羽生世代

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&font(#6495ED){登録日}:2016/09/17 Sat 15:43:34 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 13 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- &bold(){羽生世代}とは、[[羽生善治]]および羽生と年齢の近い強豪[[将棋]][[棋士>棋士/女流棋士(将棋)]]の総称である。 ※以下、棋士の段位等肩書は原則として当時のものではなく記事作成時点(2016年9月17日)のものを用いています *概要 将棋棋士といえば、1996年に史上初めて前人未到の七冠独占を達成した羽生善治が将棋界の枠を超えた知名度を誇る。 その羽生(1970年生まれ)と年齢の近い将棋棋士にも実力者が多く、彼らを指す総称として羽生世代という表現が使われている。 一般に羽生世代と見做されている棋士は、&font(u){全員が九段(村山は死後九段追贈)・[[順位戦>名人/順位戦(将棋)]]A級経験者・全棋士参加棋戦優勝経験者}であり、村山・先崎を除く全員がタイトル保持経験者である。 後に羽生世代と呼ばれる棋士のうち村山・佐藤・羽生・森内の4人は10代のうちから実績を出しており、 島朗九段は彼らを&bold(){チャイルドブランド}と呼称した。ちなみに島は佐藤・羽生・森内の三名と研究会を行っていたこともある。 後に佐藤と羽生は将棋連盟の会長、森内は専務理事(No.2)を務めており、連盟の代表としても活躍している。 ここまで突出した理由として、羽生の「将棋はゲーム」発言に代表されるように合理性重視の研究で腕を磨いたのも大きいとされている。 また彼らの多くが従来の将棋であまり開拓されてこなかった序盤戦術に強みを持っていたこともよく挙げられる。 1990年代に入ると羽生世代からタイトル挑戦・獲得者、一般棋戦優勝者が続出。 90年代末には丸山と藤井が台頭。2人は特定の戦法に特化することで同世代に追いつき遅れてきた羽生世代と呼ばれた。 &font(u){2010年代半ばに至るまで、タイトル戦は「羽生世代vs羽生世代」もしくは「羽生世代vs他の世代」という構図が&bold(){ほぼ全て}}。 1995, 1998, 2000-2001年度は&bold(){羽生世代だけでタイトルを総なめ}しており、羽生世代が如何に棋界を席巻してきたかが窺える。 同世代で若い頃から苦楽を共にした関係からお互いの交流も多くの下記にも上げる様に逸話も多い。 ●目次 #contents *羽生世代の棋士 **&bold(){村山聖}(1969年6月15日~1998年8月8日) &bold(){&color(red){恵まれた才能を持ちながらも、病のため若くしてこの世を去った悲運の天才棋士。}} [[広島県]]出身。&font(u){5歳の頃に腎臓の難病・ネフローゼに罹患している}ことが発覚したため、院内学級と養護学校で少年時代を過ごす。 入院中に父親が将棋盤を持ってきたのがきっかけで将棋と出会う。外出日を活用して地元の将棋教室である広島将棋センターに通いメキメキと力をつけていった。 この頃には既に飛車落ちではあるが棋聖のタイトル保持者であった森安秀光を破っている。 奨励会入会にあたって知人の元奨励会員に相談するがまだ早いと保留される。 只、いつまで生きられるか分からない村山は夢を叶えるために早期に奨励会入りを果たす必要があったため広島将棋センターに相談。結果、大阪の森信雄を紹介される。 森も村山と面会し一目で気に入った為そのまま弟子入りが決定… すると思われたが、以前村山側から相談を受けた元奨励会員が灘蓮照((順位戦A級に17期所属し、一般棋戦も複数回優勝した経験を持つ強豪。))に村山を紹介しており、灘本人も村山を弟子にする手続きを進めてしまっていたため一悶着が起きる事になった。 この件については森の師匠である南口繁一の仲裁で森門下で弟子入りすることで決着がついた。 奨励会入りを機に村山は大阪に引っ越すが、&bold(){森は病を抱える村山と同居し献身的に支え}、どっちが弟子かわからないと評されるほどであった。 42℃以上の高熱が出たら死ぬと言う村山に対し、実際に超えていても超えていないと嘘をついて安心させていたらしい。 奨励会入会から2年11ヶ月という異例の速さでプロ入り((病による不戦敗もあったため、健康ならばプロ入りはもっと早まったとも言われている))。奨励会時代から&bold(){「終盤は村山に聞け」}と言われるほど実力には定評があった。 村山自身は名人のタイトルを目標としていたが「名人になって&bold(){早く将棋を辞めたい}」と自分に残された時間が長くないことを悟っていたかのような発言をしていた。 闘争心が強く、特に[[谷川浩司]]や羽生に対しては執念を持って対局していた。 愛称は「ヒジリちゃん((実際の「聖」の読み方は『さとし』である。))」。 趣味は読書。特に[[漫画]]が好きだったらしく自宅には3000冊以上置かれていた。同じ物は三冊揃える主義。師匠の森も村山が体調不良の時は少女漫画の買い出しに行かされていたとの事((村山は途中から一人暮らしを始めたが、その自宅は師匠の森宅から歩いて一分の所だった。))。 もし健在だったらそういった部分でもアニヲタ民からも注目を集めていたかもしれない。 1990年に若獅子戦((1991年に終了した若手棋士のみが参加する棋戦))で棋戦初優勝。 1992年度には王将戦への挑戦権を獲得し、当時の保持者である谷川と対決するも0-4で奪取ならず。これが最初で最後のタイトル挑戦となった。 暫く関西所属であったが、1994年に関東に移籍。関東では下記の先崎学や郷田真隆などと麻雀に興じるなど交流を持った。 お酒、特にワインが好きだったが泥酔することも多く、佐藤康光の新車を汚したり、急性アルコール中毒で病院に運ばれ先崎がお見舞いしていたこともある。 弟弟子の山崎隆之や増田裕司の事もよく面倒見ていた。 関東移籍後も順位戦は順調に勝ち上がり、1995年には森内俊之と同時に遂に&bold(){A級昇級}を果たした。 1996年度には早指し将棋選手権で勝ち、初の&bold(){全棋士参加棋戦優勝}を果たす。 しかしこの頃から体調が悪化、持ち時間の長い順位戦で実力を発揮できず1997年春にB級1組に降級。その後膀胱癌が見つかり手術を受けた(放射線治療と抗癌剤治療は副作用による対局への影響から拒否している)。 それでもこの年度の順位戦は休場せず、手術一か月後には丸山忠久と深夜までの激闘を行った(結果は丸山の勝利)。万が一に備えて看護師や増田が近くで見守っていたとのことである。 この時は負けてしまったものの1期でA級復帰を決め(丸山も一緒に昇級した)、NHK杯でも準優勝(決勝で終盤にミスがあり羽生に敗れた。)((これが映像記録で残る生前最後の対局となった。))するなど調子を取り戻したかに見えたが…。 #center(){&color(coral){&size(20){「…2七銀」}}} 1998年春、癌の再発・転移が見つかり1年間の休場を発表。 同年8月8日、&bold(){&color(red){29年という短くも太い生涯を終えた}}。 入院の件は師匠にも他の棋士にも知らせず交流も絶っていたが、羽生には会っており結果的に村山が最後に話した棋士となってしまった((羽生が面会したのではなく、仕事で近所に来ることを知った村山が病身の体を押して会いに行った。なので詳しい事情は亡くなるまで羽生も把握していなかったそうである。))。 2000年、村山の壮絶な生涯を題材としたノンフィクション小説「聖の青春」(大崎善生((元日本将棋連盟職員))著)が上梓された。 2016年11月には本作を原作とした&font(l){、[[あんな役>L(DEATH NOTE)]]や[[こんな役>ヨハネ・クラウザー二世]]を演じてきた}松山ケンイチ主演の映画が公開された。 村山を演じるにあたって&bold(){20kgもの増量を敢行した}((村山はネフローゼの影響により全身にむくみが出ていた。))松山ケンイチ、そして若き日の羽生そっくりに扮する東出昌大は必見。 村山をプロ棋士に育て上げた森信雄七段一門はその後多くの棋士・女流棋士を輩出し、同じく大所帯の所司和晴七段一門と並び名門と称されている。 2014年には弟弟子の&font(l){怪物}糸谷哲郎が竜王のタイトルを獲得し、村山が成し得なかった森門下初のタイトル獲得を果たした。 &bold(){【主な成績】} -王将 登場1回 -NHK杯 準優勝 1997年度 -日本シリーズ 準優勝 1996 -早指し将棋選手権 優勝 1996 -若獅子戦 --優勝 1990 --準優勝 1989 **&bold(){佐藤康光}(1969年10月1日~) 1982年に奨励会入会し1987年にプロ入り。最も羽生と戦った棋士の一人(もう一人は谷川)。 幼いころから評価は高く、親の転勤のために関西奨励会から関東奨励会に移籍したとき、「谷川以来の名人候補を東京に取られた」と関西の棋士たちが嘆いたほど。 また、羽生がいなければ谷川・佐藤時代になっていたと言われる((ちなみに羽生が七冠制覇するまでにタイトルを奪取できた棋士は谷川と佐藤だけである。))。 (後から新設された叡王を除く)七つのタイトル戦に登場した事がある羽生世代の棋士は羽生本人を除けば佐藤のみであり、その実力が伺える。 初タイトルは1993年。羽生との七番勝負に勝ち竜王位を獲得した。 1996年にA級に上がると1998年には名人戦の挑戦権を獲得、谷川を破り名人位を獲得した。 その後は棋王や王将のタイトルも獲得経験がある他、棋聖戦は2002年度から6連覇し&bold(){&color(red){永世棋聖}}の資格を得た。 近年は棋士会の会長を務めていたが、2017年2月には三浦弘行九段のソフト不正利用冤罪騒動を受けて辞任した谷川の後任として&bold(){日本将棋連盟会長に就任}。2023年まで3期6年勤めた。 会長としては、ヒューリックの西浦三郎会長とのコネクションを生かし、ヒューリックや同じ芙蓉グループの大成建設がスポンサードした女流棋戦を創設する、既存タイトル戦への新たなスポンサー獲得など実績を残している。 将棋ブームのお陰で色々企画を持ってきていただけるらしいが、それでも実現に持っていくのはしんどかった模様。 さらに、会長就任後、7月末に歴代9人目、年少記録・速度記録ともに4位((羽生善治・谷川浩司・中原誠に次ぐ))で通算1000勝を達成した。 また会長としての職務に追われながらも2023年時点では、&bold(){羽生世代の中で一番遅くまで順位戦A級}(2022年度の第80期まで)&bold(){で若手に混じりつつ活躍し続けた}((この第80期の順位戦A級は佐藤以外の50代はおろか40代も一人もいなかった(名人含め)。))。この事から会長ならぬ「&bold(){怪鳥}」とあだ名が付いた。 かつては既存の定跡形を多く指していたが、2005年頃から独創的すぎる力戦形の序盤作戦を取ることが増えた。&font(l){それが&bold(){変態}と称されていたりもする。} その読みの深さは「&bold(){1秒間に1億と3手読む}」と形容されるほどであり、そんな棋風は「&bold(){緻密流}」と呼ばれている。 目隠し将棋(脳内将棋)((文字通り、将棋盤を見れない状態で対局する将棋。そのため非常に高い記憶力が要求される。))も得意とし、アマではあるが同時に五人と対決し勝利した事もある。ちなみにその中には後に女流タイトルを獲得する甲斐智美も含まれていた(当時・小学生)。 趣味はバイオリン演奏、ゴルフなど。麻雀もするがあまり強くなく、若い頃は先崎によくカモられていた。 一時期、チェスも嗜んでいたが頭脳労働の余暇に頭を酷使するのはおかしいという至極当然のことに気づき、辞めた。 愛妻家で娘にもデレデレらしい。 独身時代は非常に女性にもてていた(追っかけや出待ちがいた程)ことから先崎が自身の文章で佐藤のことを度々「もてみつ君」とネタにしていたことがあり、ネット上では「&bold(){モテ}」と呼ばれている。結婚してからは「デレみつ君」とネタにされていた。 子供の頃は米長邦雄永世棋聖に憧れていたらしく、米長の事実上の引退が決まった後の対局では、 当時棋聖だった佐藤は、和服を着て下座に座る(棋界の序列では現役タイトルホルダーの方が格上)ことで敬意を表している。 それを受けて、米長も午後から和服を着用したが、よくよく考えたら先輩に手間をかけさせてしまって逆に失礼だったとも語っている。 対局の結果?米長哲学((「自分にとっては消化試合で相手にとって重要な対局こそ、相手を全力で負かしにいくべき」という考え))にならって全力で吹っ飛ばました。 