曹彰

登録日:2015/03/24 Tue 00:22:27
更新日:2024/01/20 Sat 21:35:55
所要時間:約 ? 分で読めます




曹彰(そう-しょう)、字は子文。
曹操生産馬の冠名である子に、学のである。忘れないように。文字の文である
豫州、沛の人。



【出生】

三国時代の英雄、曹操の四男。
同じ母・卞夫人から生まれた兄弟は4人で、上から曹丕曹彰曹植、曹熊の順となる。
正確な生年は不明だが、兄の曹丕が187年の生まれ、弟の曹植が192年の生まれなので、その間なのは確実。



【人物】

一言で言えば脳筋
歴史に残る文学者であった父、兄、弟の間に挟まった、異色の純粋武人。生まれてくるところを間違えたのではなかろうか。
試しに、曹操一家で有名な4人に自己PRをさせてみよう。

曹操ポップでしかなかった楽符を宮廷に持ち込み流行らせました。
   詩を作るときは『歌以志詠』な方針で自分を題材に詠うのが得意です。故事の引用も好きですね」

曹丕文学の地位を国家レベルにまで高めました。詩、賦、文、誄何でも得意で、詔も私が自分で書きます。
   詩ではロックな実験作も多く作りましたが、後世では繊細な恋歌系の作品の方が愛されたようですね」

曹彰猛獣を素手で倒しましたo(`・ω´・+o)キリッ
   あとはえーと……あ、象も倒しました(`・ω´・)+キリッ

曹植「私も文学ならなんでも得意ですが、得意なのはやはり詩です。唐代に至るまで詩人の最高峰とされました。
   叙情的かつダイナミックな作風が特徴ですが、構成・文辞的にも後世の模範とされるほどです」

「何この…何?」感丸出しの浮きっぷりである。履歴書が途中で他業種と混ざったのだろうか。


詳しくいこう。曹彰くんは幼い頃から馬や戦車の扱いに優れ、剣や弓も大得意であった。
しかし主君の必須徳目であったお勉強方面は哀しいほどにさっぱりで、ひたすら自身をムキムキにすることしか興味がなかったのだ。

さすがにお父さんの曹操が将来を心配して、「とりあえず五経(士人の教養の基礎中の基礎テキスト)ぐらい読め!」と命令したが、
曹彰は「男だったら衛青や霍去病の様な蛮族を蹴散らす将軍になってこそだろーが!本とか読んでたってしょうがねえよ!なあオメェら!」と周囲に理解を求める。
曹彰の側近たちが「ウス!その通りッス!総長マジパネッス!」と言ったのか「大概にしてください公子様」と言ったかは定かではないが、
その後曹操が息子達を集めて「お前たちの将来の夢は何だ?」とたずねると、曹彰は「将軍になることです!」っつたことを考えるに、やはり前者だったのだろうか。

こうしてお父さんの心配も空しく、曹彰はすくすくと(筋肉が)育っていったのであった。パネェ。
だがアレな子ほど可愛いとはよく言ったもので、両親には非常に愛されていたようである。


【経歴】


どう考えても前線で無双するために育ったような曹彰だったが、意外にもその実戦デビューは遅れる。
「度々父の征伐に従った」という記述はあるので、
当時の定法として父親の供回りとして戦争には同行していたのだろうが、指揮官としての責は与えられなかったのである。

理由として、まず曹家は一門に優秀な武官が多数そろっていた、という点があるだろう。
親戚の夏侯家も含め、曹洪、曹仁、曹純、曹真、曹休、夏侯惇、夏侯淵、夏侯覇、夏侯尚、夏侯儒など
多様な世代の人材が厚く、いずれも優秀な将帥達であった。そのため曹彰をわざわざ武将として使う必要が無かったのだ。

またもう一つは、曹彰自身の身分が高すぎた、という点もある。
何しろ事実上の君主の息子なので、身分秩序上、臣下の指揮下に入るわけには行かないのである。
よって指揮官になるときは必然的に総大将クラスとなってしまうため、ぶっちゃけていうと脳筋な曹彰を若くしてそういった立場につけるのは、流石に曹操も躊躇したのであろう。

そんな曹彰に初めて指揮官としての従軍命令が下るのは218年のことである。
曹彰は当時30歳前後で、いくら脳筋とはいえ流石に分別もついてくるお年頃。
夏侯尚と田豫という優秀な幕僚もつけることが出来、曹操もこれなら大丈夫と思ったに違いない。
与えられた任務は「北方で反乱を起こした異民族の鎮圧」というなかなかの大仕事。この時の戦力は烏桓族と鮮卑族の合同体であったらしい。
ただの蛮族と侮るなかれ、漢の戦術や武器の作り方も学んでおり、兵力は5万超を称したという強敵である。


【ハイライト】

代行扱いとはいえ、最高階級の将軍位である「驍騎将軍」の地位をもらった曹彰は気合の入った北征を開始するが、
脳筋が祟ったかいきなり烏桓騎兵部隊の奇襲を受けて包囲されてしまう。
軍は大混乱に陥ったが、しかしここは頼れる男田豫が活躍。馬車を使って防御陣地を作り、内側から一方的に射撃することで敵騎兵隊を撃退したのである。

