1749年

私的伝奇関係データベース @ ウィキ内検索 / 「1749年」で検索した結果

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  • 1749年
    寛延二年      重大事件      政権      外交      生誕 十二月 小田野直武      死去      宗教界      学術      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 小田野直武
    秋田藩角館給人。 1749年(寛延二年)、秋田藩支藩角館城槍術指南役の小田野平七の次男として生まれる。    が、長兄が早世したため、当初は後継ぎと目されていた。 幼少より絵画に優れ、8~9歳頃に「釋迦涅槃像図」や「摩利支天像図」を、12歳で「神農図」を描くなどしたという。 17歳の時に大威徳山神社へ額絵「大威徳明王像図」を、18歳時には岩瀬神明社へ奉納絵「月下美人図」を    名指しで依頼されるなど、地元では絵画の才で著名だったとか。 1773年(安永二年)七月、鉱山採掘精錬法教授のため秋田を訪れた平賀源内、    宿としていた御用達商人五井屋孫左衛門宅の客間で直武の屏風絵「紅葉狩図」を見て驚き、    源内の意向により直武との会見となった。この時源内45歳、直武24歳という。 安永三年(1774年)八月発行の『解体新書』の挿絵(原書の解剖図の模写)を担当し...
  • 平賀源内関連年表
    1728年(享保十三年)、高松藩の志度浦で生まれる。 1749年、父茂左衛門死去。お米蔵番の職を継ぐと同時に、藩の菜園で朝鮮人参栽培をまかされる。 1752年(宝暦二年)、医師久保桑関の随行者として長崎遊学。 1756年(宝暦六年)、高松藩を出て江戸へ入る。 1760年 高松藩の命で相模湾、紀州海岸の魚介類調査を行う。 1761年 二月、高松藩へ「禄仕拝辞願」(事実上の離藩願)を提出。九月二十一日付で受理。            湯島聖堂から神田白壁町へ引っ越す。          秋、伊豆の船原に派遣していた家僕経由で芒硝を発見。            勘定奉行より「伊豆芒消御用」の辞令を受ける(幕府から直接雇われたのはこの時だけ)            ただし、直後に源内の師田村元雄が入れ替わりに幕府から同地へ派遣されている由。 1763年 源内の師田村元雄、幕...
  • 年表(日本)
    ...48年(寛延元年) 1749年(寛延二年) 1751年(宝暦元年) 1752年(宝暦二年) 1753年(宝暦三年) 1754年(宝暦四年) 1756年(宝暦六年) 1757年(宝暦七年) 1758年(宝暦八年) 1759年(宝暦九年) 【済】1760年(宝暦十年) 1761年(宝暦十一年) 1762年(宝暦十二年) 1763年(宝暦十三年) 1764年(明和元年) 1765年(明和二年) 【済】1767年(明和四年) 1769年(明和六年) 1770年(明和七年) 1771年(明和八年) 1773年(安永二年) 1774年(安永三年) 【済】1775年(安永四年) 1776年(安永五年) 1777年(安永六年) 1778年(安永七年) 1779年(安永八年) 1780年(安永九年) 【済】1783年(天明三年) 1784年(天明四年) 1785年(天明五年) ...
  • 年表(西洋)
    BC776年(W) BC733年(W) BC632年(W) BC621年(W) BC585年(W) BC548年(W) BC561年(W) BC514年(W) BC490年(W) マラトンの戦い BC487年(W) BC486年(W) BC483年(W) BC481年(W) BC480年(W) サラミスの海戦 BC478年(W) BC468年(W) BC464年(W) BC456年(W) BC454年(W) BC449年(W) ペルシア戦争終結 BC447年(W) BC432年(W) BC431年(W) ペロポネソス戦争勃発 BC427年(W) BC406年(W) BC404年(W) ペロポネソス戦争終結 BC399年(W) BC393年(W) BC362年(W) BC356年(W) BC336年(W) BC335年(W) BC334年(W) アレクサンドロス大王のアジア遠征開始 BC33...
