最初は、本当に気まぐれだった。
ただ、いつものように外の世界から人間が来て、そしてその日は私の前に先客がいた。
ただ、それだけの話。
妖怪に襲われた外の人間のたどる結末は大抵二つ。
何が起こったのかすら分からず死んでいくか、あるいは何にも出来ず恐怖に顔を歪めて死んでいくか。
どのみち、死という結果は変わらない。
けれど、彼は少し違った。
逃げて、逃げて、逃げて、そして戦った。自らが無力と知りながらも、己の死に抗おうとした。
それは、ひどく新鮮な光景だった。彼ならば、退屈な日々を少しは紛らわせてくれるかもしれない。
そう思ったから、私は彼を助けた。
果たして、期待とは違った形であるものの、彼は本当におもしろい人間であった。
私に幾ばくかの恐怖を感じながら、それでも私たちと共にいることをやめなかった。
その様を見て、私はさらに喜悦を感じるため、彼にちょっかいをかけ続けた。
しかし、それも長くは続かなかった。いつしか、彼は私に恐怖を感じなくなっていたのだから。
始めはひどく困惑したものだ。何せ、彼は私との距離を離すどころか詰めてきたのだから。
それから、私は彼のことを観察することにした。
今思えば、このときから私は、私の常識に当てはまらない彼に惹かれていたのだと思う。
好きの感情の反対が無関心であるように。
しかし、いくら観察しても答えは見つからなかった。
気がつけば、私は彼のことを一日中考えるようになった。
そして、とうとう私は、彼に直接答えを聞いた。
だが、返ってきた答えもまた、私にとって常識はずれなものだった。
私はそれでより一層、彼のことが気に入ってしまった。
気まぐれは関心に。関心は好意に。好意は愛情に。私の彼への思いは次々と移り変わっていった。
それは彼も同じだった。その事実に気づいたときは、飛び跳ねて喜びそうだったぐらいだ。
それからの日々は本当に楽しかった。
毎日のように、二人で出掛けては、共に笑い合った。
そのときの私にとって、世界は光り輝く素晴らしいもので、きっとこんな日々が続いていくと思っていた。
だが、その幸せも長くは続かなかった。
きっかけは些細なことだ。あの日は香霖堂に、二人で出掛けた。
そして、ひとしきり楽しんだ後の帰り道、彼の様子がいつもと違うことに気がついた。
ただ、そのときの私は大した事ないと思い、念のために藍に相談はしながらも、彼に直接問い質さなかった。
次の日。
その日は結界の修復に藍を連れて出かけた。
そして仕事を終えた後、汚れを落とすために風呂に入り、ようやく彼に会えると思いながら、居間へと向かうところで偶然立ち聞きしてしまった。
彼が外の世界に帰りたがっていることを。
その事実に、私は思い切り頭を殴られた気がした。
私が彼の自由を縛っている?
その事実を認識したとき、私は己のこれまでの身勝手さに吐き気を覚えた。
きっとこれからの彼は、私が楽しそうな顔をする度、二つの思いに惑わされるのではないか。
そうなったとき、果たして彼は耐えられるのか? 私の好きだった彼は変質してしまわないだろうか?
そして私は、それを黙って見ていられるだろうか?
私はそれが怖い……。
だから、あることを決めた。
この決定もまた、ずいぶんと身勝手なものだ。
けれど、これで良いのだ。全てが最初に戻るだけ。
彼がこれ以上傷つくよりもずっとましだ。
私は自分の心をそうやって納得させた。
あれから、自分の部屋で、ずっと考えていた。
ここに残るか。それとも帰るか。
どちらを選んでも、それは自分勝手な選択だ。そのことは理解している。
だけど、考え事をし始めてから、ずっと頭に浮かんでくることがあった。
それは、紫のこと。
初めて会った時の、誰にも勝る強さを見せた紫。
俺に恐怖を感じさせた、あの妖しい紫。
子供のように笑う紫。
俺の話を真剣に聞いてくれた紫。
ここでの思い出は全て、あいつと共にあった。
どの思い出も、俺にとっては最高の思い出だ。
だから、決めた。思い出を思い出のままにしないためにも……。
そんなときだった。紫が俺の部屋にやって来たのは。
「あなたに話があるの。庭まで来てくれない?」
戸を開け、顔も見せずに言い放った。
その様子は、どこかいつもの紫とは違った。
それに違和感を覚えた俺は、飛び起き、急いで紫の後を追った。
外は既に暗くなり始めていた。日も後少しで沈むだろう。
そんなわずかな光の中で、紫は立っていた。
こちらに背を向けているため、顔を見ることは出来なかった。
俺は紫の言葉を待った。
「……あなたに会ったときも、こんな時間だったわね」
顔を向こうに向けたまま、彼女は話し始める。
「ホント、あのときはこんな風になるなんて、予想もしてなかったわ」
風で、その金色の髪が揺れる。
「私はあなたのことを愛してる。でも、もういいの。全部終わりにしましょ」
「今、何て……? もしかして……聞いていたのか?」
「ええ、全部。でも、もう決めたの。振り出しに戻すって」
「待て、ゆか……」
俺の言葉は、振り返った彼女の顔を見た時にかき消えてしまった。
彼女の顔には一筋の涙があったのだ。
俺は自分の選択が、少しばかり遅かったことを悟った。
「今まで、ありがとう」
紫の右手が俺の方に伸びてくる。
俺の中途半端さが、紫をこんなにも傷つけた。
そのことに、俺は深く絶望した。
「そして、さようなら。私の愛した人」
その言葉と共に、俺の意識は消えた。
後悔を胸に抱いて……。
「……んっ」
目が覚めたとき、俺はアパートの自室のベッドの上にいた。
「あー、飲み過ぎて風呂にも入らずに寝ちまったのか」
自分の行動に勝手に結論づける。
「っと、今何時だ?」
携帯電話を覗きこみ、時間を確認する。
今の時刻は、深夜二時過ぎ。
「あれっ? 今日ってこの日付だっけ? だって、一ヶ月以上……」
一ヶ月以上、何だ? いや、飲みに行ったのが今晩なんだから、今日はこの日付のはずだ。
「おっかしいな。変な夢でも見たのか? まぁ、たぶんそうだろう」
首をひねりながら、自問自答する。
不意に、視界がかすみ始める。
「何だ……これ?」
右手で両目を拭う。
だが、拭っても拭っても視界は直らない。
一体、何なんだ? 前はよく見えないし、右手は濡れてるし……。
あれ? もしかして……?
俺は、泣いてる?
疑問は確信へと変わる。
けれど、涙は止まることを知らない。いくら拭っても決して止まらない、いや止められなかった。
それもそうだ。流れる理由も分からないというのに、止められるはずがない。
そして涙が流れれば流れるほど、俺の胸はわけのわからない感情と空虚感に締め付けられた。
俺には、ほとんど理解出来なかった。
自身の涙も。そこにくすぶる感情も。
ただ一つ理解できたのは、俺が涙を流し続けているという事実だけ。
俺にはどうすることもできなかった。
─────────
不可思議な事象が起きてから、一夜が明けた。
今ではすっかり涙も止まり、感情も落ち着いている。
しかし、あれは一体何だったのだろうか?
