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◇概要
P-80は、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍航空軍が採用した初の実用ジェット戦闘機。愛称はシューティングスター。
1943年6月に開発が開始された当機は英国製エンジンのハルフォードH.1B搭載を基準に原型1号機が製作され、
僅か半年で初飛行を成功させた。
ただし原型2号機以降については搭載エンジンを米国ジェネラルエレクトリック社製I-40エンジンに変更され、
続いて製造された生産前機YP-80Aも同じくI-40を搭載することになっている。
陸軍航空隊時代は追撃機を表すP-80であったが、1948年に空軍が分離発足したため、F-80に改称された。
近代ジェット戦闘機の基本型を確立したことで高く評価され、
また当機の設計を流用した複座型練習機T-33Aは西側世界のベストセラー練習機となり、
かなりの機体が1990年代頃まで航空自衛隊を初め、世界各国で使用されていた。
◇戦果
1945年2月より量産型P-80Aの納入が開始されたが、対独戦の終結、さらに対日戦の勝敗がほぼ決し、
さらに8月には日本が敗北し大戦が終結したことから、生産は900機強でキャンセルされ、実際には45機が配備されたに過ぎない。
戦闘の終結した北部イタリアで2機が飛び、太平洋戦線では1飛行中隊が進出したフィリピンで訓練を重ねたのみで、
同時期に開発されていた日本陸軍のジェット戦闘機「火龍」やホルニッセなどを含め、第二次世界大戦中に会敵機会はなかった。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると旧態化していたF-80も制空任務に当初投入され北朝鮮軍などを相手に健闘したが、
ドイツの技術を受けて開発された後退翼を持つソ連製の新鋭機MiG-15が登場すると性能不足を指摘する声が高まり、
制空戦闘においては直後に配備されたF-86に後を譲って、対地攻撃や低空写真偵察に活路を見出し総出撃数では全米軍機中最高を記録した。
◇性能諸元
全幅:11.81m
全長:10.49m
全高:3.43m
主翼面積:22.07m2
空虚重量:3,820kg
最大離陸重量:7,650kg
エンジン:アリソン製 J33-A-35 ターボジェットエンジン 2基
エンジン推力:24.0kN
最大速度:516kt
実用上昇限度:14,300m
航続距離:718nm
乗員:1名
固定武装:12.7mm機銃6門
搭載武装:1000lb(450kg)爆弾2発、ロケット弾10〜16発
ブル「リメンバー追記修正!リメンバー追記修正!リメンバー追記修正!」
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- 橘花は海軍機ですぜ -- 名無しさん (2014-12-06 21:34:30)
- ↑直したけどこの項目ってwikipediaの記事内容とあんま変わらない気がする -- 名無しさん (2014-12-06 22:02:41)
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◇概要
P-80は、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍航空軍が採用した初の実用ジェット戦闘機。愛称はシューティングスター。
1943年6月に開発が開始された当機は英国製エンジンのハルフォードH.1B搭載を基準に原型1号機が製作され、
僅か半年で初飛行を成功させた。
ただし原型2号機以降については搭載エンジンを米国ジェネラルエレクトリック社製I-40エンジンに変更され、
続いて製造された生産前機YP-80Aも同じくI-40を搭載することになっている。
陸軍航空隊時代は追撃機を表すP-80であったが、1948年に空軍が分離発足したため、F-80に改称された。
近代ジェット戦闘機の基本型を確立したことで高く評価された。
◇戦果
1945年2月より量産型P-80Aの納入が開始されたが、対独戦の終結、さらに対日戦の勝敗がほぼ決し、
さらに8月には日本が敗北し大戦が終結したことから、生産は900機強でキャンセルされ、実際には45機が配備されたに過ぎない。
戦闘の終結した北部イタリアで2機が飛び、太平洋戦線では1飛行中隊が進出したフィリピンで訓練を重ねたのみで、
同時期に開発されていた日本陸軍のジェット戦闘機「火龍」やホルニッセなどを含め、第二次世界大戦中に会敵機会はなかった。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると旧態化していたF-80も制空任務に当初投入され北朝鮮軍などを相手に健闘したが、
ドイツの技術を受けて開発された後退翼を持つソ連製の新鋭機MiG-15が登場すると性能不足を指摘する声が高まり、
制空戦闘においては直後に配備されたF-86に後を譲って、対地攻撃や低空写真偵察に活路を見出し総出撃数では全米軍機中最高を記録した。
◇性能諸元
全幅:11.81m
全長:10.49m
全高:3.43m
主翼面積:22.07m2
空虚重量:3,820kg
最大離陸重量:7,650kg
エンジン:アリソン製 J33-A-35 ターボジェットエンジン 2基
エンジン推力:24.0kN
最大速度:516kt
実用上昇限度:14,300m
航続距離:718nm
乗員:1名
固定武装:12.7mm機銃6門
搭載武装:1000lb(450kg)爆弾2発、ロケット弾10〜16発
*T-33
アメリカ初のジェット戦闘機として配備されたP-80であったがF-86に座を譲ったことで徐々に活躍の場を失い70年代には退役した。
しかし戦闘機としては力不足になったものの素直な操縦性能は好評だったため練習機として改修がおこなわれT-33が誕生した。
初のジェット練習機ということもあり様々な国に輸出され総生産数は&bold(){6500機越え}のベストセラー機になった。
練習機以外にも様々な用途に使用され写真偵察機や標的機、中には戦闘機に返り咲いたものまで存在したほど。
海軍も本機を艦載機としての機能を持たせた改良機T2Vを導入している。
アメリカ空軍ではT-38配備に伴い引退は早かったがNASAに移管・運用され1997年まで運用された。
日本でも航空自衛隊の練習機として当初はアメリカから供与、その後ライセンス生産によって278機が導入、用途も新人の訓練のみならず基地間の連絡機や
デスクワークに移行したパイロットの規定飛行時間維持の機材として重宝されT-4に置き換わるまで40年以上日本の空を飛んでいた。
***入間川墜落事故
2002年に引退を予定していたが1999年に墜落事故が発生しパイロットは殉職。
事故当初は練習機の事故ということで新人パイロットによるものと思われたが搭乗していたのは[[元飛行教導隊>新田原基地]]所属歴があり総飛行時間5,228時間を
持つパイロットと初代ベストガイ((第201飛行隊で優秀なパイロットに贈られる称号でドラマにもなっている))総飛行時間6,492時間という優秀なパイロットが搭乗していたことが判明。
どちらも年齢からデスクワークに移行しており規定飛行時間維持での訓練中に乗機がエンジントラブルを起こし推力を喪失。
本来であればベイルアウトを行うところだが所属機が入間基地所属で回りが住宅街であったため乗機を被害の少なくするため操縦し脱出を図るが間に合わず殉職した。
両者が経験豊富なパイロットであったため脱出不可能なことは承知しており、脱出装置を起動させたのは整備士の責任を回避するという声もあった。
ちなみに同様の事故は過去にも起きており中にはかつて日本陸軍で活躍したエースの一人である小林照彦氏も最後まで被害回避のために操縦し殉職している。
結局この事故によりT-33は飛行停止、そのまま2000年に退役してしまい長年日本のパイロット育成を担った航空機には寂しい最後となってしまった。
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- 橘花は海軍機ですぜ -- 名無しさん (2014-12-06 21:34:30)
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