その一方で米長からコンピューター将棋「Bonanza」と対局する企画を持ち込まれた際に佐藤が強く断った逸話がある。 米長は「遊びで大金も貰える企画なのに何でやらないの?(意訳)」と質問したが、佐藤は米長を正座させて「遊びで将棋やってたんですか?」と逆に説教したそうである((この企画自体は後に竜王だった渡辺明が相手になる事で実現している。只、渡辺自身も「嫌だったけど頼まれたからやりました。」と語っている。))。 &bold(){【主な成績】} &bold(){タイトル戦} -竜王 1993(1期)、登場5回 -名人 1998-1999(2期)、登場3回 -王位 登場5回 -王座 登場3回 -棋王 2006-2007(2期)、登場6回 -王将 2001, 2011(2期)、登場8回 -棋聖 2002-2007(6期、永世棋聖)、登場7回 獲得合計13期、登場合計37回 &bold(){一般棋戦他} -銀河戦(非公式戦時代も含む) --優勝 2003, 2008, 2010 --準優勝 1998 --ベスト4 2012 -NHK杯 --優勝 2006-2007, 2016 --準優勝 1993, 2001 --ベスト4 1994, 2008 -全日本プロ将棋トーナメント ベスト4 1997, 2000 -日本シリーズ --優勝 2004, 2006 --ベスト4 1994, 2001-2002, 2007, 2012, 2016 -新人王戦 --準優勝 1993 -達人戦立川立飛杯 ベスト4 2023 -ABEMAトーナメント ベスト4 2020(谷川浩司・森内を含めた3名) -小学生名人戦 ベスト4 1981 &font(l){そして後述するエピソードの主犯である。} **&bold(){先崎学}(1970年6月22日~) 1987年プロ入り。現行の三段リーグを制してプロ入りした初の棋士である((もう一人は同門の中川大輔。))。 奨励会は羽生世代最も早い1981年に入会。小学生のうちに2級まで上がり「天才」と称された。 1979年に行われた大会「よい子日本一決定戦・小学生低学年の部」では羽生と優勝を争っている(この時は先崎が勝利)。 中学生時代は同級生からいじめられ、教師にも助けてもらえない環境だったので((当時、将棋のプロになることは暴力団に入るのと同じような扱いだったと先崎は語っている。))学業から逃げる形でより一層将棋にのめり込んでいった。 しかし先輩に誘われて徹夜麻雀などの遊びを覚えてしまい一時低迷したことがあった。その後は羽生が中学生プロ棋士となるなどチャイルドブランドの面々や郷田に追い抜かれていることに気づき向上心を取り戻したという。 1990年度のNHK杯で優勝し、羽生世代としては&font(u){羽生・森内に次いで全棋士参加棋戦初優勝}を果たした。 1998年にA級昇級を遂げ、2014年に八段昇段後250勝の勝数規定により九段昇段したことで羽生世代の全員が九段昇段を達成した。 羽生世代では唯一タイトル戦に登場したことは無いが複数回、挑戦者決定戦(3位)まで行った経験はある。いずれも&s(){飲み仲間の}佐藤康光に敗れている。 愛称は「先ちゃん」。データに頼らず感覚を重視する棋風は「無頼流」と呼ばれることもある。若い頃は血気盛んでやんちゃであり、その言動や振る舞いはしばしば話題に挙がっていた。 棋士にしては口八丁な人物。文才も豊かで、週刊誌にコラムを持つなど執筆活動も多く、村山聖への追悼文や第13期竜王戦第7局観戦記「一歩竜王」、第76期名人戦でのPVで使われた「昇る落日」は評価が高い。 エッセイも多く出しており、漫画「[[3月のライオン]]」の将棋監修も行っている。 かつて&font(l){コーヤン}中田功七段に誘われたのがきっかけでパチスロにハマっていた時期があり、情報誌がない中リーチ目を解析してかなり稼いでいたという。 また、将棋界屈指の雀力の持ち主で囲碁やパズルを解くのも趣味。 師匠は故米長邦雄永世棋聖。この世代には珍しく内弟子(住み込み)をしていた。そのため、師匠とのエピソードも豊富。 奥さんは囲碁棋士の穂坂繭三段。日本将棋連盟囲碁部の師範を務めていた時期があり、先崎を含む羽生世代達とはその時に出会ったそうである。 夫婦二人で囲碁将棋サロン・教室「囲碁・将棋スペース 棋樂」を運営している((この場所は本来、先崎が研究会を行うために借りた場所だったが下記の事情で療養することになったため、奥さんの判断で急遽、囲碁将棋教室として使われることになった。もしも病気が原因で先崎が引退に追い込まれた場合に生計を確保する目的もあった。))。 2017年には上のソフト不正利用冤罪騒動での心労等が原因でうつ病になり、療養の為に休場。 この時引退する事も考えたが、休場を勧めた精神科医のお兄さんや奥さん、同年代の佐藤康光、弟弟子の中村太地、研究会仲間等の支えもあり半年後に復帰した。 そのときの経験談は「うつ病九段」として上梓((執筆を勧めたのはお兄さん。当時、先崎はまだ療養中で時間があるのと、本人の体験談が書かれた事例は医学的にも少なくうつ病の理解に役に立つと考えたからである。))され、その後ラジオ・テレビドラマ化されている。 ちなみに当人が休場届を出そうとしたら、連盟にフォーマットの類がなかったため、「一身上の都合により休場する」云々と一筆書いただけのものを出したらそのまま掲載されてしまい、重病説が飛び交ってしまった。 &bold(){【主な成績】} -銀河戦 ベスト4 1993, 2001 -NHK杯 --優勝 1990 --準優勝 2002 -若獅子戦 優勝 1991 **&bold(){丸山忠久}(1970年9月5日~) 1990年にプロ入り。順位戦C級1組在籍時には驚異の24連勝を達成したが、その中には[[加藤一二三]]や米長、谷川、羽生等の名だたる強豪が含まれていた。 1997年度のB級1組で全勝(史上初)した後にA級に昇級。 1998年度の全日本プロトーナメントで全棋士参加棋戦初優勝を果たした。 2000年に佐藤を破り自身初タイトルとなる名人位を獲得。2002年度には棋王12連覇中であった羽生から棋王位を奪取した。 角換わりの名手で自身も丸山新手を考案。その結果、一時は角換わりは先手必勝と考えられ後手同型を消滅させたこともある(後に佐藤が対抗策を考案し後手同型も復活した)。 ゴキゲン中飛車への対抗策である丸山ワクチン((名前の元ネタは丸山千里医学博士が開発した皮膚結核の治療薬))を考案したことでも知られる。 優勢になっても勝ちを急がず相手の手を殺す手堅い(将棋用語で「辛い」という)棋風が特徴で、「&bold(){激辛流}」などと呼ばれている。所謂「友達を無くす手」。 その一方で丸山自身は至って愛想の良い人柄であり「ニコニコ流」とも呼ばれる。 若い頃の見た目の話題だと上の佐藤や下記の郷田真隆がよく話題に挙がるが、丸山も愛想の良さから女流棋士からの人気も高かったそうだ。 また対局時の駒音が小さいため「音無し流」とも言われたりしている。 普段から筋トレを欠かさない肉体派。その成果は対局中に見える上腕の太さが物語っており、50歳の時点でペンチプレスも100kg6回2セットまで上げられる剛腕。 思考の際は腕を直角に折り曲げ、肘と太ももの間に扇子で立てて支える「マッスルポーズ」を行って考えるのが習慣である。 本人曰く、体の負担を減らすために無意識に行い始めたとのこと。 その影響か日頃からカロリーを必要としており、棋士の中でもひふみんこと[[加藤一二三]]九段と並ぶ大飯喰らいで知られている。 ひふみんと同じく食事は固定気味で、昼は麻婆豆腐定食、夜はヒレカツ定食が定番。勿論おやつも食べる。 2007年度A級順位戦最終戦(いわゆる将棋界の一番長い日)、藤井との対局のさなか深夜12時を過ぎてから[[カロリーメイト]]を摂取し始め、 解説の聞き手を務めていた千葉涼子女流四段((聞き手を務めた際には対局者の好手を読んだりユニークな発言が多かったりと評判である。千葉は以前より丸山のファンと公言している。))はこれを見て「&bold(){用意周到丸山流}」などとユニークな表現をした。 暑がりらしく、2010年度A級順位戦最終局での対渡辺戦では、冷却ジェルシートを頭に貼って対局し、衝撃をあたえた。 2016年年度竜王戦では上のソフト不正利用冤罪騒動で三浦弘行九段に代わってタイトル挑戦者になる。 只、三浦の無実を信じていた丸山にはかなり不本意だったらしく「不審に思ったことは全然ない」「僕はコンピューターに支配される世界なんてまっぴらごめんです」と寡黙な丸山にしては珍しく感情が入った発言している((三浦が疑われた対局には対丸山戦が2つ挙げられていた。))。 一時期軽井沢に住んでたり、突然ミス日本フォトジェニックであった女性と結婚するなど、私生活には少々謎が多い。 加えて対局以外での露出が極めて少ないことでも知られているが、2018年には&bold(){カロリーメイトのCMに出演}したことが話題となった。 2023年の銀河戦では渡辺明、永瀬拓矢、藤井聡太と言った若手の強豪を倒して53歳にして悲願の初優勝を達成。今まで藤井猛(当時46歳)が持っていた&bold(){&color(red){銀河戦最年長優勝}}記録を更新した。 50代棋士の全棋士参加棋戦の優勝は1993-1994年度のNHK杯で優勝した[[加藤一二三]]以来の約30年振りの快挙となった。 そして12月には通算1000勝を達成。同世代では羽生、佐藤に次ぐ3人目の&bold(){特別将棋栄誉賞}を受賞した。 &bold(){【主な成績】} &bold(){タイトル戦} -竜王 登場3回 -名人 2000-2001(2期)、登場3回 -王座 登場1回 -棋王 2002(1期)、登場2回 -棋聖 登場1回 獲得合計3期、登場合計8回 &bold(){一般棋戦} -銀河戦 --優勝 2023 --準優勝 2010 --ベスト4 2006, 2009 -NHK杯 --優勝 2005 --準優勝 2013 --ベスト4 1991, 1996, 2002-2003, 2009-2010, 2018 -全日本プロ将棋トーナメント --優勝 1998 --ベスト4 2000 -朝日杯 準優勝 2007 -日本シリーズ --優勝 1999, 2001 --準優勝 2002 --ベスト4 2005, 2012-2014, 2018 -新人王戦 --優勝 1994-1995 --準優勝 1996 -達人戦立川立飛杯 準優勝 2023 **&bold(){[[羽生善治]]}(1970年9月27日~) もはや説明不要の存在。日本将棋連盟会長(2023年現在)。 史上3人目の中学生プロ棋士、五段時のNHK杯で(当時現役の)名人経験者4人全てをなぎ倒して優勝、そのNHK杯[[ひふみん>加藤一二三]]戦での▲5二銀など随所に光る&bold(){羽生マジック}、1996年の&bold(){&color(red){七冠独占}}、&bold(){&color(red){永世七冠}}保持、七大タイトル保持90期越え…その記録とインパクトは他の棋士の追随を許さない。 詳細は当該項目を参照されたし。 **&bold(){藤井猛}(1970年9月29日~) 平成の振り飛車党を代表する存在。特に四間飛車の採用が多い。 左美濃・居飛車穴熊対策の四間飛車戦法である&bold(){&color(red){藤井システム}}を生み出し振り飛車の中興の祖とされている。 他にも対ゴキゲン中飛車5八金右超急戦、藤井矢倉の考案、B級戦法であった角交換四間飛車を戦法として確立させるなど序盤戦術の革命家。 将棋を覚えたのが小4、楽しさに気付いたのは小6から中1の頃、奨励会に入ったのは16歳と他の羽生世代の棋士と比べると遅かったが故に、プロ入りも1991年とこの中では最も遅い20歳の時だった。 普通は20代でプロ入りする棋士が多いので藤井は決して遅いわけでは無い事は伝えておく。他が早すぎるだけである。 1970年代から普及した居飛車穴熊の影響で振り飛車は苦境に立たされており、その対抗策もなかったことから振り飛車は一戦級の戦法ではないとしプロの間で使用者は減少していた。 そのため振り飛車で活躍するためには必然的にこの問題に向き合う必要があり当然藤井もその研究を行うことになった。 藤井システムの名は1994年に藤井が左美濃対策での四間飛車の立ち回りを見た島朗がその名で呼んだのが始まり。 戦法として藤井システムは翌年の1995年の順位戦で対井上慶太戦で使用したのが元祖とされている。この時はわずか47手で藤井が勝利を収めたが、この段階では藤井システム自体は注目されず、単に井上の連勝記録を止めた実績の方が評価されていた。 本人的にも藤井システムはまだ研究途上なこともあり、この頃は公式戦では積極的に指していなかったことも要因。 そして1996年度に藤井システムが評価され新定跡を生み出した者に与えられる&bold(){将棋大賞升田幸三賞}を受賞。 