昨夜の出来事に思いを巡らせながら、大学への道を歩いて行く。
いつもと同じ朝。いつもと同じ道。いつもと同じ家々。
だというのに、それが何故か懐かしく感じられた。
ドン。
体に軽い衝撃が走り、思わず身構える。
見れば、目の前には道路の角から出てきた女性の姿が。
ボーッとしていたせいか、全く気がつかなかった。
「す、すまん。怪我はないか?」
「ええ、大丈夫。そちらは?」
「ああ、大丈夫だ」
綺麗な金髪の外国人女性。
道が道だけに、同じ大学に通う留学生だろうか?
「すいません。講義があるので、これで」
「ああ、本当にすまん……」
髪を揺らし、歩いて行く彼女。
その後ろ姿には、どこか既視感があった。
だけど、どこで目にしたのかは全く覚えがなかった。
「全く、変なことばかり起きるな……」
誰に言うでもなく一人ごちた俺は、講義に遅れないように、その足を速めた。
多くの学生たちで賑わう食堂。
既にピークの時間は過ぎたものの、それでも人は多い。
その中で俺は、一人寂しく、きつねうどんをすすっていた。
というのも、度重なる奇妙な出来事に疲れ、友人たちと一緒に食いに行く気が起きなかったからだ。
あれから、講義中にも変な事が起こった。
先週やったばかりの簡単な内容を覚えていなかったのだ。
いくら記憶力の悪い俺とはいえ、こんなことは初めてで、どこか腑に落ちない。
しかも、それは一限目だけでなく、二限目でも起こったのだ。
「何か、長い間別の場所に居たみたいだな……。現代の浦島太郎ってか……」
そんな夢物語、あるわけないだろうと思いつつも、それを全否定出来ない自分もいた。
まさか、な……。
と、そこで向かいの席に二人の女性が座るのに気がついた。
「ねぇ、メリー知ってる? この近くで行方不明者が出たって話」
「それって、三十歳くらいの男性の話? それなら、単なる借金絡みの夜逃げだって聞いたけど」
ちらりと目をやれば、その内の一人は、朝見かけた女性であった。
しかし、昼食時に行方不明者の話とは、物騒だな……。
なんとなく彼女らの話に興味が湧いた俺は、その話に聞き耳を立てた。
「ちぇっ、知ってたのか。期待だけさせてみようと思ったのに……」
「ずいぶんと意地が悪いわね、蓮子。それにそれがもしそうだったとしても、場所がわからなきゃ見に行けないわよ」
「だから、期待させるだけってことよ」
「全く……」
二人の女性は楽しそうに談笑を続ける。
黒い帽子をかぶった快活な女性が笑い、金髪の女性がその様子に呆れながらも穏やかに答える。
どこにでも見られる、日常の光景だ。
「あーあ、最近は本当に良い場所がないなぁ。大本命だと思った博麗神社も何にもなかったし……」
「まぁ、そういうこともあるわよ。けど、耳寄りな情報を一つ。聞いた話だけど、結界の向こう側が見えそうな場所、見つかったわ」
「ホント? じゃ、今晩にでも行ってみる?」
「ええ、そうしましょ」
結界。会話の端から聞こえたその言葉が強く耳に残る。
普通に考えれば、そんなもの空想の産物だ。彼女らの話だって、どうせ漫画かなんかの話だろう。
だけど今の俺には、その言葉がとても大事なことのように思えた。
そう。それこそ、その言葉に込められた何かに惹かれたかのように……。
「その話、詳しく聞かせてくれないか?」
だからかも知れない。
気がつけば、彼女らに話しかけていたのは。
「ここよ」
そこは、いかにもという感じの古びた洋館。
確かにここなら、二人の言うような『結界』とやらがあるのかもしれない。
あの後、俺はオカルトサークル秘封倶楽部、宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンことメリーの二人から話を聞いた。
最初は俺に話すのを渋っていた二人だが、結界というものに興味があることを伝えると、快く話してくれた。
結界とは、何かと何かの境目に存在するものらしい。
例えば、あの世とこの世。夢と現。
そんな結界を暴くのが、彼女らの裏の顔。
何でも、彼女、メリーはその境目が見えるとか。
普段の俺なら、到底信じなかっただろうが、今日の俺は何故かそれをすんなりと受け入れられた。
「蓮子、今何時かしら?」
「んー、11時56分32秒」
「そう、12時まで後少しね」
そんなこんなで、すっかり興味の湧いた俺は、こうして二人に付いて来たわけだ。
メリーの情報が確かなら、12時ぴったりにこの洋館の前に何かが現れるらしい。
「で、結局何が見えるの?」
「さぁ? 人によって違うそうよ。ある人は亡くなった恋人を見たというし、ある人は会えなくなった友人の姿を見たという……。
ただ、その人にとって現在会うことが出来ない知り合いが見える、という点は共通してるわね」
知り合い……ねぇ。俺なら、誰が見えるんだろうか。
「そういえばさ、○○って物好きよね。いや、私たちが言うのもあれだけど」
蓮子がこちらに振り返り、話かけてくる。
「どういう意味だ?」
「だってさ、普通の人はこんなこと絶対に信じないでしょ。なのに、○○はわざわざ私たちに付いて来てる」
「単におもしろ半分でついて来てる可能性もあるぞ」
「その割には、真剣そうじゃない?」
「そっちもな」
「あはは。私たち、案外似たもの同士なのかもね」
笑いながら喋る蓮子。
「二人とも、はしゃぎ過ぎよ」
やや呆れた目でこちらを見るメリー。
「すまんすまん。で、時間は?」
「後、30秒。20。10」
俺の問いに、蓮子が空を見上げながら答える。
全く、星を見るだけで時間が分かるなんて反則だろ。
