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東京高速鐵道略史の略史 その1 - (2007/05/22 (火) 22:53:11) の編集履歴(バックアップ)


東京高速鐵道略史の略史 その1

「東京高速鉄道略史」と言う書物は、秋庭氏の各出版物の「参考文献一覧」等には次の様に掲示されています。
 

刊行時期

書  名

引用元表記

2002年12月10日刊

「帝都東京・隠された地下網の秘密」
(洋泉社)

五島慶太『東京高速鉄道略史』東京高速鉄道 一九三九
2004年5月8日刊 「写真と地図で読む!帝都東京地下の謎」
(洋泉社)
『東京高速鉄道略史』交通日報社
 1939年
2005年2月10日 「帝都東京・地下の謎86」(洋泉社) 五島慶太『東京高速鉄道略史』東京高速鉄道 
一九三九
平成18年2月1日 「帝都東京・隠された地下網の秘密」
(新潮文庫)
五島慶太『東京高速鉄道略史』東京高速鉄道 
一九三九
2006年6月15日刊 「新設東京地下要塞」(講談社) 『東京高速鉄道略史』
(1939/交通日報社)
2006年12月25日刊 「大東京の地下99の謎」(二見書房) 五島慶太『東京高速鉄道略史』東京高速鉄道 
一九三九


 この書き振りからみると、五島慶太と東京高速鉄道の「東京高速鉄道略史」と、交通日報社の「東京高速鐵道略史」がある様にも見えますが果たしてどうなのでしょうか?
 その回答は取り敢えず後のこととして、それぞれ何がどの様に改竄改変されているのか、見ていくこととしましょう。

 まず基本形として地下妄シリーズの先駈け「帝都東京・隠された地下網の秘密」(洋泉社版)について見ていきたいと思います。

   「帝都東京・隠された地下網の秘密」(洋泉社版)

  77頁末から78頁にかけ、どう言う訳か『丸の内線建設史』と併せて、以下の様に書かれています。

     『丸ノ内線建設史』では、戦前、大倉組(大成建設の前身)は東京高速鉄道という地下鉄の
   会社を興し、その会社はいまの銀座線の渋谷―新橋間を建設した。また、同社は新宿と築地を
   結ぶ地下鉄新宿線の免許も持っていて、これも建設される予定だったとしている。
     一九三八年(昭和十三)にまとめられた『東京高速鉄道略史』では、地下鉄新宿線全線の建
   設費三六〇万円はすでに投じたとあり、一年もしないうちに新宿線が開通しそうな口ぶりになって
   いる。
     また、ここには新宿線のルートも記されていて、それがいまの首都高新宿線のルートに重なっ
   ている。

  また、138頁には

     この駅を建設したのは大地下鉄会社の東京高速鉄道である。東京高速はその後、新宿線と
   渋谷線を結ぶとして、四谷―赤坂見附の免許を取得している。この赤坂見附駅は、つまり、渋谷
   線から新宿線へ向かう起点ということで、二段重ねの駅になっていた。だが、東京高速は結局、
   新宿線はまったく建設しなかったのだという。渋谷線の渋谷―新橋だけは開通したものの、新橋
   ―東京駅については未建設だという。また、四谷―赤坂見附という連絡線についてもまったく線
   路は敷かなかったとされている。
     しかし、渋谷線が開通した一九三九年(昭和十四)、『東京高速鉄道略史』という本がまとめら
   れている。この『略史』を読むと、そうは思えないようなことが書かれている。
     同社は渋谷線四マイルに二千万円、新宿線二マイル半に三百六十万円、合計二千三百六十
   万円の建設費を投じた。これが建設費は払込金一千五百万と借入金をもって支弁した。
     これは会社の概要というところの記述になる。つまり、東京高速鉄道はこの時点ですでに新宿
   線の建設費を投下している。当時としてはこの金額は「巨費」というべきものであり、それだけの
   投資をして建設が行われなかったというのは、常識では考えられないことではないだろうか。
     また、この『略史』では、渋谷線の新橋―東京駅についても、昭和十二年七月三十日に鉄道大
   臣から工事施工認可を得たので、鉄道省東京改良事務所に委託したと書かれている。

