境界恋歌




 日が沈みかける頃。いわゆる黄昏時。
 俺は見知らぬ森の中を一人駆けていた。

 すでにその息は絶え絶えであり、長い距離を走ったせいか足がまるで棒みたいな感覚だ。
 左肩の傷口からは大量の血が流れ、地面に足をつける度に激痛が奔る。

 何で俺はこんなことになっているんだ?
 
 そもそも今日はいつも通り講義に出て、それから友人と飲みに行ったんだよな?
 で、帰った後で牛乳を切らしてることに気づいてコンビニに行って……。
 それでいつのまにかこんな薄気味悪い森の中に居て、今の状況に至る。

「ありえないだろ、こんなの……」

 ちらりと後ろへ視線をやる。
 そこには、俺を追って来ている“何か”の姿が見える。
 
 そいつは犬の顔をした毛むくじゃらの大男で、人のものとは思えない鋭い爪を持っていた。
 その爪には俺の血がべったりと付いており、口からは牙と滴るよだれが見える。
 しかもご丁寧に俺をいたぶって遊ぶつもりか、手加減して追ってきているようだ。

 何だよあれ。怖い。死にたくない。

 いろんな思いがぐるぐる回っていく。
 けれど痛みのせいか、あるいは恐怖のせいか、それ以上何かを考える気にはなれなかった。

 


 と、突然視界が下にぶれる。
 その直後、今まで以上の痛みが体を襲う。

 俺は痛みに悶えながら、足元に目をやった。
 そこにあったのは、地面にせり出た太い木の根。
 はは、こんな状況で転ぶなんてどれだけドジなんだろう。

 激痛に耐え、自嘲しながら体を起こそうとする。

 だが、すでに遅い。
 目の前にはあのよくわからない化け物の姿が。
 奴と視線が合う。
 その目は真赤に充血しており、俺の全身をなめ回す。






 いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。
     






 恐怖と拒絶が頭の中を支配する。






 



 死にたくない。死にたくない。死にたくない。






 死にたくない!












「くそがぁ!」

 俺はやけになって、空いている右手で落ちていた木の枝を拾い、投げつけた。
 だが、そんなものでどうにかなるわけでもない。
 相変わらず奴の顔は愉悦に満ちたままだ。

 そして奴は右手を振り上げた。

 俺にはそれがひどくゆっくりとした動作に見えた。
 数瞬の後に、それは俺へと突き立てられるだろう。
 俺は明確な死の気配を感じた。


























 その刹那、奴の右手は文字どうり吹き飛んだ。
 それと同時に鮮血があたりに飛び散る。

 突然の事態に困惑と苦痛が入り混じった顔をする化け物。
 俺はただ呆然とそれを見ていることしかできなかった。

 さらに無数の閃光が奴の体に突き刺さる。
 光は奴の顔、胸、左手、足、体中のいたる所に刺さり、残ったのはただの黒こげの物体と静寂だけである。
 




「なかなか、おもしろい見世物ね」





 背後から聞こえた声に思わず振りかえる。
 
 そこには日傘を差した女性がいた。
 夕闇に映える流れるような金砂の髪。
 紫を基調としたドレスのような服。
 リボンのついた特徴的な帽子。

 その雰囲気は妖艶かつ美麗。
 それでいて何者にも屈しない強さを感じさせた。

「ふふ、ごきげんよう」

 妖しく微笑みながらささやく。
 その紫紺の瞳は俺の方へと向けられていた。
  
「あ、ああ……」

 綺麗な人だな。
 
 とんでもない状況に巻き込まれたせいで、頭のネジが吹っ飛んだのか、俺はそんな場違いな感想を抱いた。

「……くっ」 

 不意に視界がかすみ、全身の力が抜ける。
 安堵感と体の限界のせいなのだろう。

 起こしかけた体が再び地面に横たわる。
 その時、視界の端に彼女の姿がもう一度映った。
 
 もしかして、さっきの奴を殺ったのはこの人?

 普通ならばこっちの疑問の方が先に出るだろうに。
 俺は自分のおかしさに、胸中で呆れる。
  
 やがて視界は真っ黒に染まり、俺の意識はそこで途絶えた。
 
 
 













































 始めに感じたのはまるで海の中をたゆたうような感覚。
 どこか温かで、心が落ち着いていくのがわかる。

 やがて引き込まれるような感覚と共に意識が覚醒していく。

「知らない天井だ……」

 そんなお約束の言葉を放ち、起き上がろうとする。
 しかし、体がどうにも重く、思った程の速さでは起き上がれなかった。 
 体を見ると、いつの間にか包帯が巻かれてあり、服も取りかえられている。
 今いるのはどうやら和室のようだ。
 部屋にはホコリ一つ落ちておらず、清潔そのものである。
 値段の高そうな掛け軸やら壺やらもあり、もしかしたら客室のような場所かも知れない。

 そんな風にあたりを眺めていると、急にふすまが開き見知らぬ女性が姿をあらわした。

「もう目が覚めたのか? 体の調子はどうだ?」

 金色のショートカットに帽子をかぶった女性。
 ただ、不思議なことに尻尾、それも狐のものが九本も付いている。

 人間に尻尾? いや、そもそも人間じゃない?
 俺は夢でも見ているのだろうか?

「ん、どうした? やはりまだ痛むか?」
「い、いや、大丈夫」
「そうか。それは良かった」

 俺の言葉に彼女はどこか安堵した様子を見せた。

「あの、俺は一体どうしてここに?」
「そうね。それは私が説明してあげるわ」

 いつのまにか、一人の女性が目の前に座っていた。
 さっきの女性とは違い、その顔にはなぜか見覚えがあった。

「ごきげんよう」

 にっこりと微笑む彼女。
 あまりに素敵な笑顔に、俺は少しの間見惚れていた。

「あ、ああ」
「まぁ、説明の前に……まずは自己紹介ね。私は八雲紫。そして彼女は私の式、八雲藍よ」
「ええと……俺は○○。よろしく……」

 自分の名前を名乗る。
 “式”という聞きなれない言葉が出てきたがいったい何なのだろう?
 数学の式とは違うよなぁ……。

「エヘン!」

 そんなことを考えていた俺は、紫さんの咳ばらいによって現実に引き戻された。

「さて、何から話そうかしら……。そうね、私と会ったのは覚えているかしら?」
「……えっと、ちょっと待ってくれ」

 額に手を当て、記憶をたどる。
 鮮やかな夕陽。流れる髪。柔らかな物腰。そして妖艶な笑み。
 幾つかの光景がフラッシュバックのように思い起こされる。
 ……確かに、俺は目の前の女性と会ったことがある……、と思う。
 しかし、何だか受ける印象が全然違う気がする。

 あれ? そういえば、俺はどういう状況で会ったんだっけ?

「……会ったことは覚えてるんだが……、どういう状況で会ったかまでは……」
「ふぅん。他に覚えてることはあるかしら? 例えば、変な化け物に襲われたこととか」

 化け物。
 その言葉に呼応して、また違う光景が浮かぶ。
 森を走る俺。後ろから追いかけてくる何か。
 必死になって逃げた。けれど、気づけば奴の顔はすぐ近くにあり、そしてその腕が振り下ろされる。
 そこまで思い出して、俺は胃液が喉の方までせり上がってくるような、そんな不快な感覚に襲われた。
 さらに血の気が引いて行くのも感じる。
 それに対して俺が出来たのは、みっともなく自分の肩を抱きしめることだけだった。

「大丈夫。今、少なくともあなたはここに生きている」

 ふと、俺を暗い底から引き揚げてくれるような声がした。
 それは目の前にいる彼女から放たれたものだ。

「……紫……さん」
「今は生きていることに感謝しなさいな」

 穏やかな笑みでささやく。
 その声を聞いて、不思議と心が軽くなったような気がした。
 俺は肩に回していた手を下ろし、言葉を紡いだ。

「すいません……、取り乱してしまって」
「そう。案外早く落ち着いたわね。じゃあ、続きを話してもいいかしら?」
「はい……」

 それから彼女は語りだした。
 ここが幻想郷と呼ばれる場所であること。
 俺は偶然にも結界と呼ばれるものの緩んだ場所を抜けてしまい、こっちに来てしまったこと。
 俺を襲ったのは妖怪と呼ばれる存在であること。
 妖怪にも色々な者がおり、紫さんも妖怪であるらしい。
 まぁ、あんな光線を出せるくらいだ。普通の人間だ、という方がおかしいだろう。
 そして、意識を失った俺を連れて来て治療してくれたこと。
 ああ、それと“式”ってものについても教えてもらったな。

 しかし、目の前の彼女があんな化け物と同じ、妖怪という種族とは思えない。
 何せ、紫さんは非の打ちどころのない美人な上に、わざわざ俺を助けてくれたのだ。
 これで同じだと思う方がどうかしてる。いや、彼女に失礼だ。 

「ざっとこんなところね。他に質問は?」
「その……俺は帰れるんですか?」
「そうね、あなたがそれを望むなら」
「本当に!?」
「ええ」

 良かった。生きて帰れるんだ。
 そのことを認識した俺は、安堵の息を吐いた。

 しかし、幻想郷……か。
 まるで漫画の中みたいな世界だな。
 やっぱ、魔法みたいなものとかもあるのかな。ああ、色々見てみたいなぁ。
 あんな危ない目にあったばかりだというのに、俺は自身の好奇心を抑えることが出来なかった。

 そんな俺の考えを察したのか、紫さんが口を開いた。

「まぁ、その怪我が治るぐらいまではうちで面倒を見てあげてもいいけれど」
「紫様!?」
「……え、いいのか?」
「勿論。それに、あなたも幻想郷がどんなところか気になるでしょう?」

 いい玩具を見つけた、と言わんばかりの顔。それに対し、隣の女性は幾分か驚いた様子である。
 何ていうか、気まぐれな人なのか?

