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第二章 足元に広がる嘘 ② - (2006/08/24 (木) 04:50:18) の編集履歴(バックアップ)


「第二章 足元に広がる嘘」 ② 市区改正の中身


  市区改正の中身 47頁

明治時代の半ば、「市区改正」という東京市(いまの東京都)の公共事業があった。道路が敷

かれ、下水が整備されるはずだったが、この事業は湯水のように金を使うだけで、道路も敷かれ

ず、下水も整備されなかった。

東京日日新聞は「一〇年経っても未着工」と報じ、時事新報は「全然見込みなし」と大見出し

で伝えている。日本建築学会は戦後になって当時を振り返り、「一〇年経っても一本の道路も敷

かなかった」と断を下している。             

当時、東京市の公共事業に何が起こっていたのだろうか。東京市議会の議事録から、まずは後

貫朝吾郎(あとぬきあさごろう)市議の発言の引用である。
  
―――この工事は二〇〇〇万円でありまして、三分の一の補助を受けているにもかかわらず、す

でに支払いする時分には、四〇〇〇万円の金を市民が払わなければならぬということにな

っているのであります。私ども市民といたしまして、二〇〇〇万の仕事に対する四〇〇〇

万の支出ということは実に奇怪千万に耐えないと思うのであります。

    
さて、「
後貫(あとぬき)朝吾郎」は「尾後貫(おごぬき)朝五郎」の誤りではないかと思われますが、京橋区2級選出1911年選挙落選、1912年当選、1918年6月名が無いが1922年6月当選。
1926年6月名が消えると言う方です。

  市区改正の中身 47~48頁

続いて、吉川忠士(よしかわただし)市議の引用である。
―――ここはいずれ公園の用地にするということで、本予算で七六万しかないものが、一二款

をごらんください。わずか陸軍省の地所を買うのに一四三万の金、そんなばかなことがあり

ますか。

吉川忠士」は1922年6月芝区選出の「吉川忠志」ではないかと思われるのですが。
し たがって、尾後貫氏、吉川氏の発言は、1922年(大正11年)6月以降の市会での発言と言うことになると思われますが、秋庭氏、例によって自分に都合の 悪い記録は端折られると言うテクニックをお使いになりますので、上記には御覧の様に、両氏のいつの発言か、時期の明示がありません。

さて、「市区改正」は当初案が明治23年(1890年)に出て着手され、着工されますが、要求仕様が高過ぎて街路をはじめ事業が進捗しません、東京日日新聞が「
一〇年経っても未着工」と報じ、時事新報は「全然見込みなし」と大見出しで伝える訳でしょうが、この記事が書かれたのは、明治23年の10年後明治30年代半ば、と言うところでしょうか。
そ こで「新設計」なる簡素化案が明治36年(1903年)に出、市街鉄道用に主要街路の拡幅することなどに事業計画を絞り込むなど手直しがなされます。結 果、都市計画法が施行される大正8年(1919年)まで事業は継続され、秋庭氏は成果を生まなかったと書かれていますが、築港事業こそ未着工ながら、実際 には東京市15区内では、新設計での幹線道路は、ほぼ完成し、上水道も完備され、運河、公園等も完成しています。

すると、上記二会士の発言は、「市区改正」についての明治30年代半ばの市会での発言となってしまいますが、そうなのでしょうか?尾後貫朝五郎氏ですら1912年(明治45年、大正元年)初当選なのですが。


  市区改正の中身 48頁
  
東京市の工事を二〇〇〇万で請け負い、四〇〇〇万も請求できるようなところは、私には陸軍

しか思いつかない。市区改正の事業がはじまり、毎年予算が使われ、一〇年後に「未着工」と報

道されていたのは、その間、東京市の工事はまったく行われていなかったからである。二人の市

議の発言から、東京市にはこの事業の決定権もなく、予算は陸軍に流れていたと想像がつくと思

う。一〇年分の予算が消えた後、「全然見込みなし」と伝えられていたのは、相手が陸軍だった

からではないだろうか。

「二人の市議の発言」のどこをどうしたら、「予算は陸軍に流れていたと」想像がつくのでしょうか?
「一〇年分の予算が消えた後、」どこに、「一〇年分の予算」という記述があるのでしょうか?これと、「時事新報」の「全然見込みなし」の見出しとがどう結びつくのでしょうか?