  • 八幡神関連年表
    720年(養老四年)、隼人の乱に際し、朝廷より祈請を受ける(『扶桑略記』) 740年(天平十二年)、藤原広嗣の乱の平定にあたり、朝廷より戦勝祈願を受ける(『続日本紀』) 749年(天平勝宝元年)東大寺大仏建立に霊験を発揮したとして、                  宇佐八幡宮の八幡神、一品(親王、内親王相当)の神階を受ける。 貞観年間(859~877年)山城国に勧請される(石清水八幡宮)       参考文献 『日本神道史』岡田壮司 日本神道史
  • 平賀源内
    ...ったという。 1749年、21歳の時に父を亡くし、蔵番職を継ぐ。この際、信濃源氏平賀源心の家名を再興するため    それまでの白石姓を改め平賀姓とする。 同時期に、藩主松平頼恭に認められ    藩の菜園にて朝鮮人参の栽培にあたるようになる。 1752年(宝暦二年)、医師久保桑関の随行者として長崎遊学。 1756年(宝暦六年)、高松藩を出て江戸へ移る。    その際、大坂にて旧知の薬学者戸田旭山に紹介状をもらい、それを元に江戸の本草学者田村元雄に弟子入り。    元雄の口利きにより、湯島聖堂に住まう事になる。 大田南畝『一話一言』などに、平賀源内が金唐革を加工改良して売り出し、    高級品だった金唐革を江戸の流行品に仕立てた旨の記述が載る。 直接源内と面識があったという鳥海孝文の『平賀源内小伝』に、上記金唐革の事にくわえ、    源内...
  • 仏塔
    多重塔と、多宝塔に分かれる。 通常、人間が入れるように構造上なっているのは初重のみであり、上層に登れるような構造にはなっていない。 また建築構造上、各重を貫く通し柱が一本もない、という顕著な特徴がある。    (つまり、各重が帽子を重ねて置かれているような状態で重なっている、とのこと) 塔の中心には最も太い心柱があるが、これは塔の荷重を支える構造にはなっていない。    中には礎石から完全に浮いてしまっている心柱もある。 現存する最高の木造仏塔は、京都府、教王護国寺の五重塔(54.8m)。 かつて作られた仏塔にはより大きなものがあった事が知られており、    1340年(暦応三年)成立の「院家雑々跡文」によれば、    東大寺七重塔(三十二丈 = 約96m)    法勝寺八角九重塔(二十七丈 = 約81m)    などの例があった事が知られる。 東大寺七...
  • 1549年
    天文十八年      重大事件 薩摩国(鹿児島県)にフランシスコ・ザビエル上陸。キリスト教が伝来する。      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 1449年
    宝徳元年      重大事件 足利義政、室町幕府第八代将軍となる。      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 1849年
    嘉永二年      重大事件      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術      文学・芸術      市井      地方 佐賀藩の鍋島直正、日本最初の製鉄所を完成させる。    また同年、オランダから牛痘ワクチンを輸入。長男の直大(なおひろ)で試したのち、    大坂の緒方洪庵に分け与えている。      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 江戸技術史年表
    1637年(寛永十四年)       中国・清にて宋応星『天工開物』刊行 →1637年(A) 1727年(享保十二年)       本草学者阿部友之進、南部藩の釜石西方にある仙人峠付近で         大量の磁鉄鉱を発見。(南部藩はこれの採取を禁じたが、現地住民は日用品程度はこれで作っていたとか) 1771年(明和八年)       大坂にて『天工開物』和刻版刊行。 1796年(寛政八年)       細川半蔵『機巧図彙』刊行。斜投影による立体図を用いた「からくり」の解説書。 1818年(文政元年)       国友一貫斎『大小御鉄砲張立製作』 火縄銃の製作法を記す 1849年(嘉永二年)       佐賀藩、鍋島直正の元で日本最初の製鉄所を完成させる。 1852年(嘉永五年)       佐賀藩、反射炉を稼働開始。 ...