「その……、本当にいいのか?」
「別に構わないわ。もし、あなたがお礼をしたいというなら、あなたから見た外の世界の話でも聞かせて頂戴な」

 あっけらかんとしてつぶやく。
 彼女がここまで言うんだし、俺に断る理由はない。

「それじゃ……、しばらくの間、お世話になります」
「ええ。改めてよろしく」

 満足そうに答える彼女。
 せっかくファンタジーの世界に来たことだし、おもしろい体験の一つや二つはしていきたいものだ。
 最も、もう襲われるのはごめんだが。

「それじゃ、傷にさわるからそろそろ出ましょうか」

 立ち上がり、出口の方に向かう。

「そうそう。何かあったら藍を呼びなさい。大きな声で名前を呼べば、すぐに来ると思うから」

 振り向きざまにそう言いながら出て行った。
 そのすぐ後ろから藍さんもついて行った。



「ふぅ……」

 一人になったところで横になり、色々なことを考えようとする。
 ただ、色々ありすぎてどうも頭の中の整理がつかない。

「……寝るか」

 もう一眠りすれば少しは落ち着くだろう。
 そう思った俺は目をつむり、意識を手放すことにした。
 疲れのせいか思ったよりも早く眠れそうだった。




































「紫様、一体どういうことですか?」

 客室を出てしばらくしたところで藍は主人に問う。

「あら、何のことかしら?」
「あの人間を助けたこと、それとここに住まわせることについてです。何故このようなことを?」

 藍の問いに紫はただ笑みを見せるばかり。
 ほんの少しの間だが沈黙がその場を支配する。
 やがて彼女は両目を閉じ、つぶやいた。

「ただの気まぐれよ」

 くるりと背を向けて歩き出す紫。
 
 藍は主の言葉の真意を探ろうとする。しかし、判断材料も少なく、全く見当がつかなかった。
 彼女は、ただ溜息をつくばかりだった。
 


───────────


 鳥のさえずりがどこからか聞こえてくる。
 朝の光が部屋の中へと注がれ、意識の覚醒をうながす。

「……知らない天井だ……っていい加減しつこいかな」

 自分で自分に突っ込みを入れながら、眠い目をこすり起き上がる。
 一晩寝たおかげか、体もそれなりに軽く感じる。

 って、普通ならありえないだろ。あんなに血を流してたんだぞ……。
  いや、そもそもあの人らは妖怪だから薬とかもやっぱ人間のそれとは違ってすごいのだろうか?

 なんて呑気なことを考えていると、部屋の外から足音が聞こえてきた。

「おはよう、○○。なかなか早起きだな」
「ああ、おはよう藍さん。まぁ、自然と目が覚めて……。そういえば怪我の割に痛みがほとんどないんだけど……」
「まぁ、幻想郷には腕のいい薬師兼医師がいるからな」
「へぇ、そりゃすごい」

 やっぱりそうなのか。内心で納得する。
 
「朝食の準備は出来ている。これで顔を洗うといい。ついでにこっちは着替えだ」

 水の入った洗面器やら、服やらを置いていく。本当に用意がいいな。
 けど、あんまりお世話になってばかりもいけないな。
 体の調子が戻ったら、少しは手伝いをしないと……。

「部屋の外で待っているから、準備が出来たら出てきてくれ」
「はい」

 藍さんが出ていくのを見届け、それから顔を洗う。

 痛みはないものの、傷口がつっぱるような感覚があり、服を脱ぐのが少し大変だった。
 案の定、左肩の傷口には糸で縫った跡がある。
 しかし、こうして改めて見ると、傷はかなり深かったようだ。
 今、こうして生きているのが不思議な気がする。

 っと、藍さんを待たせちゃ悪いな。

 俺は用意された服をさっさと着ることにした。















「おまたせ、藍さん」
「準備できたな。じゃあ、こっちだ」

 彼女の後について歩いて行く。
 客室と同様に、廊下も隅々まできれいに掃除されている。
  
 お手伝いさんとかたくさん居るようには見えないが……。
 もしかして、藍さんが全部やってたりとか。
 だとしたら、すごいな。

 




「ここだ」

 案内された部屋の中央にはそれなりの大きさのテーブルがあり、その上には食事が置いてあった。
 ご飯に味噌汁、焼き魚、そして大皿に乗った油揚げ。
 典型的な日本の朝食である。最後の一品を除けば。

 その時点で、テーブルに見知らぬ少女が座っていることに気が付いた。
 見た感じ十歳ぐらいの子供であろうか。
 ただ、猫耳と二本の尻尾の存在が、彼女が人ではないことを示している。

「ああ。彼女は橙、私の式神だ」
「つまり紫さんから見れば、式の式にあたるわけか」
「その通りだ」

 少女の方を改めて見る。
 どこか緊張しているようにも見える。
 まぁ、こっちはいきなり居候することになったもんなぁ。

 しかし……、どこから見ても立派な猫耳だ。
 その筋の人には大絶賛されるんじゃなかろうか。

「あの、よろしくお願いします、○○さん」
「ああ、よろしく」

 少女のおずおずとした挨拶に、こちらも返す。
 何というか見た目以上に礼儀正しい印象を受けるな。
 まぁ、藍さんを見れば、納得出来る気がするが。

「さて、それじゃあ、食事にしよう」
「あれ、紫さんは一緒に食べないのか?」
「紫様はまだ寝ていらっしゃる。普段、朝食のときは起きてこない」

 ……まるで普段の俺みたいだな。
 一人暮らしとかしてると、昼過ぎまで寝てしまって、そのまま朝飯を食わないことがあるんだよなぁ。

 些細な疑問も解けたところで食卓に座る。

「「「いただきます」」」

 三人の声が重なる。

 まず、白米を口に運ぶ。
 それは柔らかすぎず、硬すぎず、絶妙な歯ごたえだった。

 次に味噌汁。これもまた、丁度いい塩加減。

 いつも外食やコンビニの弁当ばかりなので、こういう食事は本当に久しぶりだ。
 まさにおふくろの味ってやつだ。
 
「なぁ、これってやっぱり、藍さんが全部作ったのか?」
「そうだが、それがどうかしたか?」
「いや、本当に上手いなぁ、って思って」
「ふふ、褒めても何も出ないぞ」

 彼女は、少し嬉しそうに、はにかみながら答える。
 俺は料理ってものがてんでダメなんで、こんな風に上手く作れるやつはそれだけで尊敬できる。
 それにしても、藍さんの雰囲気って……。

「ああ、橙。味噌汁で口が汚れているぞ。拭いてあげるから、こっちに来なさい」
「はぁい、藍様」

 手にしたハンカチで橙の口を拭う藍。
 やっぱり、まるでどっかのお母さんみたいだ。

「ん? どうした、○○? 妙に微笑ましい顔をしているが?」
「い、いや。何でもない」

 和やかな光景を見て、ニヤニヤしていたのを見られてしまった。
 俺は恥ずかしくなって、茶碗のご飯を勢いよくかきこんだ。





 
















「やっぱ、本当に別世界みたいなとこなんだな……」

 朝食を終え、することもなかった俺は、部屋であぐらをかき、ごろごろしていた。
 その右手には携帯電話が。
 一応、メールや電話を試してみたが、さっぱりだった。
 これではただの時計ぐらいにしかならないではないか。
 俺は携帯の電源を切り、無造作に投げ捨てた。

 そこで大の字になり、寝転がる。
 まぁ、遠くへ急に旅行へ行ったようなもんだ。観光気分で楽しもうじゃないか。
 大学も少しぐらいならサボっても問題あるまい。
 もしかしたら、このポジティブさが、友人たちからよく楽天家だの能天気だの言われる所以なのかもしれない。

「○○、ちょっといいか」

 そこに藍さんがやってきた。
 その手には壺のようなものがある。
 
「どうしたんだ、藍さん?」
「お前の傷の治療のためにこの薬を塗らなければならないんだ」
 
 居住まいを正し、彼女の方へ体を向ける。
 なるほど、壺の中にはどろっとした緑色の液体が入っている。

「ふぅん、確かによく効きそうだな」
「ああ。これを一日二回、一週間ほど塗り続けろと言われている」

 しかし、本当に何もかも世話になりっぱなしだなぁ。
 何て自嘲気味に苦笑していると、藍さんは驚くべき発言をした。
  
「だから、服を脱ぐんだ」
「……!?」

 は? 今、何と?

「何を驚いている?」
「い、いや。それぐらい一人で出来るから……」

 彼女の申し出を思わず断る。
 いや、男としてはありがたい状況なのかもしれないが。

「まだ、体は本調子ではないだろう。だから今日のところは私が塗ってやるから、早く上の服を脱げ」

 などとしれっとした顔で答える藍さん。
 いやいや、昨日今日会った女性に裸を見せるなんて……。

 などと思ったが、どう見ても藍さんに引く気はなさそうである。
 まぁ、親切心からやってくれてるんだしな……。断じて、美人に塗ってもらってラッキー、なんて思ってないぞ。
 自分をどうにか納得させ、おとなしく上の服を脱いだ。

「……っ」

 彼女の少しひんやりとした手が触れる。
 だが、薬を塗ったところには、ほんのりと温かい感覚が残る。
 その温度差が肌に触れる手を余計に意識させる。

「よし、次は後ろを向くんだ」

 彼女の指示に従い、背中を向ける。
 親切心でやってくれているとわかってはいるが、それでも何だか恥ずかしい。
 
 何とも言えないこそばゆさと羞恥心のせいで、この時間はまるで拷問みたいだった。

「……これで終わりだ」

 やっと終わった。俺は藍さんにばれないように溜息をつきながら、彼女の方へ振り返る。

「ん? 何だか顔が赤いようだが?」
「何でもない! 何でもない!」
「……? そうか」

 彼女は薬の入った壺を持ち、立ち上がった。

「じゃあ、私はもう行く。昼食になったら呼びに来るから、それまでここでのんびりしていてくれ」

 彼女が退室するのを見計らってから、もう一度溜息をつく。

 近くで見た彼女の顔は本当にきれいだった。
 それにお日様みたいな気持ちいい匂いもしてきた。
 それに手も……。

「あらあら、ずいぶんと楽しそうね」

 後ろから声が聞こえ、振り返る。
 果たしてそこには紫さんが居た。いつのまに……。
 ただ、その顔はニヤニヤとしていて、どうも締まりがない。

「さっきは藍とお楽しみだったわね」
「なっ! ただ、薬を塗ってもらってただけだ」

 思わず、むきになって反論する。
 しかし、それを聞いた彼女はさらにその顔をニヤけさせる。
 なんていうか……すごくたちの悪い微笑み方だ。

「その割にはずいぶん顔を赤くしてたみたいだけど。あなたは何を考えていたのかしら?」
「何だっていいだろう!」

 彼女に背中を向ける。
 自分でも顔が真赤になっているのがわかる。

 俺の後ろでは、相変わらず彼女がニヤニヤしているのだろう。
 そう思うと、俺の顔が余計に赤くなったように感じた。

「本当にあなたはおもしろい人間ね」

 その声は、先ほどまでの砕けた感じの声とは全く違った。
 それこそ、嬌艶で、甘美で、でも明らかに危険な、そんな声だった。
 その言葉に俺はただならぬ恐怖を感じ、彼女の方に怖々と顔を向ける。

 しかし、そこにあったのは先程までと同様のニヤついた顔だった。

「あらあら、どうしたのかしら?」

 心底楽しそうに笑う彼女。
 
 さっきの声は一体?

