立っていた。

 いや、別に立っていること自体はおかしくはないのだ。
 ただ、あまりにも唐突だったので、こんな単純な事さえも、大きな出来事に感じられる。
 というのも、僕はついさっきまで床に就いていたはずだった。
 布団を被って、そのまま、明日を待つはずだったのだが……。何故か僕は、立っている。
 服もおかしい。肌には、いつも着るパジャマの感覚は伝わって来ず、外出用の私服を、これまた理由はわからずに着ていた。
 場所も変だ。ここは明らかに家の中ではない。ここが外の、広々とした空間だという事を、空気の流れが伝えてくれているのが証拠だ。

 耳を澄ます。風が、穏やかに流れている。時折、カサカサと音を立てるのは、樹木の葉っぱが擦れ合うものか。
 息を吸う。空気が澄んでいる。病院の診察室や、都会のビル街などの空気とは、比べ物にならないくらい綺麗だった。
 ということは、ここは山の方か? 仮にそうだとして、僕は何故こんな所にいるのか? そもそも、僕の住んでいるところは──
「誰かしら?」
 突然、前方から声がした。女の声で、凄く若い人だと思う。僕と同じくらいか、その前後といったところか。
 コツコツと、足音が近づいてくる。音からして、地面は結構堅い。石畳の上にでもいるのだろうか。
「私の神社に、何か用?」
 じ、神社? ……ああ、そうか。寝ぼけて僕は、家の近くの神社まで来てしまったのかもしれないな。
 しかし、着替えまでこなすとは。僕はある意味凄いやつだ。
 ……いや待て、僕の住む場所周辺には、神社なんてないぞ? まして、あんな大都市圏の中に、神社なんてほとんどないじゃないか。
「ねえ、何とか言いなさいよ」
「えっ、あ、いや、その……」
 ええい! 僕の脳はどうしてこうも重要な時に働いてくれないんだ! 知らない声の人に対しては、ちゃんとした態度で臨め!
「えーと……ここは、どこですか?」
 まずは場所を聞かねば。初対面の人に場所を聞くなんて滅多にしないけれど、僕は女の人に尋ねてみた。
「んー? ここは誰がどう見ても博麗神社よ、博麗神社。それと素敵なお賽銭箱はあっち。変な事聞くのね。外の人かしら?」
 博麗、神社……? 聞いた事がない。 他の地域の神社だろうか。いや、そんな神社、どこの県でも耳にしないぞ?
 本当に、僕は一体、どうしちゃったんだ? 夢にしては現実味があるし、現実にしては話が成り立たない。何なんだ、この感じ……。
「んもう! 質問に答えてくれないとわからないじゃない!」
 女の人も、少しずつイライラしてきているようだ。これ以上黙っていても仕方がない。とにかく、わからないことはこの人に聞くことにしよう。
「大体ねぇ、何よ、その目に付けてるものは……」
 女の人が、僕がしているアイマスクを指差した、ような気がした。このアイマスクは、僕が事故に遭った日に、母さんから貰ったものだ。
 
 そう、「あの」事故の日に。

『わー。きれいだなー』
 助手席の窓ガラスから、幾つにも連なる山々を、幼い頃の僕は見つめていた。まだ雪が残る山は輝いていて、まるで銀色のオブジェだ。
 その日は1月1日。父さんと、山の神社へ初詣に行く途中だった。母さんは、「正月くらいゆっくりしたい」とか言って、早起きを断った。
 山道のカーブを次々と曲がっていく。曲がるたびに、僕の顔が窓ガラスに張り付いたり、離れたりを繰り返すので、
 父さんがそれを見て笑っていた。僕も、窓に映っている父さんに笑顔を返す。
『ねえねえお父さん、あとどのくらいでつくの?』
『うーん、そうだなぁ。後5分もすれば──』
 突如、上の方でゴゴゴゴゴッと、かなり大きな音が聞こえた。瞬間、父さんの顔が凍りつく。
 落石だ! 車より少し前で、次々と大きな岩が降ってくる!!
『顔を伏せろ! ○○!!』
『え?』
 父さんが急ブレーキを掛ける。キィーッという甲高い音が、車中に、山中に響き渡る。だが、車は路面凍結もあってか、止まろうとしない。
 たった今生成された岩の山に、僕の家の車は、もの凄い音を立てて、突っ込んだ。
 時がゆっくり進む。ガッシャーンっと、フロントガラスが粉々に砕け散っていく。右には、下に顔を伏せ、苦しそうな表情をしている父さん。
 前に視線を戻すと、ガラスの破片が僕に向かっていた。伏せようとは思ったが、ショックで、考えることなど、無理に等しかった。

 僕は、目の前が真っ暗になった。

 幸い、神社の住職の人が気付いてくれたみたいで、僕達はすぐ、救急車で運ばれた。
 後日、病院の検査によると、父さんは奇跡的に両肩の擦り傷、打撲で済んだらしい。本当に運のいい人である。
 僕の方はというと、右の眼球にガラスの破片が突き刺さり、失明。左目にも粉になったガラスが入り、視力を失った。
 僕は永遠に、光を見ることができなくなった。
 医師の話によると、何かの拍子に視力が戻る可能性が僅かにある、いつ治るかは定かではないが、とりあえず様子を見よう、
 と、リハビリを勧めた。リハビリなんてしたことがないが、目の為だったら、やってやると思った。
 尖っている物が再び目に刺さるのを恐れて、母さんが僕にアイマスクをくれた。「してもしなくても見えないのに変わりはないけどね」と、
 そこまで僕の心配をしなかった。僕を信じているのか、それとも、自分の子にあまり関心がないのか……。

 失明してからの僕の生活は、まさに地獄だった。学校では障害者扱い。毎日のように通院、リハビリ。何故か、凄い苦い薬も飲まされた。
 今まで仲良しだった友達も、心配はしてくれていたが、迷惑を掛けたくなかったので、僕は自分から、友達ともあまり口を利かなかった。

 そして今、視力は一向に戻らない。回復しようともしない。「生涯」ずっと、この「障害」が付きまとうのだと、僕は確信した。

「聞・い・て・る・の!!!」
 大きな声で、我に返った。回想が過ぎたか。女の人の顔が目の前まで迫っている。感覚でわかる。
「あっ! す、すみません……」
「まったく、ホントに変な人なのね」
 女の人はふぅとため息をつくと、顔を引っ込めた。
「申し訳ない、ちょっと、目が見えないもので……」
「あー、あなた、鳥目なの? 鳥目だったらどっかの夜雀がヤツメウナギ売ってるから行くといいわ。ヤツメウナギは鳥目に効くのよ」
 雀? ウナギ? 何のことだかさっぱりだ。本当にこの人、僕が失明してるってことわかってないのか?
「いえ、そういうのじゃなくて……。完全に見えない、というか、そう、失明ですよ。しつめい」
「……え?」
 どうやら、僕の勘は当たった。この人は今まで、僕のことを目に謎のアクセサリーをつけた変人だとでも思い込んでいたことだろう。
 女の人は少し困惑した様子だ。目の不自由な人を見るのは初めてなのか。
「……う、嘘でしょ? ちょっと、とって御覧なさいよ、その目隠し」
 言われたとおりに、僕はアイマスクをはずした。この動作も、リハビリや、友達に馬鹿にされるため、もう何千回と繰り返されてきた。
 事故の恐怖のせいか、僕は目を半分も開けられない。まあ別に、開いても開かなくても同じなのだが。
「これ、何本かわかる?」
 出た。これだから目が見える人は困るんだ。僕が見えないって言ってるのに、指の本数なんてわかるわけがないじゃないか!
「全然。その前に挙げているのが右手なのか左手なのかもわからないです」
「あら、そう……」
 何だか残念そうな口調で、女の人は手を下ろした、と思う。長年目が見えないので、人の行動も、空気の流れや感覚でわかる。
 普通の人は、「じゃあこれは?」とか言って、僕に指を近づけるが、この人は一回でやめてしまった。僕はアイマスクを掛け直す。
「あのー、あなたは一体、誰なんです?」
 話題を急に変えてみる。そういえば、この人の名前をまだ聞いていなかった。まずないと思うけど、もし知り合いだったら……。
「ん、私は博麗 霊夢。ここの神社の巫女よ。あなたは?」
 全然、知らなかった。でも、知り合いじゃなくて逆にホッとした気がする。大抵知ってる奴らは、僕のことを馬鹿にして帰っていく。
 それが嫌だった。用もないのに人を貶しては去っていくという、奴らの行動が憎かった。
「えーと、僕は○○。××町に、と言ってもわからないか……」
「○○さんね。目が見えないんじゃ大変でしょう? 幻想郷からはそう簡単には出られないから、とりあえずうちで話を聞かせてくれる?」
 なんと。初対面にして、いや、知り合いの人でも、こんなにも優しくしてくれる人は初めてだ。うちに招待だって? ありがたいものだ。
 でも、「幻想郷」って、何だ……?
「あ、はい! では、よろしくおね──」
 握手を求めるため、手を差し伸べる僕。しかし、僕の手が10センチも伸びないうちに、ムニッと、変に柔らかい感触が指に伝わった。
「きゃっ!!」 「うわっ!?」
 反射的に手を引っ込める。何だ今のは!? 胸ではない、と思うが……。肌に触れたようだ……。まさか肩か!? 生肩か!!?
「ちょ、ちょっと! いきなり何よ! びっくりするじゃない!!」
「ご、ごごごめんなさい! 本当に、見えないのは事実なので……」
 これは焦った。こんなに距離が近かったなんて、僕としたことが……。僕は霊夢さんに、ペコペコと、二度三度謝った。
「もう……。まあ、いいわ。見えないんじゃ、仕方ないわよね」
 あれ? もう少し怒ると思ったが、霊夢さんは、すぐにさっきの口調に戻った。気遣ってるのか、単純なのか……。
「じゃ、ついてきて。こっち」
「え、あ、どっち……?」
 どぎまぎしながら、右手をうろうろさせる僕。すると、霊夢さんがそれをぎゅっと掴んだ。
「ほら、行きましょ」
「あ、どうも、ありがとうございます」
「堅苦しいわねぇ。敬語しか使えないの?」
「いや、そんなわけじゃ……」
「だったらいつまでもがちがちしない!」
「は、はぁ……」
 霊夢さんは真横に立ち、僕を前へと導いてくれた。
「はい、改めて、今あなたの目の前にあるのが博麗神社よ」
 木材の匂いがする。風の吹き具合からして、大きさは中ぐらいか。左手で辺りを探ると、木箱のようなものに触れた。
「それが素敵なお賽銭箱。お金持ってたら、是非入れて頂戴」
 今の台詞と同時に、手を強く握り締められた気がするが、気のせいか……。そういえば、服のポケットに何故か財布が入ってたな……。
 僕はそれを左手で取り出すと、片手で開けて、
「どれでもいいから貰っていいですよ。一種類だけなら」
 と、霊夢さんに中身を見せた。
「あら、じゃあ遠慮なく頂くわね」
 そういうと霊夢さんは、お札の入っているポケットからシュパッと、僕の千円札を一枚引き抜いたようだ。迷わず最高額を選ぶとは……。
「ありがとう」
 お金が手に入った霊夢さんは、嬉しそうだった。そんなに貧乏なのか、この神社……。
「さ、入って」
 靴を脱いで、社殿の中へと入る。僕があがるとすぐに、霊夢さんが手をつなぎなおしてくれた。
 少し進むと、足が止まった。客間に入ったらしい。
「ここに座って」
 霊夢さんは僕の手を離し、隣の部屋へ行った。僕は腰を降ろす。テーブルのようなものに触れた。ちゃぶ台だろうか。
 少しして霊夢さんが戻ってきて、僕と向かい合わせになる様に座った。
「私はあなたの前にいるわ」
「わかっています」
「お茶、持ってきたから飲んでね」
「ありがとうございます」
 コト、と湯呑みが置かれる。僕は右手で湯呑みを探し、それを手前に引き寄せた。
「あ……大丈夫? 飲める?」
 僕が湯呑みを必死で探していたのを察したのか、霊夢さんは心配して声を掛けた。
「あ、いえ、いつものことです。大丈夫です」
「そう。……それじゃあ、あなたが失明するまでのいきさつを話してくれるかしら」
 僕はそれから、霊夢さんに事故の日のことを話した。あの時見た山の景色から、アイマスクのきっかけまで、全部話した。
「へぇ……それはお気の毒様ね」
「ええ、もう随分前の話ですから、見えないのには慣れてしまいましたが……」
「ふーん」
 その後霊夢さんは、僕が何故いきなり神社の前に立っていたのかを説明してくれた。
 博麗神社は、「幻想郷」という世界の中にある。幻想郷は日本のどこかにあるが、
 「博麗大結界」という結界によって、外界とは隔離している。
 博麗神社は幻想郷と外界の丁度境目にあり、正確に言えば、博麗神社は外界の方に位置する。
 外界の人間が幻想郷入りすることはしばしばあるらしく、人はそれを「神隠し」と呼ぶとか呼ばないとか。
「つまり僕は、神隠しにあった、と?」
「うーん、まあ本当はもっとややこしいんだけど、そういう風に解釈してもらって構わないわ」
 要するに、よく意味が分からないという事である。 ……とにかく、ここは普通の世界ではないことは確かだと思う。
 幻想の郷、か……。とうとう僕は、地球にも見放されたか? いや、幻想郷も地球にあるか……。
「……ねぇ」
「はい?」
「私の顔、本当に見えないの?」
 突然、霊夢さんは質問した。今まで会ってきた人の中で、こんな質問をされるのは初めてだ。僕はかぶりを振って、
「残念ですが、本当です」
 と答えた。そう答えるしかなかった。嘘はつけない。見えないのは真実だ。
「そう……」
 霊夢さんはとてもがっかりしていた。何故だろうか。
 確かに僕も、他人の顔や、外の風景を見てみたいと思ったことはあった。
 でも、相手から見てもらいたいなんて説は聞いたことがない。何か見せたいものでもあるのだろうか?
 それとも……ひょっとして──
「……あら? もうこんな時間ね」
「ん? 何時?」
「6時半。18時半よ」
 18:30か……。時間の流れからして、僕が幻想郷に入ったのは、午後3時から4時くらいだろうか。
「そうですか。じゃあ、僕はそろそろ──」
 立ち上がろうとする。が、
「あ、待って!!」
 呼び止められた。今度は何だ?
「はい?」
「外に出たって、あなたは帰れないわ。行ったでしょ? ここからはそう簡単には出られないの」
 確かにそうだ。ただでさえ隔離された幻想郷。神社から出たって、外界に帰ることはできない。
「それに、夜は妖怪がたくさん出て危険だわ」
「よ、妖怪?」
「そ。妖怪。妖怪は、幻想郷に迷い込んだ人間を餌にしているの。今出て行ったら、あなた、すぐに死んじゃうわよ」
 妖怪なんてものは、ただの噂話に過ぎないと思っていたが、本当にいたとはな……。
「だから、その、ね……」
 なんだかもじもじしている。どうしたというのか。 …ま、まさか……。
「きょ、今日は、うちに、泊まってもらっても、構わない、んだけど……」
「なんだって!!?」
 思わず叫んでしまった。今日初めて会った人、しかも女の人、その家、いや神社に、泊まれと!?
 いや、待て……。落ち着いて考えると、食事、睡眠、安全を確保できるのはここしかない。
 僕は旅人ではないので、非常食も寝袋も、当然持っていない。だとしたら、やっぱり……。
「……イヤ?」
 この念押しが決め手だった。断るのは無理だ。
「い、いえ! そんなことは全く! そちらがよければ、是非お願いします!」
「本当? よかったぁ……。でもまあ、死んじゃったら元も子もないわよね」
 この嬉しそうな口調……一体何なのだろうか……。