秋庭氏は時に面白い「秋庭算」をなさいます。例えば、

  「新説 東京地下要塞」14頁

  グラウンド六つ分の地下駐車場

  サンシャインビルの地下二~三階は、駐車場である。わが国最大の地下駐車場なのだという。

  収容台数は一八〇〇台とも、一九〇〇台ともいわれている。

・・・中略・・・

  地下駐車場の広さが六万平米というのも常軌を逸している。たとえば、野球のグラウンドは、

  ざっと、一〇〇メートル四方、一万平米だから、池袋の地下に六つのグラウンドが広がって

  いる計算になる。この駐車場は地下二層だから、都合、一二のグラウンドである。


と言うように。
いつの間にやら面積倍増してますが(w
多分「一〇年分の予算」はこの様な秋庭算の賜なのでしょう。


  市区改正の中身 48~49頁

  市区改正の事業は、一八八八(明治二一)年にスタートした。この事業を推し進めていたの

は、明治政府の中心的人物・山県有朋である。山県はその二年前、陸軍参謀本部長として、臨時

砲台建築部を創設している。
  臨時砲台建築部は、後の築城本部である。太平洋戦争開戦前、築城本部は皇居と赤坂離宮に防

空壕を建設し、参謀本部の防空壕を市谷に、海軍軍令部の防空壕を霞が関に設置している。陸軍

の地下建築部といったところである。

市区改正の事業は、一八八八(明治二一)年にスタート」と言うのは、この年に市区改正委員会が発足していることを指しています。実際の事業化着手は、旧設計案が出た1890年(明治23年)です。
「海軍軍令部の防空壕」とは、秋庭氏が改造されて千代田線の霞ヶ関駅になったと主張される「霞ヶ関海軍省(海軍軍令部を含む)の地下防空室」のことですが、「日本防空史」には「築城本部」が構築したとは書かれていません。


  市区改正の中身 49~50頁

  築城本部の浄法寺朝美大佐は、戦前、陸軍の地下建設を統轄する立場にあった。戦後、大佐は

『日本築城史』『日本防空史』を著し、明治以後の砲台建設について記している。陸軍が最初に

砲台を建設したのは一八七六(明治九)年、東京湾の左右両岸、観音崎と富津だったということ

である。

  観音崎、富津周辺には、当時つくられた地下道が縦横に走っていて、いつ崩壊、崩落するかわ

からないため、いたる所に立入禁止の札が立てられている。
  なぜ、砲台周辺に地下道をつくる必要があったかというと、列強の艦隊による砲撃のさなか、
  武器弾薬を輸送し、人員を移動させるためである。

  観音崎、富津に限らず、砲台は敵軍の攻撃目標となる。そんな所に弾薬庫をつくるわけには
  いかない。『日本築城史』によれば、明治初期、陸軍は砲台と弾薬庫を五〇〇メートル離して
  建設し、その間を地下道で結んでいたという。二点を結ぶルートは、多いにこしたことはない
  そうである。
  
