藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。下野大掾藤原村雄の子。藤原北家・魚名の後裔とされる。生母は下野掾鹿島某の女とする。俵藤太(田原藤太とも。読みは「たわらのとうだ」「たわらのとうた」)の通称で知られる。官位は従四位下、下野守、武蔵守、鎮守府将軍。死後、贈位を受け贈正二位。 室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足(むかで)退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により、従四位下に昇り下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏・平氏と並ぶ武門の棟梁として多くの家系を輩出したが、仮冒も多い。 (以上Wiki) ・秀郷の史料における初見は、『日本紀略』延喜十六年([[916年]])八月条。 下野国の言上に基づいて、罪人藤原秀郷・兼有、高郷、与貞ら十八人を、 その罪に応じて配流すべきことを下野国司に命じた、という内容。