成熟した藤井システムを原動力に1998年に谷川から竜王位を奪取(4-0のストレート勝ち!)、その後史上初の竜王位3期連続保持を果たした((基本的に棋士は早熟なほど出世する傾向にあり、20歳超えてプロ入りした棋士でタイトルを獲得できた棋士は少ない。ちなみに20歳超えてプロ入りした棋士で竜王を獲得したのは藤井猛が唯一である。))。 「居玉を避けよ」「玉飛接近するべからず」と言う従来の王道も無視した藤井システムは当時大きな衝撃を与えた。羽生も「&bold(){最初はふざけてるのかと思いました}」「&bold(){創造の99%は既存の物だが藤井システムは残りの1%}(意訳)」言ってしまうほど((ちなみに羽生も藤井システムの使い手として知られる。))。 初の順位戦A級昇級は2000年度。同郷の弟弟子の&font(l){みうみう}三浦弘行と同時昇級である。 2008年の中頃から飛車先を早めに突くことで急戦矢倉を牽制しつつ、角交換の起こりやすい脇システムと角交換に強い片矢倉を組み合わせた早囲い(藤井矢倉)を用い、居飛車にも影響を与える((相居飛車では早めに飛車先の歩を5段目まで突くのは桂馬を跳ねる場所を失うため、損とされていたが、藤井流早囲いに誘導すれば損にならなくなる))。 2009年頃からは角交換四間飛車を用い結果を残すようになり、他の棋士も採用を始めた。 これが評価され2012年度には藤井システム(1996年度)に続き二度目の升田幸三賞を受賞している。 四間飛車党としては藤井は&bold(){[[鰻>ウナギ]]屋}に例えており、「こっちは鰻しか出さない鰻屋だからね、ファミレス(オールラウンダー)の鰻に負けるわけにはいかない」と発言したことがある。 2007年にゴキゲン中飛車を採用した際には「もう鰻屋だけじゃやってけない。これからは多角経営ですよ」、2008年に居飛車の矢倉を指すようになった時は「私は鰻屋なので、居飛車屋の超高級五つ星レストランが建ち並ぶ銀座の目抜き通りに、やっと屋台の居飛車屋を出店したばかりの状態です。 鰻のことに関しては語れますが、居飛車のことに関しては語れません」と印象的なコメントを残している。 ちなみに居飛車に関しては(後述の理由で)プロ入り直前に勉強していた時期があり、この経験が藤井システムの構築にも活きていたようである。 竜王戦で同じ振り飛車党の鈴木大介から挑戦された際は、相振り飛車での勝率が高い鈴木に対しては分が悪いと判断し、逆に居飛車穴熊を使用し防衛に成功している。 また、藤井を語る上で欠かせないのが&bold(){終盤戦}。 NHK杯対丸山戦の▲8三飛((藤井陣にいた丸山の馬が8二まで利いており、△8二香と打たれて飛車が死んでしまい勝勢だったのが逆転してしまった))に代表される、珍手奇手鬼手悪手がしばしば姿を見せることから&bold(){&color(red){終盤のファンタジスタ}}(略して&bold(){&color(red){ファンタ}}とも)と呼ばれ親しまれて(?)いる。 その他にも大駒を大胆に切って相手玉に露骨に食らいつく様が&bold(){ガジガジ流}とも呼ばれている。 上記のようなユーモアのあるコメントは解説でも見られ、みうみうとのユニークなやり取りなどは必見。 こういったことからネットでの人気も高く、しばしば「(藤井)てんてー」などと呼ばれている。 息子さんの影響で[[ポケモンカードゲーム]]も嗜んでおり、2018年のポケモンカード企業対抗戦では日本将棋連盟名義で出場(結果は31位)、翌2019年のミュウツーHR争奪戦記念の特別試合で招待された上に&bold(){優勝}している。 余談だが、2016年9月には&bold(){藤井}聡太が史上最年少でのプロ入りを決めた。 彼は&font(u){プロ棋士も多数参加した詰将棋解答選手権で小学生ながら優勝した}経歴があり、それに裏打ちされた終盤戦の強さに定評がある。 そのためか、彼は&bold(){「終盤が強い方の藤井」}と呼ばれていた。 そしてその実力はデビュー時点でトッププロすら本気を出さないと圧倒されるレベルで、豪運も味方にして&bold(){歴代連勝記録を更新}し、将棋界どころか世間一般を騒がせることとなったのは諸兄の御存知の通りである。 2023年現在は藤井聡太も九段昇段・竜王獲得をしたので藤井猛九段の方を「システム九段」と呼ぶ人がいる。 藤井は藤井聡太の師匠の杉本昌隆とは縁が深い。 杉本は振り飛車党棋士の先輩であり、奨励会時代に振り飛車党としての自信を無くしていた藤井は杉本の様子を見て自信を取り戻し三段リーグを突破した逸話がある。 また藤井システムの構築には杉本と杉本の兄弟子の小林健二等の先行研究も参考にしている。 &bold(){【主な成績】} &bold(){タイトル戦} -竜王 1998-2000(3期)、登場4回 -王位 登場1回 -王座 登場2回 獲得合計3期、登場合計7回 &bold(){一般棋戦} -銀河戦 --優勝 2016 --ベスト4 2004 -NHK杯 ベスト4 2001 -全日本プロ将棋トーナメント 準優勝 1995 -朝日オープン 準優勝 2005 -日本シリーズ --優勝 2002, 2005 --ベスト4 2000, 2003 -新人王戦 --優勝 1996-1997, 1999 **&bold(){森内俊之}(1970年10月10日~) 小学生時代から大会で幾度も対決してきた羽生のライバル((本人的には羽生の方がどう考えても強いと思っているのでライバルよりかは永遠の目標として捉えている。))。羽生との公式戦の対局数も谷川・佐藤に次ぐ経験がある。 同世代では唯一親族に将棋棋士がおり、京須行男八段を母方の祖父にもつ(祖父は森内が生まれる前に他界しているので面識は無い)。 京須が亡くなった後にも『将棋世界(将棋連盟の機関誌)』は京須の妻(=森内の祖母)宛に毎月届いていたが、 孫が将棋に興味を持ち始めたのを知った祖母が森内にそれを渡したことで将棋の奥深さを学び、より一層のめり込むようになった。 その後、京須の娘である母親の後押しもあって将棋会館での将棋教室に通うようになる。 大会で羽生と対局した縁から羽生が当時通っていた八王子将棋クラブに遊びに行ったこともある。 かつて京須の家で下宿していた縁のある勝浦修の門下に入り1982年12月に羽生・郷田と共に関東奨励会に入会。1987年にプロ入り。 全棋士参加棋戦初優勝は1988年度の全日本プロトーナメント(現朝日オープン将棋選手権)で、当時18歳であった。 順位戦で無類の強さを誇り、プロ入り後わずか合計7期でA級に昇級した。 タイトル初挑戦は1996年の名人戦であり、相手は当時七冠独占していた羽生であったが、この時は1-4で敗れ羽生との差を痛感した。 その後も羽生の影を追う日々が続いた。 念願の初タイトルは2002年、丸山を破り&bold(){名人のタイトルを獲得}。 二日制のタイトル戦にめっぽう強く、2004年には竜王・名人・王将の&bold(){三冠王}(史上7人目)となった。 そして2007年に名人位を防衛したことにより名人通算5期となり、&bold(){&color(red){羽生より先に永世名人となる資格を得た}}。 2017年に順位戦でB級1組への降格が決まったことによりフリークラス宣言をしたことも話題となった。 フリークラス宣言とは順位戦を引退する行為で(途中で自主引退)しない限り65歳をもって完全引退する事が確定した。 これについては以前から考えていた様で本人的にも今回が決断の時と思ったそうである((降級等を機にフリークラス宣言をする棋士は過去にも事例はあり、永世称号保持者だと米長邦雄や中原誠が同様の事をしている。只、前者二人が53歳で宣言したのに対し、森内の場合は46歳でそれをした事が話題を呼んだ。))。 その後は2019年まで連盟の専務理事として佐藤会長を支えた後、 2020年から『&bold(){森内俊之の森内チャンネル}』と言うYouTubeチャンネル(+Twitterアカウント)を開設。 将棋と他のゲームの内容を中心に不定期で投稿しているが、翌2021年にかつてニコニコ動画で投稿されたMAD『【将棋】 森内俊之 vs 森内俊之』のセルフパロディ動画が投稿され話題になった。 後進育成・人材発掘の為に地元の[[横浜市]]で将棋教室も運営している。 棋風は重厚な受けが際立っており、強力な攻め駒である飛車を受けに用いることも厭わない。そんな棋風はしばしば&bold(){鉄板流}と称される。 ネットでの愛称は「ウティ」。投了の際の&bold(){「あ、負けました」}も有名である。 好物は[[カレー>カレーライス]]。ファンと一緒にカレーを食べるイベントが催されたこともある。 趣味の一つにクイズがあり、2005年には&bold(){[[パネルクイズ アタック25]]に出場し優勝}。羽生や佐藤と効率の良いパネルの取り方を研究していたらしい。 将棋以外のテーブルゲームも嗜み、バックギャモンの愛好家としても知られる。日本国内大会で優勝経験があり世界大会でも4位に入ったこともある実力者。 チェスも強く、大会で3位になったこともある(なおその時の優勝者は羽生で、2位となったチェス愛好家の渡辺暁氏は棋士の強さにショックを受けて寝込んだ。)。その他には麻雀やトランプも得意。 先崎曰く、何故かじゃんけんが異様に強い。普段ならじゃんけんで決めることでも森内が居るとあみだクジなど他の方法で決めていたらしい。 弟子に&font(l){JK棋士として知られた}竹俣紅(元・女流初段。引退と同時に将棋連盟を退会し、現在はアナウンサーに転向)と野原未蘭女流初段(アマチュアからプロ入りした女流棋士((森内の将棋を勉強で活用していた縁で森内本人に弟子入りを志願する手紙を送った。プロ入りの条件となる公式戦ベスト8を果たしたら会いますと森内は返信し、無事に達成に成功したため門下入りすることになった。)))がいる。 &bold(){【主な成績】} &bold(){タイトル戦} -竜王 2003, 2013(2期)、登場5回 -名人 2002, 2004-2007, 2011-2013(8期、十八世名人)、登場12回 -王座 登場2回 -棋王 2005(1期)、登場3回 -王将 2003(1期)、登場2回 -棋聖 登場2回 獲得合計12期、登場合計25回 &bold(){一般棋戦他} -銀河戦 --準優勝 2005, 2007 --ベスト4 2002-2003, 2008 -NHK杯 --優勝 1996, 2001, 2014(3回) --準優勝 2006, 2008 --ベスト4 1993, 2000, 2004, 2018 -全日本プロ将棋トーナメント --優勝 1988, 2000 --準優勝 1997-1998 -日本シリーズ --優勝 2000 --準優勝 2007 --ベスト4 1995, 2001, 2006, 2010 -新人王戦 --優勝 1987, 1991, 1993 --準優勝 1988 -達人戦立川立飛杯 ベスト4 2023 -ABEMAトーナメント ベスト4 2020(佐藤康光・谷川を含めた3名) -小学生名人戦 ベスト4 1982 **&bold(){郷田真隆}(1971年3月17日~) 1982年に奨励会入会。1990年に丸山と一緒にプロ入り。タイトルは通算6期。 1992年、谷川浩司との七番勝負に勝ち王位のタイトルを獲得。&bold(){&color(red){史上初の四段でのタイトル獲得を果たした}}(現在の昇段規定ではタイトル挑戦の時点で五段に昇段するため、四段タイトルはこれが唯一の記録となる可能性が高い)。 初のA級は1999年。タイトル戦では棋聖・棋王も獲得経験があるが、前述の王位も含めそれらは全て1期で奪われてしまっていた。しかし2014年度に王将を獲得した1年後、挑戦者の羽生を退け&bold(){初のタイトル防衛}((奥さんにプロポーズしたのはこの時期らしい))に成功した。 直線的な攻め合いをする剛直な棋風で、序盤から長考することも多い。 本人曰く、選択肢が多いからこそ悩むとの事だが、それを生かしにくい早指しの方でも実績を残している。 その指し手や佇まいは&bold(){格調高い}と評されている。 趣味はプロレス・野球といったスポーツ観戦。好きなプロレスラーは[[三沢光晴]]と[[小橋健太]]。野球は[[巨人>読売ジャイアンツ/読売巨人軍]]ファンである。 酒好きでも知られるが、酒癖はあまり良い方ではないようで、酒の席で先輩である中村修や滝誠一郎に口論をふっかけたことがある。 その棋力もさることながら、若手時代は&bold(){棋界きっての[[イケメン]]棋士}としても話題になった。 ただ本人はルックスを話題にされるのは不満だったようで、「顔じゃなくて棋譜を見ろ!」と一喝したことも。 しかしながら不思議なことに&bold(){40代に至るまで長らく独身}であり、それ故か女性将棋ファンには一層魅力的に映っているようであった。 