 この様に書かれています。

 「写真と地図で読む!帝都東京地下の謎」には、本文において出典が明示されていないのに、巻末の参考文献に「東京高速鉄道略史」の名があるので、何のことかと思ったら、もう一つのパターンというのか?応用系というのか、「幻の地下鉄新橋駅」の項で使われていました。

   「写真と地図で読む!帝都東京地下の謎」

  まず12頁にこんな記述があります。

     地下鉄銀座線には、もう一つの新橋駅が存在する。外堀通りの地下、現在の新橋駅の北側
   である。だからといって、北側には厚い壁があるだけのことだが、その壁の向こうには、実は、中
   二階のような場所が広がっている。それがもう一つの新橋駅である。

  次に13頁にこんな記述が。

     同年九月一六日、こうして浅草―渋谷間の直通運転が開始された。東京メトロ(営団地下鉄の
   新名称)に聞いたところによると、このとき、もう一つの新橋駅が姿を消したそうである。わずか八
   カ月間しか使われなかった駅ということになる。
     しかしながら、同年九月二八日、直通運転の開始を記念してまとめられた小冊子には、それと
   は異なることが記されている。
     虎ノ門-新橋間では、この地下鉄には四本の線路が並行しているという。外側二本が東京地
   下鉄道に乗り入れて直通運転に使われ、内側の二本はこれまでどおり、渋谷までの折り返し運転
   にあたっているとある。
     どちらが真実なのかは確かめようもないが、開戦直前、二つの会社を吸収して営団地下鉄が
   発足したときには、もう一つの新橋駅というものは壁の向こう側に姿を消している。
     東京メトロが編纂している社史には、かつてそんな駅があったことも記されていない。なぜ、折
   り返し運転が中止されたのか、戦争中、そこは何に使われていたのかなども、まったく触れられて
   いない。

 何故、私がここの記述を「東京高速鉄道略史」からと言うのかと言えば、この「同年九月二八日、直通運転の開始を記念してまとめられた小冊子」が「略史」と判明したからだったんですね。


    東京高速鐵道略史(交通日報社刊)1939年 都立中央図書館蔵

 まぁ、別にカラーで複写せんでも良いようなものですが、一度は御目文字したいものと。出会えた感激でカラー複写依頼してしまいました。

 この表紙を御覧になって、皆さん意外と思われなかったでしょうか?エッ?雑誌?なの?と。
都立中央図書館の請求票(書庫資料の請求用の紙)には「大きさ:13×20cm」、「頁数:64p」とあります。
 そうなのです、交通日報社の「東京高速鐵道略史」はこの表紙にあるように交通日報と言う業界紙の「特輯」つまり、「特集」号だったんですね。実際この64頁のほぼ三分の一がこの渋谷線に関わった業者さんの出稿広告。まぁ、完成にかこつけての広告収入を当て込んだ、一寸とり屋っぽい業界紙の小商いの成果と言うところでしょうか。
 でも、この小商い、秋庭さんに取り込まれただけのことはあって、意外と馬鹿にならないものだったんです。

 それでは、ここまでの秋庭さんの記述に関わるところについて、まず、「写真と地図で読む!帝都東京地下の謎」の記述がこの「小冊子」によると言うところを挙げてみましょう。


 「東京高速鐵道略史」(以下「略史」とします)10頁~12頁の「線 路 の 大 要」と言う章の内、「新橋」に関わる部分になります。なお、原点の引用転記に当っては、出来るだけ原文に合わせる為にMS-IMEでも記述可能な旧漢字はそのまま、もしくはその異体字を使い、そして誤植等も原文に合わせて残すことにしています。

   之(虎ノ門駅、619注)より新橋停車場は零粁八分で淺草への直通電車は、
  四線併列の内の外側二線で地下鐵淺草線と線路を直結し地下鐵のホーム
  に停車し、両社の車は相互澁谷淺草間を直通運轉する、澁谷又は新宿に戻
  る電車は四線併列の内中央の二線を田村町の交叉點地下より漸次昂上す、
  地下鐵ホームより一段上の中二階に設くるホームに横付となる、