 そんなこんなで、僕は博麗神社に泊まることになった。夕飯などの炊事は、全部霊夢さんにまかせっきりで、何だか申し訳なく思った。
 夕飯を口に運ぶ時も、霊夢さんが心配そうに何度も声を掛けた。いつもやってることなんだけどな……。
 入浴を終えて、寝室に案内される。部屋は結構空いているとのことだ。
「布団はもう敷いておいたわ。この中だったら、自由に使っていいから、って言っても何もないけどね」
「はい。……あの、なんだか、色々とすみませんね」
「何が?」
「いや、こうやって自分は、何もできなくて、全部あなたにやってもらってしまって……」
「あら、いいのいいの。ただでさえあなたは、目が不自由なんだから」
「はぁ……」
「そうそう。遠慮しないの。じゃ、おやすみなさい。朝になったら起こしに行くわ」
「はい。では、また明日」
 そう言うと、障子がゆっくりと閉じられた。足音が遠ざかっていく。
 僕は、布団の上に寝転がった。そして、今日あったことを振り返る。
 幻想郷、博麗神社、雀、ウナギ……。僕の頭の中は、まだ、状況を把握できていないようだ。
 この世界には謎が多い。神社の外は、どうなっているのだろう? 人間はいるのか? 妖怪とはどんな生物なのか?
 見てみたかった。凄く、見てみたいと思った。しかし、それはもう、叶わぬ夢に過ぎない。
 もし視力があったら、この世界の観光でもしたいところだったが……。そうはいかないようだ。危険も多いようだし。
 明日になったら、霊夢さんが外の世界へ戻してくれるかもしれない。あまり気が進まないが、ここにずっと居るのも気まずいしな。
 博麗 霊夢……か。一体、どんな人なんだろう……。

 色々考えているうちに、眠くなってきてしまった。そろそろ寝るとしよう。
 ちなみに僕は、アイマスクをしたまま寝る。別にそれがどうという訳でもないんだけどね。

 僕は、既に閉ざされた目を閉じ、眠りについた




─────────



 時は、丑の刻。現代の表記で言えば、午前1~3時のことだが、実際の今の時刻は午前1時である。
 夜はすっかり更け、外では妖怪が森や山で暴れていたり、人里の店でわいわいと酒を飲み合っていることだろう。
 そんな中、幻想郷の東端にある博麗神社の一部屋で、まだ、眠りについていない少女が、一人いた。

 霊夢は、布団に潜って、寝ようとせずに考え事をしていた。

『完全に見えない、というか、そう、失明ですよ。しつめい』
『あなたは一体、誰なんです?』
『本当に、見えないのは事実なので……』

 今日会って、更に神社にまで泊めた、○○という少年の言葉が、頭の中で反復する。
 初めは、見えないというのは単なる冗談だと思っていたが、後々にそうではないということに気付いて、かなり焦った。
 霊夢は、これまで目の不自由な人に出会った事がなかった。失明に関しては医学に詳しい永遠亭の連中から聞いた事はあったが、
 実際にその人物を見たことは、今日(昨日)まで一度もなかったのである。
 とりあえず、してあげられることは積極的にやった。歩く時には手をとってあげたり、物が掴めない時には教えてあげたり。
 過保護だと思われるかもしれないけれど、それでも、相手の為なら、中途半端な事はせずに、しっかりやろうと思った。

 けれど、そうやって守られる彼は、何だか悲しそうだった。

 おそらく、外界の人間にもああやって支えられてきたのだろう。
 目が見えないのだから、誰かによる保護は、必要不可欠なのだ。
 目が見えないのだから、誰かに頼らざるを得ない。
 目が見えないのだから、他人と同じ行動はできない。
 彼はその、「目が見えないのだから」という常識的理由を、嫌がっている様子だった。

 できることならば、あの人にこの世界を見せてあげたい。
 そういう願望が、巫女の思考回路を彷徨う。しかし、そのようなことを実現させるのは、無理に等しいのだ。
 いっそ永遠亭の医者に頼んでみようか? でも、自分がここを空けている間、彼は何もできないし、危険すぎる……。
 魔理沙あたりに面倒を見てもらおうかと考えたが、彼はそういうのは好きそうじゃないし、魔理沙自身、あまり乗ってくれそうにない。

 ふいに○○のことが気がかりになったので、霊夢は布団から出て、立ち上がった。障子を開けて、彼の部屋へと向かう。
 幻在の幻想郷の季節は冬。真夜中は特に冷え込むので、人間はよっぽどの理由がないと、外へは出てこない。

 部屋の中では、静かに寝息を立てる○○の姿があった。寝相はよく、まっすぐ天井の方を向いて寝ている。
 そっと歩み寄り、座った。突然の幻想郷入りで疲れたのだろう。霊夢がすぐそばにいても、○○はびくともしなかった。
(こんなときでも、はずさないのね……)
 目隠しをしたまま寝ている姿があまりにも不自然だったので、霊夢はそっと、○○の耳にかかっているゴム紐に手を伸ばし、はずした。
 改めて見ると、とても整った顔をしている。外見に関しては、何も問題ないのに、この人には、目という、体の大事な部分が欠けている。
 それを思うだけで、霊夢は久々に、他人のことを「可哀想だ」と本気で思った。
 手に持っている目隠しを胸に当て、ぎゅっと握り締め、目を瞑る。

(とにかく、今は私が、この人を守ってあげなきゃ──)

 霊夢は、誓った。
 30秒ほど経って、再び立ち上がる。目隠しは○○の顔の横に置き、部屋を後にする。
「……おやすみなさい」
 障子はゆっくりと、音を立てずに閉まった。


 夢を見ていた。

 夢の中では、視力がある。そもそも夢というものは、自分の願望が見せる幻覚のようなもので、実際に目で見ているものではないと、
 父さんが、僕が小さい頃に教えてくれた。果たして本当にそうなのかは定かではないが。
 僕は仰向けに寝転がって、天井を見ていた。木の板一枚一枚が、規則的な間隔を空けて並んでいる。どうやらここは和室のようだ。
 ふと、すーっと、部屋の障子が開く音がした。顔を上げる。厳密に言えば、顔が上がった、と言うべきか。
 女の人が、立っていた。
 影ではわかるが、外の月明かりが逆光となって(ということは、今は夜か、と僕は思った)、姿形はよくわからない。
 こちらに歩み寄ってくる。僕のそばに静かに座った。僕は顔を下ろす。
 顔を見たいと思ったが、夢の中なので、そういうわけにもいかないのだ。顔を下ろしてからは、僕の首は動かなかった。
 しかし、見てみたいという願望が通じたのか、女の人が僕の顔を、ゆっくりと覗き込んできた。
 やっぱり逆光ではっきりとは見えないが、今度は顔を確認できる。といっても、目の大きさとか、鼻の形とかまではわからなかったが。
 頭に、大きめのリボンのようなシルエットがある。髪の毛は長め、服は……よく見えない。女の人は、暫くの間僕の顔を見つめていた。
 ふと、月が雲で隠れたのか、逆光がなくなり、女の人の顔が浮かび上がってきた。
 少しずつ、はっきりと。黒髪の……。服の色は、紅と、白で──。

