「東京高速鐵道略史の略史 その1」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る
東京高速鐵道略史の略史 その1 - (2007/05/17 (木) 23:40:36) の編集履歴(バックアップ)
「東京高速鉄道略史」と言う書物は秋庭氏の各出版物の「参考文献一覧」等には次の様に掲示されている。
刊行時期 |
書 名 |
引用元表記 |
|
1 | 2002年12月10日刊 |
「帝都東京・隠された地下網の秘密」 |
五島慶太『東京高速鉄道略史』東京高速鉄道 一九三九 |
2 | 2004年5月8日刊 | 「写真と地図で読む!帝都東京地下の謎」 (洋泉社) |
『東京高速鉄道略史』交通日報社 1939年 |
3 | 2005年2月10日 | 「帝都東京・地下の謎86」(洋泉社) | 五島慶太『東京高速鉄道略史』東京高速鉄道 一九三九 |
4 | 平成18年2月1日 | 「帝都東京・隠された地下網の秘密」 (新潮文庫) |
五島慶太『東京高速鉄道略史』東京高速鉄道 一九三九 |
5 | 2006年6月15日刊 | 「新設東京地下要塞」(講談社) | 『東京高速鉄道略史』 (1939/交通日報社) |
6 | 2006年12月25日刊 | 「大東京の地下99の謎」(二見書房) | 五島慶太『東京高速鉄道略史』東京高速鉄道 一九三九 |
この書き振りからみると、五島慶太と東京高速鉄道の「東京高速鉄道略史」と交通日報社の「東京高速鐵道略史」がある様にも見えるが果たしてどうなのだろうか?その回答は取り敢えず後のこととして、それぞれ何がどの様に改竄改変されているのか、見ていくこととする。
まず基本形として地下妄シリーズの先駈け「帝都東京・隠された地下網の秘密」(洋泉社版)について見ていきたい。
77頁末から78頁にかけ、どう言う訳か『丸の内線建設史』と併せて、以下の様に書かれている。
『丸ノ内線建設史』では、戦前、大倉組(大成建設の前身)は東京高速鉄道という地下鉄の
会社を興し、その会社はいまの銀座線の渋谷―新橋間を建設した。また、同社は新宿と築地を
結ぶ地下鉄新宿線の免許も持っていて、これも建設される予定だったとしている。
一九三八年(昭和十三)にまとめられた『東京高速鉄道略史』では、地下鉄新宿線全線の建
設費三六〇万円はすでに投じたとあり、一年もしないうちに新宿線が開通しそうな口ぶりになって
いる。
また、ここには新宿線のルートも記されていて、それがいまの首都高新宿線のルートに重なっ
ている。
また、138頁には
この駅を建設したのは大地下鉄会社の東京高速鉄道である。東京高速はその後、新宿線と
渋谷線を結ぶとして、四谷―赤坂見附の免許を取得している。この赤坂見附駅は、つまり、渋谷
線から新宿線へ向かう起点ということで、二段重ねの駅になっていた。だが、東京高速は結局、
新宿線はまったく建設しなかったのだという。渋谷線の渋谷―新橋だけは開通したものの、新橋
―東京駅については未建設だという。また、四谷―赤坂見附という連絡線についてもまったく線
路は敷かなかったとされている。
しかし、渋谷線が開通した一九三九年(昭和十四)、『東京高速鉄道略史』という本がまとめら
れている。この『略史』を読むと、そうは思えないようなことが書かれている。
同社は渋谷線四マイルに二千万円、新宿線二マイル半に三百六十万円、合計二千三百六十
万円の建設費を投じた。これが建設費は払込金一千五百万と借入金をもって支弁した。
これは会社の概要というところの記述になる。つまり、東京高速鉄道はこの時点ですでに新宿
線の建設費を投下している。当時としてはこの金額は「巨費」というべきものであり、それだけの
投資をして建設が行われなかったというのは、常識では考えられないことではないだろうか。
また、この『略史』では、渋谷線の新橋―東京駅についても、昭和十二年七月三十日に鉄道大
臣から工事施工認可を得たので、鉄道省東京改良事務所に委託したと書かれている。
もう一つのパターンというのか?応用系というのか。「写真と地図で読む!帝都東京地下の謎」には、本文において出典が明示されていないのに、巻末の参考文献に「東京高速鉄道略史」の名があるので、何のことかと思ったら、「幻の地下鉄新橋駅」の項で使われていました。
まず12頁にこんな記述があります。
地下鉄銀座線には、もう一つの新橋駅が存在する。外堀通りの地下、現在の新橋駅の北側
である。だからといって、北側には厚い壁があるだけのことだが、その壁の向こうには、実は、中
二階のような場所が広がっている。それがもう一つの新橋駅である。
次に13頁にこんな記述が。
同年九月一六日、こうして浅草―渋谷間の直通運転が開始された。東京メトロ(営団地下鉄の
新名称)に聞いたところによると、このとき、もう一つの新橋駅が姿を消したそうである。わずか八
カ月間しか使われなかった駅ということになる。
しかしながら、同年九月二八日、直通運転の開始を記念してまとめられた小冊子には、それと
は異なることが記されている。
虎ノ門-新橋間では、この地下鉄には四本の線路が並行しているという。外側二本が東京地
下鉄道に乗り入れて直通運転に使われ、内側の二本はこれまでどおり、渋谷までの折り返し運転
にあたっているとある。
どちらが真実なのかは確かめようもないが、開戦直前、二つの会社を吸収して営団地下鉄が
発足したときには、もう一つの新橋駅というものは壁の向こう側に姿を消している。
東京メトロが編纂している社史には、かつてそんな駅があったことも記されていない。なぜ、折
り返し運転が中止されたのか、戦争中、そこは何に使われていたのかなども、まったく触れられて
いない。
何故、私がここの記述を「東京高速鉄道略史」からと言うのかと言えば、この「同年九月二八日、直通運転の開始を記念してまとめられた小冊子」が「略史」と判明したからだったんですね。
東京高速鐵道略史(交通日報社刊)1939年 都立中央図書館蔵
まぁ、別にカラーで複写せんでも良いようなものですが、一度は御目文字したいものと。出会えた感激でカラー複写依頼してしまいました。
この表紙を御覧になって、皆さん意外と思われなかったでしょうか?