 その後、藍が昼過ぎに呼びに来るまで、俺は紫にからかわれ続けた。
 けれど、俺の頭を支配したのは、先程の声が俺の幻聴ではないのか、
 もし幻聴でないとしたら、どっちの彼女が本当の彼女なのか、といった考えだった。


───────


 気がつけば、真っ暗な闇の中。何の光も届かず、何の音も聞こえない。
 それどころか、自分以外の気配も感じない。

 俺はその中で真っ直ぐ立ち尽くしていた。だというのに、その足先には何の感触もなかった。
 さらに不思議なことに、光一つないのに、自分の姿がはっきりと見える。

 ここは一体どこなんだろう?

 ぼんやりと考えていると、不意に暗闇が裂け、何かが現れた。
 それは金色の髪をした、どこか見覚えのある女性。ただ、その目元は長い前髪に隠れて見えなかった。
 女性はゆっくりと、一歩ずつこちらに近づいてくる。
 やがて、俺の目の前まで来た彼女は、その両手を上げ、俺の両頬にそれを添える。
 冷たい、人のものとは思えない手だった。
 そして、口元が大きく、不気味に歪められた。

 俺はただならぬ恐怖を感じ、咄嗟に体を動かそうとする。
 しかし、体は言うことを聞かない。
 俺は指先一つ動かせないまま、彼女の顔を正面から見ることしかできなかった。
 その顔には、俺を怯えさせる、確かな恐怖が存在した。























「……夢……か」

 起き上がり、辺りを見回す。辺りは暗かったが、それでもさっきの暗さとは違い、どこか人の温かみのある暗さだった。
 そう。ここはマヨヒガに用意された、俺の部屋だ。
 俺は先ほどの出来事が夢であったことに安堵し、額の冷や汗を拭った。
 
 これで何度目だったか、悪夢を見たのは。

 俺がここに来て、五日が経過した。その間、似たような夢を何度も見た。
 単に、最初に妖怪に襲われたときのことをフラッシュバックしているだけなのかもしれない。
 けれど、俺はこの夢を見た直後、必ず思い描くものがあった。

 それは、二日目に紫さんが見せた、あの妖しく、恐ろしい雰囲気。
 その言葉、その空気は、矮小な俺に恐怖を刻むのには十分だった。

 無論、頭では分かっているのだ。
 それはきっと、紫さんがほんの気まぐれで見せたものであること。
 彼女には、俺をどうこうしようという気はないこと。
 短い付き合いだが、それでもそれくらいは分かる。

 それどころか、俺を助けてくれ、ここに置いてくれている。
 その事実に感謝こそすれ、恐れたりする必要はない。
 さらに言えば、普段の彼女の姿は非常に魅力的だ。
 顔は言うまでもなく美人だし、その楽しげな笑顔も好きだ。

 だけど……、感情は簡単には割り切れない。
 あれ以降、彼女と相対すれば、どこか恐怖し、畏縮する自分がいた。
 俺は本能的に、彼女の中にああいう一面があることを怖がっているのだ。
 自分の理解できない、畏怖さえ抱かせるものに。

「……喉……乾いたな」

 時刻は深夜。けれど、寝覚めの悪い夢のせいか、喉がひりつき、体は火照っている。
 俺はのそりと布団から這い出し、自分の部屋を後にした。




 さすがにこの時刻では、居間に誰もいなかった。
 だけど、その方が好都合だった。今の俺は、きっとひどい顔をしているだろうから。

 俺は湯呑を取り出し、やかんから水を注いだ。
 そして、それを一息に飲み干す。

 気休めかもしれないが、先ほどよりも少しは気分が楽になったように感じた。
 後は、この火照った体を適当に冷まして、それから寝よう。
 
 俺は湯呑を仕舞い、再び廊下へと足を進めた。




 春先とはいえ、さすがに夜は冷える。
 さらに加えて、夜に歩く廊下は、昼間のどこか温かみを感じさせるものとは違って、確かな静謐さを感じさせた。
 それは、今の俺にとっては、何よりも心地よいものだった。

 体の火照りが収まるにつれて、心も落ち着いていった。

 いつまでも、こんな風じゃいけないよな……。
 せめて、何かきっかけがあれば、改善するとは思うんだが……。

 どうにもならない事態に、苛立ちと一種の諦観を抱きながら、俺は歩を進めた。
 
 と、縁側のある廊下にさしかかったときに、人影が見えた。
 そこにいたのは他ならぬ紫さんだった。

 ドクン!

 心臓が強く跳ね上がるのを感じる。
 それは、ここ数日のうちに何度も感じたものだった。

「あら? ○○じゃない。こんな夜更けにどうしたのかしら?」

 いつもと変わらない飄々とした言葉づかい。

「……ちょっと、喉が渇いたから水を飲みに……」
「そう」

 俺の答えに満足したように見えた彼女は、横に置いてあった徳利を手に取り、口へ運んだ。

「今夜は満月ね」

 彼女に言われ、夜空を見上げる。なるほど、これ以上ないくらいに満月だ。
 空気が澄んでいるせいか、今まで見たどの満月よりも綺麗に見える。

「せっかくだから、あなたも月見酒をどう?」

 酒のせいか、少し上気した顔で問いかける。
 その顔は本当に魅力的だった。だけど、薔薇のように、鋭い棘を持っていることも理解できた。
 そんな二つの思いに挟まれ、俺は何の言葉も発する事が出来なかった。

「まぁ、いいわ」

 再び、酒を口へ運ぶ。
 一見、不躾とも取れる俺の態度に、紫さんは気分を害したわけではなかった。
 やがて、口から徳利を離し、言葉を紡ぎ始めた。

「月は大きな力を持っているわ。それこそ、この星に大きな影響を及ぼすくらいに」

 月を眺め、語る。

「それは妖怪や人間にとっても例外じゃない。最も、その影響は大なり小なりだけれど」
「……バイオリズム、ってやつか?」
「よく知ってるわね。そう、そしてその力は満月の時に最も高まる」

 そこで言葉を切り、瞬きをする。

「だから満月は最高の肴となる。これの前では、どんな美酒も霞むほどの……ね」

 遠くを眺め、心底嬉しそうに話す彼女。
 今夜の彼女は妙に子供っぽい。けど、月の光に照らされたその横顔は、とても素敵だった。
 流れる髪。上気した頬。綺麗な瞳。艶やかな唇。どれもが魅力的だった。

 

 どんな彼女でも、彼女は彼女だ。



 不意に起こったそんな考えと共に、俺の中の何かがすとんと落ちた。
 それこそ、さっきまであんなに悩んでいたのが馬鹿らしくなるくらいに。
 
 俺はゆっくりと、彼女の横に座った。

「俺にも酒をくれないか?」
「ええ、どうぞ」

 彼女に手渡された徳利を持ち上げ、ぐびりと酒をあおる。
 それはこれ以上ないくらいに辛かった。けど、紫さんの言うように満月を肴にして飲む酒は格別だった。

「どうかしら?」
「ああ……いいな」

 さっきの言葉は、きっと俺を酒に誘うための方便なのだろう。それも気まぐれから生まれた類の。
 けど、そのとき見せた表情は、俺の中の何かを変えた。
 今なら、紫さんのことを紫さんとして素直に受け入れられる気がした。

 寝酒は体に悪いんだけどな、と苦笑しつつも、さらにもう一口酒をあおった。
 今夜はいい夢が見られそうだった。 


──────────


 部屋に差し込む、清々しい朝の陽光に、俺は目を覚ました。
 寝ぼけまなこをこすり、体を伸ばして、意識の覚醒を図る。
 今日もまた、ここマヨヒガでの一日が始まるのだ。

 



「おはよう、藍さん。橙」
「ああ、おはよう」
「おはようございます」

 俺がここに居候するようになって、ちょうど二週間。今日もいつものように、挨拶をしてから、朝食の席に着いた。
 朝のメニューもいつもと同じ、ご飯に味噌汁、焼き魚、そして油揚げ。
 二週間もここにいると、この保守的ではあるがちょっと変わった朝食もありだな、とか思ってしまう。

「さ、食べよう」
「「「いただきます」」」

 藍の声を皮切りに、三人は声を合わせた。

























「じゃあ、今日は庭の掃除を頼む」
「わかった。任せとけ」

 朝食を終えた俺と藍は、庭の一角に立っていた。
 理由は言わずもがな、掃除のためである。そもそもの発端は、俺が世話になりっぱなしであるのを嫌ったからである。
 それで、藍さんと話し合った結果、リハビリも兼ねて掃除を手伝うことになったのだ。

「落ち葉という落ち葉、雑草という雑草を全部片してやるぜ!」
「……あー、体に障らない程度にほどほどにな……」

 やる気を見せる俺に、溜息をつき答える藍さん。
 まぁ、藍さんからしてみれば、俺に無理に手伝わせて体を壊させてしまうのも本末転倒なわけだ。
 けど、自分の限界ぐらいは理解してるつもりだ。その限界の中で出来る最大限のことをすれば良い。
 藍さんのそういう心使いに答えるためにも。

