三ノ山城

登録日:2011/11/09(水) 02:15:23
更新日:2024/04/01 Mon 22:09:37
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三ノ山城とは伊東氏が建てた平山城である。
長く争ってきた島津氏に対抗すべく対島津の前線基地として築城が進められ、三方を川に囲まれシラス台地の断崖絶壁がそびえるという自然を利用した要害であった。

しかし築城が進められた場所はよりにもよって戦闘民族サツマ人との最前線
おまけに三ノ山城築城予定地にもっとも近い位置に陣取っていたのは戦国のオーガ島津義弘であった

なにこれ詰んでる。

当然このスーパーサツマ人が目の前の餌をほっておくはずもなく

築城が始まってから半年が経ったことのこと。



義弘「毎日毎日頑張ってんな築城
よしせっかくだから完成する前にぶっ潰してやるか
容赦ない流石島津容赦ない


戦る気マンマンな義弘は兵を率いて三ノ山城に大挙。
その兵の数2万人。殺る気もマンマンのようです。


更に更に
義久「戦があると聞いて」

歳久「建築祝いすると聞いて」

島津四兄弟も大集結しました。家久「解せぬ」おい馬鹿やめろこっちくんな。


この異常事態に伊東本隊にも「三ノ山ヤバい超ヤバい」と連絡が届けられていたが、その頃には既に攻められていた。
某妖怪首おいてけが島津なら翌日と豪語するのも納得の速さである。おい誰か止めろ

この時三ノ山城築城に携わっていた現場監督武将、米良重方と建設作業員兵士たちは建築途中の城をぶっ潰されてなるものかと打って出るも力及ばず敗走。
城へと逃げ込みまだ完成もしていない三ノ山城に篭城することになってしまった

城は未完、城を囲むは2万の島津兵。援軍が来る気配はいまだない。
そんな絶体絶命の危機に立たされる三ノ山城兵たちであったが一歩も退かず島津方と奮戦。


戦いは大激戦と化し


城の堀という堀が兵士の死体で埋まり

火計で数百の牛馬が焼け死に

本丸以外を残して城は焼け落ちる


という凄まじいものであったという。
本丸を残すのみとなってもなお重方たちは槍を手に持ち抵抗。
これに島津兵も攻めあぐねてしまう。

この間に伊東の援軍が到着。
三ノ山城兵を救わんと島津兵に攻撃をしかけ島津方は混乱。

これを好機とみた重方は城を開け放って打ってで、援軍とともに島津方を挟撃した。
勢いに押された島津方は次々と将兵を討ち取られ、ついには大将、義弘が瀕死の重傷を負ったため退却。
城の守りに成功したのであった。


●その後
この戦いの敗北が響いたのか島津氏は伊東氏と100年に渡り巡り争った飫肥城合戦にも敗北。
飫肥攻略を諦めることになってしまい四兄弟の父、貴久は憤死してしまった。
一方の伊東氏は飫肥合戦の勝利以後慢心するようになってしまう。

それから後、両家は三ノ山城と義弘の居城、飯野城の間にある木崎原で激突。
伊東氏は義弘の釣野伏せに惨敗をきっし両家の命運がここに決まるのである。

この戦いに従軍していた米良重方は島津兵の狙撃に倒れて戦死。
三ノ山城は重方の弟に譲られるも弟が島津に寝返ったため再びその威力を発揮することなく島津の手に渡る。

それから後、戦に使用されることのないまま明治期に廃城。
現在は小林城と名を変えているがただの雑木林と化しておりその遺構はほとんど残っていない。


追記・修正は未完成の城で2万人の島津に勝利してからでお願いします

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最終更新:2024年04月01日 22:09