「誰!!?」
「きゃあっ!!」
 目が覚めた。体が座った状態になっている。今の「誰!!?」と同時に、僕はガバッと体を起こしたらしい。
 外から鳥の声が聞こえる。朝が来たのだ。見えなくてもちゃんと、あぁこれは、朝の爽やかな空気だ、ということくらいわかる。
 では、今の悲鳴の主はというと……?
「き、急に何よ!? 危うく頭同士でぶつかるところだったじゃない!!」
 霊夢さんだ。丁度、僕を起こしに来た、というところか。僕の意味不明な寝起きのせいで、脅かしてしまったようだ。
「ん……おはよう」
 寝ぼけてて言える言葉がそれぐらいしかない。
「おはよう、じゃないわよ! 全く、起こしに来たと思ったら、あなた、うんうん唸ってるからどこか悪いのかと思って、
 必死に呼んでも何も言ってくれないし……そしたらこれよ! もう! 紛らわしいことしないで! 心配するでしょう!!」
 朝っぱらから説教とは……。参ったな。両手を腰に当てて、僕を見下ろす霊夢さん、といったところか。
「いやしかし、紛らわしいといってもねぇ、僕には寝てて何が何だかさっぱり……」
「言い訳は無用。ほら、さっさと起きなさい!」
 そういうと霊夢さんは、僕の両腕を掴んで、ぐいっと、僕を立ち上がらせた。
 急に立ったせいか、僕はふらっと、バランスを崩してしまった。
「おっと」
 咄嗟に右手を出すと、何かに触れた。そのおかげで、倒れることはなかった。
「ぅんっ……」
 霊夢さんが、詰まらせた声を出す。気付いたら僕の右手は、また霊夢さんの肩を掴んでいたようだ。
 そうだとわかったらすぐに手を離して、
「あ、ごめんね」
 と、昨日とは打って変わって、落ち着いた口調で謝った。
「いいえ、大丈夫よ……」
 霊夢さんも昨日のようには怒らず、優しく答えた。 僕が触れたら落ち着いたのは、気のせいだろうか……。
 それにしてもこの人、ただでさえこんな季節なのに、肩なんか出してて寒くないのかな?
「着替えはそこ、枕の右に置いてあるわ。一応男の人も着れるから、安心して使っていいわよ」
「どうも」
「じゃあ、朝ご飯用意するから、出来たら呼びに行くわね」
 そう言うと霊夢さんは台所へと移動した。足音が遠ざかっていく。
 僕は枕の周辺を探り、綺麗に畳んである布の山を見つけた。
 早速、手に取ろうとしたところで、一番上に、薄っぺらい物が乗っているのに気付いた。
 僕のアイマスクだった。今更だが、僕は起きた時にアイマスクをつけていなかったみたいだ。
 でも、何故だ? 今まで、寝相のせいでアイマスクがとれてしまったなんて話はなかったと思うが……。
 まあ、どうでもいいか。僕はアイマスクを掛け直し、着替えを始めた。
 用意してくれた服は、肌ざわりは悪くなかった。サイズも丁度いいし、動きやすい。
 けれどこの服、どんな色してるんだろう? 霊夢さんは「男も着れる」って言ってたけど、やっぱり心配だなぁ……。
「入っていい?」
 霊夢さんが戻ってきた。
「ああ、もういいよ」
 障子が開く、霊夢さんがこっちに歩み寄って、ふむふむといった声を出した。
「なかなか悪くないわね。サイズもぴったりで安心したし」
「そ、そうかなぁ? ……あの、ところでこの服、何色なの?」
「ん? それはあえて言わない事にする」
 何だその、余計に疑問を増やすような言い方は……。ピンクとかだったらどうしよう、と変な事を考えてしまった。
 食事の場所へ向かうため、霊夢さんと手をつなぐ。
「冷たぁっ。前から思ってたけど、まるで亡霊ね。あなたの手」
「あ、よく言われるよ。冷え性なんでね」
 僕の手が冷え性という事もあるだろうけれど、霊夢さんの手は暖かかった。人と手をつなぐ事はよくあったけれど、
 霊夢さんの手は特にそうだった気がする。理由はわからないけど。

 促されて、客間のちゃぶ台に腰を下ろす。座った瞬間、焼き魚の匂いが鼻を衝いた。まさに、日本の朝ご飯、といったところか。
「御飯茶碗は目の前。その右に味噌汁。魚は中央にあります」
 霊夢さんが丁寧に説明してくれたが、そのくらいわかってるよ、と返した。第一、御飯の右隣は絶対味噌汁だろうが……。
 箸を取ったところで、朝の食事が始まった。
 一応、魚はどこの物なのかを聞いてみたら、「幻想郷に海はない」と言われて驚いた。では川魚か、と聞いてみると、
 「それもわからない」と言われたので、この魚は本当に食用なのか、少々不安になった……。
 とりあえず、中央の魚に手を伸ばすと、箸から固い感触が伝わった。焼き魚にはお決まりの骨だ。
 普段僕が魚を食べる時は、母さんに一度崩してもらってから食べる。でも、霊夢さんにそんな手間をかけさせたくないからなぁ……。
 僕が箸で魚をぐりぐりやっていると、予想通り声を掛けてきた。
「あ、食べづらかったかしら?」
 あまり心配させたくなかったが、ぐりぐりやってても仕方がないので、とりあえず、普段は崩してああする、と教えてあげた。
「もう、しょうがないわねぇ……」
 そういうと、霊夢さんの箸が、魚の上で動いた。よかった、これで食べられる。と思ったが、霊夢さんの行動は、僕の予想と少しずれた。
「ほら、口開けなさい」
「……へ?」
「あーん、てしろっていうの。わかる?」
 説明不足だったかな……。何もそこまでしなくてもいいのに。
 断っても聞かなかったので、僕は仕方なく口を開けて、魚を霊夢さんの箸から貰った。食べてみても、何の魚かはわからなかった。
「美味しい?」
 少し怖い口調だったので、頷くしかなかった。別に不味くはなかったけど。
「よかった。ちょっと生焼けだったかなぁって思ってたのよねぇ」
 気持ちの転換が激しい人だなぁ……と、改めて思った。

 食事を終えて、霊夢さんがこんな事を提案した。
「少し、散歩でもしてみない?」
 確かに僕は幻想郷に来て、博麗神社から一歩も出なかった。いや、「出られなかった」の方が正しいか。
 霊夢さん曰く、神社の周りを少し歩いて、外の空気を吸うのも悪くないだろう、とのことだ。
「でも、神社の外は妖怪が居るんじゃ……」
「あら、私が巫女だという事を忘れたのかしら?」
「どういうこと?」
「妖怪退治は巫女の仕事なのよ。それに、こんな早い時間に妖怪が出るなんてことはあまりないわ。あまりね」
 よくわからないが、仮に妖怪が出たとしても、霊夢さんが追い払ってくれるそうだ。ホントに何者なんだ? この人……。
「うーん、でも、やっぱりなぁ……」
「あー? 私を信じきれないって言うの!」
「うい、いえ、そんな訳じゃないです!」
 まあ、これだけ強気なら心配も要らないか……。霊夢さんはふふっと笑うと、
「それじゃ、行きましょ」
 と言って立ち上がった。僕も立ち上がって、一緒に外に出る。

 ふと、僕が幻想郷入りしたときに、いつも日常生活で使っている盲目者専用の「杖」を持っていなかった事を思い出した。
 通りで動けないと思ったら……。いつも肌身離さず持っているので、手放した実感が湧かなかったのだろうか。
 境内から出る際にその辺の木の枝でも拾おうと思ったけど、たまには一日中人に甘えるのも悪くないかなぁと思って、
 僕は霊夢さんの手についていくことにした。
 靴を履きなおし、相手の手を握る。霊夢さんも、ぎゅっと、しかし優しく、僕の手を握り返した。