「私は家の中を掃除してるから、何かあったら呼んでくれ」
「おう」

 藍さんが去るのを見届けた俺は、腕まくりをして、早速掃除に取り掛かることにした。

 まずは、箒で落ち葉を集める。
 といっても、春先なのでそれほど落ち葉はない。
 しかし、問題は庭の広さだ。この庭は、何だか不思議な広さなのだ。
 広いようで狭い、狭いようで広い。その境目が曖昧であるように思える。

 そんなことを一人問答していると、知った声が聞こえてきた。

「○○さん、私もお手伝いしますよ」

 まず、目に飛び込んできたのは、ピョコンと立った猫耳。そう、橙だ。
 
「いいのか? 橙にも何かやることがあるんじゃないのか?」
「今、ちょうど暇してたところなんです。だから、手伝わせてください」

 屈託のない笑顔で言う。
 その笑顔があまりに眩しいものだから、俺としても断りきれなかった。

「まぁ、橙がそう言うんなら……」
「わぁい♪ それじゃ、ちゃっちゃとやってしまいましょう」

 側に置いてあった、もう一本の竹箒を手に取り、はしゃぐ彼女。

 二週間共に過ごしてきて、俺の中での彼女の評価は、ものすごく良い子、というものだ。
 素直で礼儀正しく、子供ながらの無邪気さも持っていた。
 子供好きの俺が、こんな良い子を気に入らないはずがない!

「どうしたんですか、○○さん? 遠くの方を向いて?」
「……はっ! いや、何でもない。さっさとやってしまおう」
「はぁい」

 


















「ねぇ、○○さん。聞きたいことがあるんですけど」

 そんなことを聞いてきたのは、掃除を始めて幾分か過ぎた頃だった。

「何だ?」
「外のお話、聞かせてもらえませんか?」
「どうしたんだ急に?」
「だって、興味がありますから」

 なんて、先程と同じような笑顔で言う。

「私も聞きたいわね」

 いつの間にか、縁側に紫さんが座っていた。

「紫さんまで……。ていうか、いつ起きてきたんだ……」
「そんなことより、早く聞かせて頂戴。私とそういう約束したでしょ」

 子供っぽい笑顔でつぶやく。
 確かに居候が決まったとき、そんな約束をした気がする。まぁ、別に話さない理由もないか。

「そうだな。じゃあ、何から話そうか……。無難に大学の話かな」
「大学?」

 橙が興味津々といった様子で聞いてくる。

「色んなことをちょっと専門的に学ぶ学校、ってとこかな。ちなみに俺の専門は物理関係だな」
「物理?」
「物の動きとか色んなエネルギーについて学ぶ学問、かな。簡単に言えば」
「そうなんですか」
「ま、俺はあんま頭良くないんだけどな」
「ちゃんと勉強しないと駄目ですよ」
「はは、ぼちぼちな。はぁ、俺もあの先輩ぐらい頭がよけりゃなぁ」
「あの先輩?」
「何て名前かは忘れたけどな、うちの学科にすごく頭が良い人がいるんだよ。確か、オカルト系のサークルをやってたっけ……」
「おかると? さーくる?」
「ああ、それはな……」

 そんな他愛もない話を俺は延々と続けた。
 それに対して、橙が色々質問して、俺がそれに返し、また話を続ける。
 紫さんはじっと黙って聞いていた。ただ、その姿はどことなく楽しそうだった。

 そうやって、かなりの時間話していたときだった。俺が背後からある種の剣呑な気配を感じたのは。

「……○○、掃除は終わったのか?」

 俺は恐る恐る振り返った。そこに居たのは、勿論藍さん。当然不機嫌そうな顔である。

「全く、自分から言い出してこれか……」
「いや、これはだな……。その……」

 俺は援護を期待して、横をちらっと見た。だが、紫さんが居た場所には誰もいなかった。
 驚いて辺りを見回せば、紫さんも橙も見当たらなかった。

「……逃げられた」

 呆然とし、呟く。
 
「とりあえず、昼食はここの掃除が終わってからだ。それまでは家の中に入ってくるな」
「……ちくしょー!」

 この場には、俺を慰めてくれる人物は誰もいなかった。
































「出かけるから、すぐに支度をなさい」
 
 そんなことを紫さんから言われたのは、自室でだらだらとしていた時だった。
 時刻は午後四時。
 普段なら、小腹の空く時間であるが、昼食がかなり遅くなってしまった(俺だけ)ので特にお腹は空いていなかった。

「出かけるって、どこへ?」

 先程のこともあり、少し機嫌が悪そうに言う。

「来ればわかるわよ」

 どことなく嬉しそうに言う彼女。
 駄目だ、今の紫さんには何を言っても無駄だ。ここ二週間で、そのことを理解していた俺は溜息を吐いて、その申し出に同意した。

「わかったよ。別に用意するものなんてないから、このまま行こう」

 立ち上がり、紫さんについて行き、玄関で靴を履く。

 その瞬間、不意に視界が暗転したと思ったら、いつの間にか見慣れた玄関ではなく、見知らぬ神社の前に立っていた。
 何が……起こった? 
 不思議がる俺に紫さんが声をかけてきた。

「そんな所に突っ立ってないで、こっちに来なさい」

 深く考えるのはやめよう。紫さんだったら、これぐらい朝飯前なのかもしれない。
 いや、紫さんが朝飯を食べているのは見たことないが。
 そんな無意味な突っ込みを自分に入れながら、紫さんの後ろ姿を追いかけた。

「霊夢ー、いるー?」
「そんな大きな声で呼ばなくてもここにいるわ」

 紫さんが声をかけたところ、縁側から一人の少女が現れた。
 服装や場所から考えれば、多分この神社の巫女であろう。
 ただ、外の世界で見かける巫女服とはちょっと違い、どことなく奇抜な服を着ていた。

「まだ、宴会には早いわよ」
「ほら、いつもあなた一人に準備させるのも大変だと思ってね。今日は手伝いを連れて来たのよ」
「手伝いって……そっちの?」
「そう。今はうちに居候してるのよ」

 紫さんの言葉に、赤い巫女の眉がぴくんと上がる。

「珍しいこともあるものね」
「そうね。でも、たまにはいいでしょう」
「ま、私は手伝ってくれるのなら、それでいいけどね」

 どうやら、俺は目の前の彼女の手伝いをしなければいけないらしい。
 というか、俺を無視して話を進めるな。
 この言葉を出せるほど、俺が空気の読めない男であったら、どれほど良かっただろう。
 そんな風に内心で、涙を流していると、巫女の目がこちらに向けられた。

「あなた、名前は?」
「えっと、○○だけど……」
「そう、私は博麗霊夢。よろしくね」

 博麗霊夢……。舌を噛みそうな名前だ。

「じゃ、私は一旦帰るから。彼のこと、よろしくね」
「ちょ、紫さん!」

 俺が声をかけたときには既に遅し。紫さんの姿はどこにもなかった。

「さ、準備にとりかかるとしましょう。料理の下ごしらえぐらいは出来るでしょう?」
「あ、ああ……」

 はめられた……。
 その事実を認識したとき、俺は今日何度目となるかわからない、心の涙を流した。










「次はこっちの野菜の皮むきをお願い」
「分かった」

 紫さんにはめられる形で、手伝いをすることになった俺。
 料理が全く出来ない俺は、不器用な手つきながらも何とか下ごしらえを手伝うことが出来た。
 霊夢に話を聞いたところ、これは今晩行われる宴会のためのものらしい。
 何でも、こんな宴会は頻繁に行われているとか。

「そういえば、あなた。紫のところに居候しているんだって?」
「ああ。でも、それってそんなに珍しいことなのか?」
「そうね。外から人間が迷い込んでくるのは割とあるんだけどね。私もそういった人間に何人も会ったわ。
 無事外の世界に帰ったのも居れば、そのままこっちに居ついたのもいる。
 けど、紫のところに居候したというのは今まで聞いたことないわ」

 包丁で材料を手際よく刻みながら言う。

「そっか。しかし、俺以外にもこっちに迷い込んだ人間が……」
「多分、あなたが思ってるほど、少なくはないわよ。
 特にここ、博麗神社なんかは外の世界と幻想郷との境目に位置しているから、外から迷い込んで来るものに会うことも多いわ」
「境目? 要するに、結界が薄い場所ってことか?」
「あら、結界については知ってるのね。それとはちょっと違うわ。正確にはここは、幻想郷であって幻想郷でない場所ってとこね」
「……よくわからん」
「別にそれぐらいの認識でいいと思うけど。ちなみに、紫が言うには、こことは別に外の世界にも博麗神社があるらしいけど」
「ふぅん。じゃ、外に帰ったら、ためしに探してみようかな」
「好きになさい」
 
 親切なのか無愛想なのか、彼女は俺の質問に律儀に答えてくれた。

「こんなところね。後は私がやるから、あなたは大部屋で休んでなさい」
「いいのか? ここまで来たんなら、他にも何か手伝うが……」
「ここの宴会に参加するのは初めてでしょう? 体力を残しておかないと、大変なことになるわよ」

 彼女の冗談のような脅しに、俺はしぶしぶと引き下がった。






























「はははー、もっと飲めー!」
「よし来たー、じゃんじゃん持って来い!」

 果たして、霊夢の言葉は正しかった。
 何故だか人外ばかりが参加するこの宴会は、それに見合うだけのハイテンションで行われたのだ。
 吸血鬼に亡霊、宇宙人、その他、妖精に妖怪。ここまでくると、人外のバーゲンセールだ。
 かくいう俺もまた、白黒の魔法使いと鬼っ娘に囲まれて、泥酔していた。

「いい飲みっぷりだねー! ささ、こっちも」
「おっとっと。じゃ、も一つ」

 鬼っ娘から手渡された盃を一気に飲み干す。
 ピリピリした感覚が喉を通りぬける。 

「はー、もう駄目……」

 この熱気に当てられた俺は、一人さっさと意識を失ってしまった。



























「う、ん……」

 何やら頭の後ろに気持ちの良い感触。柔らかすぎず、かといって硬すぎず、絶妙の感触。
 俺はその感覚を不思議に思いながら、目を開けた。

「おはよう、○○」

 目の前に紫さんの見慣れた顔。金色の長い髪が俺の顔にかかる。
 その髪からは、香水とシャンプーの混ざり合った良い匂いが。
 俺はこのふんわりとした心地良さに、身を委ねてしまいそうだった。
 だけど、何かが頭に引っかかる。あれ? この体勢って?

