教会・寺院

私的伝奇関係データベース @ ウィキ内検索 / 「教会・寺院」で検索した結果

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  • 教会・寺院
       ドイツ 聖ゲオルグ教会    フランス ルミルモン修道院    イギリス ウェストミンスター寺院
  • イギリス
    ...ァーム    教会・寺院 ウェストミンスター寺院    当地出身の著名人    伝説    略史
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    ...    教会・寺院 聖ゲオルグ教会    当地出身の著名人    伝説    略史
  • 西洋編目次
    ... ヨーロッパの城 教会・寺院 ヨーロッパの結社 ヨーロッパの集団・協会 大学 ヨーロッパの庭園・植物園 その他施設(西洋) イギリス史 ヨーロッパの戦い 西洋の事件 キリスト教 イスラム教 伝説上の人物 古代エジプトの人物 古代ペルシャの人物 古代ギリシャの人物 古代ローマの人物 中世イタリアの人物 国王 ローマ皇帝 貴族(西洋) アメリカ大統領 ローマ教皇 司教 宗教者(キリスト教) 探検家・旅行家 軍人 運動家 アウトロー 文人 音楽家 哲学者 自然科学者 数学者 化学者 医学者 天文学者 魔術師 錬金術 錬金術師 民族 ヨーロッパの祭り 妖精・精霊 西洋の妖怪 西洋の幻獣 西洋の俗信 西洋魔術 武器・防具・軍事(西洋編) 食品(西洋) 船(西洋編) その他西洋文化史 使えそうなネタ(西洋)
  • 聖ゲオルグ教会
    ドイツ、アイゼナッハに所在。 マルティン・ルターが宗教改革の口火を切った場所として著名。 ヨハン・セバスチャン・バッハが洗礼を受けた教会。       参考文献 「千夜千冊」第1523夜
  • ウケク
    ロシアのボルガ川沿いに所在する、キプチャク・ハン国の交易都市、およびその遺跡。 1395年(A)、ティムールの攻撃によって破壊された。 2014年(A)、この都市遺跡跡地から、二つのキリスト教寺院の遺構が発見されている。    寺院はタイル屋根で、壁画や彫刻で装飾されており、ロシア、エジプト、イランからもたらされた輸入品の瓶や皿などが    発見されているという。    最初の寺院が14世紀はじめごろに破壊されたあと、二つ目の寺院が1330年ごろに建てられ、    1350年ごろまで使われた形跡があるという。    また、寺院跡からは中国製の高価な皿なども見られた事から、この時代のキリスト教徒が    迫害を受け奴隷的な扱いを受けていなかった事も示唆される、と発掘者は話しているとか。 (zsphereコメント:その皿の持ち主がキリスト教徒とは限らないけどね。外部から監督み...
  • ワット・プラケオ
    タイ(国名)のラタナコーシン朝を創始したラーマ一世により建立された寺院。    同王朝の王宮敷地内に建てられている。 別名を「エメラルド寺院」とも呼ばれる。名前の由来となったのは、ワット・アルンから移された    高さ66cmのヒスイ製の仏像で、門外不出の至宝とされている。 現在でも、王室や国家の重要儀式が執り行われる王宮寺院。       参考文献 『週刊世界遺産 No.80』
  • 摠見寺
    安土城内に織田信長が作らせた寺院。 現在は臨済宗妙心寺派に属する。 安土城炎上の際にも消失を免れたが、江戸時代末に伽藍を焼失。    現在、楼門と三重塔は現存しているが(いずれも重要文化財)、    楼門は滋賀県水口町の近江柏木神社から、    三重塔は同甲賀郡石部町の長寿寺から移築したものであると判明している。 1854年(嘉永七年=安政元年)十一月十六日朝、堂内からの出火により本堂焼失。       伽藍配置等 現存する二王門、三重塔のほか、本堂、鐘楼、総門、また本堂の東側に    鎮守社と拝殿があった。これは中世の密教寺院にもっとも普通に見られる構成とのこと。 (zsphereコメント:鎮守社があった? そして密教寺院? 摠見寺って禅寺じゃないの?) 伽藍は通常の寺院と同じく南面しているが、参道が境内を東西に横切る特異な配置。 ...