2016年9月初頭に&bold(){結婚}していることが明らかになり、将棋界最後の大物独身が入籍したとして話題を集めた。ちなみに奥さんは8歳年下の[[大島優子]]似で[[横浜>横浜DeNAベイスターズ]]ファンだとか。 結婚発表後初の公式戦であるJT杯での佐藤天彦名人との対局では二歩で反則負け。&font(l){妻と&bold(){二}人で&bold(){歩}んでゆくというメッセージなのだろうか} &bold(){【主な成績】} &bold(){タイトル戦} -名人 登場2回 -王位 1992(1期)、登場4回 -棋王 2011(1期)、登場3回 -王将 2014-2015(2期)、登場3回 -棋聖 1998, 2001(2期)、登場6回 獲得合計6期、登場合計18回 &bold(){一般棋戦他} -銀河戦 --優勝 1999 --ベスト4 2007, 2013, 2015 -全日本プロ将棋トーナメント ベスト4 1998, 2003, 2005 -NHK杯 --優勝 2013 --準優勝 1999, 2018 --ベスト4 2004, 2012, 2017 -朝日杯 ベスト4 2010-2011 -日本シリーズ --優勝 1993-1995 --準優勝 2005-2006 --ベスト4 2010-2011 -新人王戦 準優勝 1994 -ABEMAトーナメント ベスト4 2021(菅井竜也・深浦康市を含めた3名) *広義の羽生世代の棋士 一年度下の世代だが、上記の棋士達とプロ入り時期や活躍時期が離れておらず羽生世代に含まれることも多いので掲載する。 いずれも九段・順位戦A級経験者・全棋士参加棋戦優勝経験者である。 **屋敷伸之(1972年1月18日~) 13歳で奨励会に6級で入会してから、たった2年10か月後の1988年に16歳で四段昇段。 名前をもじった「忍者屋敷」「お化け屋敷」と言う異名を持ち、居飛車・振り飛車ともに指しこなす。二枚銀急戦の使い手としても知られる。 若干17歳10か月24日でタイトル戦(棋聖戦)に登場(当時の最年少記録)((後に藤井聡太に更新されるものの4日早くなっただけであり、屋敷の記録も藤井と大きく離れていない。))。 &bold(){&color(red){プロ入りからの1年2か月でのタイトル挑戦としては史上最速}}で、&bold(){順位戦C級2組在籍・四段の棋士としても史上初}と大事件であった。 相手は当時のトップ棋士である中原誠。広義とは言え羽生世代の棋士で中原と番勝負をしたのは屋敷ただ一人だけである。 この時は負けてしまうが次年度の1990年度前期棋聖戦にも再び登場。中原から奪取に成功し雪辱を果たす。&bold(){&color(red){プロ入りから1年10か月でタイトル奪取に成功}}し、これは2023年現在でも歴代最速記録である。 同年度後期棋聖戦も棋聖の防衛に成功。当時の最年少防衛記録を樹立した。 また若手の森下卓が挑戦したことで対局者の合計年齢が当時最も若いタイトル戦となった。10代でタイトル防衛に成功した棋士は今なお屋敷と藤井聡太だけである。 翌年度は失冠してしまうが、その影響で最年少タイトル失冠記録も生まれてしまった。 順位戦の方も初参加でC級1組昇級が決まり、新進気鋭の若手棋士として好調な滑り出しであった…。 しかし、その後10年以上C級1組に留まってしまい、これほどの実力者なのになぜ昇級できないのかと不思議がられていた。((次点は4回取っており、全く可能性が無かった訳では無かった。)) 14期目でようやくB級2組に昇級し、22期目で遂にA級への昇級に成功した((当時のA級昇級最遅記録。後に山崎隆之が23期目で昇級したため記録更新となった。))。この時39歳。 昇級が決まった日は東日本大震災が起きた2011年3月11日であり、途中中断を挟みつつ余震が続く中の出来事であった。 その後も2023年現在まで定員が決まっているB級1組以上を維持し続けている。 競艇の大ファンでコラムを連載していた時期もあった。現在は日本モーターボート選手会の外部理事も務めている。 逆に将棋の勉強は一時期スポーツ紙に掲載されている詰将棋をやるだけだったらしい。 この事もあって、1997年度の棋聖戦で研究気質で知られる三浦弘行に挑戦する際に「1日の勉強時間12時間対1分」と評された(結果は屋敷の勝利)。 しかし順位戦で足踏みしている自分が不甲斐ないと感じ反省。 その一環で健康と将棋のために大好きなお酒を禁酒することにした。その甲斐あってかA級昇級できたかもしれないと後に語っている。なお三浦とは研究仲間としても親交がある。 プロ入りした弟子に伊藤沙恵女流がいる。多くの女流タイトル戦に登場し、トップ女流棋士の里見香奈が長らく保持していた女流名人を奪取した強豪として知られる。 弟子入りした経緯は一家揃って屋敷のファンだったとのこと。 相手の時間切れで勝利した珍しい経験がある。しかもNHK杯での出来事だったので映像にも残っている((対局相手が思考に夢中になり過ぎて持ち時間を使い切ってしまった。))。 &bold(){【主な成績】} &bold(){タイトル戦} -棋聖 1990前-1990後, 1997(3期)、登場6回 -王位 登場1回 獲得合計3期、登場合計7回 &bold(){一般棋戦他} -新人王戦 ベスト4 1996 -NHK杯 準優勝 1996 -銀河戦(括弧は非公式戦時代の記録) ベスト4 (1993), (1997), 2004, 2012, 2015-2016 -全日本プロ将棋トーナメント 優勝 1995 -早指し将棋選手権  --準優勝 2001 --ベスト4 1993, 2000 -ABEMAトーナメント ベスト4 2021(永瀬拓矢・増田康宏を含めた3名) -小学生名人戦 3位 1983 -中学生名人戦 優勝 1985 **[[深浦康市]](1972年2月14日~) 羽生キラーと評され、地球代表の異名で知られる棋士。詳しくはリンク先参照。 以上の棋士が羽生世代と呼ばれることが多い。 同世代には、双子棋士で有名な畠山鎮、成幸兄弟(1969年6月3日~)や2000年前後に大流行した8五飛戦法(通称 中座飛車)の創始者である中座真(1970年2月3日~)、 花村元司以来61年振りのプロ編入試験で話題となった瀬川晶司(1970年3月23日~)らが居るが、彼らは普通羽生世代とは呼ばれない。 こんな世代がいればの他の世代はたまったものではなく、年長の棋士で羽生世代からタイトルを奪ったのは[[谷川浩司]]ただ一人のみ。 屋敷を羽生世代に含む場合は、南芳一も棋聖を奪っているのでもう一人増えるが、それでもたった二人だけである。 1973年以降生まれでタイトルを複数期獲得しているのは久保利明・渡辺明・佐藤天彦・豊島将之・広瀬章人・永瀬拓矢・藤井聡太の7名のみ。 余談だが、同世代の女流棋士の方には羽生と同じ頃に全タイトル独占を果たした清水市代やそのライバルの中井広恵や林葉直子がいる。 *エピソード **いろは坂事件 さて、本項では羽生世代の棋士にまつわるちょっとしたエピソードを紹介しよう。 登場人物は当時島朗が主宰していた研究会「島研」のメンバーであった、佐藤康光・羽生善治・森内俊之の3人である。 時は1994年度の冬に遡る。 この時期には王将戦の七番勝負が行われており、当時の保持者であった谷川浩司九段に当時六冠を保持していた羽生が挑んでいた。((この年羽生は七番勝負に敗れるが、この後六冠を全て防衛し翌年の王将戦に勝ち七冠独占を達成した)) そこで、佐藤が勉強という名目で森内を王将戦の観戦に誘った。 しかし、佐藤の真意は別にあった。佐藤は&bold(){運転免許の取りたてであり、要は運転したくて仕方なかった}のである。 この日の対局は[[栃木県]]日光市の中禅寺湖近くで実施されることになっていた。 そこで車で日光市街地まで向かったのだが、ここで問題が発生する。 日光市街地から中禅寺湖へと向かうには、&font(u){九十九折りで有名ないろは坂を通らなければならない}。 路面が凍結していて危険な冬のいろは坂を、何と佐藤は無謀にも&bold(){チェーンやスノータイヤ等の装備なしで走行しようとした}のである。 しかしそこに&color(peru){待ったをかけた}のは慎重派の森内。&color(peru){無理攻めを咎められた}佐藤は森内に押し切られる形で、自車を乗り捨てタクシーで対局場に移動することに決めた。 …しかし、この話はここで終わらない。 谷川と羽生の対局が思いの外早く終了した。 陽が沈まぬうちに打ち上げ等も終わり、その日のうちに&bold(){佐藤の車に羽生も同乗して帰ることになった}のである。&font(l){羽生道連れ} 当時は阪神・淡路大震災が起こったばかり(ちょうど1週間後)でもあり、神戸市民で自身も被災者である谷川は車で帰宅する佐藤らに気をつけるよう念を押した。だがその谷川先生の忠告が帰り道において現実に起きることになる。 最初は車内での会話も弾んでいたが、ここは&bold(){夜の高速道路}。都内に近づくにつれて車の数も増えていく。 佐藤は周囲の車のスピードに動揺し車線内をウロウロ&color(peru){(振り&font(l){飛}車)}、トラックに囲われて(&color(peru){トラック囲い})益々テンパる。 そんな佐藤の様子を察知してか、羽生・森内の会話も減っていく。そして佐藤が&bold(){(高速どころか)夜の運転自体初めて}であることを明かすと、車内は完全にお通夜状態に。佐藤の安全運転のために羽生と森内も気を使って無言だったが、内心は2人とも恐怖しかなかった。 最終的に佐藤の車は無事羽生の自宅に到着したが、羽生が佐藤の車に乗ったのはこれが最初で最後となっている(佐藤が羽生を誘うのを自重しているようである)。 この出来事の後、2016年9月までに羽生・森内・佐藤がタイトルを保持した期間は計102期((羽生78期、森内12期、佐藤12期))。 少々不謹慎であるが、万が一事故が起き3人の命に何かあった場合、間違いなく棋界の勢力図が大きく変わっていた。 このエピソードは島朗九段が自身の著書に記したことで将棋ファンの知る所となり、後にニコニコ生放送で3人が解説を務めた際にそれぞれに本エピソードについての質問が視聴者から寄せられ、3人とも当時のことを克明に語った。 ちなみにこの出来事のメインである舞台は夜の首都高であるが、将棋ファンには最初のきっかけとなった地を冠するいろは坂事件の名で親しまれている(?)ようだ。 羽生にとっては谷川の光速の寄せに負けて敗北した直後に高速道路で幅寄せされる「高速の寄せ(煽り運転は当時も今も変わらないがドライブレコーダーが抑止力になる時代はまだまだ先)」、といったひどい目に3人とも遭遇している。 実際はいろは坂は未遂に終わって済み、ほぼ首都高事件である。 羽生はその後、自身で免許を取得し運転していたが、運転中に棋譜が思い浮かんで危険だとして運転をやめて電車等に切り替えている。 佐藤は、その後2006年に将棋連盟として将棋ソフトのボナンザとプロ棋士の対決の話を持ち掛けられ、負けたら引退も覚悟した背水の陣で挑戦を受けようか悩んでいる時に対戦を断り、代わりに渡辺明が参加しボナンザに勝利している。 当時連盟会長だった米長邦雄は「そんな固いこと言うな、ちょっと遊びで指すだけだ」と重大な仕事であるにもかかわらず遊びと軽はずみに言ってしまい、まじめな佐藤は激高し「プロ棋士として仕事でやっているのに、遊びとは何ですか?!、先生はそんな気持ちで指してきたんですか?!」と米長会長に食って掛かる。だが、1994年のいろは坂事件の冬装備無しでいろは坂を登ろうとしたワイルドな武勇伝から10年強の2006年で強気の自信まで失ってしまったのは大きな変化と言える。 米長邦雄もその後、将棋ソフトのボンクラーズとの対決で負けているのは皮肉である。 追記・修正は夜の首都高から無事帰ってきてからお願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,12) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - タイトルだけ見るとフィギュアスケートと混同しそうだな -- 名無しさん (2020-04-17 17:25:53) - ついにA級から消えるのかぁ -- 名無しさん (2023-01-30 01:53:58) - ↑2 同じく。