「……!」
「あらあら。そんなにびっくりして、離れなくてもいいのに」

 一発で酔いの醒めた俺は、素早く紫さんから離れた。
 だって、あの体勢は……、ひ、ひひひ、膝枕じゃないか!

「そんな風にされると、ゆかりん悲しいわ……」

 冗談なのか本気なのか、区別のつかない顔で言う。
 その顔を見ていると、自分がこんな風に慌てているのが馬鹿らしくなってきた。

 落ち着いた俺は、改めて、縁側にいる紫さんの隣に座った。
 日はすっかり落ちており、空には満天の星空。
 相変わらず、宴会場からは騒がしい声が聞こえてくる。
 しかし、この場にあるのは、どこか気分の良い静けさだった。

 ふと、隣にいる紫さんについて思いを巡らせる。 
 彼女は、とても魅力的な人だ。
 ころころと子供のように笑うこともあれば、妖しい大人の笑みを見せることもある。
 過ごしてきたのは、二週間という短い時間だが、俺はどっちの紫さんも好きだった。
 いや、最初は後者の方は少し怖かったのだが。けど、上手く言えないけど、その恐怖はいつの間にか無くなっていた。
 ああ、そうだ。俺は、自分でも知らずのうちに紫さんに惹かれているんだ。今はまだ、淡い気持ちだけど。

「ねぇ、一つ聞いてもいいかしら?」

 辺りの静けさを遮る形で紫さんが口を開く。

「何だ?」

 紫さんは遠くの方を見ながら、一息ついて、さらに言葉を紡いだ。

「あなたは妖怪、人でないものを怖がらないのね。いえ、最初は私のことを怖がるような素振りを少し見せていたけど、それはあくまで私個人に向けられたもの。
 しかも、今では全くそれはない。それどころか、さっきの宴会では自分から彼女たちに話しかけていた。何故かしら? あなたは妖怪に襲われたというのに……」

 こちらの目を真っ直ぐ見ながら問いかける。
 彼女の目は、真剣であったが、そのどこかに幾ばくかの困惑が混じっている気がした。

「まぁ、俺を襲ったのはあいつだけだし……。それで妖怪全体を怖がりはしないな」
「なら、私を怖がらなくなったのはなぜ?」

 彼女の目が細められる。その顔は以前にも何度か見た、妖怪としての紫さんの顔だった。

「私は、これでも人を食らうのよ。それを知ってもなお、あなたは私を怖がらない?」
「……ああ。紫さんには助けてもらったし、今更怖がったりはしない」
「本当に?」

 彼女の視線がさらに強められる。
 以前の俺なら、この視線に怯え、竦んでいただろう。
 その俺が、こうして自然なことのように、受け流せている。

 ああ、そうか。やっとわかった。俺が紫さんを恐れなくなった理由。
 俺は、どっちの顔も紫さんだってことに気がついたんだ。
 要するに、そんな些細なことが気にならないくらい、魅力的だと感じていたわけか。

 自分でもおかしな気分だが、今の俺は何故だか、微笑んでいた。

「……何で笑っていられるの?」
「どっちにしろ、紫さんは紫さんだろ? そこには何の違いもないよ」
「私は……、私?」
「そ。子供っぽい紫さんも、ここにいる紫さんも、どっちも紫さんだ。俺はそう思ってる」

 俺の答えに紫さんは、きょとん、とした顔を見せた。
 やがて、その顔はみるみるうちに破顔し、大きな声をあげた。

「はははっ、私は私……ね。そんな風に考える人間が居るなんてね」
「あれ? 俺っておかしいこと言った?」
「ええ、この上もなくおかしいわね。少なくとも、あなたは普通の人間じゃないわ」
「いや、俺は一般人なん……」

 俺の否定の言葉は、唇に当たる柔らかな感触に邪魔された。
 そして、すぐに紫さんの唇は離された。

「ゆ、紫さん!」 

 俺の叫びに対し、紫さんは人差し指を俺の唇に当てる。

「あなた、私や藍には、いつまで経っても“さん”をつけるのね」
「そりゃ、世話になってるから……」
「これからは呼び捨てにしなさい」
「紫さ「紫」」

 二人の視線が交わる。やがて、彼女は穏やかに微笑んだ。

「あなたも、我が家の一員ですもの」

 俺はその言葉に、心の内で喜びを感じた。
 けど、それを気取らせるのは恥ずかしいと思った俺は、思わずそっぽを向いた。

「あら、顔を真っ赤にして、かわいいわね」
「酔ってるせいだ!」

 全身が火のように熱くなる。
 けど、不思議と嫌な感じはしなかった。
 俺は気を紛らせるために、星空を見上げた。

 今日は色々なことがあった。
 その出来事は、俺と幻想郷との距離を、少し縮めた気がした。


───────────


「わぁー! 藍様、早く行きましょうよ!」
「橙、あんまり遠くへ行っちゃ駄目だぞ」

 うららかな日差しの中で、はしゃぐ橙。

 暖かな風が頬を撫で、体の芯へ心地よい高揚感を運んで行く。
 見渡せば、そこにあるのは数々の草花に覆われた丘。
 その頂上には、まるでこの地域一帯を見守るように、大きな一本の木が立っている。

 事の始まりは、紫のある言葉だった。
 曰く、『天気もいいことだし、今日はピクニックにでも行きましょう』と。
 そんなわけで、八雲一家と居候の俺は、こんな自然味溢れる場所に来ているのだ。

「○○さん、○○さん! 早く行きましょう!」

 はちきれんばかりの笑顔で、俺の袖をつかむ橙。
 彼女のトレードマークである二本の尻尾は、ピンと垂直に立てられている。
 そのあまりに嬉しそうな顔に気遅れした俺は、傍に居た二人に助けを求めた。
 それに対し、藍は苦笑を、紫はいつも通りの笑顔を見せた。

 やれやれ、たまには付き合ってもいいか。

「わかった、わかった。だから、袖を引っ張るな」
「わぁい!」

 俺は橙に引きずられる形で、丘を上っていった。

 丘の中頃まで来たところ、橙はおもむろに何かを取り出した。

「○○さん、これで遊びましょう!」

 それは、いわゆる凧であった。

「懐かしいな……。でも、これをどこで?」
「紫様がくれました! 使い方がわからないって言ったら、○○さんならわかるって」

 そりゃ、知ってることは知ってるが……。紫だって多分、知ってるだろ。
 そこで俺に聞かせるように仕向けるというのが、何と言うか紫らしい。

「わかった。じゃ、とりあえずやってみるか」

 俺は橙から少し離れたところに立った。
 そして、凧から一メートルほどの位置の糸を右手で持ち、残りの糸の束を左手で持つ。
 さらに右手から少しずつ糸を出し、手元から凧を風に乗せていく。

「わぁー、すごい……」

 凧はどんどん高く上って行く。ある程度の高さまで上ったのを確認した俺は、糸を出すのをやめた。

「これは、こうやって遊ぶんだ。単純だけど、なかなか面白いぜ」
「私にも出来ますか?」
「ほら、やってみろ」

 橙に糸を手渡す。

「結構引っ張られますね」
「ああ、そこで糸を引くんだ」
「こう、ですか?」
「そうそう、そんな感じ」

 初めてなのか、橙の手つきは見ていてちょっと危なっかしい。
 とはいえ、電線の無い幻想郷では、何かに引っかけることも……。

「ああっ!? 体が引っ張られるー!」

 橙は凧に引っ張られ、丘を駆け登って行った。
 その先には、大きな木が。

「あ……」

 呟いたときには、既に遅し。
 橙はすてんと転び、糸を手放す。コントロールを失った凧は、案の定、木に引っ掛かった。

「橙、大丈「橙、怪我はないか!? ○○、何をやってる!」夫……か?」

 橙の側には、いつのまにやら、こちらをジト目で見る藍の姿が。
 ええい、あんたら主従は揃って神出鬼没だな。

「いや、すまん。橙、大丈夫か?」

 二人の元へ駆け寄り、素直に謝る。今回はこちらにも責任がある。

「大丈夫です。でも……」

 橙は悲しそうな顔で、木に引っ掛かった凧を見やる。
 やがて、何かを決意したのか、急に口を開いた。

「私、取って来ます!」

 そう言い残し、地面を蹴る。その途端、彼女の体が『浮いた』。
 否、彼女は空を飛んでいるのだ。

「……」
「どうした? 口をポカンと開けて」
「いやいや、何でもない。そうだよな、光線出したり、瞬間移動する奴だって居るんだ。これくらいじゃ、もう驚かないぜ」
「全く……、お前は反省する気があるのか?」

 などと、馬鹿なやりとりをしていると、橙は凧が引っ掛かっている場所にたどり着いた。
 どうやら、糸が絡まったりはしてないようで、すんなりと凧を持ち上げた。
 そこで、唐突に橙の大きな声が響いた。

「紫様―! 藍様ー! ○○さーん! すごくいい眺めですよー! こっちに登って来ませんか―!」

 なるほど、考えてみれば、あの木はここら一帯では、最も高い位置にある。
 なら、そこから見る景色は格別だろう。
 しかし、橙が居る位置は相当高いところだ。木登りが特に得意な訳ではない俺では、あれの半分の高さも登れないだろう。
 とはいえ、せっかくだから見てみたい。
 どうしたものか、と顎に手を当て、思案する。