ほっと胸をなでおろした魏軍だったが、総大将曹彰は安心するどころか燃え上がり、追撃を命令。
しかも自分で陣頭に立ちながらの追撃という荒業に出る。
総大将であり驍騎将軍であり公子(君主の息子)なのに陣頭に立つという荒業に出る。
自身で弓を引いて敵を倒し、鎧に敵の矢が刺さったというのだから、これはもうホンマモンである。

曹彰は半日にも渡る追撃で敵軍を消耗させるが、当然ながら自軍の消耗も激しくなってきた。
敵地に深く入り込んでしまった上、「反乱を鎮圧せよ」という曹操の命令の範囲内の行動なのかも微妙になってきたため、
幕僚達は追撃の中止を次々に進言。しかし曹彰は

「将たるものは勝利すること以外は考えないものだ。敵が目の前にいるってのによォ…命令を気にして追撃しねーとかありえねーだろうが!向こうはビビってんぜえええええ」と断言。

「逃げるヤツァ俺がシメっからよォ!覚悟しとけ!」と言って全軍に発破をかけ、さらなる追撃を続行。
ついには敵を完全に壊走させたのである。総長曹彰は規定の2倍の恩賞を全軍に出すことで、その追撃の苦労に報いた。

この戦いで曹彰軍の狂犬っぷり強さを感じ取ったのか、敵の総大将であった鮮卑の軻比能は魏への服属を願い出たため、北方の争乱は一応の決着を見る。
曹彰、初陣にしての大功を上げての大勝利であった。マジパネェ。


【おうちに帰るまでが征伐です】

この勝利に曹操は大いに喜び、「褒めてあげるから一度パパのところに帰っておいで!」と帰還を命令。
曹彰はその途中に曹丕がいる鄴を通り挨拶するのだが、ここで

曹丕「いいか子文、お前は大功を上げたが、親父の前では自重して部下の功績を強調してやれよ」

曹彰「えー?なんでなんスか、勝ったのは俺の手柄っスよ?」

曹丕「いいからそうしろ、そっちの方がもっと評価が高くなるぞ」

曹彰「マジスか!?」

長安に到着し、曹操の前に出た曹彰がその通りにすると、曹操は「ホントに立派になったなあ!それでこそ大将だぞ!」と大喜びし、配下を含め手厚い恩賞を与えたという。よかったよかった。


【戦後】

そして1年後、曹操は本格化した劉備との戦いのため漢中にいた。
対する劉備は有利な地形に拠って持久戦の構えを見せていたが、
そんな中で前線指揮官であった劉備の養子劉封は、曹操軍を挑発したり襲撃したりといったことを繰り返していた。

これに怒った曹操は、「劉備め草鞋売りの分際でなめやがって!俺の息子の曹彰がいたらそんな偽息子ぶっ飛ばさせてやるかんな!」と曹彰の召喚を命令。
曹彰は喜んで漢中へと向かったが、残念ながら途中で曹操の本隊が撤退してしまい、二度目の戦に参加することはできなかった。


【その後】

見事脳筋を将才として昇華させた曹彰だったが、その活躍は長くなかった。

曹操が洛陽で逝去した時、曹彰は息子たちの中で最も早く洛陽へとたどりつく。
しかし曹彰はここで何を思ったのか、居並ぶ群臣に「父上の印綬はどこか?」と尋ねてしまう。
印綬を受け継ぐ者とは即ち後継者であり、この発言は自分がその座に着く事を表明したに他ならない。

当然「それは貴方が尋ねてよいことではありません。既に太子は曹丕様と決まっているのですから」と葬儀の責任者であった賈逵にキッパリ言われ諦めるのだが、
これは野心の表れであれば淡白すぎたし、そうでなかったのであれば軽率すぎたと言えるだろう。
この件によって、曹彰は曹丕に強く警戒されることになったという。

とはいいつつも曹丕は即位後、曹彰に1万戸という大封を与えている。
これは臣下中最大級で、曹仁の約3倍、後に禅譲した献帝が与えられた封戸と同等レベルである(史実の献帝は皇帝時代の衣服・車馬・一人称を許され、臣下と名乗る必要がないなど相当厚遇されている)。
本当に警戒されていたのかは微妙なところかもしれない。魏朝成立後は爵位も候から公へ、公から王へと順調に進んでいる。

果たして曹丕との仲が実際にどうだったのかはわからないが、曹彰は3年後の223年に病死したため、確執があったとしてもそれが表に出ることは無かった。
享年は32歳~36歳。曹操の子供たちには珍しくない(当時の寿命を考えればやむを得ないところもあるだろう)が、非常な早逝であった。