明治初期から中期にかけて、大砲の性能は飛躍的に伸びていた。観音崎と富津の砲台は、射程
  
が五~一〇キロだったが、日清戦争時、大砲の射程距離は五〇キロを超えていた。つまり、東京
  
湾を防衛するにしても、もはや海岸に砲台をつくる必要はなかった。市内(いまの都内)のどこ
  
からでも東京湾に砲弾が届いた。

以上の記述の虚偽性については--「日本築城史」からの捏造--に詳述しましたのでそちらを参照下さい。



  市区改正の中身 50頁

  
市区改正が痛烈に批判されていた頃、実は、一本の道路が敷かれていた。池袋、大塚、護国寺
  
付近の計画図が左上にある。「坂下通り入口」に矢印がある。
  
下の地図は、いまの同所付近である。この時期、唯一、敷設されていた道路は、坂下通りとい
  
う。この通りは矢印の先から北へ向かい、西へと大きくカーブした後、「Ж」のマークで行き止
  
まりとなっている。このマークはロシア語のアルファベットで、監獄を表していたようだ。
  当時、ここには巣鴨監獄があった。

まず、単純なところから、「
当時、ここには巣鴨監獄があった。」と書かれていますが、
付近の計画図と称される下記の「東京市区改正全図」これは明治23年(1890年)に策定された図です。
この時点では、まだ巣鴨監獄は存在しておりません、「巣鴨監獄」の前身である、「警視庁監獄巣鴨支署」がこの地に建設されたのは、明治28年(1895年)のことです。




 「新説 東京地下要塞」秋庭俊著 2006年講談社刊 51頁より

「市区改正」に際しての計画図は、それぞれの改正計画の目途に応じ、同一の地図版から起されています。従って、旧設計(明治23年)の「市区改正」計画に応じて「東京市区改正全図」は、複数種類が存在し、「東京都公文書館」等に保存されています。そして、「
東京都市計画資料集成明治・大正篇東京市区改正委員会議事録」(本の友社復刻)等で復刻されています。
秋庭氏がどの目途の図の復刻版から、上図を無断複写されてこられたのか?原典が追えてはいませんが、東京都が1976年に復刻頒布した、「東京市区改正全図」から上図に対応した部分を以下に挙げます。




御覧の様に、「東京市区改正全図」は墨摺りの地図上に、手引き、手塗りで、計画道路の種別や、計画用途地を色付けしています。
「小石川大塚坂下町」の西側黄色の塗潰しは、計画の凡例では「埋葬地」となっています。また、秋庭氏が「巣鴨監獄」への計画道路とされている、上図では朱引きの実線は「五等道路」(一等に一種と二種がありますから実際のランクでは6番目)と凡例にありました。
いずれにしても、秋庭氏の「東京市区改正全図」ですら「巣鴨監獄」の位置とされる場所にある「×」印はぶっ違いの警杖、すなわち「交番(警察官署)」を表わす地図記号であり、キリル文字「Ж」ではないことが理解いただけるものと考えます。


以下は作成途上(明8月25日UP予定)ですが、一応上記部分まで、検証結果を公開しておきます。

  市区改正の中身 52頁

  
一九〇九 (明治四二)年の地図が左にある。陸軍陸地測量部の製作である。右下の矢印の先、
  
坂下通りが完成している。突き当たりは巣鴨監獄である。矢印の南に立ち並んでいるのは陸軍の
  
武器庫である。

  もちろん、陸地測量部の地図だけに、私は一〇〇パーセントは信用してはいない。たとえば、
  
坂下通りの道幅が広すぎるように思える。歩道の幅を加えても、ここまで広くはないはずであ
  る。巣鴨監獄に入ったあたりも妙に立体的に描かれている。

  坂下通りは巣鴨監獄への一本道である。監獄に用がない限り、まず、この道は通らない。付近
  
の住民は、すぐ右手の春日通りを利用していた。市区改正当初、そんな道路が唯一、開放されて
  
いた。


  市区改正の中身 52頁

  
道路が敷かれてまもなく、江戸城から吹上稲荷が遷座している。その頃まで道の両側には畑が
  
広がっていたが、大正時代に住宅が建ちはじめ、その後、この通りは震災の大火を免れ、度重な
  
る空襲でも焼けなかった。いまでも所々に戦前の面影が残っている。

  実は、坂下通りには、山ほどの都市伝説がある。お化け、幽霊のたぐいはもちろん、深い穴、
  
深い川、地の底のうなり、足下から線路音が響き、貨物の笛が聞こえてくるなど、他の場所では
  
聞いたこともないような話が目白押しである。

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