  • ワット・トライミット
    タイ(国名)、バンコクのチャイナタウン内に所在。 別名「黄金仏寺院」。この寺院に安置されている黄金仏に由来する。 奉納された黄金仏は、1955年(A)、バンコク港の拡張工事のため取り壊された廃寺から見つかったもの。    ビルマ軍からの略奪を避けるため漆喰で塗り固められていたもの。 高さ3m、重さ5.5t。完全な純金製で、純度60%の金で鋳造されている、世界最大の黄金仏という。       参考文献 『週刊世界遺産 No.80』
  • アジア編目次
        中国 中国の山 中国の河川 中国の都市 諸子百家 中国の仏教僧 中国道教 中国の神話 中国の神獣 中国の土地神・民俗神 中国説話 中国の遺跡 中国の仏教寺院 中国のその他建造物 中国の技術 中国の学者 その他人物(中国) 武器・防具(中国) 中国の文献     朝鮮半島 朝鮮半島の遺跡 高句麗     インド インドの山 インドの王朝 インド仏教 インドの建造物 インドの遺跡 インド地理 インド歴史 インダス文明      東南アジア 東南アジアの都市 東南アジアの遺跡 東南アジアの仏教寺院     その他地域 アジアの遺跡 アジアの建造物
  • 中国の仏教寺院
    阿育王寺
  • ワット・ポー
    16世紀に建立された、バンコク最古の寺院。    19世紀初頭にラーマ三世による改修を受けバンコク最大の寺院となった。 同じくラーマ三世により、仏教・医学・文学などの学問所としての設備も整えられた。    現在でもタイの伝統的な医学が教えられている。 また、全長46m、高さ12mに及ぶ巨大な寝釈迦像がある事でも著名。    高さ5mにわたる足の裏部分には、螺鈿細工により曼荼羅に似た仏教の宇宙観が描かれている。       参考文献 『週刊世界遺産 No.80』
  • 馬場南遺跡
    京都府木津川市に所在。 八世紀中ごろから後半にかけての古代寺院跡。 場所は大阪湾から淀川、木津川を遡った荷をおろした    港である泉津と、東大寺を結ぶ陸路の途中にあたる。 多量の墨書土器に記された文字から、この地に「神雄寺」という名の寺が    かつて存在したと思われる。 同遺跡から多数の灯明皿、火舎形香炉、浄瓶、鉄鉢形土器などの    仏教関連の土器が発掘されており、また四天王像と推定される    塑像片も見つかっている。 また、同遺跡から、国内三例目となる、万葉歌を書いた木簡が見つかっている。 「大殿」と書かれた墨書土器や、当時大寺院しか持てなかった彩釉山水陶器が見つかっており、    同時代の朝廷の有力者がこの寺に関わっていたのではないかと考えられていると云々。 (『発掘された日本列島2010』) 発掘された日本列島2010 新発見...
  • 970年
         政権      外交      生誕      死去      宗教界 七月、良源により延暦寺内の寺院法「二十六箇条起請」が制定される。      学術      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 下野薬師寺
    栃木県下野市にかつて存在した寺院。現在は存在せず、跡地に安国寺が建つ。 761年(天平宝字五年)に、観世音寺と共に戒壇が設立された事で著名。       参考文献 『平家物語(三)』 平家物語(三) (講談社学術文庫)
  • 1665年
    寛文五年      重大事件      政権 七月、江戸幕府、「諸宗寺院法度」および「諸社禰宜神主等法度(神社条目)」発布。      外交      生誕      死去      宗教界      学術      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 延暦寺
    延暦寺年表 天台座主 門跡 彼岸所 滋賀県大津市坂本本町に所在。 良源の定めた「二十六箇条起請」に「籠山僧、内界地の際を出づべからざる事」という項目があり、    その中で延暦寺の結界を以下のように定めている。    「東は悲田を限る、南は般若寺を限る、西は水飲を限る、北は楞厳院を限る この外これを出づべからず」 最澄が天台宗の教えによる国家鎮護のために作った、法華経一千部を安置する宝塔のうち、    比叡山の近江側に建てられた「日本国総安鎮」近江宝塔院を東塔院、    比叡山の山城側に建てられた「日本国中原安鎮」山城宝塔院を西塔院という。 十四世紀成立の『渓嵐拾葉集』によれば、延暦寺内において    「医方」「土巧」「算術」「兵法」が教えられていた、と。 (zsphereコメント:地方に下った僧が民衆に、病気平癒や土木工事を期待される場合...