「何をそんなに悩んでるのかしら?」
 
 そんな俺に声をかけたのは紫だった。

「いや、どうやったらあの木を登れるかな、と」
「なんなら、私があそこまで、連れて行ってあげましょうか?」
「いいのか?」
「ええ。私の手を取りなさい」

 そう言い、右手を差し出す紫。
 俺はそのありがたい申し出を受け、紫の手を取った。
 手袋のきめ細やかな感触を、肌で感じる。

「手を離さないようにね」

 そう言うと、紫の体が浮いた。
 いや、俺も一緒に、だ。

「す、すげぇ……。浮いてる……」

 足元に何もない、という不思議な感覚にはしゃぐ俺。
 それに対し、紫は柔らかく微笑み言った。

「なかなか気持ちいいでしょ、こういうの」
「ああ、すごいな、ホント」
「ふふっ」

 俺の素直な答えに紫もどこか満足気だ。

「あんまりはしゃぐと、危ないぞ」
「あら、藍。彼のことを心配してるの?」
「い、いえ、その……。彼は一応客人ですし……」

 ちらりと横を見れば、空を飛ぶ藍の姿が。
 その藍は紫の問いかけに若干どもりながら答える。
 
「なっ、何でこっちをそんな目で見るんだ!?」
「いやー、別に―。藍の中での俺の評価がどんなものか気になってなー」

 ちょっと藍をからかってみる。
 いや、何ていうか、最近、紫に感化されているのかもしれない。

「あんまり、藍をいじめないでね。藍をいじめていいのは私だけだから」
「ま、紫がそういうなら仕方ないな」
「紫様……」

 溜息をつき、少しうなだれる藍。
 あんなことしておいて何だが、俺は心の中で藍に合掌した。
 
 そんなことをしているうちに、橙の居るところに着いた。
 紫に手伝ってもらい、注意深く太い枝の上に降りる。

「ホントにすごくいい眺めなんですよ! 早く見てください」

 興奮した調子で話す橙。
 その言葉に期待しながら、俺は視線を前に向けた。

 その瞬間、俺はその景色に圧倒された。

 なだらかな丘陵。季節の花に囲まれた草原。生い茂る木々。そびえ立つ山々。
 そのどれもがこの場所から、一望できた。

 その光景は、ひどく鮮明で、コンクリートジャングルで育った俺には、新鮮なものだった。
 耳を澄ませば、風が木々を撫でる音が聞こえ、大木に手を触れれば、その鼓動を感じることができた。
 
 いつだったか、紫に聞いたことがある。
 幻想郷には、外の世界で『幻想』になったものが流れ着くことがあると。
 ならば、俺が見ているこの風景もそうなのだろうか?
 
「なるほどね、橙がはしゃぐのもわかるわ。○○もそう思わない?」
「……ああ」

 本当にその通りだ。
 目の前に広がるのは、ただの自然の景色。だけど、俺の心はこんなにも歓喜にうちふるえている。
 俺は、さらに少し、幻想郷のことが好きになれそうだった。
 
 




























「……むにゃむにゃ。もう、食べられないよ~」

 気持よさそうな寝息と共に、寝言をつぶやく橙。
 今の時刻は、体感的に、二時ぐらいってとこか。
 藍が張り切って作っていた昼食も食べ終え、今は何をするでもなく木陰でのんびりしている。
 
 右を向けば、遊び疲れた橙がすやすやと眠っている。
 さらにその横では、準備で疲れたのか、藍もまたこくりこくりと夢の世界へ舟を漕いでいる。

「○○、起きてる?」

 その言葉に紫の方に顔を向ける。
 風になびく、彼女の髪はどこかまぶしかった。
 
「ああ」
「そう。今日は楽しかった?」

 穏やかな顔で問う紫。その顔は本当に綺麗で、心臓の鼓動が速まるのを感じた。

「ああ。橙と遊ぶのも楽しかったし、あんなにいい景色も見れたし、藍の料理も美味かったし、言うことないね」
「良かった。あなたに楽しんでもらえて」

 屈託のない笑顔で言う紫。
 その顔を見れば見るほど、自分の顔が紅潮していくような気がした。
 
 最近、いつもこうだ。紫と二人きりになると、彼女のことを妙に意識してしまう。
 いや、正確には、あの宴会の日からだ。

 そんな俺の考えには気づいていないのか、紫は前を向いて、つぶやいた。

「あなたと一緒に居ると、なんだかとても楽しいのよ。だから、こんな風にあなたと一緒に出掛けたくなる……」

 遠くを見つめる紫の横顔は、以前、俺が紫に恐怖を感じなくなった日に見たものだ。

 ああ、そっか。
 俺って、紫に惚れてるんだな。

 不思議と、その事実をすんなりと受け入れている自分がいた。 

 いつからだろう?
 最初に助けられたとき? 目が覚めて、もう一度会ったとき? 恐怖を感じなくなったとき? 楽しそうに俺の話を聞いているとき? 宴会のとき?
 いや、いつだっていいか。俺が紫のことを好きだってことに違いはないから。

 紫は一瞬、思案するような顔を見せ、それから口を開いた。

「あなたを助けたの……最初は気まぐれだったわ。ただ、外の人間にしては生への執着が強いな、って思った。だから、おもしろそう、って思ったの」
  
 目を閉じ、さらに続ける。

「そんなあなたが私に恐怖という感情を抱いた。まぁ、当然よね。そんな風に感じるように振る舞ったのだから。けど、そこからのあなたは普通の人間とは違った。
 あなたはいつしか恐怖を恐怖と認識しなくなった。それこそ、ホントにおかしな理由でね」

 目を開き、こちらへ視線を向ける。

「そこで、私のあなたへの評価は変わった。それこそ、心底おもしろい人間だと思うようになったわ。けどね、変わったのはそれだけじゃないのよ」

 その瞳には、幾ばくかの惑いと数知れぬ恋慕の情が垣間見えた。

「気がつけば、私はあなたを愛しいと思うようになった。あなたと共にいれば、幸せだと感じるようになった。
 ふふっ、おかしいでしょう? 会ってまだ、ほんの少しの時間しか過ごしていないというのに……」

 自嘲気味に笑う彼女。

「けど、私はあなたがどうしても欲しい。こんな私の気持ちに、あなたは答えてくれるかしら?」

 再び、風に揺れる彼女の髪。
 しんとした静寂が辺りを支配する。

 俺は彼女の思いに答えるため、自分の思いを伝えるため、彼女の唇に優しく口づけた。

「これが、俺の答え。その、俺も紫のことが好きだ」

 自分でも、顔が熱くなるのを感じる。きっと彼女から見ればさぞかし俺の顔は真っ赤になっていることだろう。

「……ぷっ、あははははは。本当に不器用ね、お互いに」
「全くだ」

 顔を見合わせ、笑い合う。

「それじゃあ、改めてよろしくね、○○」
「ああ。こっちこそ、紫」

 再び、唇を重ね合った。今の二人に言葉はいらなかった。

 その日、俺はかけがえのない大切なものを手に入れた。


────────────


「あら、おめでとう」

 柔らかな笑みを見せながら、西行寺幽々子さんが言う。 
 
 ここは、冥界白玉楼。西行寺家のお屋敷である。
 今日は紫に連れられ、ここにお邪魔させてもらっている。
 何でも、彼女の友人である幽々子さんに俺のことを紹介したいそうな。

「その、宴会でも会いましたけど、改めてよろしくお願いします」
「そんなにかしこまらなくてもいいわよ。もっと気楽にして頂戴な」

 先ほどと同様の穏やかな口調。
 とはいえ、それほど親しい訳でもないのに、いきなりそんな態度をとるわけにもいかない。

 それに、彼女は惚れ惚れするぐらいに美人だしな。
 美人に粗相をして、変に思われたくはないものだ。
 そこまで考えたところで、隣の紫に頬を思い切りつねられる。

「いふぁふぁふぁ!」
「今、変なこと考えてたでしょう?」
 
 目を細めてこちらを睨む。
 正直、言いがかりに近いと思ったが、あんまり怒らせると怖いので、素直に謝ることにした。

「ごめんなさい」
「分かれば、よろしい」

 扇で口元を隠しつつ、元の笑顔に戻る紫。
 それを見て、幽々子さんの後ろに控えた魂魄妖夢が口を開く。

「何と言うか……息がぴったりですね」
「そりゃあ、私が選んだ人だもの」
「俺が選んだ人だからな」
「あらあら、本当に息ぴったりね」

 おかしそうに笑いながら、幽々子さんは呟く。

「それで結納はいつかしら?」
「幽々子様、気が早すぎです」
「そうよ。やっぱり、ちゃんと順序を踏まないと。ねぇ、○○?」
「はは……」

 紫以上にマイペースな幽々子さんに、それに対し全く気遅れせずに接する二人。
 俺はそれに乾いた笑いで答えるしかなかった。

 そんなこんなでしばらく談笑を続けていたところ、幽々子さんが思い出したように呟く。

「で、今日はずっと家にいるの?」
「いいえ、この後、霊夢のところに行かなくちゃ」
「何か用事なの?」
「実は昨日、ちょっと怒らせてしまって、それを謝りに……」

 微妙にどもりながら答えてしまう俺。
 それに対し、妖夢は若干引きながらも問いかけてくる。 

「怒らせたって、彼女に一体何をしたんですか?」
「ああ、あんまりにも私たちの仲が良いものだから、妬いちゃったのよ」

 ……あれは妬いてたと言うより、鬱陶しがってただけだと思う。
 いや、当事者である俺が言うのも何だが。
 ホント、昨日の霊夢は怖かった。
 何か人を殺せそうな視線だったし……。
 紫は紫で気づいてないのか、気づいてて煽ってるのか分からないし……。

「ほら、妖夢だって呆れてるぞ。そんなんだから、藍にだって怒られるんだ」
「……じゃあ、○○は私とイチャつきたくないの?」
「そんなわけないだろう。そうじゃなくて、イチャつくなら二人きりでイチャつきたいなって思って」
「ごめんなさい、○○の気持ちに気付けなくて……」
「いや、俺も言い方が悪かったよ」

 紫の肩を優しく抱きしめる。
 妖夢が、駄目だこいつら早くなんとかしないと……、な目をしてるが気にしない。
 更に幽々子さんまで、どこか呆れた目で見てるが気にしない。
 俺の気持ちに偽りなどない!