そんな俺の考えを知らず、彼女は時間を刻み続ける。
「9、8、7、6、5、4、3……」
迫る時間に鼓動が高鳴る。
俺は唾を飲み込み、その瞬間を待った。
「2、1、12時ジャスト……」
辺りを静寂が支配する。
「……」
目を凝らして洋館を見てみるも、何の変化も見えなかった。
「……ねぇ、メリー。何か見える?」
「いいえ、何も」
「「「……」」」
瞬間、三人の溜息が重なる。
「あーあ、無駄足かぁ……」
「ただのガセだったみたいね」
肩をすくめ、落ち込む蓮子。
口調こそ変わらないが、メリーもまた、少し落ち込んでいるようだった。
しかし、残念だ。
「うーん、せっかくだから見たかったなぁ……」
「○○! 言っておくけど、秘封倶楽部の活動は本当なんだからね! いつもは本当に結界を……」
「わかったわかった。じゃあ、それが見られるまでお前らに付き合わせてもらうよ」
「もちろん! それじゃあ、○○の歓迎も兼ねて、今から飲みに行きましょう! メリーもいいわよね?」
「ええ」
さっきまでの落ち込みもどこへやら、すっかり元気になった蓮子。
もう、こんなところに未練はないとばかりに、さっさと歩いて行く。
「ほら、二人とも行きましょう!」
そんな彼女を見て、俺とメリーの二人は顔を見合せて苦笑する。
「あんな相方と私だけれど、よろしくね」
「こちらこそ」
「ほらほら、早く!」
蓮子に急かされ、歩き始める。
そこで、ふと後ろに気配を感じ振り返る。
そこに居たのは、一匹の黒猫。しかしその視線が重なったと思った瞬間、猫の姿は消えていた。
「○○、どうしたの?」
「いや、何でもない」
メリーの問いに答えながら、前に向き直る。
本当に今日は不思議な事が起こるものだ。
心の内で溜息を吐きつつ、俺はメリーに合わせてその歩を進めた。
───────────
○○が外の世界へと帰ってから一週間が過ぎた。
あれ以来、紫様は塞ぎこんだままだ。
いや、無論傍目には、いつもと変わらないように見える。
ただ、いつも側にいる私には、明らかに無理をしていることがわかる。
私も、○○と会えなくなることは寂しい。
あれでそれなりに、親愛を感じていたのだ。
それは橙も同じのようで、○○の居た客室に何度も足を運んでいるのを見かけた。最も、紫様の手前では、あからさまに悲しむようなことはしなかったが。
○○と会えないことも、主が悲しんでいることも、とてもつらい。
けれど、それ以上にもどかしいのが、紫様が完全に納得して彼を帰したのではないとわかっているというのに、そのことを紫様に告げることが出来ないことだ。
私は自分の不甲斐無さを情けなく思う。
「で、今日はここってわけか」
「そ。結構雰囲気出てると思わない?」
時刻は既に11時過ぎ。
場所は郊外のとある丘である。
辺鄙な場所のせいか、辺りを照らすのは夜空の光だけだ。
今回の探索は、俺が秘封倶楽部の二人と出会ってから、四回目の探索にあたる。
少なくとも、俺が二人について行ってからは何の成果も上がっていないらしい。
というわけで、今回の探索にかける俺達、とりわけ蓮子の意気込みはかなりのものである。
「ああ、全くだ。ホント、何ていうか“出そう”だよな」
この地域一帯は開発が進んでおり、近くにはプレハブやショベルカーといったものが置かれてある。
当然、この時間帯になれば人っ子一人いない。
なまじ人工物が中途半端にあるがゆえに、それがかえって不気味さを増していた。
「確かに。私でもなんとなく感じるからね。メリー、そこらへんはどうなの?」
「それだけここが向こうと近いってことよ。二人にも感じられるってことは、これはひょっとするとひょっとするかも……」
蓮子の疑問に、すかさずメリーが補足を入れる。
短い付き合いだが、それでも二人の息の良さには関心する。
「聞いた話が事実なら、丘の頂上が怪しいわ」
「んじゃ、早いとこ行きましょ」
言うや否や、早速歩き出す蓮子。
俺はそれを見送りつつも、頭の中で何かが気にかかった。
改めて、辺りを見返す。
誰が手入れするでもなく、伸びっぱなしになった雑草。
周りの木々は伐採され、いずれ残った森もなくなってしまうだろう。
それは丘の頂上に立つ大木、といっても既に切り株となっているが、それも例外ではない。
俺はそれを見て、心のどこかが痛むのを感じた。
今までなら、そんなもの見て見ぬふりをしていたというのに、一体何故?
そしてさらに不思議なのは、目の前の光景をどこかで見た気がすることだ。
似たような既視感を最近幾つも感じた。
メリーを最初に見た時もそうだった。
さらに言えば、前回の探索で行った、巫女さんが行方不明になった神社に行ったときもそうだった。
全てに共通することは一つ。
どこで見たか、思い出せないことだ。
いや、正確には喉の奥まで出かかっているのに、それが出てこない。
どうにも、もどかしい。
「○○、早く行きましょう」
メリーの言葉に、ハッとなり、現実に戻る。
「どこか具合でも悪いの?」
「……いや、大丈夫だ」
何かあれば、思い出すだろう。
今の俺に出来ることは、そう気楽に考えることだけだった。
メリーと一緒に丘を登り、先に行っていた蓮子と合流する。
「ふーん、結構眺め良いわね」
蓮子に言われ、後ろを振り返る。
まず広がるのは、先ほど登って来た丘陵。
その下には、大量に置かれた工事の資材。
さらに進めば、消えていく木々。そのはるか向こうの山々には、多くの団地が見える。
星と月の光に照らされたそれらは、確かに綺麗だった。
だが、何か物足りない。あのときはもっと……。
あのとき? あのときっていつだ?
