神道(宗教)

登録日:2012/02/10 Fri 03:45:25
更新日:2023/10/16 Mon 20:37:05
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むか~しむかし。な~んにもないところに名前すらない《なにか》がいました。

その《なにか》は、何を思ったかアメツチを生み自分に似た《何か》をそこに住まわせました。

《なにか》は消えてしまいました。

だから、《何か》は…いえ《何か達》は全てを手探りで覚えました。

それから気が遠くなる程の年月がながれ、人の世になりました。

今、《何か達》は神々と呼ばれています。

その神々の末席に人の魂を並べて。


神道(しんとう)とは、日本文化から発生した宗教の一つである。「神道」と「国家神道」の片方あるいは両方を意味する。
19世紀の国学者(小中村清矩など)は、「神道」という言葉が漢語(中国語)であることを理由に、「カンナガラ」「カミナラヒ」という表現を使うことを提案した。

特徴としては……

  • 日本先住民(非大和系)と大和民族の伝承や民話に、地方豪族由来のものなどが合わさって発展。
  • 多神教で自然崇拝に近い。信仰として有形・無形と様々だが、人の形も多い。
  • 神“教”ではなく神“道”である。
  • はっきりとした教義教典は存在しない。『古事記』や『日本書紀』は口伝(日本神話)を編集したもの。

……こんなところか。


では、これらの特徴を説明しながら少し踏み込んでいこう。
神道では一切万物森羅万象すべてに宿る神々への畏敬を土台とする。
先祖の霊「オヤガミ」(祖神・氏神)も重要な扱いを受けるが、神格化した自然を先祖としている例もあるため、これも自然崇拝の影響下にある。

簡単に言えば、自他を神格化することを重視した生活の風習・様式である。
これを剣道や柔道の道と似た、生き様や有り様の「道」と見立てれば神『道』と呼ばれる。
正確には「道」というより習慣やうわさ話、警告や迷信からも構成されているため、文化人類学や民俗学では「伝承」「民俗」とされる。

岩井洋教授によると、神道は日本人に身近な仏教と「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」によって絡まり合っているが、
それ以前から「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」によって融合していた。それが明治政府の神仏判然令によって、現在のような区別がされている。

  • 仏教
自身を高め仏になること=真如(真実・真理)に近付くことを目的としている。
神をも救う衆生救済(生きとし生けるものを救うこと)や「世界」との一体化も目的としてはいるが、あくまで体系としての宗教的価値観ないし努力を重視する。

  • 神道
生活・思想としての宗教。和を重んじる傾向もある。禍福や吉凶がもたらされる対象は個人~数人や家族~村~国~世界と様々。
根本に自然環境の影響があるため、神からの賞罰は個人の罪悪や善行によって突出した違いはなく、ある程度平均化される。

救い、あるいは「御利益」を与える。
個人の善いところを見つけ、救ってくれる存在が仏である。ただし、仏罰や『蜘蛛の糸』に代表されるような厳格さもある。

祟る。そもそも祟りの語源は「タチアリ(神が立ち現れる)」「顕(た)つ」等と言語学・民俗学で推察されている。
極端な話、勉強の神がいたとしても基本的に直接頭を良くしてくれる訳ではない。
特に若い神(成立から間もない神)は祟る。祟られないようにすることで、相対的に頭をよくする、というか頭か悪くならないようにする。
日本は高温多湿で災害も非常に多い土地な分、一層祟りは恐れられてきた。


以上のように「神」と「仏」はそれぞれの特徴を持つが、民間信仰でも研究でも仏が神の一種として扱われるように、習合以前から似通っている点も多い。
仏教で「天部」と呼ばれる梵天(シヴァ)や帝釈天(天皇・天帝)、四天王、大黒天、弁才天なども、元はインド神話の神である。



日本の歴史を見ると、多くの歴史上の人物は神社に祀られている。
近代合理主義はそれを「歴史」と「神話」の区別が未分化な、未熟な状態として否定し切り捨てた一方、
近代に発明された国家神道は、天皇の権威付けのために肯定し再編成していた。
時代を経て、現代の歴史学や民俗学はそれらを社会・文化理解のための研究対象としている。
果たして、その人達はどんな死に方をしただろうか。
裏切られ、見捨てられ…そのような呪ってきそうな死に方をさせてしまったが故、神と崇めて呪われないように祀るのだ。

