

・なお、鉄器・金属器の出土は比較的少ないという。

・[[2009年]]、第166次調査の現地説明会において、
   それまで纏向遺跡内では見つかっていなかった大型建物の痕跡が発見された旨報告された。
   A~Dまでの四棟の建物が、東西に全軸をそろえて一直線に並ぶ形で、
   一番大きいD棟の北方向に箸墓古墳が見える位置関係。
・また、このうちB棟の柱間の尺度が、魏の魯般尺と一致する、という復元報告が
   宮大工の木村房之によってなされたという。
   (魯般尺とは、魯の襄公の時代に、国一番の工匠だったという魯般の家に伝わっていた
    吉祥尺のことであると云々)。

・三世紀の井泉の中から、木製仮面が発掘されている。
   鍬の柄を転用し、柄孔を口に、舟形突起を加工して鼻に、目の部分は細目にくりぬいて
   作られており、大きさは縦26センチ、横21.5センチ、耳はなく、また
   穿孔もない事からおそらく手持ち面であったと思われる。



   参考文献
『シリーズ「遺跡を学ぶ」051 邪馬台国の候補地 纏向遺跡』石野博信
『シリーズ「遺跡を学ぶ」035 最初の巨大古墳 箸墓古墳』清水眞一

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