 長いのか短いのかわからないけど、僕たち二人の散歩が始まった。


 それと、言い忘れていたが、僕はもう霊夢さんに敬語を使わなくなった。
 また、「堅苦しい」だとかなんだとか言われたくないんでね。





────────



「失明した○○ 第二日~後編~」


 やはり、外は凍えるくらい寒かった。思わず身震いしてしまう程、顔に身体に、冷気がぶつかってくる。
 ただ手は、右手だけは暖かかったが。
「ねえ、この服ちょっと、薄すぎないかなぁ?」
 あまりにも服の隙間から冷たい風が通るので、霊夢さんに聞いてみた。
「んー? 誰がどう見てもれっきとした冬服よ。寒い?」
「うん……少しね」
 幻想郷の気候というのは、一体どうなっているのだろうか。
 場所が日本と同じだったとしても、僕の住む地域と比較すると結構な温度差だ。
 平野にしては寒すぎるし、高大な山地にしては、そこまで空気が薄いとも言えない。
 そういえば昨日霊夢さんは、「幻想郷は外界とは隔離されている」と話していた。
 つまり、外界の技術はあまり取り入れられていない。ということは、開発がある時期を境にストップしている……?
 だとしたら、周りの環境は自然だらけ。こんなに寒いのも頷ける。
 だけど、時々外界から色んな物が流れてくると聞くし……。
 ひょっとして、幻想郷と外界を行き来できる人物がいるのだろうか?
「何ぼーっとしてんのよ」
 霊夢さんに頬をツンと小突かれた。少し、考えすぎだったかな。
 足の感覚からして、道はコンクリートではない。やはり、技術の発展は見込まれていないようだ。
 でも、それはそれで歩く者には優しいのだろうと思う。
 ビル風に吹かれ、アスファルトの照り返しを絶え間なく受け続ける都会なんかよりずっとマシだ。
「おーぃ、霊夢ー」
 突然後ろから、いや正確には上の方からこちらを呼ぶ声が聞こえた。女の声のようだが、少し低めで、男に近い声でもあった。
 霊夢さんの手が止まったので、僕も慌てて足を止める。急に止まったので、危うく転びそうになった。
「あら、魔理沙」
 ズササーッという土の擦れる音。魔理沙と呼ばれた人は、霊夢さんの隣に着地したようだ。
 ……着地した? 普通、人間って空飛べたっけ?
「いやぁ、これで神社に行く手間が省けたぜ」
「そんなに距離は変わってないじゃない」
「ふん、魔法使いにとっては少し移動距離が違うだけで、労力にかなり違いが出るんだぜ。
 ま、巫女のお前にはわからないだろうけどな」
「はいはい、所詮私にはわかりませんよーだ」
 どうやらこの二人、友達らしい。会話の弾み具合からして、かなり付き合いが長そうだ。
 それにしても、この魔理沙という人、「魔法使い」って言ったけど、一体どういう事だ? 幻想郷には魔法使いが存在する……?
「ところで、お隣の変な眼鏡をした奴は誰だぁ?」
 眼鏡? アイマスクだよ……。どこをどう見れば眼鏡に見えるんだ?
「あ、紹介するわ。昨日から幻想郷(ここ)に来た○○君よ。ほら、挨拶」
 繋がれている手が右に引っ張られて、僕は強制的に右を向かされた。これじゃまるで操り人形だ。
「どうも、初めまして……」
「おう! 私は魔理沙。霧雨 魔理沙だぜ。こう見えても、結構普通な魔法使いだ」
 どう見ればいいのやら……。女の癖に「だぜ」を付けるなんて、独特な喋り方をする人だな。
 まだ信用し難いけれど、さっきの声の方向といい、着地音といい、どうやらこの人は「魔法使い」という種族を持っているようだ。
 だとしたら、空を飛ぶ方法は……魔法使いといったら箒、かな。いやその他に何があるかは知らないけれど。
「この人はね、目が見えないの。失明してるのよ」
「あー? 失明だぁ? そのヘンテコ眼鏡してるんだから見える訳がないだろうが。ジョークにも程があるぜ」
 だから眼鏡じゃないって。それに霊夢さんの方ももうちょっと詳しく説明をだな……。
 仕方なく、僕は魔理沙さんに過去の事を昨日と同じように打ち明けた。同じことを何度も人に説明するのは面倒なんだけど……。
「なるほど。つまり、『セルフ鳥目』だな。八目鰻いらずってことだぜ。よかったな。悪い意味で」
 魔理沙さんは楽しそうに話しているが、こっちの気持ちは複雑だ。
 僕の機嫌を取ろうとしているんだろうけど、むしろ逆効果なのである。
 ちょっとこの人とは相性が合わないだろうと暫定する。……初対面だからまだわからないが。
「でも、見えないんだったら別に眼鏡することないよな。何か理由があるのか?」
「えーと、この人はね、目に光を浴びると妖怪になっちゃうの。だから、そうならないための目隠しなのよ」
 おいおい待ってくれ。僕がいつそんな狼男みたいなやつになったんだよ……。変な冗談はごめんだぞ霊夢さん。
 ふと、繋いでる手が動いて、僕の太ももを軽く叩いた。「ジョークだ」という合図だろうか。
 多分、僕がかなり不機嫌そうな顔をしていたのを見て、霊夢さんが察してくれたのかもしれない。
 とりあえず、僕は小さく頷いておいた。ついでに表情も戻しておく。
「へぇ、そりゃ凄いな。そんな危険なやつが幻想郷に来るとは、ここも人気になったもんだ」
「冗談よ」
「知ってるぜ」
 相手もわかっていた。そんな事だろうとは思っていたけれど。
 ということは、さっきの眼鏡がなんだって話も、わかってて言ってたのかな?
「それで、うちの神社に今日は何の用なのかしら?」
「そんなもの決まってるだろ。私が博麗神社に行く理由はただ一つ」
「暇つぶし」
「正解だぜ。よく当てたな」
「どこぞの難題よりも簡単よ」
 二人の間で会話のキャッチボールが繰り広げられていく。のんびりしているようで、それなりに楽しそうだった。
 対して僕の方はというと、黙る一方である。二人が嫌なんじゃない。話に入っていけないのだ。

 思えば、学校生活での僕も、今の状況とまるで変わらなかった。
 4,5人いた僕の「友達」とはいえない友達と一緒に会話をしていても、他の人たちだけでどんどん話を進めていってしまう。
 僕以外の人たちは、ちゃんとした話題を持っているのだ。
 ……そう、視覚があるから。この世界の、色々な情報を取り入れることが出来るから。
 仕方なく僕は、最初は和に入っていても、すぐにその場から引き下がる。呼び止められる声も無視して、そそくさと立ち去る。

 自分から逃げたわけじゃない。相手が僕を避けているんだ。
 僕が、僕自身が、失明していることを理由に誰ともふれあおうとしてないわけでは、絶対に、ないんだ……。
 
 ──結局、全て「言い訳」……。僕による他人との交流は、「逃げ」と「言い訳」で構成されている。
 周りが僕を嫌ってたわけじゃなかった。僕が周りを嫌っていたんだと、こんな時になって、やっと気付いた。

「……○○君?」
「おーい、どうした?」
 二人の声で、ハッと顔を上げた。目頭が熱くなっている。
 アイマスクのおかげで、二人にはわからなかったが、僕の目は微かに潤んでいた。
 また変なことを思い出してしまったようだ。どうも僕は、回想の世界に取り込まれやすい。
 今更だが、霊夢さんは僕のことを「○○さん」から「○○君」と呼ぶようになっていた。本当に今更ではあるが。
「あっ、ごめん、ちょっと、考え事しちゃって……」
 平静を装って言葉を返す。
「そうだよな。そんな苦しい重荷抱えてるんじゃ、悩みって物は尽きないよな」
「えっ……」
 その言葉が、確かに僕の胸を強く打った。
「ま、何かあったら言ってくれよ。年中無休で私が相談に乗るぜ」
「そうそう。全部一人で抱え込まないの」
 人は、見かけで価値を判断するような存在ではないことを、この人は、さり気なく教えてくれた。
 肩にポンッと、優しくも力強く手が乗る。
「そんなわけで、宜しくな、○○!」
「あ……うん、宜しく」
 心の内側から、熱いものがぐんぐんと込み上げてきた。相手に気付かれないよう、必死で堪える。
「固いやつだな。私が怖いのか?」
「いやだって、初対面の人には誰でも固くなるのは仕方ない……」
「あー? 何言ってんだ」
「はい?」
「お前と私はもう、出逢った時点で友達だぜ」

 込み上げていた何かが、一気にスピードを増して僕の感情の中を駆け巡った。
 それは僕の開かずの目を一瞬で水で満たし、涙となって流れ始める。

 僕は急いでアイマスクをはずし、腕で自分が泣くのを隠した。
「ちょ、ちょっと○○君!?」
「おいおい、何だよ? 私は何もしてないぜ!?」
 二人がびっくりして詰め寄る。
 僕は、折角霊夢さんが用意してくれた服の左袖を涙で濡らしながら、ひくひくとしゃくり上げた。
 自分の泣き顔は、何があろうと誰にも見られたくはなかった。
「失明してるのに涙を流すなんて、変わったやつだな」
「大丈夫? 苦しい? どこか痛いの?」
 霊夢さんが、僕に向かって必死に問いかける。
「……僕は……人と、人とふれあおうと……しな、かっ……」
「えっ、な、ホントにどうしちゃったの急に? 何言ってるのよ?」
「とりあえず落ち着いてくれ。落ち着いて、話を聞かせてくれないか?」

 博麗神社から、少し離れた小道のど真ん中、泣き佇む一人の少年と、それを宥める二人の少女。
 あまりにも不自然すぎるその光景も、僕の顔を覗き込む二人の心配そうな顔も、僕が目にすることはなかった。

 僕たち三人は一旦博麗神社に戻り、客間に円を描いて座った。
「はい、お茶」
「頂くぜ」
 霊夢さんが湯呑みを置いた音を境に、辺りがしんと静まった。微かに聞こえるのは、外から吹き込む風の音か。
 初めに話を切り出したのは、魔理沙さんだ。
「それで……一体どうしたというんだ、○○?」
「『人とふれあおうとしなかった』って、どういうことなの?」
 霊夢さんも重ねて質問する。
「昔何かあったのね?」
 ゆっくりと頷く。
「大した事ではありません、ただ、あの時──」
 僕は、さっきの回想について、途中お茶で喉を潤しながら全て語った。
 二人なら、この二人なら、僕の気持ちをわかってくれると思ったから。

「──そうか。なんだか、悪かったな、お前の胸に響くようなこと言っちゃって……」
 魔理沙さんが俯き加減で(声が少し篭ったのでそんな気がした)僕に謝った。
「いや、そんなことはないよ。何だか、逆にすっきりしたような気もするし」
 確かに涙を流した事で、ほんの少し気持ちが軽く感じられるようになった。
 あの涙は、魔理沙さんの言葉に対する感動と、自分の惨めさに対する憎しみだったのだ。
「しかし、ちょっと涙脆すぎるぜ。いきなり泣かれちゃ、こっちも白旗だ」
「はい、すみません……」
「本当、私達が何か悪いことしたかと思ったわ。泣いててもわからないから、
 急に何か辛いこと思い出したら、ちゃんと私達に言ってね」
「ごめんなさい……」
「謝る事はないぜ」
「そうよ。別に怒ってる訳じゃないし」
「ま、そんなことは早く忘れて、だな」
「はい。ありがとう」
 少しずつ、元気を取り戻しつつあった。

 その後の僕らは、フリートークで盛り上がった。
 魔理沙さんが「魔法の森」という所で見つけた珍種のキノコを霊夢さんに無理矢理食べさせようとしたり、
 (彼女自信効能を知らないらしく、「多分」死にはしないとのことだ)
 妖怪の種類や(前から話に出ていた夜雀の事についてもしっかり聞かせてもらった)、
 この世の戦いの掟「スペルカードルール」の話など、幻想郷に関する様々な知識をを教えてもらった。
 スペルカードルールの開発に霊夢さんも加わっていたという事を聞いて、僕はかなり驚いた。
「まあこいつは、幻想郷を丸ごと守っているようなもんだしな」
 話によると、幻想郷を守る博麗大結界は、霊夢さんの下で管理されているとのことだ。
「そんなに偉いの!?」
 思わず叫んでしまった。
「何よその言い方!! 悪かったわね偉そうに見えなくて!!」
「まあまあ、そんなムキになるなって」
 この世界はまだまだ奥が深い。一度詳しく調べてみたいと僕は思った。

「おっと、もうこんな時間だ」
 話に区切りがついたところで、魔理沙さんが口を開いた。
「え? 何時?」
「16時。もうすぐ日が落ちるから、私はこれで失礼するぜ」
 僕は、外まで送ってあげたいと霊夢さんに言って、一緒に社殿から出た。

「何もそこまでしなくていいぜ。私は珍客じゃないからな」
「毎日のように暇つぶしに来るくらいだから、充分珍客よ」
「どちらかというと常連客だぜ」
「ちゃんと日が落ちる前に帰りなさいよ」
「心配するな。私はそれなりに強いからな」
「自分で言う事かしら?」
「何なら今度撃ち合うか?」
「遠慮しとく」
「だろうな」
「気をつけて。魔理沙さん」
「おう! 何だか今日は盛大に見送られてるようだが、どうせ明日には会うと思うぜ」
 カサカサと乾いた音が鳴る。魔理沙さんが箒に跨ったみたいだ。
「ところで、お前さん達さっきからずっと手繋いでて、何だかいい雰囲気出してるじゃないか。お似合いだぜ」
「「なっ……!」」
 繋いだ右手が僅かに動く。
 同時にニヤニヤしている魔理沙さんの顔が脳内で作成された。あくまで自分の想像である。
「べ、別にそういうわけじゃないわよ! ただ、○○君は誰かがいないと行動できないってだけで──」
「はいはい。言い訳なんかいらないぜ。まったく霊夢も、素直じゃないよなぁ……」
「違うってば!!」
 顔を真っ赤にして反論する霊夢さんの顔も、不思議と簡単にイメージすることが出来た。やはりあくまで自分の想像ではある。
「それじゃ、またな! それと○○、私に『さん』は付けなくていいからな」
 ブワッと、風が舞う。魔法使いの箒は勢いを持って飛び立っていった。
「もう、言いたいこと全部吐き捨てて帰るなんて、なんて卑怯なのかしら!」
 霊夢さんは色々文句を吐いていたけれど、僕の手は離そうとしなかった。
 僕がどこかへ行っちゃわないようにする為だと思うけど……。
 ……たぶん。