  • 1745年
    延享二年      重大事件 第九代将軍徳川家重就任      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術 徳川吉宗の命令でオランダ語を学んでいた青木昆陽、オランダ歌曲の歌詞の大意を翻訳した   『和蘭勧酒歌訳』を幕府に献上。      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 1748年
    寛延元年      重大事件      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術      文学・芸術 『仮名手本忠臣蔵』、大坂竹本座にて初演。      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 1741年
    寛保元年      重大事件      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術      文学・芸術      市井      地方 6月8日 佐賀県小城市に隕石が落下。雷鳴のような音がしたという。    この時回収された隕石4点のうちの一つは、現在大英自然史博物館に所蔵されている。      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      フィクション
  • 1746年
    延享三年      重大事件      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術 徳川吉宗、神田佐久間町(現・千代田区神田佐久間町)に天文台を建設。 (ただし、恒久的に設置される天文台ではない)      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • ジャン・バティスト・ラマルク
    1744年(W)~1829年(W) フランスの博物学者。 1809年(W)に発表した著書『動物哲学』で、進化論の前身となる説を唱える。    生物は、神が創造した姿のまま不変なわけではなく、環境に合わせて姿を変えていく(=進化していく)とした。    ただし、のちのチャールズ・ダーウィンが説いたような自然選択のアイディアはまだなく、    生物が環境に合わせて後天的に変化した性質が、あとの世代に遺伝すると考えた    (そして遺伝学の進歩により否定された)。 生物学(フランス語でbiologie、英語でbiology)という語を生み出した人物。    また、それまで「下等生物」と呼ばれていた昆虫類やぜん虫類に、初めて「無脊椎動物」という呼び名を与えた。 パリ植物園の園内に、ラマルクの銅像がある。 (『眠れなくなる進化論の話』) 眠れなくなる進化論...
  • 八百比丘尼
    人魚の肉を口にしてしまったために不老不死になってしまった女についての一連の伝説。 林羅山『本朝神社考』などにすでに記述が見られる。 宝永三年(1706年)の奥書がある郷土地誌『若耶群談』に、比丘尼が源平盛衰や義経の奥州落ちの目撃談を語り聞かせたという記述が見られる。以降、同様の話形が文献などに現れるようになる。 (ぺりかん社『江戸の怪異譚』堤邦彦) 福井県小浜市の空印寺境内に、八百比丘尼入定の洞窟がある。 『若狭守護代年数並旧記』の明徳元年(1390年)の項に、  「若狭白比丘尼、小浜西青井白玉椿辺に死」の記事をのせる。  同書に、別名を白比丘尼ということ、父は若狭道満という者であった旨が記されている。 宝徳元年(1449年)五月から七月にかけて、京都に、若狭(福井)から来たという  二百余歳あるいは八百歳を称する老尼が現れ、拝観料をとって見世物になっていた...