 ここで「地下鐵」と言っているのは、他の部分でも同様ですが、一般的な「地下鉄」の意ではなく、「東京地下鉄道」のことですのでご留意ください。

 秋庭さんの「写真と地図で読む!帝都東京地下の謎」の13頁の記述

     虎ノ門-新橋間では、この地下鉄には四本の線路が並行しているという。外側二本が東京地
   下鉄道に乗り入れて直通運転に使われ、内側の二本はこれまでどおり、渋谷までの折り返し運転
   にあたっているとある。

微妙ですよね。

 「略史」に言う「四線併列の内中央の二線」のホームが所謂「幻の新橋駅」ですが、ご覧の通り「略史」には「これまでどおり」、「あたっている」とは書いてないんですが。
 また、

     地下鉄銀座線には、もう一つの新橋駅が存在する。外堀通りの地下、現在の新橋駅の北側
   である。だからといって、北側には厚い壁があるだけのことだが、その壁の向こうには、実は、中
   二階のような場所が広がっている。それがもう一つの新橋駅である。

位置関係も間違っているようですね。「現在の新橋駅の北側」って何なんでしょうか?

 実は秋庭さん自身「大東京の地下99の謎」(二見書房刊)では128頁に次の様な図すら掲げられています。
    
        大東京の地下99の謎(二見書房刊)128頁

 そして次の様な解説をされています。

      しかし、東京高速鉄道の開通当時、新橋駅において、東京地下鉄道への乗り入れは実現
    していない。東京地下鉄道側の猛反発があったからだ。
      しかたなく、東京高速鉄道は、自前の「新橋駅」を東京地下鉄道の新橋駅より少し手前に
    建設する。
      両駅は壁で隔たれていたため、乗客は乗り換えの際、一度地上に出て、向こう側にある
    もうひとつの「新橋駅」まで、50メートルほど歩かされたという。
      その不便さが不評となり、8カ月後、ようやく両駅の壁が取り払われ、相互乗り入れが実現
    した。
      乗り入れ後は、東京高速鉄道の新橋駅は使われなくなり、「幻の駅」となった。しかし、駅の
    ホームはまだ残っており、銀座線の留置線として使われている。

 どの辺が北側なんでしょうか?
 さて、秋庭氏の「東京高速の新橋駅」、

       しかし、東京高速鉄道の開通当時、新橋駅において、東京地下鉄道への乗り入れは実現
     していない。東京地下鉄道側の猛反発があったからだ。
       しかたなく、東京高速鉄道は、自前の「新橋駅」を東京地下鉄道の新橋駅より少し手前に
     建設する。

なのですが、本当にそうなんでしょうか?
一般にと言うか、通説も、

      東京高速の地下鐵浅草線乗り入れ、渋谷線との相互直通については、早川と五島の相克の
    中で、直通を拒否された東京高速側が、東京地下鐵道の新橋駅の手前に壁を隔てて独自に駅
    を建設して旅客は不便な乗り継ぎを余儀なくされた。

ことになっている。本当にそうなんでしょうか?

 地下鉄建設は、秋庭さんの言うように大変コストが掛かります。単に直通を拒否されたのなら、東京地下鐵道の新橋駅と同一平面に既に島式ホーム一面分に近いスペースが確保されているのに、何故、

        中二階のような場所が広がっている。

所に中線を敷き端頭式の駅を「しかたなく」構築しなければならなかったのでしょうか?仮駅ではなく、本格的な駅施設を「しかたなく」、東京地下鐵道との徒歩連絡のために構築するものなんでしょうか?



 答えは、秋庭さん自身「帝都東京・隠された地下網の秘密」(洋泉社刊)で「略史」からコピーされているのに。

     しかしながら、同年九月二八日、直通運転の開始を記念してまとめられた小冊子には、それと
   は異なることが記されている。
     虎ノ門-新橋間では、この地下鉄には四本の線路が並行しているという。外側二本が東京地
   下鉄道に乗り入れて直通運転に使われ、内側の二本はこれまでどおり、渋谷までの折り返し運転
   にあたっているとある。 

  


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