  • 気比神
    『藤氏家伝』下「武智麻呂伝」に、霊亀元年(715年)、藤原武智麻呂の夢枕に    気比神が立ち、神の身の苦しを訴え仏教寺院の建立を願った逸話が載る。    これにより、武智麻呂は気比神のために神宮寺を建てたという。 (神仏習合、神宮寺の最初期の史料として著名な事例) (『日本神道史』岡田壮司) 日本神道史
  • 国王が病を治癒する
    プリニウス『博物誌』第七巻    →ピュロス王は、右足の親指に特殊な性質があり、それに触れると脾臓の炎症が治ったという。     王の火葬の際、その足指を焼くことができない事がわかったので、箱に収めて寺院に安置したという。       参考文献 『プリニウスの博物誌 Ⅱ』 プリニウスの博物誌〈第7巻~第11巻〉
  • 西寺
    京都府京都市南区、平安京で東寺と対称な位置に建てられていた官営寺院。 2016年に発表された報告によれば、この西寺跡遺跡のさらに下の地層から、方形周溝墓が二基発見されたという。    墳丘は削られており棺などは見つからなかったが、壺型の土器(うち一点は全体に朱を塗られていた)も    ほぼ完全な形で発掘されたとか。       参考文献 産経ニュース 2016年6月14日記事
  • 東南アジアの仏教寺院
          タイ(国名) ワット・ポー ワット・プラケオ ワット・トライミット
  • 祇園精舎
    中インド舎衛国の祇樹給孤独国に建てられていた寺院。 『三宝絵詞』に、「もろこしの貞観三年に玄奘三蔵の天竺にゆきめぐりし時に、    鶏足山のふるき道には竹しげりて人もかよはず、孤独苑の昔の庭には、    室うせて僧もすまざりけり」とある。    同内容の記述は『栄花物語』疑の巻にもあり、また『梁塵秘抄』にも    「迦葉尊者の古道に 竹の林ぞ生ひにける     孤独園の園見れば 昔の庵ぞあはれなる」    とある。    迦葉尊者は摩訶迦葉のこと、釈迦の弟子。    また鶏足山は迦葉尊者入滅の地。       参考文献 『新編日本古典文学全集 神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集』 新編 日本古典文学全集42・神楽歌/催馬楽/梁塵秘抄/閑吟集
  • 織田信長
       織田信長関連年表    →D:織田信長と比叡山    →D:織田信長の宗教観    →安土城    →本能寺 「信長公記」によれば、信長は父織田信秀の葬儀の際、    異装で現れ、抹香をつかんで仏前へ向けて投げつけた、とのこと。 基本的に、信長は籠城策を一度としてとったことがない、とのこと。 宣教師ルイス・フロイスが本国に送った書簡に、    「信長が1582年(天正十年)、安土山の寺院(摠見寺)の高所に自分の化身として     ボンサン(盆山)という石を置き、万人に拝させようとした」という記述がある。    いわゆる信長の自己神格化。    ただし、日本側の文献などにはこうした内容の記事は一切見られない。 また、フロイスはこの記述のあと、「デウスはこのような信長を十九日しか    生かしておかなかった」とあり、宗教的観点から記述が客観的...