  • 楽市楽座
    「楽市」の史料上の初見は、南近江の六角義賢の居城、    観音寺城下の石寺新市といわれている。    六角氏奉行人連署奉書の天文十八年(1549年)十二月十一日付で確認できる。 (つまり、楽市楽座自体は、織田信長の創意ではなかったということ。) (『信長 徹底分析十七章』小和田哲男) 信長―徹底分析十七章
  • カタツムリ
    プリニウス『博物誌』第九巻に、BC49年(W)より少し前、トラキア地区にて、    フルウィウス・リッピヌスという人物が初めてカタツムリの養殖場を作ったという。    これにより、料理店は肥えたカタツムリで満たされたとか。       参考文献 『プリニウスの博物誌 Ⅱ』 プリニウスの博物誌〈第7巻~第11巻〉
  • エスカルゴ
    フランス料理で供される、カタツムリ料理。 プリニウス『博物誌』第九巻に、ローマではBC49年(W)より少し前、トラキア地区にて、    フルウィウス・リッピヌスという人物が初めてカタツムリの養殖場を作り、その種類ごとに飼育したとある。    これにより、料理店は肥えたカタツムリによって満たされたとか。 ()       参考文献 『プリニウスの博物誌 Ⅱ』 プリニウスの博物誌〈第7巻~第11巻〉
  • 佐藤泰然
    江戸時代の蘭方医。また、順天堂大学の創始者。 1843年、現在の千葉県佐倉市に医学塾順天堂を開く。 多い時には100人以上の学生がおり、実地に外科手術を行うなどオランダ医学の知識を広めた。 また天然痘対策にも注力し、人痘法、また1849年に長崎に牛痘接種法が伝わってからは牛痘法を    積極的に実施したという。       参考文献 読売新聞2013年4月9日記事
  • 化学者
    アントアヌ・ローラン・ラヴォアジェ(1743年(W)~1794年(W))
  • BC449年(W)
         重大事件 ペルシア戦争終結。      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 心臓
          →心臓を食べて特殊な効能を得る プリニウス『博物誌』第十一巻に、心臓についての解剖学的な記述に続いて    「これは精神の住処である」という記述がある。 また同じ『博物誌』第十一巻に、「心臓に毛が生えていた人」の逸話が載っている。    メッセニア人のアリストメネスという人物で、スパルタ人を300人以上も殺した豪胆な人だったという。    捕虜になって逃走を2回繰り返し、最後に捕えられた際にスパルタ人に生きながら解剖されたが、    そこで出てきた心臓には毛がもじゃもじゃ生えていたという。 (zsphereコメント:「心臓に毛が生えている」って慣用句じゃなかったんかい、という驚愕の逸話w) 『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』に、心臓は「生命の源」ではなく、血液を受ける水盥のようなもので、    その筋は火でも損なえないほどの厚さを持っていると述...
  • 1746年(W)
         重大事件      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術 ライデン大学のミュッセンブルク、ライデンびんを発明。      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • アントアヌ・ローラン・ラヴォアジェ
    1743年(W)、パリ生まれ。 「酸素」の命名者。 定量的観測による近代化学の方法を産んだ、「化学の父」などと呼ばれる。 1794年(W)5月8日、フランス革命の余波を受けギロチンにより斬首される。    税金徴収の仕事で生計を立てていたためであると云々。 (『空気の発見』三宅泰雄) 空気の発見 (角川ソフィア文庫)
  • 1744年(W)
         重大事件      政権      外交      生誕 ジャン・バティスト・ラマルク(フランスの博物学者、『動物哲学』著者)      死去      宗教界      学術      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 1745年(W)
         重大事件      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術 ドイツの化学者アンドレアス・マルクグラーフ、飼料用のテンサイから砂糖の分離に成功。      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      フィクション
  • 日本天文年表
    1741年(寛保元年)6月8日 佐賀県小城市に隕石が落下。 1886年(明治十九年)10月26日 鹿児島県の広範囲に隕石雨が降る。
  • アテネ関連年表
    BC632年(W) キュロンの反乱。    アテネ貴族のキュロンが、一味の者たちと共にアクロポリスに立てこもった事件。    しかし報を聞いたアッティカ周辺の農民たちがアクロポリス周辺を包囲、キュロンは降伏したという。 BC621年(W) ドラコンによってアテネに最初の成文法が制定される。 BC561年(W) ペイシストラトス、アクロポリスを占拠。アテネ統治権を手中に治める。 BC514年(W) ペイシストラトスの子ヒッパルコス、美少年ハルモディオスを巡る    三角関係から殺害される。 BC483年(W) アッティカ東南のラウリオン銀山にて大鉱脈が発見される。    テミストクレスの提言により、ここで得た余剰金は軍船の建造にあてられる。 BC480年(W)八月、サラミスの海戦。三段櫂船を駆使したアテネの海軍によりペルシア軍側が敗北。 BC479年(W)~B...