「メリー、何か見え……って、ボーっとしてどうしたの?」
「……」
視点を遠くに向けたまま、黙るメリー。
「メリー! メリーってば!」
「……はっ。ご、ごめんなさい」
蓮子の二度目の言葉に、やっと反応する。
こちらへ振り返った彼女の顔には、喜びと驚きが入り混じっていた。
「メリー……もしかして、見えたのか?」
頭の中に浮かびあがった疑問を口にする。
それに対し、メリーは静かにコクンとうなずいた。
「ホ、ホント!? で、何が見えたの!?」
メリーに詰め寄り、子供のようにはしゃぐ蓮子。
対照的に、メリーは落ち着いたものだ。
「その……蓮子が期待するようなものじゃないわよ。すごい景色ではあるけど」
「それでもいいから!」
最近の探索で成果が出てなかったからか、蓮子の喜びようは大したものである。
それに若干引きつつも、メリーは語りだした。
「まず、目にしたのは青空だったわ。それも抜けるようなとびきりの」
目を瞑り、感慨にふけるメリー。どうやら相当良い景色だったらしい。
「次に感じたのは木の葉が風に揺らぐ音。少し視線を上げれば、そこにはたくさんの枝があったわ。そう、ちょうどそこから大きな木が生えているみたいにね」
そう言い、大きな切り株を指差す。
不思議なことだが、その木のかつての姿がありありと頭の中に浮かんだ。
「もう一度、前に視線をやれば、丘の向こうに色んな花が咲いている草原があったわね」
……知ってる。だって、俺はそこをあいつと一緒に駆けたのだから。
「さらに向こうには、たくさんの木々があったわ。ちょうど、工事で伐採されている辺りにね」
……それも知ってる。だって、それに心惹かれたのだから。
「その向こうの山々には、当然団地何かなくて、ただただ多くの山々が悠然とそびえ立っていたわ」
ああ、知ってる。それが幻想になったものだとあのとき理解した。
「要するに……、メリーは夜なのに昼間の、しかも有り得ない景色を見たということ?」
「そうね。まぁ、過去と現在の境界か、現実と幻想の境界ってとこね」
そうだ、知ってる。いや、最初から知ってたんだ。俺が忘れていただけで。
「ふぅん。けど、今回は久しぶりの収穫もあったし、良かった良かった」
藍は、料理に洗濯、掃除とあの家のお母さんって呼び名がふさわしかった。
橙は人懐こくて、何にでも興味津々で、楽しいやつだった。
紫はいっつも何考えてるか分からなくて、けど笑顔が誰よりも素敵で、俺はそんなとこが好きだった。
今まで感じていた不可解な既視感や事象が全て一本の線でつながった。
同時に、紫の最後の顔を思い出す。
見たこともないほど悲しく、でも絶対に揺るがない決意を秘めた、そんな顔。
きっと、彼女は全部ふりだしに戻そうとしたんだ。
俺の記憶を消し、元の時間に帰すことで……。
ぐらりと視界が揺らいだように感じる。
もう、取り返しはつかない。
俺の選択は遅すぎて、そのせいで紫をあれほど苦しめた。
俺が紫と会わなければ……。俺が紫に恐怖を感じたままだったら……。俺が紫を好きにならなければ……。俺が帰りたいなんて思わなければ……。
後悔が頭の中を占める。
けれど、都合の良い『もし』を考えたところで、どうにもならない。
会いたい。彼女に会いたい。
でも、今更何も出来ないのだ。それにもう一度会えるとしても、俺にはその資格があるとは思えない。
会いたい。会いたくない。
二つの思いがぐるぐる回る。
でも、回るだけ。答えなんて出ない。出るはずもない。
気がつけば、足の力が抜け、膝で立っていた。
力なく自らの肩を自らの手で抱き、縮こまる。
逃げたい。どこへでもいいから。
「ま、○○!? どうしたの!?」
「ちょっと、大丈夫?」
何かが聞こえる。でも、よく聞こえない。
「メリー、ど、どうしよう……?」
「とにかく、落ち着かせないと……」
会いたいけど、会いたくない。
選びたいけど、選べない。
逃げたいけど、逃げられない。
俺は無力だ。最初から最後まで。
その事実が、今の俺には重すぎた。
──────────
見慣れた陽光に目を覚まし、ゆっくりと体を起こす。
夢を、見ていたような気がする。
私が居て、藍が居て、橙が居て、そして彼が居る。
本当に、小さな小さな変化。
それが元に戻っただけで、私の心はどうしようもなくかき乱される。
私は今でも彼のことを……。
いけない、これ以上考えては。
思考を停止し、踏みとどまる。
きっと、この思いを認めてしまえば、私の心は壊れてしまう。
だけど、それを認めたい自分も居る。
それを認めなければ、彼の気持ちを裏切るような気がするからだ。
いや、既に裏切っているのだ。この仮定には意味がない。
妖怪にとって、精神は重要なものである。
それが分かっていながら、私はこの思いを素直に捨てられないでいた。
全てが終わったことである、と自身を無理やり納得させながらも。
何が大妖怪だ。何が妖怪の賢者だ。
今の私はこんなにも無力で、何一つ自分で決められないじゃないか。
「……ホント、これじゃただの女の子じゃない……」
自嘲気味に放つ言葉が天井に吸い込まれてゆく。
私は膝を抱え、その反響を黙って聞いていた。
「ねぇ、メリー。今日も○○と連絡つかなかった?」
「ええ、これで一週間。本当にどうしたのかしら?」
蓮子と二人、大学の構内を歩きながら話す。
一週間前の探索の後から、○○とは連絡がつかない。
あの時、かなり様子がおかしかったようだが、原因がわからない私たちにはどうしようもなく、○○の大丈夫という言葉に従う他なかった。
せめて、彼の住所が分かれば、彼に詳しい話を聞けるのだが……。
溜息を吐きながら、更にその歩を進める。
そんなとき、前を歩く二人組の男たちの会話が耳に入る。
「そういや、○○って最近見ないよな」
「そうだな。メールも返信がないし。旅行にでも行ってんじゃないの?」
「かーっ、あいつが出てこないせいで、レポート見せてもらえないじゃねぇか」
「ははっ、だな。ま、今週末でもあいつの家に様子見にいくか」
それを黙って見つめる私と蓮子。
「ねぇ、メリー。今のって……」
蓮子の言葉を最後まで聞く前に、私は彼らの肩を叩き、話しかけていた。
「今の話、詳しく聞かせてくれない?」
バシャリ。
冷たい水で顔を洗う。
中途半端に火照った肌には、その冷たさが少し心地良かった。
ふと、鏡を覗き込む。
案の定、そこに映る顔はひどく、死んだ魚のような目をしていた。
タオルで顔を拭いた後、よろよろの足で洗面台を後にし、冷蔵庫の中を漁り始める。
こんな最悪な精神状態でも、やっぱり腹は減るものらしい。
全く、食い意地だけは張ってるな……。
とりあえず、空きっ腹に牛乳を流し込んだところで、一息つく。
「ふぅ……」
少しだけ気分の落ち着いた俺は、ベッドに腰掛け、一週間前のことを改めて思い返す。
あの日、何とか精神を持ち直した俺は、逃げるようにして家に帰ってきた。
しかしあれ以来、一歩も外には出ていない。
友人達や秘封倶楽部の二人からは、心配するメールが来ているようだが、目を通す気にはなれなかった。
やっぱり、俺は自分勝手な人間だった。