ちなみにそちらの方は「大谷・藤浪世代」と呼ばれている -- 名無しさん (2023-02-01 20:31:32) - 達人戦ベスト4が全員羽生世代らしいですね -- 名無しさん (2023-11-25 02:14:40) - 村山聖さんのこと描いた漫画好きやったわ -- 名無しさん (2024-01-13 11:52:21) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2016/09/17 Sat 15:43:34 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 13 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- &bold(){羽生世代}とは、[[羽生善治]]および羽生と年齢の近い強豪[[将棋]][[棋士>棋士/女流棋士(将棋)]]の総称である。 ※以下、棋士の段位等肩書は原則として当時のものではなく記事作成時点(2016年9月17日)のものを用いています *概要 将棋棋士といえば、1996年に史上初めて前人未到の七冠独占を達成した羽生善治が将棋界の枠を超えた知名度を誇る。 その羽生(1970年生まれ)と年齢の近い将棋棋士にも実力者が多く、彼らを指す総称として羽生世代という表現が使われている。 一般に羽生世代と見做されている棋士は、&font(u){全員が九段(村山は死後九段追贈)・[[順位戦>名人/順位戦(将棋)]]A級経験者・全棋士参加棋戦優勝経験者}であり、村山・先崎を除く全員がタイトル保持経験者である。 後に羽生世代と呼ばれる棋士のうち村山・佐藤・羽生・森内の4人は10代のうちから実績を出しており、 島朗九段は彼らを&bold(){チャイルドブランド}と呼称した。ちなみに島は佐藤・羽生・森内の三名と研究会を行っていたこともある。 後に佐藤と羽生は将棋連盟の会長、森内は専務理事(No.2)を務めており、連盟の代表としても活躍している。 ここまで突出した理由として、羽生の「将棋はゲーム」発言に代表されるように合理性重視の研究で腕を磨いたのも大きいとされている。 また彼らの多くが従来の将棋であまり開拓されてこなかった序盤戦術に強みを持っていたこともよく挙げられる。 1990年代に入ると羽生世代からタイトル挑戦・獲得者、一般棋戦優勝者が続出。 90年代末には丸山と藤井が台頭。2人は特定の戦法に特化することで同世代に追いつき遅れてきた羽生世代と呼ばれた。 &font(u){2010年代半ばに至るまで、タイトル戦は「羽生世代vs羽生世代」もしくは「羽生世代vs他の世代」という構図が&bold(){ほぼ全て}}。 1995, 1998, 2000-2001年度は&bold(){羽生世代だけでタイトルを総なめ}しており、羽生世代が如何に棋界を席巻してきたかが窺える。 同世代で若い頃から苦楽を共にした関係からお互いの交流も多くの下記にも上げる様に逸話も多い。 ●目次 #contents *羽生世代の棋士 **&bold(){村山聖}(1969年6月15日~1998年8月8日) &bold(){&color(red){恵まれた才能を持ちながらも、病のため若くしてこの世を去った悲運の天才棋士。}} [[広島県]]出身。&font(u){5歳の頃に腎臓の難病・ネフローゼに罹患している}ことが発覚したため、院内学級と養護学校で少年時代を過ごす。 入院中に父親が将棋盤を持ってきたのがきっかけで将棋と出会う。外出日を活用して地元の将棋教室である広島将棋センターに通いメキメキと力をつけていった。 この頃には既に飛車落ちではあるが棋聖のタイトル保持者であった森安秀光を破っている。 奨励会入会にあたって知人の元奨励会員に相談するがまだ早いと保留される。 只、いつまで生きられるか分からない村山は夢を叶えるために早期に奨励会入りを果たす必要があったため広島将棋センターに相談。結果、大阪の森信雄を紹介される。 森も村山と面会し一目で気に入った為そのまま弟子入りが決定… すると思われたが、以前村山側から相談を受けた元奨励会員が灘蓮照((順位戦A級に17期所属し、一般棋戦も複数回優勝した経験を持つ強豪。))に村山を紹介しており、灘本人も村山を弟子にする手続きを進めてしまっていたため一悶着が起きる事になった。 この件については森の師匠である南口繁一の仲裁で森門下で弟子入りすることで決着がついた。 奨励会入りを機に村山は大阪に引っ越すが、&bold(){森は病を抱える村山と同居し献身的に支え}、どっちが弟子かわからないと評されるほどであった。 42℃以上の高熱が出たら死ぬと言う村山に対し、実際に超えていても超えていないと嘘をついて安心させていたらしい。 奨励会入会から2年11ヶ月という異例の速さでプロ入り((病による不戦敗もあったため、健康ならばプロ入りはもっと早まったとも言われている))。奨励会時代から&bold(){「終盤は村山に聞け」}と言われるほど実力には定評があった。 村山自身は名人のタイトルを目標としていたが「名人になって&bold(){早く将棋を辞めたい}」と自分に残された時間が長くないことを悟っていたかのような発言をしていた。 闘争心が強く、特に[[谷川浩司]]や羽生に対しては執念を持って対局していた。 愛称は「ヒジリちゃん((実際の「聖」の読み方は『さとし』である。))」。 趣味は読書。特に[[漫画]]が好きだったらしく自宅には3000冊以上置かれていた。同じ物は三冊揃える主義。師匠の森も村山が体調不良の時は少女漫画の買い出しに行かされていたとの事((村山は途中から一人暮らしを始めたが、その自宅は師匠の森宅から歩いて一分の所だった。))。 もし健在だったらそういった部分でもアニヲタ民からも注目を集めていたかもしれない。 1990年に若獅子戦((1991年に終了した若手棋士のみが参加する棋戦))で棋戦初優勝。 1992年度には王将戦への挑戦権を獲得し、当時の保持者である谷川と対決するも0-4で奪取ならず。これが最初で最後のタイトル挑戦となった。 暫く関西所属であったが、1994年に関東に移籍。関東では下記の先崎学や郷田真隆などと麻雀に興じるなど交流を持った。 お酒、特にワインが好きだったが泥酔することも多く、佐藤康光の新車を汚したり、急性アルコール中毒で病院に運ばれ先崎がお見舞いしていたこともある。 弟弟子の山崎隆之や増田裕司の事もよく面倒見ていた。 関東移籍後も順位戦は順調に勝ち上がり、1995年には森内俊之と同時に遂に&bold(){A級昇級}を果たした。 1996年度には早指し将棋選手権で勝ち、初の&bold(){全棋士参加棋戦優勝}を果たす。 しかしこの頃から体調が悪化、持ち時間の長い順位戦で実力を発揮できず1997年春にB級1組に降級。その後膀胱癌が見つかり手術を受けた(放射線治療と抗癌剤治療は副作用による対局への影響から拒否している)。 それでもこの年度の順位戦は休場せず、手術一か月後には丸山忠久と深夜までの激闘を行った(結果は丸山の勝利)。万が一に備えて看護師や増田が近くで見守っていたとのことである。 この時は負けてしまったものの1期でA級復帰を決め(丸山も一緒に昇級した)、NHK杯でも準優勝(決勝で終盤にミスがあり羽生に敗れた。)((これが映像記録で残る生前最後の対局となった。))するなど調子を取り戻したかに見えたが…。 #center(){&color(coral){&size(20){「…2七銀」}}} 1998年春、癌の再発・転移が見つかり1年間の休場を発表。 同年8月8日、&bold(){&color(red){29年という短くも太い生涯を終えた}}。 入院の件は師匠にも他の棋士にも知らせず交流も絶っていたが、羽生には会っており結果的に村山が最後に話した棋士となってしまった((羽生が面会したのではなく、仕事で近所に来ることを知った村山が病身の体を押して会いに行った。なので詳しい事情は亡くなるまで羽生も把握していなかったそうである。))。 2000年、村山の壮絶な生涯を題材としたノンフィクション小説「聖の青春」(大崎善生((元日本将棋連盟職員))著)が上梓された。 2016年11月には本作を原作とした&font(l){、[[あんな役>L(DEATH NOTE)]]や[[こんな役>ヨハネ・クラウザー二世]]を演じてきた}松山ケンイチ主演の映画が公開された。 村山を演じるにあたって&bold(){20kgもの増量を敢行した}((村山はネフローゼの影響により全身にむくみが出ていた。))松山ケンイチ、そして若き日の羽生そっくりに扮する東出昌大は必見。 村山をプロ棋士に育て上げた森信雄七段一門はその後多くの棋士・女流棋士を輩出し、同じく大所帯の所司和晴七段一門と並び名門と称されている。 2014年には弟弟子の&font(l){怪物}糸谷哲郎が竜王のタイトルを獲得し、村山が成し得なかった森門下初のタイトル獲得を果たした。 &bold(){【主な成績】} -王将 登場1回 -NHK杯 準優勝 1997年度 -日本シリーズ 準優勝 1996 -早指し将棋選手権 優勝 1996 -若獅子戦 --優勝 1990 --準優勝 1989 **&bold(){佐藤康光}(1969年10月1日~) 1982年に奨励会入会し1987年にプロ入り。最も羽生と戦った棋士の一人(もう一人は谷川)。 幼いころから評価は高く、親の転勤のために関西奨励会から関東奨励会に移籍したとき、「谷川以来の名人候補を東京に取られた」と関西の棋士たちが嘆いたほど。 また、羽生がいなければ谷川・佐藤時代になっていたと言われる((ちなみに羽生が七冠制覇するまでにタイトルを奪取できた棋士は谷川と佐藤だけである。))。 (後から新設された叡王を除く)七つのタイトル戦に登場した事がある羽生世代の棋士は羽生本人を除けば佐藤のみであり、その実力がうかがえる。 初タイトルは1993年。羽生との七番勝負に勝ち竜王位を獲得した。 1996年にA級に上がると1998年には名人戦の挑戦権を獲得、谷川を破り名人位を獲得した。 その後は棋王や王将のタイトルも獲得経験がある他、棋聖戦は2002年度から6連覇し&bold(){&color(red){永世棋聖}}の資格を得た。 近年は棋士会の会長を務めていたが、2017年2月には三浦弘行九段のソフト不正利用冤罪騒動を受けて辞任した谷川の後任として&bold(){日本将棋連盟会長に就任}。2023年まで3期6年勤めた。 会長としては、ヒューリックの西浦三郎会長とのコネクションを生かし、ヒューリックや同じ芙蓉グループの大成建設がスポンサードした女流棋戦を創設する、既存タイトル戦への新たなスポンサー獲得など実績を残している。 将棋ブームのお陰で色々企画を持ってきていただけるらしいが、それでも実現に持っていくのはしんどかった模様。 さらに、会長就任後、7月末に歴代9人目、年少記録・速度記録ともに4位((羽生善治・谷川浩司・中原誠に次ぐ))で通算1000勝を達成した。 また会長としての職務に追われながらも2023年時点では、&bold(){羽生世代の中で一番遅くまで順位戦A級}(2022年度の第80期まで)&bold(){で若手に混じりつつ活躍し続けた}((この第80期の順位戦A級は佐藤以外の50代はおろか40代も一人もいなかった(名人含め)。))。この事から会長ならぬ「&bold(){怪鳥}」とあだ名が付いた。 かつては既存の定跡形を多く指していたが、2005年頃から独創的すぎる力戦形の序盤作戦を取ることが増えた。&font(l){それが&bold(){変態}と称されていたりもする。} その読みの深さは「&bold(){1秒間に1億と3手読む}」と形容されるほどであり、そんな棋風は「&bold(){緻密流}」と呼ばれている。 目隠し将棋(脳内将棋)((文字通り、将棋盤を見れない状態で対局する将棋。そのため非常に高い記憶力が要求される。))も得意とし、アマではあるが同時に五人と対決し勝利した事もある。ちなみにその中には後に女流タイトルを獲得する甲斐智美も含まれていた(当時・小学生)。 趣味はバイオリン演奏、ゴルフなど。麻雀もするがあまり強くなく、若い頃は先崎によくカモられていた。 一時期、チェスも嗜んでいたが頭脳労働の余暇に頭を酷使するのはおかしいという至極当然のことに気づき、辞めた。 愛妻家で娘にもデレデレらしい。 独身時代は非常に女性にもてていた(追っかけや出待ちがいた程)ことから先崎が自身の文章で佐藤のことを度々「もてみつ君」とネタにしていたことがあり、ネット上では「&bold(){モテ}」と呼ばれている。結婚してからは「デレみつ君」とネタにされていた。 子供の頃は米長邦雄永世棋聖に憧れていたらしく、米長の事実上の引退が決まった後の対局では、 当時棋聖だった佐藤は、和服を着て下座に座る(棋界の序列では現役タイトルホルダーの方が格上)ことで敬意を表している。 それを受けて、米長も午後から和服を着用したが、よくよく考えたら先輩に手間をかけさせてしまって逆に失礼だったとも語っている。 対局の結果?米長哲学((「自分にとっては消化試合で相手にとって重要な対局こそ、相手を全力で負かしにいくべき」という考え))にならって全力で吹っ飛ばました。 その一方で米長からコンピューター将棋「Bonanza」と対局する企画を持ち込まれた際に佐藤が強く断った逸話がある。 