  • テンサイ
    ヒユ科アカザ亜科フダンソウ属。 1745年(W)、ドイツの化学者アンドレアス・マルクグラーフが飼料用のテンサイから砂糖の分離に成功。 1796年(W)、マルクグラーフの弟子フランツ・アシャールが砂糖の製造試験に成功し、これをもってテンサイからの砂糖の製造が始まった。       参考文献 『美味礼讃(上)』ブリア・サヴァラン 美味礼讃 (上) (岩波文庫 赤 524-1)
  • メサホ塚古墳
    宮崎県西都市、西都原古墳群内に所在。 九州で二番目に大きい前方後円墳。全長174m。 九州最大の前方後円墳オサホ塚古墳と隣接している。築造年代はメサホ塚の方が遅い。 周囲に形の整った空堀を持つなど、大和・河内地方の五世紀の前方後円墳に近い形をしている。 コノハナサクヤヒメの陵墓であるとする伝説・信仰が存在したという。    ただし、1874年(明治七年)の明治政府による陵墓決定ではそのような認定はされず、    現在は陵墓参考地とされている。(したがって考古学調査はできない。)       参考文献 『日本神話の考古学』森浩一 日本神話の考古学 (朝日文庫)
  • D:神仏習合史
          神仏習合の発生と展開 神仏習合の思想は中国にもあり、『高僧伝』『続高僧伝』に見られる    中国の神と仏の神仏習合論が日本に伝来した経緯が現在では検討されている。 近世まで日本には神仏習合の習慣があったが、例外もあり、    宮廷では大嘗祭の斎日や公祭の儀式において原則的に僧尼の参内を禁止し、    内裏の仏事を中止するなど神仏隔離の方針がとられるケースもあった。 『藤氏家伝』下「武智麻呂伝」に、霊亀元年(715年)、藤原武智麻呂の夢枕に    気比神が立ち、神の身の苦しを訴え仏教寺院の建立を願った逸話が載る。    これにより、武智麻呂は気比神のために神宮寺を建てたという。 (神仏習合、神宮寺の最初期の史料として著名な事例) →気比神 『類聚三代格』に、引用された記事として鹿島神宮寺のものがある。    天平勝宝年中(749~757年...
  • 1759年
    宝暦九年    重大事件    政権    外交    生誕    死去    宗教界    学術 平賀源内主催による物産会、湯島で開かれる。 山脇東洋『蔵志』刊行。1754年(宝暦四年)に行われた解屍観臓(死体解剖)の詳細を記した本。    市井    地方    伝説など(史実かどうか疑わしいもの)    その他
  • 大宰府関連年表
    609年(推古天皇十七年) 役職名「筑紫大宰」の文献初見(『日本書紀』) 663年(天智二年) 白村江の戦い。 709年(和銅二年) 観世音寺の造営開始。 730年(天平二年) 大伴旅人宅にて、歌会「梅花の宴」。山上憶良等が参加。 740年(天平十二年) 藤原広嗣の乱。 742年(天平十四年) 大宰府廃止 743年(天平十五年) 筑紫鎮西府の設置 745年(天平十七年) 再度、大宰府を設置。 746年(天平十八年)六月十八日 観世音寺落慶供養。この時、導師玄昉が「空中に連れ去られる」事件が起こる。 806年(大同元年) 空海、唐より帰国。その後約2年間、大宰府観世音寺に滞在。 903年(延喜三年) 菅原道真没。 941年(天慶四年) 藤原純友の乱により焼き討ちにあう。 1117年(永久五年) 最後の太宰権帥源重資が赴任。       参考文献 『シ...