  • 天台座主
    座主補任の際は、天皇の命令(宣命)により決定され、    勅使が比叡山上に登って読み上げ、寺院全体に告知されるのを慣例とした。 『平家物語』座主流の段によれば、延暦寺根本中堂に天台座主が入り本尊を拝礼する事を「拝堂」という。    その際、一尺四方の箱の中に黄色の紙に書かれた一巻の文があり、    これは伝教大師最澄が未来の座主の苗字を前もって記したものといい、    座主は自分の名のある所まで見て、その先は見ずに元に巻き戻して納める習いがある、という。       参考文献 『平家物語(一)』 『僧兵 祈りと暴力の力』衣川仁 平家物語(一) (講談社学術文庫)
  • 聖シメオン
    正教会やカトリック教会で崇敬される聖人。 「登塔者シメオン」とも呼ばれる。塔の上に小屋を建ててそこで神に祈祷する修業を行った最初の聖人として著名。 ティルベリのゲルウァシウス『皇帝の閑暇』に、ブリテン島カーライル近郊の森で狩りをしていた騎士が    雷鳴と稲妻を伴う激しい嵐に遭遇し、眠られずにいた時に聖シメオンが現れ、    雷除けとして角笛を託して行ったという逸話が載る。       参考文献 『西洋中世奇譚集成 皇帝の閑暇』ティルベリのゲルウァシウス 西洋中世奇譚集成 皇帝の閑暇 (講談社学術文庫)
  • イノシシ退治
    →イノシシ 『グリム童話集』「いさましいちびっこのしたてやさん」〈KHM20〉    →王様が結婚の条件に持ち出した難題の三つ目が、猪の捕獲。     仕立て屋は猪を引きつけて教会の中に飛び込み、窓から飛び出して教会の扉を閉めて猪を閉じ込め、     みごとこれをやり遂げる。 『グリム童話集』「唄をうたう骨」〈KHM28〉    →むかし昔、ある国でイノシシが暴れて人を困らせていた。これを二人の兄弟が退治に向かい、     弟が小人からもらった槍をつかってイノシシを退治すると、兄はこの手柄を横取りする。       参考文献 『完訳グリム童話集(1)』 完訳 グリム童話集〈1〉 (岩波文庫)
  • アユタヤ
    タイ(国名)南西部に所在。 「アユタヤ」はサンスクリット語で「平和の都」の意。    この地を開いたウートーン王が、『ラーマーヤナ』にちなんでつけたのが始まりという。    ウートーン王はここで1351年(A)、アユタヤ朝を開いた。 度重なるビルマ(ミャンマー)との戦いの末、1569年(A)に陥落し、寺院などが激しい略奪をうける。 1584年(A)、ナレースエンにより再びアユタヤ朝の独立が成り、以降18世紀初めまで繁栄を極めた。 最盛期には、高さ20m、厚さ5mの強固な城壁に囲まれ、人口は19万人を数えたという。 また、周辺に日本人町、ポルトガル人町などの外国人居留地が置かれた事で有名。    日本人町の頭領である山田長政も活躍した。 度重なるビルマ軍の侵攻により王朝も疲弊し、ついに1767年(A)、再び陥落してアユタヤ朝は滅亡した。       参考文献 ...
  • ウェストミンスター寺院
    ロンドン、テムズ川沿いに建つ。 西門から入った中央通路沿いに、チャールズ・ダーウィンとサー・ジョン・ハーシェルの墓が、    さらにジェームズ・マクスウェル、マイケル・ファラデーの記念碑を挟んだ次に、    アイザック・ニュートンの墓が所在する。 (『眠れなくなる進化論の話』) 眠れなくなる進化論の話 ~ダーウィン、ドーキンズから現代進化学まで全部みせます~ (知りたい!サイエンス)
  • 神道関連年表
    689年(持統天皇三年)八月二日条 「神祇官」の名称の初見。 771年(宝亀二年)十二月 光仁天皇による御体御卜。                    御体御卜の史料上の初見(現在は散逸した大伴家持署名太政官符) 798年(延暦十七年) 神宮司・神主の終身制を改め、六年任期制を導入。 856年(斉衡三年)四月 三位以上の名神の神主・禰宜・祝に把笏が許される(『文徳実録』) 942年(天慶五年)四月 天皇による神社行幸の文献上初見。                  朱雀天皇による、承平・天慶の乱鎮定の報賽のための賀茂行幸。 1585年(天正十三年)十月 伊勢神宮内宮、123年ぶりの正遷宮。 1665年(寛文五年)七月 江戸幕府、「諸宗寺院法度」および「諸社禰宜神主等法度(神社条目)」発布。 1687年(貞享四年) 東山天皇の御代...
  • カシワ
    柏の木は、若葉が出ても古い葉が落ちないとか。 『グリム童話集』所収「神さまのけだものと悪魔のけだもの」で、神様が悪魔に対して    「槲(かしわ)の葉がすべて落ちたら、約束のお金を渡そう」と約束するが、    悪魔が来ると「コンスタンティノープルの寺院にある槲にはまだ葉がついているぞ」と答え、    悪魔が歯噛みして悔しがるという場面がある。 古代ローマには「槲葉冠」があり、ローマ市民を救った者への栄冠として授与された。    →が、この場合のカシワは実際にはヨーロッパナラの事で、日本で言うカシワの事ではない模様。     コナラの一種だが葉がカシワに似ているため、訳される時にカシワとなってしまうようである。 プリニウス『博物誌』第十二巻に、プリニウスの時代にも人々がユピテルにフユカシワの木を捧げている事を述べている。       参考文献 『完訳グリム...
