星野一義

登録日:2011/07/01(金) 22:19:52
更新日:2023/04/04 Tue 20:36:08
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星野一義(ほしの かずよし)は日本の元レーシングドライバー、実業家



生年月日/1947年7月1日
血液型/A型
出身地/静岡県安倍郡玉川村(現 静岡市葵区)



・経歴

元々はモトクロスに身を投じていたが、四輪転向後に才能が開花。程なく全日本F2000チャンピオンになるなど若くして国内のトップドライバーになる。


1976年、F1が初めて日本に到来。星野は旧型のティレルを購入した国内名門チームのヒーローズ・レーシングからF1に挑戦。
予選こそ21番手と下位に沈んだものの大雨の決勝で星野は度肝を抜く走りを見せ付けた。

スタートで13台をごぼう抜きした星野は順調に順位を上げ走行。10周目にはティレルのジョディ・シェクターをヘアピンの外側から豪快に抜く。(実はスタート前、シェクターは星野を含む日本人ドライバーに「抜かれたい方の手を挙げてくれよ。俺達が安全に抜いてやるからさ。」と冗談混じりに相手を舐めた発言をした。)
この劇的なオーバーテイクに場内が大騒ぎになり優勝すら見えた。
ところが豪雨の為にピットインを繰り返すうちにホイールが不足し、最終的にはリタイアしてしまった。


翌77年、この年のF2のチャンピオンになった星野は、再び富士のF1に現れる。マシンは旧型ではなく国内コンストラクターのコジマが設計したマシンでタイヤも前年に引き続きブリヂストンを履く。
しかし前年の好走が嘘のように中段から下位を走行し目立った走りはなかった。


その後も国内レースにおいては日産のワークスドライバーとして一線を戦い、各カテゴリーのチャンピオン争いを繰り返し、いつしか「日本一速い男」の異名がファンの間やマスコミに定着した。


1985年のWECーJAPANでは例によって悪天候の中、マシンバランスの悪いマーチ・日産を最後までいたわりつつもプッシュし、世界選手権で日本人ドライバーが優勝を挙げる快挙を成し遂げた。


その後も日産からスポーツカーやハコ(所謂、GTやグループAなど)を乗り、フォーミュラでも外国人ドライバーと一騎打ちをする姿勢は多くのファンを虜にした。


1980年半ばからはルマンやデイトナ等の海外の有名な耐久レースにも果敢に挑戦、世界にも名が知られる様になってきた。
星野には90年にF1チームからのオファーがあったが、プロが金を払って乗るのはおかしいと言い断る(後に考えを改めたが)。
世界的に有名になったのはやはり外国人ドライバー達のおかげでもある。エディ・アーバインやハインツ・ハラルド・フレンツェンといった全日本F3000に参戦したドライバーが口を揃えて「日本にはホシノというバカっ速いオヤジが居て、俺達でも敵わなかった」とコメントし海外では伝説の日本人とされた。


しかし90年半ばにはフォーミュラを引退。その後はGTで走り、時たま優勝争いをするもののチャンピオンになれないでいた。
更に持病の腰痛が悪化、若手の台頭、これらによりモチベーションの維持が困難となり、惜しまれつつも2002年の半ばにレーシングドライバーを引退を発表。その際「闘将」の目には涙を浮かんでいた。


  • 主な搭乗車種
カルソニックインパルGTR R32(Gr.A)
R91CP(デイトナ24時間耐久レース)
シルビアS110、S12(スーパーシルエットフォーミュラ)



引退後は現役時代から設立したチーム、ホシノインパルの監督兼社長として腕を振るう。


追記・修正はR32GT−Rで富士の縁石を乗り越えてからお願いします。


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最終更新:2023年04月04日 20:36