向こうに居れば、こっちに帰りたい。
こっちに居れば、向こうに帰りたい。
挙句の果てに、紫を傷つけた。
もう、何も考えたくない。
ベッドに寝転がり、目を閉じて、意識を手放そうとする。
ピンポーン。
呼び鈴の音が聞こえる。
正直、誰にも会いたくない。
しばらく待てば、諦めて帰るだろう。
ピンポーン。ピンポンピンポーン。
早く帰ってくれ。俺は一人で居たいんだ。
……。
ようやく、音が鳴り止んだ。
これでいい。これでいいんだ。
うつらうつらと意識の境を漂う。
このまま夢も何も見ない、深い眠りにつきたい。
ガチャリ。
そんなときだった。玄関の開く音と共に、聞き知った声が聞こえてきたのは。
「○○ー、入るよー……」
「おじゃましまーす……」
蓮子とメリーの二人だ。
やがて、二人の足音は俺の側へと近付いてきた。
「○○! 一週間も出てこないじゃない! 一体どうしたの!?」
部屋へ入るなり、蓮子は大声でがなりたてた。
俺は面倒くさそうに体を起こし、二人に問う。
「……どうやって入って来たんだ?」
「ここの大家さんが鍵を貸してくれたのよ」
蓮子に次いで部屋に入りながら、メリーが言う。
ああ、あの人なら、そんなお節介もするかもしれない。
自分のことだというのに、何故か人事のように思えた。
「……悪いが、帰ってくれ」
「ちょっと、「蓮子」」
蓮子を静止し、メリーが前へ出る。アイコンタクトを取りながら。
「せめて、理由だけでも教えてくれない? あの時のあなたは、それこそ普通じゃなかったから」
腰を下ろし、こちらを見つめてくる。
紫とどこか似ていて、けれど、全然違う彼女。
でも、その瞳に宿る強さは同じだった。
彼女のそんなところも好きだった。
この一週間で、涙なんて枯れ尽くしたと思っていたのに、頬を一筋の滴が流れる。
「ちょっと、本当にどうしたの? やっぱり、具合でも悪いの」
さっきの勢いはどこへやら、蓮子が心配そうにこちらを覗きこむ。
「何でもない! 早く帰ってくれ!」
腕を振り回し、大声で言う。
まるで、二人に当たり散らしてるみたいだ。
本当に情けない。
「一応、私たちも○○のことが心配で……」
「いいから、ほっといてくれ!」
そこまで言ったとき、不意に頭に衝撃が走り、視界が横にぶれる。
じんわりとした痛みが頬に広がる。
「め、メリー……」
前を振り返れば、腕を振りぬいたメリーの姿が。
「いいから、落ち着きなさい」
冷静な声でぴしゃりとつぶやく。
ああ、平手打ちされたのか。
今の俺なら、それくらいされてもおかしくない。
だって、最低な奴だから。
「今のあなたが何で悩んでいるのか知らないけれど、あなたはそれでいいの? こんなところに引きこもって、逃げてばっかりで」
彼女の言葉が、刃となって胸に突き刺さる。
本当に痛いところを突いてくる。
それに対し、俺が何かを言えようはずもない。
「言えない悩みなら、言わなくてもいい。でも、ちょっとぐらいは私たちを頼っても罰は当たらないわ」
「そうだよ。出来ることなら手伝うからさ」
メリーは更にその視線に強い意志を宿らせて言う。
「最後に一つ。逃げないで、前を向いて」
そこまで言って満足したのか、メリーはそそくさと玄関の方へと向かって行った。
「え、ちょ、メリー!? ああ、もう! じゃあね、○○。何かあったら相談しなさいよ」
その後ろから蓮子が追いかける。
本当に元気のある奴らだ。
こうして、来たときと同じように唐突に二人は帰って行った。
溜息を一つ吐き、もう一度ベッドにもたれかかる。
「……逃げないで、か」
ぶたれたおかげで、少しだけ現状を理解できた。
少なくとも、このままじゃいけないってことは……。
こんなとき、どうしたらいいんだろう。
もし、俺が物語の主人公みたいな奴だったら、どっちも手に入れられるんだろうか?
どっちかを捨てなくていいんだろうか?
こんな風に悩まなくてすむんだろうか?
考えても、無駄なことだ。
だって、都合の良い『もし』なんてないのだから。
なら、俺の取るべき行動は何か。
結論から言えば二つに一つ、こっちを選ぶか、あっちを選ぶか。
今まで会ってきた人たちの顔が思い浮かぶ。
俺を育ててくれた両親、いつも馬鹿やってきた悪友たち、秘封倶楽部の二人。
藍に橙、霊夢、魔理沙、霖之助。
他にもたくさんの人と出会ってきた。
けれど、一番最後に、一番強く思い浮かんだのは、紫の顔だった。
悪戯っ子のような子供っぽい笑み。
妖艶な大人の笑み。
驚いた顔。怒った顔。呆れた顔。泣き顔。
みんな、みんな好きだった。
いや、今でも好きだ。
もう一度、彼女に会いたい。
会って、謝りたい。好きだって気持ちをもっと伝えたい。
会いたい。会いたい。会いたい。
一つの感情がどんどん膨れ上がり、俺の心を突き破りそうになる。
ああ、そうだ。
やっぱり、俺は馬鹿な奴だ。
今さら、紫のことを捨てられるわけないじゃないか。忘れられるわけないじゃないか。
彼女に会って、気取ったセリフの一つでも言ってやりたい。
俺の思いを乗せた一輪の花を、花言葉と共にプレゼントしたい。
彼女の手を取りたい。
その頬に触れたい。
心が内側から軋みをあげる。
それは本当に痛くて、でも何よりも愛おしい感情だった。
今一度、自分に問おう。
俺がしたいことは何か? すべきことは何か?
決まっている。
紫に会うことだ。
今、その思いは確かに俺の中で強く芽吹いた。
と同時に、かつての藍の言葉が頭の中で反響する。
何かを選ぶということは、選ばなかった何かを捨てること。
それでも、構わない。
確かに大事なものを捨てることになるだろう。
捨ててしまえば、それは二度と元に戻らないだろう。
でも、会いたい。
会って、色んなことを話そう。色んなところへ出かけよう。
俺にとって、彼女もまた同じくらい、いやそれ以上に大事な存在だから。
ベッドから起き上がり、携帯電話を手に取る。
会うためには、きっと俺一人の力じゃ無理だ。
それに、彼女らにも謝らなきゃならない。
俺はメリーと蓮子の二人に連絡を取った。
───────────
「まず、今までごめん」
テーブルに手をつけ、頭を下げて謝る。
場所は大学近くの喫茶店。既にお昼過ぎなので、客はまばらだ。
「で、もう大丈夫なの?」
蓮子が紅茶の入ったカップを手に持ちながら言う。
「ああ、迷惑かけてすまん」
「こっちもごめんなさい。昨日はあんなことして……」
伏し目がちに謝るメリー。
そんな彼女を見て、一つの所思が頭を巡る。
やはり、彼女は紫に
似ている。
とはいえ、性格や仕種は全然違うから、あくまで他人の空似なんだろう。
横に逸れた思考を修正しつつ、言葉を続ける。
「いや、俺は気にしてない。おかげで目が覚めた」
それが俺の本心。メリーが居なかったら、きっと立ち直れなかった。
紅茶に口をつけたあと、蓮子が口を開く。
「で、話してくれるんでしょ、全部?」
「ああ。ただ、二人には信じられない話かもしれない。それでもいいか?」
「でも、本当の話なんでしょう?」
メリーの問いに黙ってうなずく。
そして俺は話し始める。
