P-80

登録日:2010/05/17(月) 20:50:58
更新日:2021/07/12 Mon 10:15:34
所要時間:約 3 分で読めます




◇概要

P-80は、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍航空軍が採用した初の実用ジェット戦闘機。愛称はシューティングスター。

1943年6月に開発が開始された当機は英国製エンジンのハルフォードH.1B搭載を基準に原型1号機が製作され、
僅か半年で初飛行を成功させた。
ただし原型2号機以降については搭載エンジンを米国ジェネラルエレクトリック社製I-40エンジンに変更され、
続いて製造された生産前機YP-80Aも同じくI-40を搭載することになっている。

陸軍航空隊時代は追撃機を表すP-80であったが、1948年に空軍が分離発足したため、F-80に改称された。
近代ジェット戦闘機の基本型を確立したことで高く評価された。


◇戦果

1945年2月より量産型P-80Aの納入が開始されたが、対独戦の終結、さらに対日戦の勝敗がほぼ決し、
さらに8月には日本が敗北し大戦が終結したことから、生産は900機強でキャンセルされ、実際には45機が配備されたに過ぎない。
戦闘の終結した北部イタリアで2機が飛び、太平洋戦線では1飛行中隊が進出したフィリピンで訓練を重ねたのみで、
同時期に開発されていた日本陸軍のジェット戦闘機「火龍」やホルニッセなどを含め、第二次世界大戦中に会敵機会はなかった。

1950年に朝鮮戦争が勃発すると旧態化していたF-80も制空任務に当初投入され北朝鮮軍などを相手に健闘したが、
ドイツの技術を受けて開発された後退翼を持つソ連製の新鋭機MiG-15が登場すると性能不足を指摘する声が高まり、
制空戦闘においては直後に配備されたF-86に後を譲って、対地攻撃や低空写真偵察に活路を見出し総出撃数では全米軍機中最高を記録した。



◇性能諸元

全幅:11.81m
全長:10.49m
全高:3.43m
主翼面積:22.07m2
空虚重量:3,820kg
最大離陸重量:7,650kg
エンジン:アリソン製 J33-A-35 ターボジェットエンジン 2基
エンジン推力:24.0kN
最大速度:516kt
実用上昇限度:14,300m
航続距離:718nm
乗員:1名
固定武装:12.7mm機銃6門
搭載武装:1000lb(450kg)爆弾2発、ロケット弾10〜16発



T-33

T-33A 元第202飛行隊所属*1

アメリカ初のジェット戦闘機として配備されたP-80であったがF-86に座を譲ったことで徐々に活躍の場を失い70年代には退役した。
しかし戦闘機としては力不足になったものの素直な操縦性能は好評だったため複座機をベースに練習機として改修がおこなわれT-33が誕生した。
初のジェット練習機ということもあり様々な国に輸出され総生産数は6500機越えのベストセラー機になった。

練習機以外にも様々な用途に使用され攻撃機・写真偵察機・標的機、中には戦闘機に返り咲いたものまで存在したほど。
海軍も本機を艦載機としての機能を持たせた改良機T2Vを導入している。
アメリカ空軍ではT-38配備に伴い引退は早かったがNASAに移管され1997年まで運用された。
ボリビアに至っては攻撃機に改造したT-33を2017年まで運用していた。
その生産数ゆえに民間に払い下げられた機体も少なくなく、本田もジェット機開発のために飛行用・地上走行用に2機のT-33を購入している。

日本でも航空自衛隊の練習機として当初はアメリカから供与*2、その後ライセンス生産によって278機が導入、用途も新人の訓練のみならず基地間の連絡機や
デスクワークに移行したパイロットの規定飛行時間維持の機材として重宝されT-4に置き換わるまで40年以上日本の空を飛び続けた。
導入数の多さから引退後自衛隊の基地以外にも民間の施設などに寄贈された機体も多く今でも目にする機会が多い。
しかし最初期のジェット機ということもあり色々と問題も多く、278機中59機が事故で喪失するというV-22も真っ青な事故率である。
そして最後の事故が2002年引退の予定を早めることになってしまった。

入間川墜落事故

1999年に入間市で墜落事故が発生しパイロットは殉職。
事故当初は練習機の事故ということで新人パイロットによるものと思われたが、搭乗していたのは飛行教導隊所属歴があり総飛行時間5,228時間、初代ベストガイ*3で総飛行時間6,492時間という優秀なパイロット2名であったことが判明。*4

どちらも年齢からデスクワークに移行しており規定飛行時間維持での訓練後帰投中に乗機がエンジントラブルを起こし推力を喪失。
本来であれば直ぐにベイルアウトを行うところだが事故機が入間基地所属で周りが住宅街であったため被害を少なくするため操縦を続けたとされている。
事実異常発生直後に1回目の緊急脱出報告をしたものの両者とも約20秒機内に留まっていたことが確実とされており、墜落直前に2回目の緊急脱出報告後も墜落直前まで脱出していない。
両者がベテランパイロットであったため脱出しても助かる見込みはないことは承知しており、脱出装置を起動させたのは整備士の責任を回避するためと考察されている。*5
しかしながら事件の際、高圧電線を切断し首都圏で大規模停電を引きおこしてしまったこと等から、一部左派系や平和系団体から入間基地の存在自体を含め批判を受けた。

同様の事故は過去にも起きておりかつて日本陸軍で活躍したエースの一人である小林照彦氏*6も最後まで被害回避のために操縦し殉職している。*7

結局この事故によりT-33は飛行停止、そのまま2000年に退役してしまい長年日本のパイロット育成を担った航空機には寂しい最後となってしまった。
一連の行動は服務の宣誓通り「危険を顧みず」を実行したことから称賛され、2014年の防衛大学校卒業式で訓示を行った安倍総理もこの事故について触れている。*8




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最終更新:2021年07月12日 10:15
添付ファイル

*1 2020年8月4日 編集者撮影

*2 後述の事故機は供与された機材である

*3 千歳基地配備部隊で優秀なパイロットに贈られる称号で織田裕二主演の映画にもなっている

*4 戦闘機パイロットは2,000時間を超えればベテランとされているため両者とも大ベテラン、しかも将来幕僚になれるエリートであった

*5 これは多くのパイロットが整備士の責任を避けるため、助かる見込みがなくとも脱出装置を起動させると口にしている。事実、整備士に過失はなかったとして被疑者不詳で書類送検された

*6 最年少で飛行隊長に着任し民間を経たのち航空自衛隊に入隊し飛行隊長経験があったことから飛行教官として採用された、撃墜数12機だがうち1機はB-29を体当たりで撃墜したというとんでもない人

*7 この時小林氏は同乗者を先に脱出させたが離陸中に事故が起きたため高度が低すぎ同乗者も殉職している

*8 両者とも事故当時は二佐・三佐だったが死後二度の昇進により空将補と一佐になっている