  • D:神仏習合史
          神仏習合の発生と展開 神仏習合の思想は中国にもあり、『高僧伝』『続高僧伝』に見られる    中国の神と仏の神仏習合論が日本に伝来した経緯が現在では検討されている。 近世まで日本には神仏習合の習慣があったが、例外もあり、    宮廷では大嘗祭の斎日や公祭の儀式において原則的に僧尼の参内を禁止し、    内裏の仏事を中止するなど神仏隔離の方針がとられるケースもあった。 『藤氏家伝』下「武智麻呂伝」に、霊亀元年(715年)、藤原武智麻呂の夢枕に    気比神が立ち、神の身の苦しを訴え仏教寺院の建立を願った逸話が載る。    これにより、武智麻呂は気比神のために神宮寺を建てたという。 (神仏習合、神宮寺の最初期の史料として著名な事例) →気比神 『類聚三代格』に、引用された記事として鹿島神宮寺のものがある。    天平勝宝年中(749~757年...
  • アイゼナッハ
    ドイツ中部の街。 マルティン・ルターの出身地。    ルターが宗教改革の口火を切った聖ゲオルグ教会がこの街に所在する。 また、ヨハン・セバスチャン・バッハの出生地。バッハは11歳までこの街に居住した。       参考文献 「千夜千冊」1523夜
  • M:正多角形の建築物に関するメモ
    ヨーロッパのキリスト教教会建築には、「集中式」と呼ばれる形式がある。    古代の円形神殿から発展したもので、元は墓廟や洗礼堂。    六角、八角、正方形などの平面図を持ち、天井にドームが載る。    初期キリスト教建築の特徴だったが、その対称性からルネサンス期に見直されたとか。    初期の例として、イタリアのラヴェンナ所在のサン・ヴィターレ聖堂などがある。       参考文献 『週刊世界遺産 No.33』
  • 鎮江
    中国の江蘇省、長江の南岸に所在。 マルコ・ポーロ『東方見聞録』に、この町に1278年(A)以来、    ネストリウス派のキリスト教教会が二つ建っていると記されている。    ネストリウス派教徒のマルサルギスなる人物がこの地を3年間統治した事があり、その時に建てられたという。       参考文献 『マルコ・ポーロ 東方見聞録』 マルコ・ポーロ 東方見聞録
  • フランシスコ・ザビエル
    日本をはじめアジア各地にキリスト教を広めたイエズス会宣教師。 中国南部の上川島で病死。 のち、遺体が当時ポルトガルの拠点として繁栄していたインドのゴアに移され、    同地のボム・ジェズ教会にミイラ状態でガラスの棺に納められて安置されているという。    このミイラは、10年に一度、ゴアの大聖堂で一般公開されているとか。       参考文献 読売新聞2014年11月20日記事
  • ルイス・キャロル
    1832年(W)、イギリスのチェシャ州ダーズベリにて生誕。     本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジスン。 キャロルの母は多産で、キャロルは男四人、女七人の家族の長男だった。 父は教会の牧師。のちにリッチモンド教会の大執事となり、リボン大聖堂の聖堂参事会員も務めた厳格な人物だったとか。 キャロルには吃音障害があったと言われている。また兄弟姉妹も全員言語障害があったという 大学の数学教師となったキャロルは、クライスト・チャーチ学寮の居室に写真スタジオを持っていた。  その名も「ガラスの城」。 ルイス・キャロルは、英国心霊研究協会の会員であった事が知られている。    1883年(W)から1897年(W)まで、同協会の会員名簿にキャロルの本名が記載されており、    またキャロル研究者が調査したキャロルの銀行口座出納録にも、死の直前まで同協会に会費が支払われていた...