幻想郷に迷い込んだことから始まり、昨日まで俺が何に悩んでいたか。
その全てを……。
二人はそれを黙って聞いていた。
「と、ここまでが全部だ」
「……何と言うか、灯台下暗しとはよく言ったものね」
「全くね」
二人は、普段通りの態度を崩さなかった。
「その、驚かないのか?」
「十分驚いているわ。で、私と蓮子がいつもやっていることは覚えてる?」
「……境界を暴くこと?」
「そう。だから、それなりの非日常は体験してるってわけ。最も、こんなに大したものじゃないのだけれど」
落ち着いた声でメリーが告げる。
なるほど、確かにそうかもしれない。
そんな納得をしつつ、俺は再び口を開いた。
「それで、二人に頼みがあるんだ……」
「もしかして、幻想郷に行くための手伝いをしろってこと?」
こんなとき、蓮子の勘は鋭い。
俺はそれに対し、黙ってうなずいた。
二人は顔を見合わせ、いつものようにアイコンタクトを取る。
やがて、メリーが落ち着いた声で、先に言葉を発する。
「私は構わないわ。だって、○○があんなに悩んで出した答えでしょう? 私はその意思を尊重したい」
「私も手伝うわ。けど、私たちだって○○が居なくなるのは寂しいの。そのことは覚えておいてね」
それに続いて、蓮子がウインクをしながら言う。
「……ありがとう」
俺にとって、二人の厚意は涙が出るほど嬉しかった。
俺は、再び二人に頭を下げた。
「それで、何か帰るあてはあるの? 何にも手がかりが無いんじゃ、メリーでも向こうへの帰り道を視ることは難しいわよ」
「ああ。多分、こっち側にある博麗神社を探せばいい。あそこは幻想郷であって、幻想郷じゃない場所だ。そこからなら、なんとかなると思う」
というか、それ以外に思い当たる節はなかった。
蓮子とメリーは俺の言葉に、目を見開いた。
「ねぇ、メリー。博麗神社って、もしかしてあの……?」
「十中八九そうじゃないかしら」
「知ってるのか?」
俺の問いに二人はどもる。どうも歯切れが悪い。
少し経って、メリーが喋り始める。
「その……ね、前に行ったのよ。博麗神社に。でも、そこでは何の収穫もなかったの……」
「ええ、私もメリーも結構期待してたんだけどね……」
「そうか。でも、今行けば、何かあるかもしれないだろう?」
何があっても引く気はない。
会う、と決めたんだ。
取れる手段は全部取るさ。
「うーん、どうするメリー?」
「行くだけ行ってみましょう。境界ってのは 時が経てば移ろうものだし、それこそ今度は何かが見えるかもしれない。こればっかりは行かないとわからないわ」
「頼む、案内してくれ」
「……じゃ、○○の準備が出来次第ってことで。色々整理したりするんでしょう?」
「ああ、準備が出来たら、こっちから連絡する」
その後、さらに彼女らと会話を続けた。
これまでの探索の思い出とか、幻想郷の話とか。
やがて、夕方になったところで、二人に別れの挨拶をし、店を後にした。
ホントに二人には最後まで世話になりっぱなしだ。
だけど、俺が二人のために出来ることなんてきっとない。
だからこそ、二人には精一杯の感謝をしたい。
そんなことを考えているうちに、家に着いた。
玄関の鍵を開け、中へと入る。
鼻をつく、馴染み深い生活臭。
もうここには帰ってこないだろうことを考えると、感慨深いものである。
椅子に腰掛け、深く溜息をつく。
荷物の整理は、後でやるとして……。
机に向かい、便箋を取り出す。
俺はこっちにあるものを全て捨てる。
だけど、別れの挨拶ぐらいは書き残しておきたい。
その決心が鈍らないうちに……。
ペンを手に取り、書き出す。
まずは友人達へ。仲の良かった奴らに一人ずつ。
次にメリーと蓮子。二人が居なければ、俺は立ち直れなかった。その感謝を言葉に。まぁ、この二人には向こうへ戻る直前にこれを渡すだろうが。
最後に両親へ。俺は最低の親不孝者だ。今までだって、碌に親孝行もしてこなかった。
だから、生まれてこのかた一度も本気で言ったことないけど、最後くらいは、ありがとう、って言いたい。
それらを最後まで書き終えたとき、視界の潤みがそれまで以上に強くなる。
俺って、最近泣いてばっかだ。こんなに涙脆かったっけ……?
正直、色んな思いがゴチャゴチャになって、訳が分からなかった。
こんな最低の俺は、きっと閻魔に裁かれて地獄行きだろう。
でも、前に進むのは止めない。止めてなんかやるもんか。
俺は紫に会いたい。会って、もう一度伝えるんだ。俺の思いを。
その日、俺は涙が枯れるまで泣き続けた。
暖かな風が頬を撫でる。春のうららかな日差しは、夏のきついそれへと変わろうとしている。
「たまにはもっといいお茶が飲みたいわ、霊夢」
「あんたにあげるのは、それで十分よ」
縁側で隣に座る紫に目をやる。
いつものように、胡散臭い笑みを顔に貼り付け、飄々と佇む。
そう、いつも通りだ。少なくとも外見上は。
それでも、内に隠れた感情は隠し切れていない。
どこか寂しそうで、悲しみに満ちた感情。
ここ最近の紫、正確には彼が居なくなってからの紫は、腑抜けとしか言いようがない。
勿論、外見は取り繕っているものの、近しい者ならすぐに分かるだろう。
「紫」
「何?」
「愚痴ぐらいなら、聞いてあげてもいいわよ」
正直、彼と紫の間に何があったかは知らない。
少なくとも、私の他の知り合いでそのことを知っている者はいない。
それでも、その愚痴ぐらいは聞いて、いつもの紫に少しでも早く戻れるように手伝っても良いだろう。
これもある意味、異変と言えるんだから。
「全部お見通しってわけ?」
「私は何も知らないわ。それで話すの? 話さないの?」
紫は溜息を吐き、遠くを見つめる。
やがて、観念したような、諦めの混じった声で話し始めた。
「そうね、哀れな恋の顛末でも話そうかしら……」
目をつぶり、語り始める。
私はそれを黙って聞いていた。
「ここが博麗神社よ」
時刻は昼過ぎ。メリーの、前は夜に行って駄目だったから昼間なら……、の言葉に従い、俺たちはこの時刻にやって来た。
蓮子の声に反応し、辺りを見回す。
どことなく、向こうの博麗神社と似ている気がする。
ただ、鳥居は汚れ、建物は今すぐにでも崩れそうである。
最も大きな違いは、向こうが人妖問わず集まり賑わっていたのに対し、こちらの神社には人っ子一人おらず閑散としていることだ。
「で、来たはいいが、どうすればいいんだろう?」
「メリー、何か見える?」
「いいえ、何も。でも、不安定ではあるわね。これは前にも感じたことだけど」
メリーの言葉に振り返る。
「不安定? 要するに、つながりやすいってことか?」
「そんなところね。とりあえず、三人固まって周りを探索しましょう。はぐれると、何が起こるかわからないから」
「オッケー。じゃ、○○のために一肌脱ぎますか!」
そんなこんなで、探索が始まった。
やはり、こうして改めて見ると、ここが博麗神社であることを思い知らされる。
周りの景色や、木々の位置もそう。全く同じではないが、それでもどこか似ている。
霊夢は元気だろうか? やっぱり、魔理沙や萃香なんかが集まって、宴会が開かれてるんだろうか?