「とまぁ、それは置いといて。そろそろお暇するわ」
「ええ、彼と仲良くね」

 俺から離れ、庭先にスキマを展開する。
 そして俺も紫に続き、靴を履こうとする。
 そのとき、幽々子さんが言葉を投げかけてきた。

「○○、紫をお願いね」

 穏やかな笑みを浮かべた彼女。
 俺はそれに力強く答える。

「ええ、当然です」

 彼女は俺の答えに満足そうな顔を見せる。

「○○、早く行きましょう」

 紫の言葉に、慌てて彼女らに挨拶をする。

「それじゃ、幽々子さん、妖夢。また」
「ええ、いつでも歓迎するわ」
「またどうぞ」

 挨拶を終えた俺は紫の元へ駆け寄る。

「何話してたの?」
「ただの挨拶だよ」
「そう。それじゃあ、行きましょう」

 来たときと同じように、紫の手を取る。
 そして、瞬きをした直後、目の前には博麗神社が広がっていた。

「やっほー、霊夢。ごきげんよう」
「帰れ」

 開口一番、縁側に座っていた霊夢の辛辣な言葉が飛ぶ。

「そんな邪見にしないで、お茶でも御馳走してよ」
「うるさい、イチャつきたいなら他所でやりなさい」

 眉を引きつらせながら、湯呑に口をつける彼女。
 どうやら、相当ご立腹のようだ。

「まぁまぁ、昨日は悪かったよ。今日はお詫びも兼ねてお土産を持って来たからさ。一緒に食べないか?」 
 
 紫の一歩前へ出て、藍に持たされた菓子の包みを霊夢に見せる。
 途端に霊夢の顔が綻ぶ。

「あら、それならいいわ。早くこっちに来なさい。ついでに素敵な賽銭箱は向こうよ」

 何とも現金な彼女に、二人で苦笑を漏らしつつ、縁側に腰掛ける。

「霊夢ー、お茶ー」

 ご機嫌な様子で霊夢にお茶をせびる紫。
 
「はいはい。湯呑を取ってくるから、ちょっと待ってなさい」

 その一言と共に、奥へ引っ込んでいく。
 と、霊夢が居なくなった途端に、紫がこちらの肩へ体をもたれかけてきた。

「ちょ、紫」
「二人きりならいいんでしょ?」

 上目づかいでこちらを見つめてくる。
 そのあまりにもかわいい仕種に、頭が沸騰しそうだった。

「顔、真っ赤よ」
「う、いやすまん。やっぱ、慣れなくてな……」
「ま、そんなところもかわいいんだけど」

 そんなことを言いながら、さらにこちらへもたれかかってくる。
 それきり、二人の間から言葉が消え、静けさが広がる。
 しかし、嫌な静けさではない。むしろ、穏やかで満ち足りたものだった。

 その静けさの中で、俺の心音だけがその存在を主張する。
 紫と一緒に居ると、こんな風に心臓が高鳴る。
 その度に思うのだ。俺は紫のことが本当に好きなんだなぁ、って。
 正直、依存に近いのかも知れない。けれど、それでもいい。
 少なくとも、今感じている幸せは本物だから。

「紫」
「何?」
「愛してる」
「私もよ」
「全く、ちょっと目を離すとこれなんだから……」

 振り返れば、湯呑やら急須やらを乗せたお盆を持ち、不機嫌そうに呟く霊夢の姿が。

「今いいところなんだから、邪魔しないで」
「やるんなら、自分の家でやりなさい」
「言われなくても家では四六時中ベタベタしてるわよ」
「はぁ……。藍にちょっぴり同情するわ」

 呆れた目でこちらを見下ろす。
 だが、観念したのか、もう一度溜息を吐き、その場に腰を下ろした。

「ここまで私に迷惑かけたんだから、二人とも幸せになりなさいよ」

 ぶっきらぼうに、ぼそりと呟く。
 ただ、そこには霊夢なりの気遣いがあったように思えた。

「ああ、もちろん」
「もちろんよ」

 当然、俺たちの答えは決まっている。
 確かめる間もなく、俺たち二人は同時に同じ答えを出していた。
 それが嬉しくて、つい紫と一緒に笑い合う。
 
 そのせいでまた霊夢の機嫌がちょっぴり悪くなったりもしたが、それでも楽しい時間を過ごすことが出来た。
 
 やっぱり、俺は幻想郷も紫も大好きなのだ。
 苦いお茶を流し込みながら、そんなことを思う。


───────────


 紫様と○○が恋人同士となって二週間が過ぎた。
 そのことを初めに知った時は驚いたものだ。
  何せ、目を覚まし、ちらりと横を見れば幸せそうに抱き合う二人がいたのだから。
 何が起きているのか分からず、呆然とその様を見ていた私。それに気づいた紫様は名残惜しそうに彼から離れ、私に向かってこう言った。

 私たち、付き合うことにしたから。

 当然のことであるように言った。私がつい居眠りをしてしまった十数分の間に、一体何が起きたのであろうか?
 私には、それを知る由はない。

 しかし、幸せそうな紫様を見ていれば、それに対し、何かを言う気は起きなかった。
 他の者の反応もだいたいそんな感じだ。

 橙は素直に、おめでとうございます、と言っていた。どことなく、嬉しそうだった。
 
 紫様と○○が付き合いだしてからは、紅魔館、白玉楼、永遠亭、人里、守矢神社、博麗神社、そして今日は香霖堂と幻想郷の様々な場所に二人で出かけている。
 いや、正確には押しかけていると言ってよい。何せ二人の熱々ぶりは、さすがの私も胸やけを起こしそうなぐらいだった。
 とはいえ、それを好ましく思いこそすれ、鬱陶しく思いはしない。
 紫様の喜びは私の喜びでもある。

 彼がここに住み始めて最初のうちは、一週間もすれば飽きて帰るだろうと思っていたが、もう一月以上も経つ。
 いや、私としても彼がこのままここに残ってくれる方が望ましいと思う。
 彼が居れば、紫様は本当に楽しそうな顔をする。
 それが見られるのは、紫様の式として幸せなことだ。

 願わくば、この穏やかな日々がこれからも続いていきますように。
  
























「やぁ、いらっしゃい」

 そこは不思議な店だった。
 鬱蒼と茂る森の入口に立ち、店先には、冷蔵庫やらでっかい置物やらのがらくたが無造作に積まれている。
 看板には、太い字で『香霖堂』と書かれていた。

 さらに不思議なのは、その内装。
 パソコン、テレビ、電話、およそ幻想郷の中ではお目にかかれないものが狭い店内に所狭しと置かれている。

 出迎えた店主は読んでいた本を下ろし、こちらに視線を向け、声をかけた。
 眼鏡をかけた、一見優男風の男。店の制服だろうか、法衣のような変わった服を着ていた。
 いや、服のことを言えば、幻想郷の住人の服は、俺から見れば大概変わっているようにみえるのだが。
 
「ごきげんよう」

 俺の隣に居る紫がそう返す。
 やげて、店主はその視線を俺の方へと向けた。

「そちらの彼は?」

 その問に、紫は嬉しそうな顔をし、俺の左腕を自分の腕で抱いた。

「私の恋人よ」

 跳ねるような声で言った。
 会う人会う人にこんな風にするので、多少は慣れたが、それでもちょっと気恥ずかしい。
 そんな俺を見た店主は、俺の心情を理解したのか、やや苦笑しつつも祝福の言葉をくれた。

「ごちそうさま。僕は森近霖之助だ。見れば分かると思うが、こうして道具屋を営んでいる」
「○○だ、よろしく。もしかして、ここにあるのは外から流れ着いたものなのか?」

 俺の問いに、彼は少し驚いたのか、目を見開いた。

「よくわかったね。そう。ここにあるものは全て外から流れてきたものだよ」

 彼は立ち上がり、古い携帯ゲーム機を手に取りながら、そう言った。

「ね、言った通りでしょ。面白い店だって」

 隣の紫が、悪戯が成功した子供のような顔でこちらを見る。
 そこで、俺はもう一度、店内を見回した。

 よくよく見てみれば、店に並べられている商品は多種多様で、全く統一性がなかった。
 ブラウン管のテレビの横には、ヨーロッパ辺りにありそうなガラス細工の皿。
 その横に、携帯電話があるかと思えば、さらにその横には古いファッション雑誌の類が。
 
 何というか、この店の独特な雰囲気もあって、つい懐かしい気分になる。
 そんな風に郷愁を感じていると、店主が口を開いた。

「君はもしかして、外から来たのかい?」
「ああ、そうだけど……」
「なるほど、それで一目見ただけで分かったわけか」

 顎に手を当て、納得する店主。

「君が良ければ、ここにあるものについて聞いてもいいかな? 用途や名称は分かっても、それ以外はわからないことがあるからさ」
「えっと……、俺で良ければ手伝いますけど……」
「そうかい、じゃあ、さっそく……」

 そう言い、店主は棚に置いてあった一つの商品を取った。

「まずはこれだ。何かを衝撃から守るものらしいんだが、こんなものを作る理由が分からなくてね」

 彼が手に取ったのは、いわゆるプチプチというやつだ。
 よく、荷物なんかを包装してるものだ。

「それは荷物なんかを配達するときに使うなぁ」
「配達? 手紙ではなく荷物を? 外の世界にはそんなものが?」
「ああ。箱に梱包して、料金を払えば色んなところへそれを運んでくれる。そんなときに使うね」
「なるほど、道理で幻想郷では似たようなものが見当たらないはずだ」