米長は「遊びで大金も貰える企画なのに何でやらないの?(意訳)」と質問したが、佐藤は米長を正座させて「遊びで将棋やってたんですか?」と逆に説教したそうである((この企画自体は後に竜王だった渡辺明が相手になる事で実現している。只、渡辺自身も「嫌だったけど頼まれたからやりました。」と語っている。))。 &bold(){【主な成績】} &bold(){タイトル戦} -竜王 1993(1期)、登場5回 -名人 1998-1999(2期)、登場3回 -王位 登場5回 -王座 登場3回 -棋王 2006-2007(2期)、登場6回 -王将 2001, 2011(2期)、登場8回 -棋聖 2002-2007(6期、永世棋聖)、登場7回 獲得合計13期、登場合計37回 &bold(){一般棋戦他} -銀河戦(非公式戦時代も含む) --優勝 2003, 2008, 2010 --準優勝 1998 --ベスト4 2012 -NHK杯 --優勝 2006-2007, 2016 --準優勝 1993, 2001 --ベスト4 1994, 2008 -全日本プロ将棋トーナメント ベスト4 1997, 2000 -日本シリーズ --優勝 2004, 2006 --ベスト4 1994, 2001-2002, 2007, 2012, 2016 -新人王戦 --準優勝 1993 -達人戦立川立飛杯 ベスト4 2023 -ABEMAトーナメント ベスト4 2020(谷川浩司・森内を含めた3名) -小学生名人戦 ベスト4 1981 &font(l){そして後述するエピソードの主犯である。} **&bold(){先崎学}(1970年6月22日~) 1987年プロ入り。現行の三段リーグを制してプロ入りした初の棋士である((もう一人は同門の中川大輔。))。 奨励会は羽生世代最も早い1981年に入会。小学生のうちに2級まで上がり「天才」と称された。 1979年に行われた大会「よい子日本一決定戦・小学生低学年の部」では羽生と優勝を争っている(この時は先崎が勝利)。 中学生時代は同級生からいじめられ、教師にも助けてもらえない環境だったので((当時、将棋のプロになることは暴力団に入るのと同じような扱いだったと先崎は語っている。))学業から逃げる形でより一層将棋にのめり込んでいった。 しかし先輩に誘われて徹夜麻雀などの遊びを覚えてしまい一時低迷したことがあった。その後は羽生が中学生プロ棋士となるなどチャイルドブランドの面々や郷田に追い抜かれていることに気づき向上心を取り戻したという。 1990年度のNHK杯で優勝し、羽生世代としては&font(u){羽生・森内に次いで全棋士参加棋戦初優勝}を果たした。 1998年にA級昇級を遂げ、2014年に八段昇段後250勝の勝数規定により九段昇段したことで羽生世代の全員が九段昇段を達成した。 羽生世代では唯一タイトル戦に登場したことは無いが複数回、挑戦者決定戦(3位)まで行った経験はある。いずれも&s(){飲み仲間の}佐藤康光に敗れている。 愛称は「先ちゃん」。データに頼らず感覚を重視する棋風は「無頼流」と呼ばれることもある。若い頃は血気盛んでやんちゃであり、その言動や振る舞いはしばしば話題に挙がっていた。 棋士にしては口八丁な人物。文才も豊かで、週刊誌にコラムを持つなど執筆活動も多く、村山聖への追悼文や第13期竜王戦第7局観戦記「一歩竜王」、第76期名人戦でのPVで使われた「昇る落日」は評価が高い。 エッセイも多く出しており、漫画「[[3月のライオン]]」の将棋監修も行っている。 かつて&font(l){コーヤン}中田功七段に誘われたのがきっかけでパチスロにハマっていた時期があり、情報誌がない中リーチ目を解析してかなり稼いでいたという。 また、将棋界屈指の雀力の持ち主で囲碁やパズルを解くのも趣味。 師匠は故米長邦雄永世棋聖。この世代には珍しく内弟子(住み込み)をしていた。そのため、師匠とのエピソードも豊富。 奥さんは囲碁棋士の穂坂繭三段。日本将棋連盟囲碁部の師範を務めていた時期があり、先崎を含む羽生世代達とはその時に出会ったそうである。 夫婦二人で囲碁将棋サロン・教室「囲碁・将棋スペース 棋樂」を運営している((この場所は本来、先崎が研究会を行うために借りた場所だったが下記の事情で療養することになったため、奥さんの判断で急遽、囲碁将棋教室として使われることになった。もしも病気が原因で先崎が引退に追い込まれた場合に生計を確保する目的もあった。))。 2017年には上のソフト不正利用冤罪騒動での心労等が原因でうつ病になり、療養の為に休場。 この時引退する事も考えたが、休場を勧めた精神科医のお兄さんや奥さん、同年代の佐藤康光、弟弟子の中村太地、研究会仲間等の支えもあり半年後に復帰した。 そのときの経験談は「うつ病九段」として上梓((執筆を勧めたのはお兄さん。当時、先崎はまだ療養中で時間があるのと、本人の体験談が書かれた事例は医学的にも少なくうつ病の理解に役に立つと考えたからである。))され、その後ラジオ・テレビドラマ化されている。 ちなみに当人が休場届を出そうとしたら、連盟にフォーマットの類がなかったため、「一身上の都合により休場する」云々と一筆書いただけのものを出したらそのまま掲載されてしまい、重病説が飛び交ってしまった。 &bold(){【主な成績】} -銀河戦 ベスト4 1993, 2001 -NHK杯 --優勝 1990 --準優勝 2002 -若獅子戦 優勝 1991 **&bold(){丸山忠久}(1970年9月5日~) 1990年にプロ入り。順位戦C級1組在籍時には驚異の24連勝を達成したが、その中には[[加藤一二三]]や米長、谷川、羽生等の名だたる強豪が含まれていた。 1997年度のB級1組で全勝(史上初)した後にA級に昇級。 1998年度の全日本プロトーナメントで全棋士参加棋戦初優勝を果たした。 2000年に佐藤を破り自身初タイトルとなる名人位を獲得。2002年度には棋王12連覇中であった羽生から棋王位を奪取した。 角換わりの名手で自身も丸山新手を考案。その結果、一時は角換わりは先手必勝と考えられ後手同型を消滅させたこともある(後に佐藤が対抗策を考案し後手同型も復活した)。 ゴキゲン中飛車への対抗策である丸山ワクチン((名前の元ネタは丸山千里医学博士が開発した皮膚結核の治療薬))を考案したことでも知られる。 優勢になっても勝ちを急がず相手の手を殺す手堅い(将棋用語で「辛い」という)棋風が特徴で、「&bold(){激辛流}」などと呼ばれている。所謂「友達を無くす手」。 その一方で丸山自身は至って愛想の良い人柄であり「ニコニコ流」とも呼ばれる。 若い頃の見た目の話題だと上の佐藤や下記の郷田真隆がよく話題に挙がるが、丸山も愛想の良さから女流棋士からの人気も高かったそうだ。 また対局時の駒音が小さいため「音無し流」とも言われたりしている。 普段から筋トレを欠かさない肉体派。その成果は対局中に見える上腕の太さが物語っており、50歳の時点でペンチプレスも100kg6回2セットまで上げられる剛腕。 思考の際は腕を直角に折り曲げ、肘と太ももの間に扇子で立てて支える「マッスルポーズ」を行って考えるのが習慣である。 本人曰く、体の負担を減らすために無意識に行い始めたとのこと。 その影響か日頃からカロリーを必要としており、棋士の中でもひふみんこと[[加藤一二三]]九段と並ぶ大飯喰らいで知られている。 ひふみんと同じく食事は固定気味で、昼は麻婆豆腐定食、夜はヒレカツ定食が定番。勿論おやつも食べる。 2007年度A級順位戦最終戦(いわゆる将棋界の一番長い日)、藤井との対局のさなか深夜12時を過ぎてから[[カロリーメイト]]を摂取し始め、 解説の聞き手を務めていた千葉涼子女流四段((聞き手を務めた際には対局者の好手を読んだりユニークな発言が多かったりと評判である。千葉は以前より丸山のファンと公言している。))はこれを見て「&bold(){用意周到丸山流}」などとユニークな表現をした。 暑がりらしく、2010年度A級順位戦最終局での対渡辺戦では、冷却ジェルシートを頭に貼って対局し、衝撃をあたえた。 2016年年度竜王戦では上のソフト不正利用冤罪騒動で三浦弘行九段に代わってタイトル挑戦者になる。 只、三浦の無実を信じていた丸山にはかなり不本意だったらしく「不審に思ったことは全然ない」「僕はコンピューターに支配される世界なんてまっぴらごめんです」と寡黙な丸山にしては珍しく感情が入った発言している((三浦が疑われた対局には対丸山戦が2つ挙げられていた。))。 一時期軽井沢に住んでたり、突然ミス日本フォトジェニックであった女性と結婚するなど、私生活には少々謎が多い。 加えて対局以外での露出が極めて少ないことでも知られているが、2018年には&bold(){カロリーメイトのCMに出演}したことが話題となった。 2023年の銀河戦では渡辺明、永瀬拓矢、藤井聡太と言った若手の強豪を倒して53歳にして悲願の初優勝を達成。今まで藤井猛(当時46歳)が持っていた&bold(){&color(red){銀河戦最年長優勝}}記録を更新した。 50代棋士の全棋士参加棋戦の優勝は1993-1994年度のNHK杯で優勝した[[加藤一二三]]以来の約30年振りの快挙となった。 そして12月には通算1000勝を達成。同世代では羽生、佐藤に次ぐ3人目の&bold(){特別将棋栄誉賞}を受賞した。 &bold(){【主な成績】} &bold(){タイトル戦} -竜王 登場3回 -名人 2000-2001(2期)、登場3回 -王座 登場1回 -棋王 2002(1期)、登場2回 -棋聖 登場1回 獲得合計3期、登場合計8回 &bold(){一般棋戦} -銀河戦 --優勝 2023 --準優勝 2010 --ベスト4 2006, 2009 -NHK杯 --優勝 2005 --準優勝 2013 --ベスト4 1991, 1996, 2002-2003, 2009-2010, 2018 -全日本プロ将棋トーナメント --優勝 1998 --ベスト4 2000 -朝日杯 準優勝 2007 -日本シリーズ --優勝 1999, 2001 --準優勝 2002 --ベスト4 2005, 2012-2014, 2018 -新人王戦 --優勝 1994-1995 --準優勝 1996 -達人戦立川立飛杯 準優勝 2023 **&bold(){[[羽生善治]]}(1970年9月27日~) もはや説明不要の存在。日本将棋連盟会長(2023年現在)。 史上3人目の中学生プロ棋士、五段時のNHK杯で(当時現役の)名人経験者4人全てをなぎ倒して優勝、そのNHK杯[[ひふみん>加藤一二三]]戦での▲5二銀など随所に光る&bold(){羽生マジック}、1996年の&bold(){&color(red){七冠独占}}、&bold(){&color(red){永世七冠}}保持、七大タイトル保持90期越え…その記録とインパクトは他の棋士の追随を許さない。 詳細は当該項目を参照されたし。 **&bold(){藤井猛}(1970年9月29日~) 平成の振り飛車党を代表する存在。特に四間飛車の採用が多い。 左美濃・居飛車穴熊対策の四間飛車戦法である&bold(){&color(red){藤井システム}}を生み出し振り飛車の中興の祖とされている。 他にも対ゴキゲン中飛車5八金右超急戦、藤井矢倉の考案、B級戦法であった角交換四間飛車を戦法として確立させるなど序盤戦術の革命家。 将棋を覚えたのが小4、楽しさに気付いたのは小6から中1の頃、奨励会に入ったのは16歳と他の羽生世代の棋士と比べると遅かったが故に、プロ入りも1991年とこの中では最も遅い20歳の時だった。 普通は20代でプロ入りする棋士が多いので藤井は決して遅いわけでは無い事は伝えておく。他が早すぎるだけである。 1970年代から普及した居飛車穴熊の影響で振り飛車は苦境に立たされており、その対抗策もなかったことから振り飛車は一戦級の戦法ではないとしプロの間で使用者は減少していた。 そのため振り飛車で活躍するためには必然的にこの問題に向き合う必要があり当然藤井もその研究を行うことになった。 藤井システムの名は1994年に藤井が左美濃対策での四間飛車の立ち回りを見た島朗がその名で呼んだのが始まり。 戦法として藤井システムは翌年の1995年の順位戦で対井上慶太戦で使用したのが元祖とされている。この時はわずか47手で藤井が勝利を収めたが、この段階では藤井システム自体は注目されず、単に井上の連勝記録を止めた実績の方が評価されていた。 本人的にも藤井システムはまだ研究途上なこともあり、この頃は公式戦では積極的に指していなかったことも要因。 そして1996年度に藤井システムが評価され新定跡を生み出した者に与えられる&bold(){将棋大賞升田幸三賞}を受賞。 成熟した藤井システムを原動力に1998年に谷川から竜王位を奪取(4-0のストレート勝ち!)