藍は家事に追われてるんだろうか? 橙は無邪気に遊んでるんだろうか? そして、紫は……。
いや、今は考えるのはよそう。
まずは、向こうへ帰らなくては。
「それで、何を見つければいいの?」
「そうね。結界の切れ目や緩んだ場所なんかがあれば、そこから帰れるんだけれど……。とりあえず、二人は『普通』じゃない、って感じる場所を探して」
「わかった」
普通ではない場所、か。
思い返せ。幻想郷のことを。紫との会話を。藍との会話を。霊夢との会話を。
何でもいい。手がかりになるものが何かあれば……。
「ふぅ、特にめぼしいものはないわね」
ぼろぼろの鳥居にもたれかけ、私たちは溜息をこぼす。
既に日は落ちかけ、境内は赤色に照らされており、イルミネーションのような色鮮やかな美しさをかもし出している。
何時間も探索したせいか、蓮子の顔には疲れが見えている。無論、私も疲れているのだが。
○○に至っては、知恵熱でも出そうなしかめ面でうんうん唸っている。
ふと、蓮子が口を開く。
「そういえばさ、○○がそんなに会いたがってる紫って人の話、あんまり聞いてないね」
確かに、○○が彼女のことがどれだけ好きかは聞いたが、その人となり自体はあまり聞いていない気がする。
「え、紫のこと? うーん、そうだな。まず、とびきりの美人だ」
「いきなり惚気んじゃないわよ。こっちは真面目に聞いてんの」
「蓮子から振ったんじゃないの。で、性格とかは?」
「まぁ、一言で言えば気まぐれだな。急に出かけるぞ、なんて言って俺を無理矢理連れてくし、いきなり月見酒に誘ったりするし。だけど……」
「だけど?」
「誰よりも優しい奴だよ」
一片の曇りのない笑顔でそう言った。
彼の顔を見るだけで、彼が彼女のことをどれだけ思っているかが理解出来た。
それぐらい、素敵な顔だった。私は柄にもなく、それに見惚れていた。
「結局、惚気てるじゃないの。全く……」
「すまんすまん。でも、しょうがないだろ。それだけ好きなんだから」
「はいはい、ごちそうさま」
羨ましいな。素直にそう思う。
彼のこんなにも純粋な思いを捧げられる彼女はどうしようもない幸せ者だろう。
……彼を会わせてあげたい。
私に出来ることなんて、ただ『視る』ことぐらいだ。
それでも、彼のその思いに答えてあげたかった。
もし、神様みたいな人がいるなら、彼の願いを叶えてください。
それが、私の願いです。
気がつけば私は、目をつぶり心の内で祈りを捧げていた。
「……嘘……だろ?」
「ちょっと、メリー!」
蓮子の声に目を開く。その光景に、私は言葉を発するのを忘れた。
目の前に広がるのは、紅に染まった境内。
だが、その向こうに広がるのは崩れ落ちそうな神社などではなく、綺麗に手入れされた神社だった。
思わず、後ろを振り仰ぐ。そこにあったのは、ぼろぼろの鳥居。
境内を境に、向こうと繋がった?
いや、確かに頼んだけれど……。
ご都合主義というか、奇跡の大安売りというか……。
「め、メリー、ど、どうしよう!?」
○○の悲痛な叫びに我に返る。
「○○! 閉じる前に向こうへ!」
「あ、ああ! と、これ、二人への手紙!」
慌てて、私と蓮子の二人に、それぞれ封筒を渡す。
そして鞄を引っつかみ、走り出す。
そして、後一歩というところで、こちらへ振り返る。
「蓮子、メリー! 二人ともありがとう! じゃあな!」
「風邪ひくんじゃないわよ! じゃあね、○○!」
「元気でね、○○!」
そして、彼はその境をくぐる。
その瞬間、向こう側の景色は、文字通り閉じるようにして見えなくなった。
「行っちゃった……か」
「そうね。それにしても、案外湿っぽくならなかったわね。ま、その方が私達らしいか」
私のつぶやきに、蓮子が答える。
「せっかくだから、○○が無事に帰れた記念に飲みに行かない?」
「蓮子、○○と会ったばかりのときもそんなこと言ってなかった?」
「いいじゃない、楽しいんだから」
「……そうね、行きましょうか」
「それじゃあ、早速行きましょう」
言うや否や、蓮子は階段へ向けて歩き出す。
ふと、振り返り境内を見渡す。
そこにあるのは、ただの古びた神社だけである。
「メリー、早く行きましょう!」
「ちょっと、待って。すぐに行くから」
さっきのは、一体何が起きたのかしら?
ただの奇跡? それとも、人為的なもの? だとしたら、それを引き起こしたのは……。
「まさか……ね」
一人ごち、蓮子の待つ方へ向かう。
落ちかける夕日が、どこか眩しかった。
「馬鹿ね、あんたも彼も」
彼女、霊夢の第一声はそれだった。
「……そうね。両方がもう少し聡かったら、こんな結末にはならなかったでしょうね。まぁ、『もし』なんてないけれど」
投げやりな口調で言う。
私にとっては、もう終わったことだ。
そう、全部終わったんだ。
そんな私の横で、霊夢は言葉を続ける。
「そんな風に考えるから馬鹿なのよ」
「だったら、どうすれば良かったのよ!」
気づけば、私は立ち上がり、声を荒げていた。
「私は彼と一緒に居たかった! でも、彼を縛ることなんかしたくない! なら、最初から何もかもがなかったようにするしかないじゃない!」
心の奥底に眠っていたものが、全部吐き出される。
「私は! 彼が好きだった! 彼に幸せになって欲しかった! だから……だから……!」
次第に嗚咽が混じり、自分でも訳が分からなくなる。
苦しい。
痛い。
今まで味わったどんな苦痛よりも痛い。
身を切られるよりも、魔力に体を貫かれるよりも……。
私は力なく座り込む。
そんな私の手を霊夢が取る。
「紫、今でも彼のこと好きなんでしょう?」
「……!」
体が強張る。
それは考えないようにしてきたこと。
認めないようにしてきたこと。
だって、それを認めてしまったら、私は彼が居ないことに耐えられないから。
「女の子なんだから、もっと素直になりなさいよ」
「霊……夢……?」
「たまには、考えずに行動するのも良いもんよ。大丈夫、あんたにだって幸せになる権利ぐらいはあるんだから」
とびきりの笑顔でつぶやく。
その言葉で、私の中の何かが壊れた。
「いい……の?」
「ええ」
私は彼女に優しく抱きしめられていた。
彼女の温もりと気遣いが痛いほど感じられた。
私はその心地良い温かさに浸っていた。
しばらくそうしたところで、彼女に言葉をかける。
「……ありがとう、霊夢」
「どういたしまして」
私から離れ、しれっとしたいつもの態度で答える彼女。
でも、そこに冷たさなんてない。
「私、もう一度だけ伝えてみるわ。やっぱり、彼のことが好きだから」
「そう、なら、お邪魔虫は退散するわ」
「え?」
立ち上がり、奥へと引っ込んでいく。
何が起こったのだろう?