 腕を組み、得心がいった顔をする。
 そこで、紫が体を乗り出し、口を挟んだ。

「それを潰して遊ぶのもなかなかおもしろいわよ」
「よく知ってるな、紫」
「潰して遊ぶ? どういうことだい?」
「ちょっと、貸してみてくれ」

 霖之助からそれを受け取る。
 そして、一つ二つと気泡を潰す。
 プチッ、プチッと小気味よい音が響く。

「こんな風にして、感触や音を楽しむんだ」
「そんな使い方が……」

 何か、カルチャーショックを受けたような顔でこっちを見ている。
 そんなに驚くことだろうか? 
 と、紫が耳打ちをしてきた。

「彼、道具の使い方がホントに分かるのよ。だけど、これは正規の使い方じゃないからね」

 なるほど、そういう力の持ち主なら、こんな考えが浮かばないのかもしれない。
 やがて、彼はショックから立ち直ったのか、元の様子に戻り、再び口を開いた。

「他にも、色々と聞きたいことがあるんだ。さぁ、次はこれだ」

 さらに別の商品を手に取る。
 こうして、俺は霖之助の問いに答える形で、手伝いをすることになった。



























「今日のところは、次で最後だ」

 既に数時間もの間、こうして話している。
 この数時間で分かったことといえば、霖之助は一見常識人に見えて、案外そうでないといったことだ。
 外の品物について、少なくとも俺から見れば、とんでもないと言うしかない自説を繰り広げるのだ。
 その様はまるで、一大スペクタクル。一つの品物につき、一つの物語が作れるのではないかというほどだ。

 それに対し、俺は苦笑しつつ答え、紫が隣から茶々を入れるといった感じだ。

「あら、外の世界のお菓子かしら?」
「そうだよ。ただ、これの変わっているのは……」

 霖之助は小さな包みを開ける。
 俺はそれを黙って見つめていた。
 いや、懐かしさに心奪われていたのだ。

「ほら、こんな風にお菓子の下に、よくわからない紙切れが入っている。これを張り付けて遊ぶようだが……。ん、どうしたんだい?」
「いや、すいません。懐かしいものだったので」
「懐かしい? ○○はこれについて知っているの?」

 紫の言葉に幼い頃のことを思い出す。
 そう、それは駄菓子屋なんかによく売ってるおまけのシール入りのウエハースチョコだ。
 
確か、たくさん集めている友達がいて、俺も欲しくなったんだよな。
 それで親にさんざんねだって、何個も買ってもらった……。
 いや、本当に懐かしい。

「ああ、それは要するにおまけだ。色んな絵柄のそれがあって、集めて楽しむんだよ」
「蒐集するものだったか……。なるほど、品物そのものではなく、集めるという行為に意味があったわけか」

 感心したように頷く。

 そういえば、あのときの友達、今はどうしてるんだろうか?
 いや、そもそも最近は俺自身の親にも会ってないじゃないか。
 それに大学の友人たちにも……。
 
 急に俺が居なくなって、心配してくれているんだろうか?
 それとも、特に気にも留めていないのだろうか?
 
 幻想郷に来て、珍しいことばかりで、すっかり忘れていた。
 俺には、帰る場所があるじゃないか。

 ずしり。

 心の奥で何かが軋みをあげる。
 それとともに、言いようのない焦燥感が身を苛む。

「さて、それじゃあ、そろそろ帰りましょう」

 紫の言葉に、現実に引き戻される。

「あ、ああ……、そうだな。じゃあな、霖之助」
「ああ。また今度もよろしく頼むよ」

 店主に手を振り、店を出る。
 前を行く紫は終始ご機嫌だった。

「今日も楽しかったわね」
「ああ」
「さて、今日の晩御飯は何かしら? それもまた、楽しみね」
「そうだな」

 紫といつも通りの他愛ない会話を繰り返す。
 そう。紫と一緒に出かけ、一緒に帰る。いつものことだ。
 だけど、一つだけ違うものがある。
 今日の出来事は俺の心に小さな棘を残したこと。
 俺はその棘を隠して、紫の言葉に笑顔で答え続けた。


───────────


 
 ここマヨヒガで暮らし始めて、一ヶ月以上が過ぎた。
 最近は、紫と一緒に色々なところに出かけることが多かったが、今日は珍しく俺一人で留守番だ。
 何でも、今日は結界の修復に出かけるそうだ。そのお供として、藍も付いて行った。
 ちなみに橙は猫を手なずけてくるとかいって、出かけて行った。

 そんなわけで、暇を持て余した俺は、自室で横になってごろごろしている。

 だが、一人になると昨日の香霖堂での出来事が頭に思い描かれる。
 外の世界にいる知り合いたちは、俺の帰りを待っているんだろうか?
 俺はやっぱり、帰りたいんだろうか?
 思考はどうどう巡りを繰り返し、悶々とした気持ちだけが残る。
 
 このままでは埒が明かないと思った俺は、自身の体を起き上がらせた。
 そのときだった。視界の端に携帯電話が映ったのは。

 そういや、こっちに来てすぐ電源を切ってたんだよな。

 俺はおそるおそる手を伸ばす。心の中の何かがその行為に対し、警鐘を鳴らしているのを半ば無視して。
 携帯を開き、電源を入れる。幸い、まだ電池は残っていた。
 かつての慣れた手つきで、受信フォルダを開く。当然、新着メールはない。
 そこにあるのは、友人たちとの過去のやりとり。
 本当にとりとめのない、ふざけた内容のものもあれば、真摯に相談に乗ったものもある。
 中には、迷惑メールとか企業の広告なんかもあった。

 そう。そこにあるのは、たいした価値のないものだ。
 けど、それなのに俺は、それを読み進めるのを止めることが出来なかった。
 ボタンを下へ下へと押していくと、過去の思い出がありありと蘇ってくる。
 風邪で寝こんだ俺への励まし。昔の友人との懐かしい語らい。深夜に送られてきた画像付きの馬鹿なメール。
 
 それを読めば読むほど、俺は一つの思いに捕らわれた。
 






 帰りたい。





 
 

 でも、その思いは俺をこれ以上ないくらいに苦しめる。
 だって、俺はここの生活を気に入ってるから。ここに住んでる人たちが好きだから。帰りたいという思いと同じくらい、ここに残りたいとも思っているから。

 俺はその二つの思いのせめぎ合いに耐えられず、携帯を前へ投げ捨てた。

「……俺は……どうしようもないくらい身勝手だ……」

 最初にここに居候するのを決めたのは、未知のものへの単なる好奇心だった。
 それでこんなにも長い間泊めてもらっておいて、ちょっと外の空気に触れたくらいで帰りたい、だ。
 ホントに、俺は阿呆だ……。

 このまま一人で考え込んでいたら、俺の心はきっと壊れる。
 だから、今は誰でもいいから会いたかった。

 俺はふらふらとした足取りで、家の中を巡り始めた。

























 俺の目的は早々と達成された。
 何故なら、居間に藍の姿があったからだ。

「おかえり、藍」
「ああ、ただいま」

 藍に声をかけながら、座る。藍はそれに答え、机の上の湯呑を口に運んだ。

「紫は?」
「紫様はお風呂だ。汚れた姿をお前に見せたくないそうだ」
「そうか」

 普段なら、その言葉に恥ずかしがるなり、ちょっぴり嬉しがるなりしただろう。
 けど、今の俺にそんな余裕はなく、うつむいて答えることしか出来なかった。

「顔色が優れないが、何か悩み事か?」
「……」
「言いたくないのなら、それでいい。けれど、紫様も心配しているぞ」

 その言葉に、俺はハッとなって顔を上げた。

「紫……が?」
「ああ。昨日、香霖堂に行ってから、お前の調子がおかしい、と」
「そう……か」

 最も、お前には黙っていてくれと言われたが……、と言葉を濁しながら付け足す。

 紫は俺が悩んでいることを知っている。その事実は俺に幾らかの衝撃を与えた。
 いや、よく考えてみれば、あの紫が気づかないはずがない。さすがに内容はわからなくとも、俺の些細な違いぐらいは見分けられるだろう。

 さて、人は悩みごとをしている自分を心配してくれる人が現れたとき、どうするだろうか?
 答えは二択だ。話して身を軽くするか、話さずにその苦しみを背負うか。俺は、前者を選ぶ弱い人間だった。

「……俺は、幻想郷が好きだ。紫に藍、橙が大好きだ。ここに来てから出会った連中が好きだ。俺はここで暮らしたいと思ってる」

 俺の言葉を、真剣な表情で黙って聞く藍。

「けど、それと同じくらい、外の世界に帰りたいって思うようになってしまった……。俺は、どうしたらいいんだ……?」

 沈黙が辺りを支配する。
 しかし藍は俺の予想に反して、特に驚いた様子を見せなかった。
 やがて、藍が口を開いた。

「それで悩んでいたわけか。なるほど、難しい問題だ」

 そこで一拍置き、再び言葉を続けた。

「私の答えを聞く前に、これだけは覚えていてくれ。何かを選ぶということは、選ばなかった何かを捨てることだということを」

 選ぶことは、捨てることと同じ。その言葉は、何故だか俺の胸にストンと落ちた。

「式としての私の答えは決まっている。お前には紫様と共に歩んでいてもらいたい。理由はわかるな?」

 藍の言葉に黙ってうなずく。

「けれど、お前の友人としての私なら、お前が後悔せずに決めた答えなら受け入れてもいいと思っている。無論、お前と会えなくなるのは寂しいがな」

 穏やかに微笑みながら言う。
 その笑顔は、俺が先に紫に惚れてなければ、藍に惚れてたかもしれない、そう思わせるだけのものだった。
 と、藍はその顔を真剣な顔に戻して言う。

「どのみち、遅かれ早かれ、この問題には解を出してしまわなければならない。私から言えるのは、後悔するような解を出すな、ということだ」

 もう一度、湯呑に手を付ける彼女。
 藍の言葉を聞いて、少しだけ気分が晴れたような気がした。
 残るにしろ、帰るにしろ。いつかは答えを出さなきゃならない。
 なら、今考えることにしよう。

「……ありがとう、藍。おかげで少し楽になった」
「いや、私に出来ることは、これくらいだからな」
「それでも、ありがとう。さてと、俺は部屋に戻ることにするよ」 
「もう、いいのか?」
「ああ。藍に言われたこと、ちょっと考えてくる」
「そうか」

 俺はゆっくりと立ち上がり、振り返らず部屋を出た。
 答えを出すことは、苦しいことだと思う。
 けれど、今なら、その答えがなんとか出せそうな気がした。 

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最終更新:2010年05月22日 10:41