【逸話・余談】


  • 曹操からは「黄髭」と呼ばれていた。どういう意味のニックネームなのかは諸説ある。
    • 有力な説は「黄色=虎=勇猛という連想で、虎のような武勇を賞賛した比喩的なニックネーム」という説だが、文字通り黄色い髭が生えていたのだ、とする説もある。
      またそこから連想して、現代の創作では髭どころか髪も黄色いスーパー曹魏人と化すことも…

  • 街で駿馬を見かけ、是非欲しい!と言ったが持ち主が売ってくれなかった。
    それなら交換ならどうだと、自分の妾からどれでも好きなのをもっていけ!というマチズモ全開な物々交換を持ちかけ、馬を手に入れたという。山賊の親玉かお前は。
    • 後世李白にも詩のネタにされたりして、非常に有名な逸話だったらしい。


【創作作品での曹彰くん】


外道で冷徹な父、陰険で性悪な兄と異なり、爽やかな体育会系脳筋として曹操さん家の伝統的な人気キャラ。
曹魏のプラス方面創作補正を一手に引き受ける勢いで、いわば魏の張飛的な愛され武将である。

  • 三国志平話
演義の原型ともいえる平話では劉備陣営以外は非常に適当な扱いなのだが、人気者の曹彰はしっかり登場(漢字間違えられてるけど)。
江陵の城をがっちり守って周瑜を寄せ付けず、劉備から派遣された張飛によってやっと退けられるという美味しい役どころ。
これは赤壁後に江陵で周瑜と戦った正史の曹仁に近い役割だが、撤退中に自身の弓で周瑜を負傷させるなど、やっぱり活躍している。


  • 三国志演義
「ここに黄髭がいたらあんな養子ごとき!」とお嘆きの曹操の声に答え、本当に漢中に推参。
窮地に陥った曹操の元に軍を率いて颯爽と現れると、迎撃に出た劉封を一騎打ちで蹴散らし、救援に出た孟達を圧倒する勢いを示す。
馬超と呉蘭が後ろを襲おうとしていたため止む無く引き上げるが、引き上げる途中に呉蘭と出くわし、これを一刀の元に切り捨ててしまうという大暴れを見せた。
曹操の後継争いにも特に参加せず、他の兄弟がいびられたり自殺したりする中、軍勢を引き渡して任地に帰る形で平和に生存したままフェードアウトした。

こいつホントに演義の魏将か?と思うほどの優遇っぷりに、演義の魏sageに歯がゆい思いをしていた魏ファンは溜飲を下げたことだろう。

  • 世鋭新語
曹丕と会食中に出された棗(なつめ)に毒を塗られて毒殺されてしまう。

  • 反三国志
三国志ファンには悪い意味で有名な超展開小説。張遼をも凌ぐ魏軍最強の将として扱われ、全編を通じて活躍する。
蜀が一方的に魏をフルボッコにする作品なので戦果には恵まれないのだが、父も兄も宿臣達も全滅する中一人魏の君主として戦い続け、最後は北方で異民族を集めて王になるという、一応の勝ち組である。
どこが?と思われるかも知れないが、これでも蜀以外の人間の中ではマシなほうなんである。
曹彰と行方不明になった曹植との再会でこの物語は締められている。

  • コーエー三国志
演義での無双っぷりを反映したか、曹操勢力でも屈指の武官。その武力と統率は、張遼や徐晃など五将軍のトップクラスに並ぶほど。得意科目は一貫して騎兵。
一方で当然なことに残念なことに、知政方面は悲惨の一言。北方の盆ダンサーと称される馬超にも劣らない脳筋っぷりなので、優秀な補佐役は不可欠。
他にも「もし、曹操があの時に討ち死にしてしまったら…」という状況で勢力分裂が発生したという状況のifシナリオでは、君主の一角となる。

  • 三国無双シリーズ
父も兄嫁も兄も親戚も脱モブしたというのに、いまだにモブなまま。
いかにも無双的な武将なのにいまだに出てこないのはコーエーの陰謀か、または孔明の罠か。

将帥としてのエピソードは端折られたが、親父の遠征にちゃんと従軍。
見せ場と言えば、対孫呉戦線。ビビらそうと飼ってる虎を曹操親子にけしかける孫権、んでその虎に息子をけしかける曹操。親父ェ…
だがこの虎と戦った曹彰は、逸話通り素手で心臓を抉り取って虎殺しを成し遂げた。

  • 三国志大戦
色々とカードが出ているが全てにおいて武力一辺倒
文武両道が多い魏のカードにしては分かり易い脳筋カードばかりである、とりあえずパワーが欲しい際には彼を採用するといい。
それと「黄髭」という異名を再現している為か基本的に金髪であり、その筋の人にしか見えないイラストが非常に多い。
ストーリーモードでは曹操死亡後に跡継ぎ争いに参加、曹丕と一戦交えるが、その曹丕が新たな主の器を持っている事を知り潔く身を退くという漢らしい一面も見せている。



追記・修正は獣を素手で絞め殺しつつお願いします。
この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 三国志
  • 曹操一家
  • 中国史
  • 脳筋
  • 王族
  • 武将
  • 曹彰

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年01月20日 21:35