 再び、辺りが静かになった。日が徐々に落ちるこの時間は、夜の寒さを宣言するかのように、一気に冷え込み始める。
 僕と霊夢さんは暫くの間、ずっとここで立っていた。
 魔理沙さん改め魔理沙が帰った後の余韻を味わうかのように、黙って立ち竦んでいた。
 風は朝よりも強く、動かずとも乾いた冷気が顔にかかってくる。
 ふと、彼女はふぅとため息をつくと、空を仰いで(腕の方が少し動いた気がしたから上を向いたんだと解釈しただけである)、
「綺麗な夕焼けね」
 と、独り言のような言い方で、僕に振った。いや、本当に独り言なのかもしれないけど。
「え……うん、そうだね」
 見えないけど、一応僕は返した。
 言ってから霊夢さんは、はっと息を吸いこんだ。おそらく僕には見えない情景を、口に出してしまったことに後悔したのだろう。
「ごめんなさい……」
 すぐに謝られた。
「ううん、いいんだ。僕には想像力がある。僕が想う景色と、君が見ている景色は、ほとんど一緒なんじゃないかな」
「そ、そうかしら」
 僕は泣いてから今まで、アイマスクははずしたままにした。今日になってやっと、身に着けているのに違和感を感じたのだ。
 それに、また他の人間が来たときに「眼鏡」だとか何だとか、言われたくなかったのも理由の一つである。
「……ねえ、○○君」
「はい?」
「もし、あなたの視力が元に戻ったら、一番最初に何を見たいと思う?」
「うーん、そうだなぁ。視力が戻った瞬間に目にしたものが最初に見たものになるから、よくわからないや」
「ふーん……」
「まあ多分、今の感じなら目の前にはあなたがいるんだと思いますよ」
「……」
「霊夢さん?」
 突如、右手にある感覚がなくなった。
 霊夢さんが手を離したのだ。つられて自分の手も前に動いたので、霊夢さんが前に歩いていくということがわかる。
「あれ、ちょっ、霊夢さん! どこ行くの──」
 勘を頼りに、前にいる霊夢さんを追いかける。
 かなり強い風が、僕の身体に吹きつけた──。



 そして、2,3歩もしないうちに、霊夢さんの腕が、僕の身体を優しく抱きしめた。



「っ……!!!」
 腕は僕の二の腕を過ぎ、背中で交差して戻る。相手の髪が、僕の耳を掠めて、顔が左肩に乗った。
「早く、治るといいわね」
 息がかかる位、耳元で囁かれた。

 今起きている出来事が、頭に入って来ない。声にならない声を漏らして、僕はただ唖然とするしかなかった。
 時間が止まっている。先程まで吹いていた風も、しだいに増してきている冷気も感じる事ができない。
 ただ温もりは、彼女の腕に宿る温もりだけは、強く、正確に感じることが出来た。

 暖かい──。

 数十秒経っただろうか。ようやく彼女の腕は少しずつ離れていく。
 それと同時に強い風と冷気の感覚、次いで自分の意識も戻りつつあった。
 まだ今起こったことが把握できていなかった。女の人に抱かれるなんて、幼い頃に母さんにあやされる時以来だ。
 思い返すと、頭の中がごちゃごちゃし始めて、望んでもいないのに赤面してしまう。僕は慌てて俯く。
「あら、どうしたの? 顔真っ赤じゃない」
 霊夢さんは、からかうように僕に問うた。
「あ、あ……」
 返事に困る僕。
「な、ななな、今、な、え、なんで!?」
 完全に混乱している。
「ん? そんなの、決まってるじゃない」
 決まってるって、当たり前のように言わないで欲しい。色んな意味で心臓に悪い訳だし。
「あなたに、私の体格はこんなんですよーって教えるためよ」
「……はい?」
「こう見えても私、結構可愛い方なのよ。……胸はないけど」
 それは自分で言う事ではない!
「こうでもしないとあなた、わかんないでしょ? 人の体つきなんて」
「いやいやいや! わざわざここまでしなくていいですから! 大胆すぎる!!」
「慌てすぎよ。少しは落ち着きなさい」
 慌てずにいられる訳がない。異性の人間にいきなり抱かれたら誰でもパニックに陥るに決まってる。
 本当にこの人、気遣ってるのか単純なのか、よくわからない……。性格が掴めないのだ。
「さ、風邪ひかないうちに戻りましょ」
 そういうと霊夢さんはパッと、僕の手を握った。
 今の霊夢さん、何だかか楽しそうだ……。
「あ、あぁ、はい……」
 僕は生返事で、彼女の手に引っ張られていった。
「そういえば」
「ん?」
「また敬語使ってるわね」
 彼女に不機嫌そうな口調で言われてしまうと、まるで歯が立たない。
「ごめんなさい」
「ほら、また」
「うぅ……」


 二日目の晩餐が訪れた。昨日と同じような和食のメニュー。
 それでも、毎日食べても飽きないという点が、和食特有の性質と言えよう。
「ごめんね、今日も泊めて貰っちゃって……」
 僕は味噌汁を啜りながら、霊夢さんに深々と謝罪した。
「あら、全然、気にしなくていいわ。あなた一人で里に行かせるのは心配だし、だからといってここを離れるわけにはいかないの」
「そうかなぁ……」

 しかし、いつまでもここに居座るのは流石に迷惑だ。食料等の事情もあるし、こちらは男子、自分も相手も気まずいはず。
 かと言って、僕が神社を飛び出したところで、何の意味もない。飢えるか喰われるかの二択であろう。
 やっぱり、外の世界に帰して貰おうか……。

 初めのうちは、ここの環境も良い上に、幻想郷という、謎の多い世界に流れ着いたことに感動し、僕は外の世界に戻るのを拒んだ。
 けれど次第に、先の様なことを考えるようになると、僕の気持ちは少しずつ外の方に向いていった。
 本来僕が「帰りたい」と言えば、彼女も素直に帰したくれたかもしれない。
 (先程の魔理沙の話で、霊夢さんの手によって現世に戻る事ができるということを聞いた。
 それまで僕も知らなかったし、彼女も何も言わなかった)
 兎にも角にも、まずは相談するべきだよな……。

 僕は一度箸を置くと(危うく湯呑みの上に置きそうだったので、真剣な空気が台無しになりかけた)、口を開いた。
「霊夢さん」
「あん?」
 一つ間を空ける。彼女には申し訳ないが、ここからは敬語で話させてもらう。
「僕は、本当にずっと、幻想郷(ここ)にいていいんでしょうか……」
「……えっ?」
 いきなりの質問に、戸惑う声を発する彼女。
 僕は、前から思っていたことを彼女に話した。彼女の方も、途中で口を挿まず黙って聞いてくれた。
「──だから僕は、もう外の世界に戻るべきでは、と思ったんです」
「……」
「どう、思いますか?」
 チャッという軽い音。相手の箸も置かれたのだ。
 20秒位の沈黙のあと、霊夢さんの口が静かに開いた。

「あなたは、ここに居るのが、嫌なの?」
 意外な発言だった。
 無論、そんな事は全くないのだ。ただ、迷惑だけは掛けたくないのだと、僕は言った。
「そんな、迷惑だなんて……」
 仮に、相手が「帰って欲しくない」と言うのならば話は別だが、相手は女性。そう何日も異性を泊める訳がない。
 まして、一日泊めてくれたこと自体奇跡なのだ。こうなる前に、あっさりと帰してもらうべきだったか。
「○○君、私はね……」
「はい」
 僕と同じぐらいの間を空けて、彼女は切り出した。

「あなたには、帰って貰いたくないわ」
「っ!!!」
 驚いた表情を見せた彼。私はそのまま、自分の思いを続ける。
「確かに、あなたがここに居るのは気まずいかもしれない。私だってそうよ。男の人泊めるなんて、初めてだもん。
 でもね、あなたがこの前、外の世界(あっち)の話をしてる時、凄く悲しそうだった……。こっちも見てるのが辛かった」
 外がどんな世界なのかは詳しくはわからないが、彼に適した環境ではないことは、彼の表情からして明らかなのだ。
 仮に失明者専用の開発が進んでいたとしても、彼はそれを拒否する。
 自分の身に、「失明者」という、周りから特別扱いされる様な看板を立てられたくないのだろう。
「戻るのは自由よ。あなたが望むならいつでも帰してあげる。でも、あなたはあっちでも楽しく生活できると言い切れるのかしら?」
「それは……」
「あっちのことを忘れている時のあなたは凄く楽しそう。魔理沙と話してたって、ずーっとニコニコしてた。
 どうせ帰ったって、また一人ぼっちで暮らすか、周りから苛められる生活の繰り返しなんじゃないの?」
 言ってから、私は後悔した。彼の心の穴を掘り下げるような事は口にしてはならないのだ。
 間に合わず、彼は嫌悪の表情で反論する。
「それは違う! さっきも言ったはず、悪いのは僕だ! 友達を作らなかったのも僕! 人を避けたのも僕!
 帰ったらじきに和解するつもりだし、また新しく──」
 バンッ! 私は堪忍袋の緒が切れて、ちゃぶ台を両手で思い切り叩いた。
 ちゃぶ台の上の食器が、ガチャッと騒がしい音を立てる。お椀が倒れそうになった。
「ムキにならないで!!」
 突然怒った私にびっくりして、彼もたじろぐ。
 私は彼の後ろ向きな意向が大嫌いだった。反省した事をバネに立ち直るなんて、容易い事ではないのだ。
「じゃああなたは、それを必ず実行に移せるって言い切れるの!?
 人との関係がそんな簡単に取り戻せるとでも思ってるのかしら!? どうなのよ! 言ってみなさ──」
 はっと、そこで正気に戻った。言い争いなど無意味だとわかっていたのに、どうして私は……。
「……ごめんなさい、ムキになってるのは、私の方だったわね……馬鹿みたい」
 俯いて、謝った。彼は黙ったままだった。
「私、嫌なのよ。あなたの悲しい顔見てると、こっちまで悲しくなってきて、胸が苦しくなるのよ……。
 あっちに戻るのを嫌がっているのに、わざわざ自分から行く必要は無いと思う。
 確かに、私の生活の事情はあるかもしれない。っけど、けどね、あなたの、っあなたの途方に暮れた背中を、見送る事に比べたら、
 ずっと……っずっとマシよ……」
 何故だろうか。目から勝手に涙が零れ出し、頬を伝って落ちていく。歯を喰いしばっても、それは止まろうとはしなかった。
「霊夢さん……」
「私は、幻想郷(ここ)の管理者でもあるから、あまり他人に特別な振る舞いはできないけど、
 あなたには、そうせざるを得ないかもしれないわね」
 私は指で涙を拭うと、顔を上げて、彼の開かずの目を見つめる。