  • 死体を喰う
    トンプソン『民間説話』    →バルト海沿岸からノルウェーにかけてのみ語られている話に、男性のヴァンパイアが出てくる話がある。     とある娘が見知らぬ男と結婚する。夜になって男の家に来るまで向かう途中、男は教会の前で     車から降りる。娘が様子を見に行くと、男は墓場でランプをつけ死体を食べている。     結婚したのち、娘の家族が訪れるので、男は娘に秘密を洩らさないように言いつけるが、     娘は姉に夫の行為を漏らす。実は家族は女を試すために男が化けていたものだったので、女は     本性を現した男に食べられてしまう。       参考文献 『民間説話』トンプソン 民間説話―世界の昔話とその分類
  • 自印聖像
    イエス・キリストが布に顔をあてると、その布に顔がそのまま転写された、という逸話を持つイコン。 ティルベリのゲルウァシウス『皇帝の閑暇』では、エデッサ(現在のトルコ、シャンルウルファ)の首座教会に保存されていた    自印聖像は顔のみならず全身の麗しい写像が布に刻印されたものであり、    さらにこの布が公衆の前に掲示される復活祭の聖なる日には、その像の外観が自在に変化すると記述している。    すなわち第一刻には幼児、第三刻には少年、第五刻には青年、第七刻には若者、そして第九刻には    主が罪の贖いのために受難した時の姿を見せるのだとか。 他にも、同書にはいくつか自印聖像に関する記述が続いているので参照の事(P57~)       参考文献 『西洋中世奇譚集成 皇帝の閑暇』ティルベリのゲルウァシウス 西洋中世奇譚集成 皇帝の閑暇 (講談社学術文庫)
  • 聖ヘレナ
    ローマ皇帝コンスタンティヌスの母にあたる。キリスト教における聖人に数えられる人物。 ティルベリのゲルウァシウス『皇帝の閑暇』に、聖ヘレナがエルサレムで十字架や釘などを見つけた帰り、    キプロス島に立ち寄り、そこに十字架を残していったという逸話を載せる。それによれば、    それまでキプロス島は決して死体を土が受け入れる事が無く、埋葬された遺体はすべて吐き出されてしまっていたが、    ヘレナが十字架を残していってからはそれが無くなったという。    またその十字架はとある教会に、何にも触れない状態で中空に浮かんで存在しており、    接吻をしようとした場合には動かないが手で触れようとすると脇か上に避けてしまうとか。       参考文献 『西洋中世奇譚集成 皇帝の閑暇』ティルベリのゲルウァシウス 西洋中世奇譚集成 皇帝の閑暇 (講談社学術文庫)
  • 延暦寺年表
         →延暦寺 785年(延暦四年) 最澄、比叡山に草庵を結ぶ。 788年(延暦七年) 最澄、比叡山に比叡山寺を創建。                  のちの根本中堂にあたる根本薬師堂、経蔵、文殊堂の一乗止観院が建てられた。 822年(弘仁十三年) 六月四日、最澄死去                それから七日後の6月十一日、比叡山寺の大乗戒壇に勅許が降りる。 823年(弘仁十四年) それまでの寺号「比叡山寺」を改め、延暦寺の寺号が許される。 824年(天長元年) 最澄の弟子義真、初代の天台座主に就任。 912年(延喜十二年) 良源、近江国浅井郡に生まれる。 935年(承平五年) 延暦寺に火災が発生し、根本中堂を含む多くの伽藍が焼失。 939年~940年 天台座主尊意、平将門調伏の祈祷を行う。                 940年二月二十四...
  • 岩木山
    青森県弘前にある山 岩木山の山神は、「安寿と厨子王」伝説の安寿 津軽では暴風雨を「丹後日和」といい、丹後のものがこの土地に  入ったために起こる岩木山の祟りだという。  丹後者の山椒大夫に拷問の末、殺されたからであると。 (『魔界と妖界の日本史』上島敏昭) 旧暦八月一日から十五日まで「山かげ」と称して精進潔斎のうえ登拝する風習がある。 津軽藩が成立し城を弘前に築いてから南麓の岩木山神社が有名となったが、それ以前は西麓にある厳鬼山神社が旧地だった。 菅江真澄『そとがはまかぜ』に、 「この御山開らけしはじめは延暦の頃となん人の語ぬ。其むかし、岩城の司判官正氏のうしの子ふたところ持給ふを、安寿姫、津志王丸と聞えたる。其たまをこのみねに祭る。さる物語の有けるゆへに、丹後国の人は、このいは木ねにのぼりうることかなはず。又此みねの見え渡る海つらに、その国のふねをれば、...