、その後史上初の竜王位3期連続保持を果たした((基本的に棋士は早熟なほど出世する傾向にあり、20歳超えてプロ入りした棋士でタイトルを獲得できた棋士は少ない。ちなみに20歳超えてプロ入りした棋士で竜王を獲得したのは藤井猛が唯一である。))。 「居玉を避けよ」「玉飛接近するべからず」と言う従来の王道も無視した藤井システムは当時大きな衝撃を与えた。羽生も「&bold(){最初はふざけてるのかと思いました}」「&bold(){創造の99%は既存の物だが藤井システムは残りの1%}(意訳)」言ってしまうほど((ちなみに羽生も藤井システムの使い手として知られる。))。 初の順位戦A級昇級は2000年度。同郷の弟弟子の&font(l){みうみう}三浦弘行と同時昇級である。 2008年の中頃から飛車先を早めに突くことで急戦矢倉を牽制しつつ、角交換の起こりやすい脇システムと角交換に強い片矢倉を組み合わせた早囲い(藤井矢倉)を用い、居飛車にも影響を与える((相居飛車では早めに飛車先の歩を5段目まで突くのは桂馬を跳ねる場所を失うため、損とされていたが、藤井流早囲いに誘導すれば損にならなくなる))。 2009年頃からは角交換四間飛車を用い結果を残すようになり、他の棋士も採用を始めた。 これが評価され2012年度には藤井システム(1996年度)に続き二度目の升田幸三賞を受賞している。 四間飛車党としては藤井は&bold(){[[鰻>ウナギ]]屋}に例えており、「こっちは鰻しか出さない鰻屋だからね、ファミレス(オールラウンダー)の鰻に負けるわけにはいかない」と発言したことがある。 2007年にゴキゲン中飛車を採用した際には「もう鰻屋だけじゃやってけない。これからは多角経営ですよ」、2008年に居飛車の矢倉を指すようになった時は「私は鰻屋なので、居飛車屋の超高級五つ星レストランが建ち並ぶ銀座の目抜き通りに、やっと屋台の居飛車屋を出店したばかりの状態です。 鰻のことに関しては語れますが、居飛車のことに関しては語れません」と印象的なコメントを残している。 ちなみに居飛車に関しては(後述の理由で)プロ入り直前に勉強していた時期があり、この経験が藤井システムの構築にも活きていたようである。 竜王戦で同じ振り飛車党の鈴木大介から挑戦された際は、相振り飛車での勝率が高い鈴木に対しては分が悪いと判断し、逆に居飛車穴熊を使用し防衛に成功している。 また、藤井を語る上で欠かせないのが&bold(){終盤戦}。 NHK杯対丸山戦の▲8三飛((藤井陣にいた丸山の馬が8二まで利いており、△8二香と打たれて飛車が死んでしまい勝勢だったのが逆転してしまった))に代表される、珍手奇手鬼手悪手がしばしば姿を見せることから&bold(){&color(red){終盤のファンタジスタ}}(略して&bold(){&color(red){ファンタ}}とも)と呼ばれ親しまれて(?)いる。 その他にも大駒を大胆に切って相手玉に露骨に食らいつく様が&bold(){ガジガジ流}とも呼ばれている。 上記のようなユーモアのあるコメントは解説でも見られ、みうみうとのユニークなやり取りなどは必見。 こういったことからネットでの人気も高く、しばしば「(藤井)てんてー」などと呼ばれている。 息子さんの影響で[[ポケモンカードゲーム]]も嗜んでおり、2018年のポケモンカード企業対抗戦では日本将棋連盟名義で出場(結果は31位)、翌2019年のミュウツーHR争奪戦記念の特別試合で招待された上に&bold(){優勝}している。 余談だが、2016年9月には&bold(){藤井}聡太が史上最年少でのプロ入りを決めた。 彼は&font(u){プロ棋士も多数参加した詰将棋解答選手権で小学生ながら優勝した}経歴があり、それに裏打ちされた終盤戦の強さに定評がある。 そのためか、彼は&bold(){「終盤が強い方の藤井」}と呼ばれていた。 そしてその実力はデビュー時点でトッププロすら本気を出さないと圧倒されるレベルで、豪運も味方にして&bold(){歴代連勝記録を更新}し、将棋界どころか世間一般を騒がせることとなったのは諸兄の御存知の通りである。 2023年現在は藤井聡太も九段昇段・竜王獲得をしたので藤井猛九段の方を「システム九段」と呼ぶ人がいる。 藤井は藤井聡太の師匠の杉本昌隆とは縁が深い。 杉本は振り飛車党棋士の先輩であり、奨励会時代に振り飛車党としての自信を無くしていた藤井は杉本の様子を見て自信を取り戻し三段リーグを突破した逸話がある。 また藤井システムの構築には杉本と杉本の兄弟子の小林健二等の先行研究も参考にしている。 &bold(){【主な成績】} &bold(){タイトル戦} -竜王 1998-2000(3期)、登場4回 -王位 登場1回 -王座 登場2回 獲得合計3期、登場合計7回 &bold(){一般棋戦} -銀河戦 --優勝 2016 --ベスト4 2004 -NHK杯 ベスト4 2001 -全日本プロ将棋トーナメント 準優勝 1995 -朝日オープン 準優勝 2005 -日本シリーズ --優勝 2002, 2005 --ベスト4 2000, 2003 -新人王戦 --優勝 1996-1997, 1999 **&bold(){森内俊之}(1970年10月10日~) 小学生時代から大会で幾度も対決してきた羽生のライバル((本人的には羽生の方がどう考えても強いと思っているのでライバルよりかは永遠の目標として捉えている。))。羽生との公式戦の対局数も谷川・佐藤に次ぐ経験がある。 同世代では唯一親族に将棋棋士がおり、京須行男八段を母方の祖父にもつ(祖父は森内が生まれる前に他界しているので面識は無い)。 京須が亡くなった後にも『将棋世界(将棋連盟の機関誌)』は京須の妻(=森内の祖母)宛に毎月届いていたが、 孫が将棋に興味を持ち始めたのを知った祖母が森内にそれを渡したことで将棋の奥深さを学び、より一層のめり込むようになった。 その後、京須の娘である母親の後押しもあって将棋会館での将棋教室に通うようになる。 大会で羽生と対局した縁から羽生が当時通っていた八王子将棋クラブに遊びに行ったこともある。 かつて京須の家で下宿していた縁のある勝浦修の門下に入り1982年12月に羽生・郷田と共に関東奨励会に入会。1987年にプロ入り。 全棋士参加棋戦初優勝は1988年度の全日本プロトーナメント(現朝日オープン将棋選手権)で、当時18歳であった。 順位戦で無類の強さを誇り、プロ入り後わずか合計7期でA級に昇級した。 タイトル初挑戦は1996年の名人戦であり、相手は当時七冠独占していた羽生であったが、この時は1-4で敗れ羽生との差を痛感した。 その後も羽生の影を追う日々が続いた。 念願の初タイトルは2002年、丸山を破り&bold(){名人のタイトルを獲得}。 二日制のタイトル戦にめっぽう強く、2004年には竜王・名人・王将の&bold(){三冠王}(史上7人目)となった。 そして2007年に名人位を防衛したことにより名人通算5期となり、&bold(){&color(red){羽生より先に永世名人となる資格を得た}}。 2017年に順位戦でB級1組への降格が決まったことによりフリークラス宣言をしたことも話題となった。 フリークラス宣言とは順位戦を引退する行為で(途中で自主引退)しない限り65歳をもって完全引退する事が確定した。 これについては以前から考えていた様で本人的にも今回が決断の時と思ったそうである((降級等を機にフリークラス宣言をする棋士は過去にも事例はあり、永世称号保持者だと米長邦雄や中原誠が同様の事をしている。只、前者二人が53歳で宣言したのに対し、森内の場合は46歳でそれをした事が話題を呼んだ。))。 その後は2019年まで連盟の専務理事として佐藤会長を支えた後、 2020年から『&bold(){森内俊之の森内チャンネル}』と言うYouTubeチャンネル(+Twitterアカウント)を開設。 将棋と他のゲームの内容を中心に不定期で投稿しているが、翌2021年にかつてニコニコ動画で投稿されたMAD『【将棋】 森内俊之 vs 森内俊之』のセルフパロディ動画が投稿され話題になった。 後進育成・人材発掘の為に地元の[[横浜市]]で将棋教室も運営している。 棋風は重厚な受けが際立っており、強力な攻め駒である飛車を受けに用いることも厭わない。そんな棋風はしばしば&bold(){鉄板流}と称される。 ネットでの愛称は「ウティ」。投了の際の&bold(){「あ、負けました」}も有名である。 好物は[[カレー>カレーライス]]。ファンと一緒にカレーを食べるイベントが催されたこともある。 趣味の一つにクイズがあり、2005年には&bold(){[[パネルクイズ アタック25]]に出場し優勝}。羽生や佐藤と効率の良いパネルの取り方を研究していたらしい。 将棋以外のテーブルゲームも嗜み、バックギャモンの愛好家としても知られる。日本国内大会で優勝経験があり世界大会でも4位に入ったこともある実力者。 チェスも強く、大会で3位になったこともある(なおその時の優勝者は羽生で、2位となったチェス愛好家の渡辺暁氏は棋士の強さにショックを受けて寝込んだ。)。その他には麻雀やトランプも得意。 先崎曰く、何故かじゃんけんが異様に強い。普段ならじゃんけんで決めることでも森内が居るとあみだクジなど他の方法で決めていたらしい。 弟子に&font(l){JK棋士として知られた}竹俣紅(元・女流初段。引退と同時に将棋連盟を退会し、現在はアナウンサーに転向)と野原未蘭女流初段(アマチュアからプロ入りした女流棋士((森内の将棋を勉強で活用していた縁で森内本人に弟子入りを志願する手紙を送った。プロ入りの条件となる公式戦ベスト8を果たしたら会いますと森内は返信し、無事に達成に成功したため門下入りすることになった。)))がいる。 &bold(){【主な成績】} &bold(){タイトル戦} -竜王 2003, 2013(2期)、登場5回 -名人 2002, 2004-2007, 2011-2013(8期、十八世名人)、登場12回 -王座 登場2回 -棋王 2005(1期)、登場3回 -王将 2003(1期)、登場2回 -棋聖 登場2回 獲得合計12期、登場合計25回 &bold(){一般棋戦他} -銀河戦 --準優勝 2005, 2007 --ベスト4 2002-2003, 2008 -NHK杯 --優勝 1996, 2001, 2014(3回) --準優勝 2006, 2008 --ベスト4 1993, 2000, 2004, 2018 -全日本プロ将棋トーナメント --優勝 1988, 2000 --準優勝 1997-1998 -日本シリーズ --優勝 2000 --準優勝 2007 --ベスト4 1995, 2001, 2006, 2010 -新人王戦 --優勝 1987, 1991, 1993 --準優勝 1988 -達人戦立川立飛杯 ベスト4 2023 -ABEMAトーナメント ベスト4 2020(佐藤康光・谷川を含めた3名) -小学生名人戦 ベスト4 1982 **&bold(){郷田真隆}(1971年3月17日~) 1982年に奨励会入会。1990年に丸山と一緒にプロ入り。タイトルは通算6期。 1992年、谷川浩司との七番勝負に勝ち王位のタイトルを獲得。&bold(){&color(red){史上初の四段でのタイトル獲得を果たした}}(現在の昇段規定ではタイトル挑戦の時点で五段に昇段するため、四段タイトルはこれが唯一の記録となる可能性が高い)。 初のA級は1999年。タイトル戦では棋聖・棋王も獲得経験があるが、前述の王位も含めそれらは全て1期で奪われてしまっていた。しかし2014年度に王将を獲得した1年後、挑戦者の羽生を退け&bold(){初のタイトル防衛}((奥さんにプロポーズしたのはこの時期らしい))に成功した。 直線的な攻め合いをする剛直な棋風で、序盤から長考することも多い。 本人曰く、選択肢が多いからこそ悩むとの事だが、それを生かしにくい早指しの方でも実績を残している。 その指し手や佇まいは&bold(){格調高い}と評されている。 趣味はプロレス・野球といったスポーツ観戦。好きなプロレスラーは[[三沢光晴]]と[[小橋健太]]。野球は[[巨人>読売ジャイアンツ/読売巨人軍]]ファンである。 酒好きでも知られるが、酒癖はあまり良い方ではないようで、酒の席で先輩である中村修や滝誠一郎に口論をふっかけたことがある。 その棋力もさることながら、若手時代は&bold(){棋界きっての[[イケメン]]棋士}としても話題になった。 ただ本人はルックスを話題にされるのは不満だったようで、「顔じゃなくて棋譜を見ろ!」と一喝したことも。 しかしながら不思議なことに&bold(){40代に至るまで長らく独身}であり、それ故か女性将棋ファンには一層魅力的に映っているようであった。 2016年9月初頭に&bold(){結婚}していることが明らかになり、将棋界最後の大物独身が入籍したとして話題を集めた。