 あのとき誓ったから。守ってあげると、誓ったから──

「……どういうこと?」
「私が、治るまであなたの面倒を見るわ」
「ええぇっ!!?」
 その時の僕には、まさに「びっくり顔」という言葉がぴったりだったであろう。文字通り、僕はかなりびっくりしたのであった。
「そ、それは即ち、下手すりゃ生涯ずっと僕の世話をすると……?」
「まあ、そういうことになるわね」
 霊夢さんは、泣いた時の作用のせいか鼻声ではあったが、いつもの余裕そうな口調に戻っていた。
「いやしかし、それは流石にまずいでしょう……僕は幼子じゃあるまいし」
 当然僕は反対を選んだ。だったら、神社を空けてでも里に連れてってもらって宿を探した方がずっといいと思うのに。
「……イヤ?」
 出た。これを言われると断ろうにも断れなくなるという恐ろしい魔の言葉「イヤ?」。
 もし視力があったら、上目づかいで強請る彼女を見れたかもしれ……って何を考えているんだ僕はぁっ!!
 どうも幻想郷に来てから思考回路が狂い始めている。これが狂気というやつか?
「イ、イヤではないけど、本当にいいのかい? 結界の管理や、家事などの妨げになるのは承知の上なんだろうね?」
「しょうがないわね」
「買出しのときは?」
「あなたを連れて行くか、誰かに見てもらうか」
「万が一、異変が起きたら?」
「それも、誰かが見てくれると思う」
 参った。この人本気で考えてる。……冗談でしょ? このままじゃ神社の住民になっちゃうよ。
 それに、こっちで暮らすってことは、母さん達が心配するんじゃないだろうか。
 と一瞬考えたものの、母さんなんかは「どうせ家出だろう」とか思い込んで、気にしない可能性もあるかな……とも思った。
「ま、それは後で考えましょ。とにかく」
 ちゃぶ台の上の右手に、暖かく柔らかい感触が乗った。右手は彼女の両手に持ち上げられ、片手と両手の握手となった。
「改めて、これからも宜しくね、○○君!」
 表情は見ることは出来ないが、その口調から、ニッコリと笑う彼女の顔を感じ取る事はできた。
「……はい」
 僕も左手で彼女の手を取る。
 魔理沙の時と同じ台詞だったが、もう泣きたくなるような気持ちは込み上げてこなかった。怒られたくないし、心配されたくもない。
 いつも思うけど本当、暖かい手だよなぁ……。
「何だか、強引だけど」
 小言で言うと、
「何か言った?」
 すぐに気付かれた。
「いえ、別に……」
 彼女は手を離すと、「あら、ご飯冷めちゃったわね」とまた独り言なのかよくわからないことを漏らした。

 そして僕は、一日でも早く視力を回復させなければ、と心の中で強く思った。
 彼女にできるだけ、世話を焼かせるようなことはさせたくないから──。

 夕食が終わり、僕達はお茶で口を直す。僕は霊夢さんから更に幻想郷に関する知識を詰め込み、
 ここに関するほとんどのことを知った。
 彼女が解決してきた異変、それに関わる多彩な人物、場所。名前は全ては覚えきれなかったが。
「あ、お風呂沸いてるから、先入っていいわよ」
「では、お言葉に甘えて」
 僕は、残りをお茶を飲み干す。お茶の味はいつもぶれず、美味しい。彼女は淹れるのが上手なんだな。好物なだけある。
「そういえば昨日、お風呂、平気だった?」
「んー? (何が?)」
 僕はお茶を口に含んで聞き返す。
 霊夢さんはもじもじしながら、とんでもない事を口にした。
「その……見えないから、一緒に、一緒に入ってあげた方がよかったかなーとか、思ったんだけど……」
「がはっ!!!」
 咽た。耳にする前に呑み込んでおかなければ、絶対に吐き出すところだった。変な場所にお茶が入ってしまって、咳き込む。
「ちょっと、大丈夫!?」
 彼女は傍に来て、僕の背中をさする。
「う、げほっ……あ、あのねぇっ!!」
 流石の僕でもこれは叫びたい想いだ。
「あん?」
「あん? じゃないよ! 普通に考えてぇっ! 男と女が一緒に風呂に入ると思いますかぁっ!!?」
「まあ、ある時はあるわよねぇ」
「今はどう考えたってないでしょうがぁっ!!」
「……イヤ?」
「そういう問題じゃなぁぁい!!!」
(でも、ちょっとだけならいいかもしれな──)
 ダン!! 僕はちゃぶ台に倒れ込むように思いっきり頭突きした。
「馬鹿だ、僕は本当に、大馬鹿だ……」
「……変な人ね」
「あなたもね……」

 結局僕は霊夢さんに押し切られ、一緒に入浴する事になった。
 もう一度言う。一緒に入浴する事になった。
「どうしてこんな事に……」
 僕は天を仰ぎ、ため息を吐いてから項垂れた。嬉しいけど、嬉しくない。嬉しくないけど、嬉しい。
「別にいいじゃない。あなたは見えないんだから」
「絶対アイマスクはずさないでよ! 絶対だからね!」
「わかってるわよ。そこまで言わなくても」
 僕はさっき、いざ入る直前というところで、自分の方は彼女に身体を見られてしまうのだという事に気付いて、
 霊夢さんに僕のアイマスクをかけるようせがんだ。
 彼女は「それじゃ一緒に入る意味がないじゃない」と言い放ったが、
 僕は「水代が浮くからいいでしょ」だとか、適当な言い訳で乗り切った。
 僕は既に身体を洗い終えて湯船に、彼女の方は今身体を洗っているという状況である。

 風呂はいい。冬の寒さを和らげるほか、今日溜まった全ての疲れを洗い流す場所だ。
 ただ今は、二人いるという事だけがいつもと違った点であり、
 空気は一変、一人の時とは別物である。しかも男と女。しかも一人ずつ。
 こういう時ばかりは、視力がなくてよかったと思ってしまう。当然だが。
「入るわ」
「はい」
 霊夢さんが洗い終わったので、僕は足を引っ込めて、体育座りの形を取る。
 ところでこの湯船は、どの位の大きさなのだろうか。
 僕の勘が正しければ、二人位ならちゃんと入れるスペースはあるんだろうと思うけど……。
 お湯が波を立てる。彼女は僕と向かい合わせに座ると、ふぅ、と疲れを癒すかのように息を漏らした。
 彼女の伸ばした足が、僕の足に当たったので、びくっとして僕は更に身を縮ませた。
「そんなに私が怖いのかしら?」
 僕はかぶりを振った。
「女の人と風呂に入るなんてしたことないよ……」
 身内ならまだしも。
「あなたはしょうがないのよ。その目なんだから」
「昨日は普通に入れたじゃないか」
「まあまあ、いいじゃないの。たまには」
「良くないって……」
 突然、膝に彼女の両腕が乗った感覚が伝わった。
 更にその上に彼女の顎が乗り、僕の顔を間近で見つめる形となっている。……だろう。
「ひっ!?」
「本当のことを言うと?」
 15cmにも満たない距離で彼女に問いかけられた。彼女のニヤニヤした顔が目に浮かぶ。
(本音を読まれている……)
 耳の辺りが急に熱くなったので、反射的に僕は下を向いた。
「やっぱり入ってみたかったんでしょう?」
 彼女はふっ、と笑うと顔を引っ込めた。一日目の時と同じだ。……尤も、場所は全くの大違いであるが。
「あなたは、僕と入るのを何故望んだんだい?」
「言ってるでしょ。たまにはいいじゃないって」
 恥という物を知らないのか? まさか好んで僕と入りたがる訳じゃないだろうに。
「鈍感……」
「何ですって?」
「何でもありませんっ!」

 無事、入浴は終わり(無事?)、いよいよ就寝という時が訪れる。
「申し訳ない、これから何日も服を借りると思うと……」
「別にいいのよ。自分の服と交互に着ていけばいいんだし、結局一着しか貸してる事にならないわけだし」
「絶対に一日でも早く治すから。そのつもりでいてね」
「あら、あなたにしては前向き発言ね」
「有言実行。やる時はやる」
「遠慮しなくていいって言ってるでしょ」
 同じ会話の繰り返し。邪魔はしたくないと言う僕と、問題ないと言う彼女。対称的な意見。
 結局最後は、彼女の意見が上回ってしまうのだが。
 突如、霊夢さんは僕の左肩に手を乗せて、耳元で優しく囁いた。
「無理しないで。時には他人に甘えなさい」
 ね? と彼女は一音加える。僕はゆっくりと頷いた。そうするしかなかった。
 とにかく今は、向こうの事は忘れよう。のんびりした幻想郷ライフも悪くない。
「それじゃ、おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
 障子がゆっくりと閉じられる。静寂と沈黙が、同時にやってくる。
 僕は布団に倒れこんだ。枕に数十秒顔を埋めてから、仰向けに戻った。
 昨日と同じく、今日の事を日記の様に振り返る。

 まず第一に、もの凄く疲れた。
 喜怒哀楽、全ての感情を一日で発散ような気がする。ここまで感情の揺れが激しくなったのは初めてだ。
 第二に、魔理沙と出会った事。
 霧雨 魔理沙──明るくて、少し男気のある人。からかいもするけれど、それでいて頼もしい。
 会話がしやすい魔法使い。そして、友達。
 明日も来るって言ってたし、今度はあの人自信について語ってもらおうかなと思う。
 そして第三は──。霊夢さんの行動だ。
 食事での気遣い、突然抱きつく、入浴、接近……。誰がどう見てもこれは過保護としか言いようがない。
 たとえ僕が失明してたとしても、母さんでさえあんなことはしなかった(母さんは何もしな過ぎだが)。
 何故そこまでして、僕を守ろうとするのだろう?