  • キプロス島
    トルコの南方にある、地中海の島。 プリニウス『博物誌』第二巻に、この島がシリアから自然の力で「引き裂かれて」生まれた、とする    記述があり、プリニウスはそのように認識していた事が知られる。 またプリニウス『博物誌』第七巻に、アグリオパの息子キニュラが、キプロス島でタイルおよび銅の採掘を    初めて発明した、という記事が載る。 ティルベリのゲルウァシウス『皇帝の閑暇』に、コンスタンティヌス帝の母にあたる聖ヘレナが    この島に十字架を置いて行くまで、キプロス島ではいかなる死体も受け付けず、    埋められた遺体はすべて「吐き出されて」いたとする記述が載る。    なおこの十字架はとある教会に保管されており、何にも触れることなく中空に浮いているのだとか。       参考文献 『プリニウスの博物誌 Ⅰ』 『プリニウスの博物誌 Ⅱ』 『西洋中...
  • 生命の木の実
    『新約聖書』「ヨハネ黙示録」    →ヨハネがパトモスという島で会った「黄金の衣をまとい、七つの星を持ち、口から剣を出す」人物が     エペソにある教会への手紙に書けと言って述べた内容の中に、     「勝を得る者には、われ神のパラダイスに在る生命の樹の実を食ふことを許さん」とある。     のち、天から「聖なる都エルサレム」が降臨した際、その中に命の水の川が流れており、     その川の両岸に生命の樹があって十二種の実を結び、その実が月ごとに生じること、     その樹の葉は諸国の民を医すものである事が語られる。 『グリム童話集』「白へび」〈KHM17〉    →動物の言葉を聞き分けられるようになった男が、とある国の姫に求婚、難題の一つとして     「生命の木の実」を求められる。途方に暮れるが、以前助けたカラスたちがこれを持ってきてくれる。      この...
  • 江戸のランドスケープ
    江戸には、西洋の都市で中央に教会などのランドマークが存在しない代わりに、  遠景の富士山を中心として設計されていたと考えられる。  そのため、江戸時代の浮世絵や絵地図などでは実際よりも大きく富士山が配置されている。  また日本橋、桜田門、回向院、駿河町などで富士山を望む事もでき、また浮世絵にも描かれている。 江戸には掘割や運河が内陸部まで通っており、流通の大動脈となっていた。  この河岸は延焼防止線としても重要であり、土蔵を建てる事が推奨されたと考えられる(特に明暦の大火後)。  河岸地は幕府の管理する公用地であり、水路に面した地所の地主が地先を伸ばして使用する事が認められていた。  そうした堀沿いの地所には一般より高率の税が課せられたため、自ずと流通問屋が集まり、蔵が建ち並ぶ事になった。  このため江戸の川沿いには土蔵が延々と立ち並ぶ情景がよく見られた。  ただ...
  • 良源
    912年、近江国浅井郡に生まれる。 •945年(天暦三年)八月より横川にて藤原忠平追善のための三百日の護摩。                 この祈りの後、忠平の子藤原師輔の娘安子が皇子憲平親王を出産し、                 良源が師輔の信頼を得る契機となる。 •970年(天禄元年)七月、「二十六箇条起請」と呼ばれる延暦寺内の寺院法を制定。 藤原師輔の息子、尋禅を弟子にしている。 『山家要記浅略』という史料に、良源が僧兵創始者であるという伝説が見える。    曰く、良源が「文武相兼ねて天下を治む」と文武両道を説き、    増加しつつある僧侶集団の中から「愚鈍無才の僧侶」を選抜し    「武門一行の衆徒」に仕立て上げたと。    ただし『山家要記浅略』は応永十六年(1409年)成立で、信頼性には疑問が残る。 『扶桑略記』天元五年(98...