ちなみに奥さんは8歳年下の[[大島優子]]似で[[横浜>横浜DeNAベイスターズ]]ファンだとか。 結婚発表後初の公式戦であるJT杯での佐藤天彦名人との対局では二歩で反則負け。&font(l){妻と&bold(){二}人で&bold(){歩}んでゆくというメッセージなのだろうか} &bold(){【主な成績】} &bold(){タイトル戦} -名人 登場2回 -王位 1992(1期)、登場4回 -棋王 2011(1期)、登場3回 -王将 2014-2015(2期)、登場3回 -棋聖 1998, 2001(2期)、登場6回 獲得合計6期、登場合計18回 &bold(){一般棋戦他} -銀河戦 --優勝 1999 --ベスト4 2007, 2013, 2015 -全日本プロ将棋トーナメント ベスト4 1998, 2003, 2005 -NHK杯 --優勝 2013 --準優勝 1999, 2018 --ベスト4 2004, 2012, 2017 -朝日杯 ベスト4 2010-2011 -日本シリーズ --優勝 1993-1995 --準優勝 2005-2006 --ベスト4 2010-2011 -新人王戦 準優勝 1994 -ABEMAトーナメント ベスト4 2021(菅井竜也・深浦康市を含めた3名) *広義の羽生世代の棋士 一年度下の世代だが、上記の棋士達とプロ入り時期や活躍時期が離れておらず羽生世代に含まれることも多いので掲載する。 いずれも九段・順位戦A級経験者・全棋士参加棋戦優勝経験者である。 **屋敷伸之(1972年1月18日~) 13歳で奨励会に6級で入会してから、たった2年10か月後の1988年に16歳で四段昇段。 名前をもじった「忍者屋敷」「お化け屋敷」と言う異名を持ち、居飛車・振り飛車ともに指しこなす。二枚銀急戦の使い手としても知られる。 若干17歳10か月24日でタイトル戦(棋聖戦)に登場(当時の最年少記録)((後に藤井聡太に更新されるものの4日早くなっただけであり、屋敷の記録も藤井と大きく離れていない。))。 &bold(){&color(red){プロ入りからの1年2か月でのタイトル挑戦としては史上最速}}で、&bold(){順位戦C級2組在籍・四段の棋士としても史上初}と大事件であった。 相手は当時のトップ棋士である中原誠。広義とは言え羽生世代の棋士で中原と番勝負をしたのは屋敷ただ一人だけである。 この時は負けてしまうが次年度の1990年度前期棋聖戦にも再び登場。中原から奪取に成功し雪辱を果たす。&bold(){&color(red){プロ入りから1年10か月でタイトル奪取に成功}}し、これは2023年現在でも歴代最速記録である。 同年度後期棋聖戦も棋聖の防衛に成功。当時の最年少防衛記録を樹立した。 また若手の森下卓が挑戦したことで対局者の合計年齢が当時最も若いタイトル戦となった。10代でタイトル防衛に成功した棋士は今なお屋敷と藤井聡太だけである。 翌年度は失冠してしまうが、その影響で最年少タイトル失冠記録も生まれてしまった。 順位戦の方も初参加でC級1組昇級が決まり、新進気鋭の若手棋士として好調な滑り出しであった…。 しかし、その後10年以上C級1組に留まってしまい、これほどの実力者なのになぜ昇級できないのかと不思議がられていた。((次点は4回取っており、全く可能性が無かった訳では無かった。)) 14期目でようやくB級2組に昇級し、22期目で遂にA級への昇級に成功した((当時のA級昇級最遅記録。後に山崎隆之が23期目で昇級したため記録更新となった。))。この時39歳。 昇級が決まった日は東日本大震災が起きた2011年3月11日であり、途中中断を挟みつつ余震が続く中の出来事であった。 その後も2023年現在まで定員が決まっているB級1組以上を維持し続けている。 競艇の大ファンでコラムを連載していた時期もあった。現在は日本モーターボート選手会の外部理事も務めている。 逆に将棋の勉強は一時期スポーツ紙に掲載されている詰将棋をやるだけだったらしい。 この事もあって、1997年度の棋聖戦で研究気質で知られる三浦弘行に挑戦する際に「1日の勉強時間12時間対1分」と評された(結果は屋敷の勝利)。 しかし順位戦で足踏みしている自分が不甲斐ないと感じ反省。 その一環で健康と将棋のために大好きなお酒を禁酒することにした。その甲斐あってかA級昇級できたかもしれないと後に語っている。なお三浦とは研究仲間としても親交がある。 プロ入りした弟子に伊藤沙恵女流がいる。多くの女流タイトル戦に登場し、トップ女流棋士の里見香奈が長らく保持していた女流名人を奪取した強豪として知られる。 弟子入りした経緯は一家揃って屋敷のファンだったとのこと。 相手の時間切れで勝利した珍しい経験がある。しかもNHK杯での出来事だったので映像にも残っている((対局相手が思考に夢中になり過ぎて持ち時間を使い切ってしまった。))。 &bold(){【主な成績】} &bold(){タイトル戦} -棋聖 1990前-1990後, 1997(3期)、登場6回 -王位 登場1回 獲得合計3期、登場合計7回 &bold(){一般棋戦他} -新人王戦 ベスト4 1996 -NHK杯 準優勝 1996 -銀河戦(括弧は非公式戦時代の記録) ベスト4 (1993), (1997), 2004, 2012, 2015-2016 -全日本プロ将棋トーナメント 優勝 1995 -早指し将棋選手権  --準優勝 2001 --ベスト4 1993, 2000 -ABEMAトーナメント ベスト4 2021(永瀬拓矢・増田康宏を含めた3名) -小学生名人戦 3位 1983 -中学生名人戦 優勝 1985 **[[深浦康市]](1972年2月14日~) 羽生キラーと評され、地球代表の異名で知られる棋士。詳しくはリンク先参照。 以上の棋士が羽生世代と呼ばれることが多い。 同世代には、双子棋士で有名な畠山鎮、成幸兄弟(1969年6月3日~)や2000年前後に大流行した8五飛戦法(通称 中座飛車)の創始者である中座真(1970年2月3日~)、 花村元司以来61年振りのプロ編入試験で話題となった瀬川晶司(1970年3月23日~)らが居るが、彼らは普通羽生世代とは呼ばれない。 こんな世代がいればの他の世代はたまったものではなく、年長の棋士で羽生世代からタイトルを奪ったのは[[谷川浩司]]ただ一人のみ。 屋敷を羽生世代に含む場合は、南芳一も棋聖を奪っているのでもう一人増えるが、それでもたった二人だけである。 1973年以降生まれでタイトルを複数期獲得しているのは久保利明・渡辺明・佐藤天彦・豊島将之・広瀬章人・永瀬拓矢・藤井聡太の7名のみ。 余談だが、同世代の女流棋士の方には羽生と同じ頃に全タイトル独占を果たした清水市代やそのライバルの中井広恵や林葉直子がいる。 *エピソード **いろは坂事件 さて、本項では羽生世代の棋士にまつわるちょっとしたエピソードを紹介しよう。 登場人物は当時島朗が主宰していた研究会「島研」のメンバーであった、佐藤康光・羽生善治・森内俊之の3人である。 時は1994年度の冬に遡る。 この時期には王将戦の七番勝負が行われており、当時の保持者であった谷川浩司九段に当時六冠を保持していた羽生が挑んでいた。((この年羽生は七番勝負に敗れるが、この後六冠を全て防衛し翌年の王将戦に勝ち七冠独占を達成した)) そこで、佐藤が勉強という名目で森内を王将戦の観戦に誘った。 しかし、佐藤の真意は別にあった。佐藤は&bold(){運転免許の取りたてであり、要は運転したくて仕方なかった}のである。 この日の対局は[[栃木県]]日光市の中禅寺湖近くで実施されることになっていた。 そこで車で日光市街地まで向かったのだが、ここで問題が発生する。 日光市街地から中禅寺湖へと向かうには、&font(u){九十九折りで有名ないろは坂を通らなければならない}。 路面が凍結していて危険な冬のいろは坂を、何と佐藤は無謀にも&bold(){チェーンやスノータイヤ等の装備なしで走行しようとした}のである。 しかしそこに&color(peru){待ったをかけた}のは慎重派の森内。&color(peru){無理攻めを咎められた}佐藤は森内に押し切られる形で、自車を乗り捨てタクシーで対局場に移動することに決めた。 …しかし、この話はここで終わらない。 谷川と羽生の対局が思いの外早く終了した。 陽が沈まぬうちに打ち上げ等も終わり、その日のうちに&bold(){佐藤の車に羽生も同乗して帰ることになった}のである。&font(l){羽生道連れ} 当時は阪神・淡路大震災が起こったばかり(ちょうど1週間後)でもあり、神戸市民で自身も被災者である谷川は車で帰宅する佐藤らに気をつけるよう念を押した。だがその谷川先生の忠告が帰り道において現実に起きることになる。 最初は車内での会話も弾んでいたが、ここは&bold(){夜の高速道路}。都内に近づくにつれて車の数も増えていく。 佐藤は周囲の車のスピードに動揺し車線内をウロウロ&color(peru){(振り&font(l){飛}車)}、トラックに囲われて(&color(peru){トラック囲い})益々テンパる。 そんな佐藤の様子を察知してか、羽生・森内の会話も減っていく。そして佐藤が&bold(){(高速どころか)夜の運転自体初めて}であることを明かすと、車内は完全にお通夜状態に。佐藤の安全運転のために羽生と森内も気を使って無言だったが、内心は2人とも恐怖しかなかった。 最終的に佐藤の車は無事羽生の自宅に到着したが、羽生が佐藤の車に乗ったのはこれが最初で最後となっている(佐藤が羽生を誘うのを自重しているようである)。 この出来事の後、2016年9月までに羽生・森内・佐藤がタイトルを保持した期間は計102期((羽生78期、森内12期、佐藤12期))。 少々不謹慎であるが、万が一事故が起き3人の命に何かあった場合、間違いなく棋界の勢力図が大きく変わっていた。 このエピソードは島朗九段が自身の著書に記したことで将棋ファンの知る所となり、後にニコニコ生放送で3人が解説を務めた際にそれぞれに本エピソードについての質問が視聴者から寄せられ、3人とも当時のことを克明に語った。 ちなみにこの出来事のメインである舞台は夜の首都高であるが、将棋ファンには最初のきっかけとなった地を冠するいろは坂事件の名で親しまれている(?)ようだ。 羽生にとっては谷川の光速の寄せに負けて敗北した直後に高速道路で幅寄せされる「高速の寄せ(煽り運転は当時も今も変わらないがドライブレコーダーが抑止力になる時代はまだまだ先)」、といったひどい目に3人とも遭遇している。 実際はいろは坂は未遂に終わって済み、ほぼ首都高事件である。 羽生はその後、自身で免許を取得し運転していたが、運転中に棋譜が思い浮かんで危険だとして運転をやめて電車等に切り替えている。 佐藤は、その後2006年に将棋連盟として将棋ソフトのボナンザとプロ棋士の対決の話を持ち掛けられ、負けたら引退も覚悟した背水の陣で挑戦を受けようか悩んでいる時に対戦を断り、代わりに渡辺明が参加しボナンザに勝利している。 当時連盟会長だった米長邦雄は「そんな固いこと言うな、ちょっと遊びで指すだけだ」と重大な仕事であるにもかかわらず遊びと軽はずみに言ってしまい、まじめな佐藤は激高し「プロ棋士として仕事でやっているのに、遊びとは何ですか?!、先生はそんな気持ちで指してきたんですか?!」と米長会長に食って掛かる。だが、1994年のいろは坂事件の冬装備無しでいろは坂を登ろうとしたワイルドな武勇伝から10年強の2006年で強気の自信まで失ってしまったのは大きな変化と言える。 米長邦雄もその後、将棋ソフトのボンクラーズとの対決で負けているのは皮肉である。 追記・修正は夜の首都高から無事帰ってきてからお願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,12) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - タイトルだけ見るとフィギュアスケートと混同しそうだな -- 名無しさん (2020-04-17 17:25:53) - ついにA級から消えるのかぁ -- 名無しさん (2023-01-30 01:53:58) - ↑2 同じく。ちなみにそちらの方は「大谷・藤浪世代」と呼ばれている -- 名無しさん (2023-02-01 20:31:32) - 達人戦ベスト4が全員羽生世代らしいですね -- 名無しさん (2023-11-25 02:14:40) - 村山聖さんのこと描いた漫画好きやったわ -- 名無しさん (2024-01-13 11:52:21) #comment #areaedit(end) }

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