そう。日本人は死者の呪いを極端に恐れる。

戦国乱世の時代にすらそれは見られる。
実力主義の時代、「日本国は尽く以て御下知に応ぜず」とあるほど将軍の統制力がほぼ失われた中、
天皇ですら政治的に無力だったと伝わっているが(『ブリタニカ国際大百科 14』 16頁)、
一方でこの時代はキリスト教(キリシタン)・道教・仏教・神道が混合していた。
争いの火種になることもあれば、死者を弔い、共存を目指す思想もあった。現代日本でも、無用な争いを避けようとする向きにその影響は少なくない。

祟りは「死」として顕現することから相互に属し合うものとされてきた。この根元にはやはり神の祟りを避けようとする考えや教えがあるのだ。

無論祟り除けだけではなく、「東照大権現」(徳川家康)の様に生前「祀ってくれ」的発言を残したため権威高揚も兼ねて祀られたり、純粋に先人や先祖を称える意味で祀られたケースも多々存在する。


余談だが、戦国時代等多くの宗教や価値観の変質を経た結果、所謂神代に通じる発祥当時の作法やその解釈は失伝したとも言われており、
現在の作法やその解釈の多くは、江戸時代に残ったもの等から再解釈・再編成したものだと言う。

また、海外の神殿のそれとは異なり、日本の神社は材木で出来ている。
そのため、腐食や震災に弱く、平安から江戸時代にかけて移築や改修が行われており、神代からそのままの形で在り続ける建築物というものは存在していない。
が、本殿の柱等、当時の神社の一部なら保管されているものも多くある。


○そもそもの成り立ち

古代中国の漢に由来する漢字を用いていることから中国の影響下にあるのは確実だが、詳細な成り立ちとなると実は曖昧である。
有力な説は、

  • 中国からの『易経』(紀元前8世紀頃)にある「觀天之神道」から取り入れた。
  • 中国から取り入れた道教に由来する「神道」の易学が、日本の宗教と混合し、他国の宗教に対してその名を使った。
  • 神話部分から出来たところを神がいるからそうつけた。
  • 人道を超え、天皇が神を目指すべく行く道として名付けた。

などがある。
最後の理由である天皇云々は、天皇自身とそれが従わせようとする地方豪族に支配力を持たせる為。
日本の王を天皇とし、神の子孫としたのだ。もともと漢字(中国語)で「天皇」は、「最高神」の意味である。

そして基本的には日本の神々は《何か達》や神代七代の末たるイザナギイザナミ、そして祖神「天照大神」にたどり着く遠縁らとなる。
結果日本神話上では、天皇を含め人間達は、天照大神をはじめとする神々の末裔である。ほとんどの神々が人間に似た姿になれるのもその理由の一つ。

ヒンドゥーや仏教ならば、神仏の半分近くが人間に見えない姿なのは超常の力を持つが故である。
だが神道のうち天皇主体の面(特に国家神道)は、超常の力よりも天皇支配の正統性を重視したと考えていいだろう。
現在、神道そのものはあまり日本国内で重要視されていない。初詣に参るくらいか。

これが民間信仰としての神道となると、天皇支配という概念すらかなり自由に扱っている。地に足の着いた「人間」を重視する日本の流儀と言えよう。
例えば東北地方など自然災害の脅威が伝承されてきた地域では、
津(ツノミツ)神社浪分(ナミワケ)神社といった神社が、地震や津波の際における安全地域として位置されているが、
そこで祭られている神は判然としない。そもそも神より神社が要のようですらある(『神社は警告する』)。

また、諏訪神社がある非ヤマト系の伝統的地域では、古来からのオオハフリ(大祝)が「諏訪の天皇」と呼ばれてもいる。
その他日本各地で、お稲荷さんや白面金毛九尾の狐が「貴狐天皇」として認識されてもいる。
つまり皇族と縁もゆかりも無い、大和ですらない「天皇」が各所で祀り上げられてきたのである。

帝釈天について言えば、これは仏教に取り入れられたインドラなので、訳語も「天帝釈」「天帝」「天皇」といろいろある。
それもあってか戦国時代の16世紀から、「帝釈天=天皇」という信仰が興った。
この帝釈天は釈迦の修行や人々を守る有名な天部で、雷神にして武神という戦国に相応しい神である。…のだが、尊像の階級では如来→菩薩→明王→天部となっていて、
つまり最下位の四番目である。
もともと天部は天界道に住むとはいえ、天も輪廻転生の一部であるため悟りを開いていない迷える衆生の扱いになっている。
そこで、地の底の地獄から遥か天上世界まで全て救うのが如来の役割とされている。