 まさか、僕のことが──。

 ……いやいや、それは確実にない。僕みたいな普通過ぎる人間が、人に好かれることなんて、ありえないと言ってよい。
 でも霊夢さんて、どんな顔してるんだろう?
 体格を教える為に抱きついたって言ってたけど、びっくりしてあの時はそれどころじゃなかった。全く覚えていない。
 あれだけやっといて実は結構おばさんでしたーみたいなことになったらショックだよなぁ……。
 ってそんな事言ったら彼女に可哀想か。まあ声も肌も若そうだったから、それはないとは思うし。

 眠くなってきた。そろそろ夢の中へ入っていくとしよう。身体と精神を布団に預け、眠りの態勢をとる。

 しかし気になる。幻想郷の風景云々の前にまず、霊夢さんのことが一番気になる。何なんだ、この感覚……。

 ん? これってもしかして僕も、霊夢さんのことが──。

 ぼやっとそんな事を考えたが、僕の意識は途中で途絶えた。
 冬の夜はまだ、始まったばかりである。


 第三日に続く──



────────


 静寂。
 即ち無音。

 冬の夜は永い。単に夜明けが来るのが遅いだけではなく、中々寝付けることが出来ない、というのも理由の一つ。
 たとえどんなに厚い布団を被っていようと、肌にはひりひりと、すり抜けた寒気が襲う。それ故に、眠りは浅いものとなるのだ。
 ただそれ以前に、霊夢の心は大きく揺れ動いていた。眠りにつけぬ最大の理由がそれなのである。
 無論全ては彼、○○に対する想い──。

 私は、知らぬ間に○○の事が好きになってしまった。

 一日目から、いやあの時、初めて目にした瞬間から、何か自分の気持ちに変化が表れているのは感付いていた。
 私はそれを振り払おうとした。これは何かの間違いだろう。今までこんな感情になった事は一度もなかったはずだ、と。
 しかしそれはしだいに、真実となり始めた。嘘なんかじゃない。私は、本当に彼の事が好きになっていたのだ。
 その結果、彼にはかなり度の過ぎた行いをしてしまった。
 気がつけば異常なほど気を遣っていたり、寄り添ったり、抱き締めたり、挙句の果てには混浴までこなすといった有様だ。
 そしてこれらの行為は、全てが自分の意思による物だとは言い切れなかった。
 彼に対する欲望が、普段の自分を掻き消し、無意識のうちに身体が実行へと移ってしまうのだ。
 逆に自分の方が受身の立場にある場合も、何かが違った。何処かおかしい。
 彼が誤って私の肌に触れてしまったときなんかは、特に払い除けようともせず、むしろドキッとした後逆に落ち着きを得る位だ。

(私……どうかしてるかしら)

 思い返してみると、彼にはかえって不快な思いをさせていないか不安になる。
 私を避けてはいないだろうか。若しくは、正直私の事を嫌いになっているのでは──。

(あぁもう! 一体何だっていうのよ、この気持ちは……)

 思考の整理が訊かない自分の頭を抱え込む。そのまま、横向きに寝返りを打つ。
「はぁ……」
 深いため息が漏れた。同時に両手も、布団の上にストンと落ちる。

「でもやっぱり……好き、かも……」


 霊夢は今宵も、様子を見に行く事にした。彼がちゃんと眠っているかどうか確認しないと、こっちが眠れないからだ。
 縁側に出ると、空からしんしんと、白い宝石が夜空を飾っていた。
「雪……」
 夜になってから天気が崩れたのだろうか。雪はやむ事を知らず。言わば「本降り」であった。
「こりゃ朝は雪掻きするようかしらね」

 障子を開ける。こちらの部屋の方が自分の部屋より幾分か寒い。広めの空間に対して人口が少ないせいだろうか。
 今日の○○も、静かな寝息を立ててお休み中だ。寝相は相変わらず乱れず、まさに理想の姿勢、といった感じで眠っていた。
 側に寄って座る。当の○○は目隠しを着けておらず、その寝ているのか起きているのかわからない目(というよりも瞼)を
 曝け出していた。

(何回見ても、綺麗な顔立ちしてるわねぇ……)

 この整った形相に自分は虜になってしまったのだろうか。
 いや、それだけではないだろう。彼の落ち着いているようで本当は恥ずかしがりや、という
 少し変わったようでよくある性格にも惚れているのかもしれない。
「やだもう、私ったら……」
 何を考えているのだろう、と顔が赤くなる。
 とにかく、ぐっすり眠っているようなので安心した。霊夢はほっと胸を撫で下ろす。

(それにしても……あなたは本当に、私の事をどう思っているの?)

 答えるはずもない○○に、一つ想いを寄せる。
 すると連鎖するかの様に、二つ三つとそれが募っていく。
 どんな夢を見ているだろうか。陰でまだ辛い思いをしていないだろうか──。

 遂に、積み重なった想いは、自身の体をも動かし始めた。
「あっ……」
 顔が勝手に、彼の方へゆっくりと近づいていく。
(駄目よ、そんな事したら起きちゃうじゃない……)
 自分ではそう思っているのに、身体の方がまるで言う事を訊かない。
 距離がどんどんと縮まる一方、迫る顔はブレーキを掛けようとしない。掛からないのだ。
 あまりの近距離に、霊夢は目を瞑る。
(あぁ、もう駄目……○○君、ごめんね……)
 霊夢が今まさに口付けようとした、その時だった。

「ぅ、ん……」
 ○○が起きてしまった。彼は頭をもぞもぞと動かし、元の位置に戻す。

 瞼が微かに震え、そしてゆっくりと開かれた。

 瞬間、霊夢も正気に戻った。顔が、何事も無かったかのようにぴたっと止まる。
「え……?」
 その距離、僅か5cm。霊夢の判断が正しければ、今、○○は確かに大きく目を見開いている。
 瞼の裏から突如として現れたその黒色の眼球には、自分の姿がはっきりと映し出されていた。
 時間が完全に止まった。霊夢は退こうともせず、迫ろうともしない。その零距離の位置で硬直していた。
 ○○の方は、寝ぼけた顔でびくともせずに霊夢を見つめている。
 暫くして再び、○○の瞼はゆっくりと閉じられた。同時に、静かな寝息が戻ってくる。

 霊夢はそっと体を起こす。
「い、今……何で……」
 驚きを隠せない。証拠として、身体が震えを上げている。
 一体、何が起こったのだろうか。
 これまでの理論を全て覆すような事が、たった今為された。
 ○○が、失明しているはずの○○が、はっきりと目を開いたのだ。

「どういうこと……?」
 自室に戻りながら、霊夢は推理する。雪は勢いを増し、庭にも少しずつ積もり始めていた。
 初日、半分も開かなかった彼の目は、たとえ瞼から眼球を覗かせようと、景色を捉えることは不可能だった。
 それに対して先程はどうだ。突然の出来事を把握できない霊夢のポカンとした顔を、彼の眼球はしっかりと映したのだ。
 ということは、○○の視力は元に戻ったいう事を確定せざるを得ない。
 確か○○を診た医者は「時期は不明ではあるが、治る可能性もゼロではない」という判断をした。○○自身が既に語っている。
 だとしたら突然としてそれが発揮されるのも頷ける。
 (だがいくら何でもタイミングが悪すぎやしないかと、霊夢は悔やんだ)

 再び布団に潜る。少し移動しただけなのに、身体がかなり冷えてしまった。余計に眠れない。

 しかしその前に、いくつかの矛盾点が生じている。
 彼の瞼は「事故の恐怖によって」開かずの門と化したはず。
 はずなのに何故開く? 寝ぼけていれば開ける事が出来るとでも言うのか?

 事故の恐怖によって……?

「あぁっ!!」
 突如、巫女の直感が電気のように走った。勢い余って飛び起きてしまった。
 自分の思考が正しければ……。

 途中で回復する失明なんて有り得ない。
 完全なる失明ではなかったのだ。
 事故に対する恐怖は、精神から瞼の筋肉機能を停止させ、
 更には視力をも奪い去った。
 そして、幻想郷に来た所為で恐怖を取り除かれた事によって、
 彼の目は完治した、ということか──?


 今日も、夢を見ていた。
 僕は昨日の夢の続きを見ているらしい。目に映る風景から今の体勢まで全く同じ。
 まるで、同じラベルを貼ったビデオテープを何度も再生しているかのようだ。
 すーっという障子の開く音。今日も女の人が入って来て、僕の側に座る。
 今日も出てきて何だか不気味だけど、別に怖くは無かった。
 大概こう、夢に出てくる人っていうのは、自分が強く想いを馳せている人だとか、
 逆にその人の方が自分に想いを寄せているケースがあるのだと、父さんが語っていたと思った。
 まあ、やはりそれも定かではないのだが。
 いずれにせよ、この人から悪意という物は少しも感じられない。暖かい安堵感があった。

「……君」
 女の人が呟いた。
 何処かで、聞いた事のある声だった。
「……○○君」
 もう一度、今度ははっきりと僕の名を呼んだ。
 この声、間違いない。彼女の物だ。
「……霊夢さん?」
 横目で見ようとするが、僅かに視界に入らない。
「霊夢さんっ!?」
 意を決して、思いっ切り身体を右に捻る。
 夢だろうが何だろうが構わない。ただ、彼女の顔を見てみたい。その一心で──。

 しかし、「夢」という題名の付いたビデオは、そこで黒くフェードアウトする。

 ドンッ! という鈍い音がした。同時に鼻にツーンと来るような衝撃が走る。
 布団から飛び出し、硬い畳に顔を叩きつけたらしい。
「痛ぁ……」
 顔を上げる。鼻の周辺が熱を持っている。出血していないだろうか。
 それにしても眩しい。朝が来たみたいだ。昨日と同じ鳥のさえずりが、遠くから聞こえてくる。

 ……眩しい?

 はっと、僕はそのまま、天井を突き破るのではないかと思うほどの勢いで飛び起きた。
 一度宙に浮いてから、胡坐の体勢になった。

 手をゆっくりと前に突き出す。袖からのびる手の甲、更にその先を行く十本の指。
 その両手が指す方向には、抹茶色に塗られた壁、少し左に、部屋を、神社を支える黄土色の柱。
 右を見る。白地でセンターに黒いラインの入った引き違いの戸。襖だ。
 僕は今、和室の真ん中で座っているという事を、確認する事ができている。

「見える……!?」

 すーっと、聞き慣れた障子の開く音。それと共に耳を通る、聞き慣れた声。

「おはよ……」
 霊夢は、障子に掛けている手を止めた。
 ○○が、背を向けて座り込んでいた。独りでに起きてしまったのだろうか。
 上から吊るされているような位ぴんとした背中には、微かながらも驚きを感じさせる。
「……○○君?」
 小さく、しかしはっきりと、彼の名前を呼ぶ。彼は俯き、こちらに顔を向けようともしなかった。
「どうしたの?」
 その時、彼の右手がシュパッと伸び、畳んである服に乗った目隠しを鷲掴みにして、目にも留まらぬ速さで身に着けた。
 彼はようやく振り向いて、
「何でも無いです。ともかく、朝御飯にしましょう」
 慌しい口調で応答した。
「え、えぇ、そうね……。今用意するわ」
 霊夢はその場から立ち去って、台所へと向かった。
 今の焦った素振りから、霊夢は確信した。○○の視力は完治している。
 恐らく目が覚めた瞬間、眩しさを感じられたことに吃驚したのだろう。数年間光を目にしていないのだから、驚くのは当然だ。
 では何故、目隠しを手に取ったのか。突然の視力回復に対して、新たな恐怖でも覚えたのだろうか?
 自分の顔を見られるのが恥ずかしい? それだったら今までに目隠しをはずす理由が無いか……。
(私が怖いのかな……)
 やっぱり自分を避けているのではないかと、不安感が過ぎる。
(でもそうだったら、今まであんなに素直にしないわよねぇ……)