  • 青木昆陽
    生まれは江戸の魚屋の息子。町人出身でありながら、幕府に出仕した事になる。 徳川吉宗に命じられ、オランダ語の学習をした。    1745年(延享二年)、オランダ歌曲の歌詞の大意を翻訳した『和蘭勧酒歌訳』を幕府に献上している。 また、豊前中津藩医の前野良沢は、青木昆陽に入門してオランダ語を学んだという。 なお、杉田玄白『蘭学事始』によれば、昆陽のオランダ語習得はアルファベット25文字を書き習う程度だった、とか。       参考文献 『江戸の文人サロン』揖斐高 『平賀源内を歩く』奥村正二 江戸の文人サロン―知識人と芸術家たち (歴史文化ライブラリー) 平賀源内を歩く―江戸の科学を訪ねて
  • 清少納言
    一条天皇の皇后藤原定子に使えた宮廷女房。『枕草子』作者。 生没年の明確な記録なし。また母についても不詳。 父は著名な歌人の清原元輔。清少納言の「清」はこの姓から取られていると見られる。 定子のもとへ出仕したのは993年(正暦四年)。二十八歳ごろのこととされる。    定子が崩御した1000年(長保二年)の翌年、1001年(長保三年)ごろに、宮仕えを終えていると思われる。 和漢の典籍についての膨大な教養を持ち、その才気を定子に寵愛されていた様子が『枕草子』に詳しい。    なお、同書により、定子からは「少納言」と呼びかけられていた事が分かる。 清少納言作とする日記に『松島日記』があるが、一般には偽書とされる。    尼になった清少納言が奥州松島へ下る、という内容。 1742年(寛保二年)に『清少納言知恵の板』という書籍が刊行されている。    正方形の板を...
  • 742年
    天平十四年      重大事件      政権 一月、大宰府を廃止。先の藤原広嗣の乱が直接の原因。      その後、翌743年の筑紫鎮西府の設置を経て、      745年(天平十七年)に再び大宰府が副置した。      外交      生誕      死去      宗教界      学術      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 徳川吉宗
    徳川八代将軍 吉宗の侍講、室鳩巣は、吉宗について「御文盲に御座なられ候」など、    その知識教養について『兼山秘策』で酷評している。    また六代将軍徳川家宣の正室天英院の父、近衛基煕(このえもとひろ)も、    日記の中で吉宗を評して「和歌においては尤も無骨なり、笑ふべし」としている。    即ち、当時の教養である儒学や和歌は不得手であったらしい。 江戸城内の中奥の一角に、専用の書庫「御書物部屋」を設置した。    このような部屋を設けたのは徳川将軍の中で吉宗のみ。 稲生若水の本草学の大著『庶物類纂』三六二巻を、幕府官医の丹羽正伯(にわしょうはく)に    増補させ、地域ごとに呼び方が異なる産物の比定などが進められ、    最終的には全一五一四巻としてまとめられたという。 (zsphereコメント:Sugeeeeee!! 1514巻ってw 大蔵経以外で...
  • 江戸イベント・集会年表
    1757年 湯島で第一回薬品会。主催は本草学者田村元雄だが事実上の発起人は平賀源内。       出品者21人、出品種目180種。源内自身の出品はない。 1758年、神田で第二回薬品会。出品者34人、出品種目231種。源内の出品は5種。 1759年湯島で第三回薬品会。この時は平賀源内主催。源内の出品は50種だが、       参加人数、出品品目は前回に劣る。 1760年、第四回薬品会。主催は田村元雄の弟子松田長元。       詳細は不明だが、出品数はおよそ100種ほどと、さらに小規模な内容だった模様。         同年初夏、大坂にて大規模な薬物会が戸田旭山の主催で開かれ、         100人の参加者と241種の品目を集める。         同年秋、この大坂での薬物会の品目を記録した『文会録』発行、後書きは源内。 1762年(宝暦十二年)四月十日...
