大江 匡房(おおえ の まさふさ、長久2年(1041年)-天永2年11月5日(1111年12月7日)は平安時代後期の代表的な公卿・学者。号は江帥(ごうのそち) 。大江氏の一族で大江匡衡・[[赤染衛門]]の曾孫。大江広元の曾祖父。父は大学頭大江成衡、母は橘孝親の娘。 ・大江家家学の紀伝道を修め朝廷に仕える。[[後三条天皇]]、[[白河天皇]]、[[堀川天皇]]の三天皇の侍読を勤める。 漢詩、和歌、有職故実などに通じ多くの著作を残した。 代表作に儀式書『江家次第(ごうけしだい)』、日記『江記(ごうき)』、藤原実兼に筆録させた『江談抄』、世相を記した『傀儡子記(くぐつき)』、『洛陽田楽記』『遊女記』、往生人の伝記を集めた『続本朝往生伝』ほか多数。 ・詩文に関する自伝『暮年記』にて、「予四歳のときに始めて書を読み、八歳のときに史漢に通ひ、十一のときに詩を賦して、世、神童と謂へり」と記す。 ・そうした背景から、博覧強記ぶりを伝える逸話が多く残る。 『古事談』第五。[[藤原頼通]]が平等院を造るにあたって、地形の都合で門を北向きにしなければならなくなった。そこで右大臣源師房に北向きに大門のある寺の前例を尋ねたがわからず。当時まだ官職についておらず江冠者と呼ばれていた匡房に答えさせると、「北向きに大門がある寺は、天竺には奈良陀寺、唐土には西明寺、日本では六波羅蜜寺」と答え、頼通を感心させたという。 ・同じく『古事談』に、匡房が人の相を見た話も載る。所用で訪れた藤原清隆と障子ごしに謁見し、帰りしなに「官は正二位中納言、命は六十六ぞ」と言った、はたして清隆はその通りの生涯であったという。 ・『江談抄』に、匡房が太宰権帥として赴任中、[[菅原道真]]の廟所である安楽寺で内宴を行い詩序を作ったところ御殿の戸が鳴ったり、曲水宴の際にも安楽寺御殿に声がしたという話が載る。すなわち、菅原道真も匡房の詩作に感応したという話。 ・『古今著聞集』『奥州後三年記』などに、[[源義家]]が匡房の弟子となって兵法を学んだという話が載る。後日、義家が後三年の役で金沢の柵を攻める際、空を飛ぶ雁の列が突然乱れるのを見て、「これこそ匡房より学んだ『伏兵がいる時、飛雁の列が乱れる』だ」と思い機先を制して伏兵を破ったという。 すなわち、匡房は兵法にも通じていたとされていた。 ・『江談抄』第三で、当時の世の人々が匡房を「けい惑の精」、すなわち火星の精であると噂したという話が載る。 (『人物伝承辞典 古代・中世編』小野 一之他編)