  • 東方三博士
    イエス・キリストの生誕を祝いに来た三人の預言者。    ガスパール、メルキオール、バルタザールの三人。 マルコ・ポーロ『東方見聞録』に言及がある。それによれば、イエス・キリスト生誕の際に駆け付けた    東方三博士はこのサーバから出発したのだと言い、また彼らはここに埋葬されているという。    三つの墓はそれぞれ矩形の屋根に覆われており、亡骸は完全に保存され、髪も髭もまだ見られるという。 また同書によれば、サーバから三日ほど行ったところに、カラ・アタペリスタン(火を崇める者たちの城)という建物があり、    その町の人々は火を崇めているという。そこに伝わる伝説によると、東方三博士が    生まれたばかりの預言者を礼拝しに出かけると、その子供は一つの石を三人に持たせた。    そこに重大な意味があると思わなかった彼らは石を井戸の中に捨ててしまったところ、  ...
  • サーバ
    テヘラン南西にある都市。サヴェ、サヴァなどとも。 マルコ・ポーロ『東方見聞録』に言及がある。それによれば、イエス・キリスト生誕の際に駆け付けた    東方三博士はこのサーバから出発したのだと言い、また彼らはここに埋葬されているという。    三つの墓はそれぞれ矩形の屋根に覆われており、亡骸は完全に保存され、髪も髭もまだ見られるという。 また同書によれば、サーバから三日ほど行ったところに、カラ・アタペリスタン(火を崇める者たちの城)という建物があり、    その町の人々は火を崇めているという。そこに伝わる伝説によると、東方三博士が    生まれたばかりの預言者を礼拝しに出かけると、その子供は一つの石を三人に持たせた。    そこに重大な意味があると思わなかった彼らは石を井戸の中に捨ててしまったところ、    空から燃える火の玉が落ちてきて井戸の中へ落ちた。三人は石の意味を...
  • ヴァンパイア
    トンプソン『民間説話』に、ヴァンパイアの登場する昔話が東欧に多く存在する事が述べられている。    「死装束の王女」(MT307)の話はエストニア、リトアニア、ロシアおよびバルカン諸国で多く語られている。    子の無い夫婦がたとえ悪魔のようなものでもよいから子が欲しいと望むと、本当に鬼娘が生まれる。    これが死んでヴァンパイアとなりさ迷い歩く。毎晩彼女の墓の番をしている兵士は皆殺しにされる。    とある若者が老人の忠告を聞いてこの女を生き返らせ、女の妨害を受けながら三晩祈ると、    女の呪いが解け、死んだ兵士たちも生き返り、若者は娘と幸福に結婚する、という筋だという。 またバルト海からノルウェーにかけてのみ語られている話があり、    とある娘が見知らぬ男と結婚する。夜になって男の家に来るまで向かう途中、男は教会の前で     車から降りる。娘が様子を見に行くと...
  • アリスカン墓地
    フランス南部、アルルに所在する、古代から中世にかけての墓地。 世界遺産「アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」の中のひとつ。 ティルベリのゲルウァシウス『皇帝の閑暇』に、キリストの七十二人の弟子のうち選りすぐりの司教たちが    この地に信徒たちの骸が安眠できる荘重な墓地を作ろうと決めたのがこの墓地であると記されている。    司教たちによる奉献式の際にはキリストが以前人間であった頃の肉体をまとって親しく現れ、    「この墓地に埋められた者は誰であれ、悪魔のまやかしに苦しめられないだろう」と祝福されたという。    そのためガリアの最も傑出した君主や教会人たちがこぞってここに遺骸を埋めるようになり、    四輪車や二輪車、馬などの他、ローヌ川の流れに任せて棺を運んだという。    さらに同書によれば、そのように川に流された棺は決してアルル市の境界を越えなかったと言...
  • D:織田信長の宗教観
    二条古城(徳川家光がのちに造営した二条城とは別)の造営に対して、    ルイス・フロイスの書簡に「用うる石なきを以て多数の石像を倒し、    頸に縄を付けて工事場に引かしめ」などとあり、またジャン・クラッセ『日本西教史』にも    同様の記載があり。    日本側の文献にはこうした記述のない事から疑問視されていたが、    1974年(昭和四十九年)の発掘調査でその石垣の一部と見られる遺構が見つかり、    石材として石仏、板碑、五輪塔など仏教関係の遺物が転用されており、    石地蔵・石仏のほとんどが腹部で真っ二つに断ち割られていたことが確認された。    (もっとも、廃れた石仏のこうした石材利用は当時さほど珍しくなかった、という指摘もある)    『日本西教史』にはこの後、「釈徒」がこの件を議するため「凡千五百人程集会せり」とあり、    おそらく...
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