  • 前方後円墳索引
       →県別前方後円墳大きさ比べ    あ行 石塚山古墳(福岡県、九州で最大・最古、14面の三角縁神獣鏡が出土、110m) 和泉黄金塚古墳(大阪府、景初三年銘の画文帯神獣鏡、94m) 五塚原古墳(京都府、箸墓古墳と同形のものの中で最古級の前方後円墳) 稲荷山古墳(埼玉)(埼玉県、稲荷山古墳出土鉄剣銘) 井辺八幡山古墳(和歌山県、88m) 宇田見古墳(島根県隠岐島、最小級の前方後円墳、10m) 大谷古墳(和歌山県、石棺に使われた石材が中部九州のもの、70m) オサホ塚古墳(宮崎県、西都原古墳群に所在、九州最大の前方後円墳、219m)    か行 黒塚古墳(奈良県天理市、33面の三角縁神獣鏡が出土、132m) 五色塚古墳(兵庫県神戸市、192m、県内最大)    さ行 西陵古墳(大阪府、全長210m、前方部北東に渡り土手) 桜井茶臼山古墳(奈良県、全長200m...
  • 1774年
    安永三年    重大事件    政権    外交    生誕    死去    宗教界    学術 八月、『解体新書』刊行    文学・芸術 二月四日、牛込原町の光恵寺の書院にて、宝合の会。酒上熟寝主催で、唐衣橘州・四方赤良(太田南畝)など狂歌師たちが集った。    礼服を着て、もっともらしく、ガラクタを「宝」と称して披露しあうパフォーマンス大会。    なお、参加者の中には早鞆和布刈(はやとものめかり、実は塙保己一)なども居たとか。    市井    地方    伝説など(史実かどうか疑わしいもの)    その他
  • 1799年
    寛政十一年      重大事件      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術 京都にて、小野蘭山の門弟たちによる物産展「多識会」開催。    平賀源内の第五回薬品会に刺激されて企画されたと伝わっているとか。      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 1779年
    安永八年    重大事件 光格天皇即位    政権    外交    生誕    死去 平賀源内、獄中で死去。    宗教界    学術    文学・芸術 小田野直武、藩主の遠慮謹慎の命を受け秋田へ帰郷。    市井 八月十三日~十七日 高田馬場信濃屋にて、太田南畝主催による五夜連続の観月の宴。            狂歌師などのべ七十人が参加し、狂歌や詩、俳諧などを詠み合ったという。    地方    伝説など(史実かどうか疑わしいもの)    その他
  • 1729年
    享保十四年      重大事件      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術 石田梅岩、京都車屋町にて無料の講席を開く(石門心学の始まり)      文学・芸術      市井 ベトナム産のゾウ、三月十六日に長崎を出発。    五月二十五日、江戸に到着。浜御殿の象舎に入れられる。    五月二十七日、徳川吉宗、象を見物。      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 1769年
    明和六年      重大事件      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術      文学・芸術 唐衣橘洲宅にて、最初の狂歌会が催される。      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 1789年
    寛政元年      重大事件      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術      文学・芸術      市井      地方 蝦夷地でアイヌ人の蜂起、クナシリ・メナシの乱。    場所請負人飛騨屋の関係者七十余人が殺害される。      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 1179年
    治承三年      重大事件 十一月七日 亥の刻に大地震があったと当時の日記にある。      政権      外交      生誕      死去      宗教界      学術      文学・芸術      市井      地方      伝説など(史実かどうか疑わしいもの)      その他
  • 1709年
    宝永六年    重大事件 徳川綱吉死去。六代将軍に徳川家宣    政権 生類憐みの令、廃止    外交    生誕    死去    宗教界 1567年(永禄十年)に焼け落ちていた東大寺大仏殿、再建される。    学術    文学・芸術    市井    地方    伝説など(史実かどうか疑わしいもの)    その他
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