 足音が完全に消えたのを確認してから、僕はアイマスクをゆっくりとはずした。
 何度目をこすろうと変わらない。僕の視力は、昨晩の間で完全に回復したようだ。
 未だに信じられない。どうしてこんなに唐突だったのかはよくわからないが、とりあえず今は驚きと喜びで一杯一杯である。
 霊夢さんが入ってきた時には、すぐさま報告しようかと考えたが、僕はそうせずいつものように平静を装った。
 ここで治った事がわかってしまえば、僕がここにいる意味が無くなる。博麗神社に、幻想郷に居座る意味が無くなるのだ。
 正直、僕はまだ彼女と一緒にいたかった。母さんなんかよりずっと親切だし、何よりも環境がいい。

 できることならば、ずっと──。

 ……って、何を言ってるんだか。前言撤回。「もう少し長く」に修正する。
「準備できたわよー」
 障子越しに霊夢さんが呼びかけた。僕は急いで服のボタンを締め(この時は自分の服である)、アイマスクを再び掛けた。
「今行くよ」

 無言の朝食だった。僕も彼女も、噛む音すらも立てずに黙々とご飯を食べていた。
 具合でも悪いのだろうか。いつもなら、何か話を持ちかけてくるのに……。
「どうかしたの?」
 僕は昨日の残りの煮物を口に運びながら、何事も無いように問いかけた。
「ううん……」
 どうにも様子が変である。まさかもう既にばれていたりして?
 結局、僕達が朝食の間に交わした言葉は、その一言だけで終わった。

 食後は、勿論のように霊夢さんが片付けを行った。本当は治っているのに、何もしないというのは流石に気まずい。
(やっぱりはっきり言った方がいいのかな……)
 でも今更「実は今朝治ってました」なんて言ったって聞いてくれないよなあ……。完璧に暴露するタイミングを逃してしまった。
 霊夢さんが戻ってきて座る。再び物音は消え、両者沈黙の世界。

「……ねえ」
 5分は経っただろうか。彼女がようやく口を開いた。
「散歩、しない?」
「また?」
「イヤ?」
「全然」
「ならいいわ」
 霊夢さんは立ち上がって、僕の左腕を掴んだ。
「行きましょ」
 僕も立ち上がって、霊夢さんについていく。
「昨日の続き?」
「そんな所ね」

 外へ足を踏み入れた瞬間、ザクッと、土やアスファルトとはまた違う感覚が足にあった。
「これは……雪?」
「昨夜積もったのよ。参道の所以外は結構深いから、気をつけてね」
 先程の眩しい光とは裏腹に、外は昨日以上の冷え込みだった。薄着だったら半日もすれば凍死する程の勢いだ。

 まもなく神社から出るだろうと思う位の距離を歩いたところで、霊夢さんがピタッと足を止めた。
 すると彼女は手を離して、前に2,3歩歩いた。
「霊夢さん?」
 僕の問いかけには応えず、彼女は僕に背を向けたまま(声が背中で遮られていたので)、話し始めた。

「もう、治ってるんでしょ?」
「っ……!」
 私はもう、彼の核心を衝く事にした。
 それで平静を装ったつもりなのだろうか。ばればれである。芸が下手である。
 私の事を気遣ってやっているのだろうけど、彼だって本当は、目隠しなんて物はもうしたくないに決まってる。
 ここからは、全ての景色を一望できる。彼には是非、この雪に覆われた幻想郷を見て貰いたかった。
「治ってるんでしょ?」
 彼の方に向き直って、もう一度問う。
「な……」
 彼は唖然としている。そんな別に、悪い事をしたわけじゃあるまいし。
「な、治って、治ってないよ! まだ治ってない!」
「はーぁ……」
 呆れてため息しか出てこない。何がそんなに嫌なのか。まさか治ったとばれたら、私が外に強制追放するのだとか、
 また訳のわからない事を思っているのか?
(そんなこと、私がするわけが無いでしょう……)
 ゆっくりと、ゆっくりと彼のもとへ歩み寄る。

(何故なら、私は──)

 彼の耳元のゴム紐に、手を掛けた。

 左耳に唐突に感じられる指の温もり。指はアイマスクのゴム紐に手を掛け、それを僕の耳からはずしていく。
 身動きが取れなかった。暴れる気にも、止めさせようともしなかった。
 アイマスクは完全に外れ、僕の目には再び光が飛び込んできた。

 女の人が、僕の目の前に立っていた。

 厳密に言えば、僕と同じくらいの身長で、どちらかというと「女の子」と言った方が近い。
 頭に大きなリボンを着け、髪を背中辺りまで伸ばし、耳にかかる一部を髪留めで留めている。
 服は、肩から二の腕の半分くらいまで露出した、一風変わった紅白の巫女服。袖は別になっている。
 女の子は僕のアイマスクを右手の人差し指でくるくる回しながら、口に笑みを浮かべていた。
「嘘つき」
 声が出なかった。
「初めまして、○○さん。私が、博麗 霊夢です」
 博麗 霊夢と名乗った女の子は、ぺこりと頭を下げた。
 僕は口をパクパクしながら、彼女の顔を見つめていた。
 言葉が出てこない。今にも溢れ出てしまいそうな感情だけが僕を満たし、僕の身体を、思考を停止させる。
「か……」
「ん?」

「可愛い……」

 ようやく出た単語が、それだった。冗談などではない、本心である。本当に、可愛いかった。
「あら……ありがとう」
 彼女は頬を赤らめて、目を逸らした。
「随分率直な意見ね」
「はい……」
「吃驚した?」
「はい……」
 つまり僕は今まで、
 こんなに可愛い子と、手繋いだり、抱き締められたり、泊めて貰ったり、仕舞いには一緒に風呂まで入ったりして……。
 顔がどんどん熱くなっていく。僕は下を向いた。
 赤面すると俯く、という行動パターンは、もう身体にインプットされしまったらしい。
「何恥ずかしがってんのよ」
 霊夢さんが僕の顔を覗き込んでくる。僕の顔は更に熱くなってしまう。
 こちらが顔真っ赤にしているのを知っててやっているようにしか思えない。
「あーあ」
 彼女は顔を引っ込め、横を向いて空を仰ぐ。
「治っちゃったから、あなたとはもうお別れなのよねぇ……」
 寂しいなぁ、と一言加えて、彼女は僕の答えを待った。とてもわざとらしい言い方だった。
「え、ちょっと待って……」
「何よ?」
「いや、その……」
「帰るんじゃないの?」
 僕はこの時点で決めていた。
 もう帰らないと。幻想郷の、博麗神社の住人になると。
 きっと彼女だって、それを望んでいるはず。

(何故なら、僕は──)

「僕は、」
「うん?」
「僕は……君とまだ、一緒に居たい、ですっ!!」
 言いたいことを、はっきりと相手に伝えたつもりだ。何年か振りに、腹から声を出したような気がする。
 これが僕の、今の想い。外の世界に帰る気は、もう微塵も無い。
 彼女は、一瞬だけ驚いた顔を見せると、すぐに肩を落として、表情を緩めた。
「駄目、かな?」
「……いいえ」
 彼女は首を振る。

「真逆ね」
 その時いきなり、彼女は僕の方へ駆け寄って来た。
 彼女はその勢いのまま、僕の両肩に手を乗せ、少し背伸びする──。


「ちゅ」
「っ……!」


 意識が戻った時には、彼女は僕の一歩前で、もじもじしながら、僕の方を上目で見ていた。
 頭が真っ白になっていて、先程の部分だけ記憶が曖昧である。
「ど、どうしたのよ……顔、真っ赤じゃない……」
 言っている割に、彼女の顔も相当赤かった。
 大胆である。非常に、大胆である。
「あ、あ……」
 再び返事に困る僕。
「な、ななな、今、な、え、なんで!?」
 昨日と全く変わらない、慌てふためいた台詞。
「……決まってるじゃない」
 彼女も同じ言葉を持ちかける。
 しかし今度は、何をどう言おうと、彼女から出る答えは一つしかない。

「……きだから」
「え?」
「……すき、だから」
「はい?」
 予想通りの言葉だったが、あえてもう一度聞く。
「あぁ、もう!!」
 何度も聞き返した僕に苛ついたのか、彼女は僕に突っ込むように抱きついてきた。
「本っ当、鈍いのね! あなたって人は!」
 彼女は僕の肩に顔を埋めて、僕に怒った。
 そして、抱き締めた腕の力を強くして、されど優しく僕に言った。
「好きだって、言ってるでしょう……」
 今、確かに僕と彼女の、心臓の鼓動が高鳴っていくのを感じた。
 無意識に、彼女の背中に手を回す。これ以上距離は縮まらないのに、彼女を両手で引き寄せようとする。
「両想い、って事か……」
「そうね」
「何か、変な感じだね」
「うん……」
 もしかしたら、
 僕はこの子のお陰で、視力を取り戻せたのかもしれない。
 この世界、幻想郷を、全ての情景を、そして彼女を目にしたいという気持ちが、僕の重い瞼を後押してくれたのかもしれない。
 何にせよ、僕が彼女に言えることは、
「……ありがとう」
 この一言に尽きる。
「何が?」
「全部」
「……そう」
 彼女はニッコリと笑って見せる。僕も、今まで誰にも見せた事の無い程の、満面の笑みを返した。
 僕と霊夢さんは暫くの間、黙って抱き合った。
 風の音が聞こえる。木の枝が揺れている。落ち葉が舞う。はためく彼女の服。揺れる髪。
 僕は初めて、風を「見る」、という事を実感した。


 博麗神社からそこそこ離れた小道を、互いに肩を寄せ合い、互いに手を繋ぎ歩く、一人の少年と、一人の少女。

 僕と霊夢さんは、散歩の続きを始めていた。道に積もった雪は何者かによって両脇に退かれ、歩けるようになっていた。
「わぁ……!」
 思わず歓声が上がった。
 右前方、方角で言うと北の方に、大きく聳え立つ山があった。「妖怪の山」という。
 山の頂上から4合目位までを、雪の笠が覆っていた。
「綺麗だな……」
 「あの日」と同じ、銀色のオブジェ。それは太陽に照らされて、本当に銀色に輝いているようだった。
「これが、幻想郷──」
「あら、山だけで判断されちゃ困るわね」
 霊夢さんが口を挿んだ。
「素敵なものなんて、案外身近にあるものなのよ」
 頬を膨らまして僕に言った。
「……お賽銭?」
 コクッと頷かれる。
「そういえば、あなたがくれたお賽銭、あれって外の物でしょ? あれはこっちじゃ使えないわ。全くと言って価値が無い」
 ダメ出し。
「じゃあどうしろと……」
「いや、別に働けって言うわけじゃないんだけどね」
 そう言うと彼女は、僕の右手に腕を回して、
「一緒に居てくれれば、それでいいわ」
 僕の方を見て、笑って見せた。
「……へぇ」
 僕は巻きついた彼女の腕を解き、彼女の右肩に手を掛けて寄りかからせた。
「結構、簡単じゃない?」
 彼女の肩が、だんだんと熱を持ち始めると共に、顔も赤くなり始めていた。
「そうね……」
 目を閉じて、僕の肩に頭を預ける。


 冬の乾いた空気に紛れて、僅かに、本当に僅かに穏やかな風が流れ込んだ。

 寒さは昨夜で峠を越えたらしく、

 間もなく、春の準備が始まろうとしている。



 ─終─

うpろだ1358、1360、1391、1435

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最終更新:2010年05月14日 00:40