その疑問は視線を前に向けたときに明らかとなった。
庭先に佇む、見慣れた影。
「ただいま、紫」
「ただいま、紫」
幻想郷に帰ってきてすぐ、神社の庭先で紫と霊夢の姿が目に入った。
すぐに霊夢は俺の帰還に気づいたようで、気を利かしたのか中に入って行った。
紫は何も言葉を発しない。
ただ、呆然とこちらを見るだけだ。
俺はゆっくりと歩き出す。
正直、足はガチガチに緊張している。
帰ったら、色んなことを言おうと考えていた。
でも、出てきたのはさっきの言葉だけだった。
怖い。
紫に拒絶されることが。
でも、伝えなくちゃいけない。
そう、決めたんだから。
ふいに紫が立ち上がり、こちらへ走りこんでくる。
俺は半ば体当たりと言えるそれを、なんとか受け止めた。
「紫……」
「ごめんなさい。そして……会いたかった」
その一言で俺の緊張が消える。
何だ、紫も同じだったんじゃないか。
なら、言うことは一つだ。
俺は腕の中の紫を強く抱きしめる。
「俺の方こそ、ごめん。俺も会いたかった」
紫と視線が合う。
彼女の顔は、不安と喜びが入り混じっている。
きっと、今の俺もこんな顔してるんだろう。
だから、言うんだ。
彼女のためにも。俺のためにも。
「紫、愛してる」
「……私も。私も愛してる」
唇に柔らかいものが当たる。
それはどんな菓子よりも甘く、どんな果実よりも瑞々しかった。
唇を離し、言葉を続ける。
「俺は紫が大切だ。他のどんなものよりも……。だから、他の全部を捨てても、君を選ぶ」
「それがあなたの選択ね。なら、私も選ぶわ。あなたと共に生き、あなたの全てを受け入れることを」
もう一度、口づけを交わす。
金色の髪が鼻をくすぐり、甘い香りに心奪われそうになる。
そして、紫の強い鼓動が、すぐ目の前から聞こえてくる。
もう、絶対に離さない。離すもんか。
俺はさらに力を込め、彼女を抱きしめた。
「○○、ちょっと痛いわ」
「ごめん。でも、離れたくないんだ」
「私も」
見つめ合い、苦笑し合う。
「他にもたくさん紫に言いたい言葉がある。出かけたい場所がある。俺、紫とずっと一緒に居たい」
「私も、あなたに伝えたい思いがたくさんある。私たちのことを祝福してもらいたい人がたくさん居る。ずっと、あなたと一緒に居たい」
その言葉と共に、三度目の口づけを交わす。
それは今まで以上に深く、甘いものだった。
俺は彼女とこれから歩んでいく。
もう、止まらない。ゆっくりでもいいから、歩き続ける。
それが自分に課した約束だ。
俺は、この幸せな一瞬を精一杯噛み締めていた。
「はぁ、全く。人ん家の庭であんなにイチャついて……」
障子から顔を出し覗き込みながら、思わず大きな溜息を吐く。
さっきからずっとくっつき過ぎだ。
「ま、これでめでたしめでたし、ってとこかしら」
だけど、これから忙しくなる。
お祭り好きな幻想郷の住人たちのことだ。
どうせ、これにかこつけて神社で宴会をするに決まっている。
その準備と片づけのことを考えると憂鬱だった。
「あーあ、どこかに私を手伝ってくれる素敵な人はいないかしら……」
思わず漏れた愚痴を反芻しながら、目の前で行われている情事を眺める。
今日も幻想郷は、概ね平和だった。
──────────
初夏の日差しが枝葉の間から差し込む。
涼やかな風が通り抜け、肌を刺激する。
この分だと幻想郷の夏は心地よくて、すごしやすそうだ。
いや、彼女と一緒に居られること以上のものはないか。
ふと、俺の肩に体を預け、うたた寝をしている紫を見る。
その顔は本当にあどけなくて、幸せそうだった。
今、俺たちがもたれかけているのは、かつて八雲一家とともにピクニックに来た、あの丘に生えていた一際大きな木だ。
思えば、今の俺があるのはここのおかげかもしれない。
紫に初めて思いを伝えたのもここなら、俺の記憶と思いを取り戻してくれたのもここだ。
ま、後者は外の世界の、だけど。
しかし、静かだ。
聞こえるのは、風と葉のこすれ合う音と紫の鼓動だけ。
まるで、ここ数日の喧噪が嘘のよう。
俺が帰ってきてから、何日も宴会をしていた。
霊夢は愚痴をこぼしながらも、祝福してくれた。
藍は落ち着いた顔で、納まるべきところに納まったか、なんて言っていた。
橙はずっと泣きっぱなしで、おめでとうございます、って何度も言っていた。
魔理沙も萃香も幽々子さんも、皆が皆、俺達を祝福してくれた。
それが何よりも嬉しかった。
俺を、俺達二人を認めてくれるのが嬉しかった。
そういえば、藍が不思議がっていたな。
紫の力で過去に飛ばされたというのに、また元の時間軸に戻ってくるなんて奇跡だ、って。
まぁ、俺にとってそんなことは正直どうでもいい。
紫は何か知っているみたいな素振りだったが、特に聞く気にはならなかった。
だって、こうして紫にもう一度会えて、共に過ごせるってことに違いはないのだから。
そこまで考えて、隣の紫がもぞもぞと動くのに気がついた。
「……んっ、○○、おはよう」
「ああ、おはよう」
穏やかな笑みを見せる紫。
そんな彼女につられて、俺の頬もつい緩む。
「夢を……見ていたの」
「どんな夢?」
「私が居て、藍が居て、橙が居て、そしてあなたが居る。とびきり幸せな夢よ」
「そっか、なら良かった」
他愛のない会話。
でも、今の俺達にはそれさえも至福の一時だった。
「○○」
「何?」
「愛してるわ」
「俺もだよ。愛してる」
二人で体を預け合いながら、色んなことを話す。
そのどれもが新鮮で、本当に楽しかった。
こんな日々がずっと続けばいいと思う。
いや、きっと続くさ。
だって、こんなにも俺達はそれを願っているのだから。
思いは力になる。
俺はそれを信じてる。
風が再び通り抜ける。
俺は目をつぶりながら、その心地よさに身を任せていた。
14スレ目>>783、807、838、892
15スレ目>>31、135、212、336、610、677、719、751
うpろだ1087、1090,1092,1094、1111,1117、1124,1130,1131、1142,1145、1150、 1154、1155
───────────────────────────────────────────────────────────
最終更新:2010年05月22日 10:42