天皇が唯一不可侵・絶対神聖という話もどこ吹く風、
ことごとく習合(シンクレティズム)のレベルを超えた融和性と地域性を根幹とする、日本列島の伝統を示す事例と言える。


こうした宙ぶらりん状態だと、普通なら宗教戦争になりかねない。
仏教の伝来にも迎合し、分かちがたく結び…しかし神仏分離により無理矢理はがされかけたのはある意味自然の成り行きだろう。
帝釈天信仰は「天皇」達から喧嘩売ってんのかと思われかねないだろうし
神仏判然令という制度改革が廃仏毀釈へと変貌して揉めてきたのも、
理由としては神道の良く言えば寛容、悪く言えばルール無用な態度や、仏教の融和性の反動があるのかもしれない。


対立を良しとせず取り込むそのスタンスが、開国・明治前後〜現代にはそぐわぬのかも知れない。
一方でそれが意識的か否かを問わず、未だに日本人の考え方や生活様式の土台となっていることも事実。

他宗教で悪徳の具体的表現である悪魔の存在を日本人がいろんな意味で受け入れているのも、
…というか海外のものが『日本人に見つかった結果』いろいろ大暴走するのもこの神道の存在が根本にあってこそ。

日本神道のようなアニミズムや多神教には「完全なる善」「完全なる悪」は存在しない。
たとえ存在していても、荒魂・和魂といった両義性と見なしたり、諸行無常的に虚空(大日如来)の一部、あるいは天照大神の一部として捉える。
それどころか、海外の一神教で互いに邪教徒として殺し合いまでした神様同士を、同じ社に並べて崇めてしまったりするほどである。

だから例えば大方の日本人には、悪魔と言う存在が実はピンと来ていない。
唯一神を掲げる一神教においては、唯一神以外の神々やそれらの偶像がいわゆる“悪魔”なのだが、
当然日本人がそんなもん恐れるはずはないので、唯一神も悪魔もまとめて受け入れてしまう。

それの発展形が「萌えクトゥルフ」だとか「日本鬼子」だったりするわけだが、その根本を作ったのはこの神道である。






まぁ、小難しいことをいろいろと言ってきたわけだが、考えても見てほしい。


巫女
スカートに似て非なる袴から出る白足袋。白足袋と袴のわずかな隙間からのぞく肌の色。長時間着ることでゆっくりはだける巫女装束。

神主
いかつい顔からこぼれる笑み。若い神主もいれば、シワと自信が刻まれた神主までいる。今では外国出身の神主さんも。


両方とも、街中にいるだろうか?
街中に似た衣装を着た人がいるだろうか?

神社に行けば、神社に行くだけで会える。

エキゾジックな衣装に、

袴の下はノーパン伝説に、

好きなだけ興奮できるのだ!
ぶっちゃけ昨今は巫女さんも下着つけてるけど、まあ仕方ないよね。冬だし
賽銭の五円と御神籤代があれば…いやそれすらなくともファンタジックな存在の彼らと会話できる、そんな素敵な宗教・神道!

よかったね、日本に生まれて!

ちょっとくらいは神道を知ろうとする気持ちが高まっただろうか。


基本的に世界は宗教があって当然である。国外で無宗教だと言うと「何か特別な事情でもあるのか」「悪魔信者か」と痛くもない腹を探られるのだ。
昨今はいい加減嫌気が差して「俺は空飛ぶスパゲティー教」と嘯く人間も増えてきているが、
元々宗教というのは文明の原初から共にあったものであり、基本的倫理観を教えるための教育ツールとしての側面もあった。
そのため年配の外国人から見ると、無宗教というのは「俺アウトローだから(キリッ」とか豪語されてるようにも見えてしまうという。
日本人にはピンとこないが、日本以外で「宗教」と言えば伝統・生活習俗からファンタジーまで幅広く支配している概念なので、当然と言えば当然である。

日本の神道は世界全体と比較してもかなり長い。
しかも、天皇制は幾度と無く断絶や混乱を(時に神道のせいで)挟んでいるとはいえ歴史はそれなりに長く、各国の皇族と交流をもってきたお陰もあり、
一部の例外を除いて神道に悪いイメージはない。ぶっちゃけ一国のマイナーな謎宗教だからってのもあるが。
だもんで、「神道」と答えてしまってもいいだろう。寺や檀家が気になるなら、「仏教や神道やいろいろ混ざった文化」でも。




追記・修正は神さんと歩きでもしながらお願えしますだ。

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最終更新:2023年10月16日 20:37