暗殺剣虎ノ眼

登録日:2015/03/29 (日) 21:11:00
更新日:2020/09/06 Sun 10:37:56
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藤沢周平の短編剣豪小説。世に語るべからざる「秘剣」を身につけた武士と、その周辺の人々を主人公に据えた短編小説のシリーズである”隠し剣”シリーズの内の一編。

初出は文芸誌「オール読物」の1977年3月号。
現在は”隠し剣”シリーズを纏めた短編集「隠し剣孤影抄」(文春文庫)に収録されている。またその他、藤沢氏の全作品を収録した「藤沢周平全集」の第16巻に収録されているが全集だけあってこっちは生粋のファンでもなければ手を出しにくいであろう。


□概要
秘剣を題材とした短編剣豪小説”隠し剣”シリーズの第三作目。前作は「臆病剣松風」、次作は「必死剣鳥刺し」。シリーズではあるものの、基本的に各話間に繋がりは無く、これ一話で完結する。
今作は臆病剣松風と同等か、それ以上に秘剣を遣う描写が少ないものの、秘剣そのものは物語の重要な位置を占めている。
秘剣に関係して命を落とす者の数も隠し剣シリーズにおいては少なめではあるが、見ように寄っては隠し剣シリーズの中でもかなりのあれなエンドであり、屈指の後味の悪さを残すこと請け合いである。


【物語】
ある日の夜、組頭牧与一右エ門が何者かの手によって殺された。組頭を勤める牧は執政会議に出席し、藩の行く末について連日夜半まで激しく議論しており、その帰路で何者かに殺害されたのだ。
その件に関し、牧の長男達之助は中老戸田織部から呼び出しを受ける。戸田は執政会議において牧と激しく対立しており、達之助が父親の死に何らかの関与があると睨んでいる人物だった。
達之助は戸田から今回の件は下手人不明のまま捜査を打ち切る事を宣言され、より戸田への疑念を深めるが、この事件の真相は辰之助の考えるよりも全く別の所にあった。

今回の執政会議の議題は藩の財政についてであった。藩の財政は現在非常に困窮しており、何らかの財政立て直しを行う必要に迫られていた。そこで提案されたのが、税収増加により短期間である程度の成果が期待できるが領民に負担を強いる事になる戸田案と、新田開墾により時間はかかるが恒常的な増加を見込める粕谷案の二つの案である。執政会議はこの二つの案のどちらを採用するかで荒れていた。それを父から聞いていた達之助は、戸田側が自身の案を通すため粕谷案を支持する父親を密殺したと考えていた。だが戸田はそれを否定する。
戸田を含めた執政会議の一部は安易な領民の締め付けは悪政だと理解していた。この対立は悪政を行わぬよう、予め藩主の出しそうな案を出し最終的には否決し葬るための、いわば出来レースだった。
会議は彼らの思惑通り運んだが、牧はそこで一つの失策を犯す。藩財政の逼迫は右京太夫の遊興癖にこそ遠因があると苦言してしまったのだ。実際、それは的を射た意見であったが、お上に苦言するということ自体が当時の武家社会ではタブーである。そのため右京太夫の不興を買った牧はお闇討ちにあったのだと戸田は語る。
お闇討ちとは、藩主の私憤が募った時に行われる上意討ち(藩主公認の暗殺)であった。お闇討ちは藩の秘事にあたり、その討ち手は夜の内に放たれた。当然、街灯もない江戸の夜中は今とは比べ物にならない程暗く、普通の人間では相手を狙って刀を振る事すらままならない。その為、お闇討ちの役目は代々”虎ノ眼”なる秘剣を伝える一族に任されているという。そして無論、”虎ノ眼”を伝える一族の正体もまた秘されていた。
事情を知った達之助はそれでも憤懣収まらず、”虎ノ眼”を伝える人物を探し出し、勝負を仕掛ける事を誓うのであった。

ところで、達之助には志野という名の妹がいた。
志野は年頃の娘であり、三月程前に無役ながら四百石取りの清宮太四郎との婚姻が決まったばかりであった。達之助は清宮の人となりをあまりよく思ってはいなかったものの、志野は清宮にベタ惚れしており、婚姻は秒読みかと思われていた。
だが、志野と清宮は達之助に対しある秘密を抱えていた。彼らは婚前であるにもかかわらず人目を忍び逢瀬を重ねていたのである。当時は例え婚約者であっても祝言前に通じる事は義に悖る行為であった。
密会の場所は父親の牧が討たれた場所にほど近く、達之助に事情を聞いた志野は清宮を疑い始めるが……。


【登場人物】
○志野
牧与一右エ門の娘。達之助の妹。
牧と同じく組頭を勤める加藤靱負の紹介で清宮太四郎との婚約が結ばれ、現在は祝言を待つ身。清宮とは加藤邸で引き合わされるまで全く面識がなく情報も与えられていなかったが、会った瞬間に一目惚れした。曰く、嫁入るならばこのような人にと思い描いていたような風貌をしていたらしい。
清宮に唆され家族を欺き清宮と会う(エロい意味で)事を始めた結果、今では日取りを決め定期的に密会する仲に。父親がお闇討ちに会った当日も清宮と密通しており、しかも殺害現場の鷹匠町からほど近い場所で通じていた為、自分との密会の後に父を斬ったのではと疑う事となる。


○牧達之助
牧家の跡取り。
一刀流の遣い手であり、町内で一刀流を教える服部道場に通う門人。町内に五つある剣術道場の内、服部道場ともう一つ、空鈍流を教える浅羽道場の二つは抜きん出て人気が高く、門人も比例して多い。達之助はそんな服部道場の中でも、三羽烏の一人などと呼ばれ特に実力が高く名も知られている。
服部道場と浅羽道場は規模が同じくらいな事もあり、代々反目し合っているという事もあり、浅羽道場に通う清宮の事を快く思っていない。そのため清宮と志野の婚姻に関しても消極的……どころか反対の姿勢を取っている。

そんなある日、父弥一右エ門が何者かに斬られ牧の家督を継ぐこととなる。
当初は父の死に政敵(と目されていた)戸田の関与を疑うが、当の戸田からお闇討ちの事を聞き、お闇討ちの任を背負う人物の捜索を開始する。父親が八相の構からの袈裟懸けにより討たれた事に目を付け、八相を得意とする浅羽道場の某かが犯人ではないかと考えるが……


○清宮太四郎
志野の婚約者。無役ながら四百石を取る武士。眉目涼しく女のような優男ふうの風貌を持つ。
空鈍流の遣い手であり、その実力は浅羽道場の高弟に選ばれる程。
達之助曰く、頻繁に茶屋に出入りする遊び人との事であるが真偽は不明。達之助は清宮を嫌っている為、若干色眼鏡で見ている可能性もある。
達之助には嫌われているものの、志野には惚れられ牧家の父母にも結婚に関し好意的であるため俯瞰的に見れば牧家の人間には概ね気に入られている。

浅羽道場に通い、高弟に選ばれる程の実力を持ち、殺害現場からほど近い場所に居たため、空鈍流に伝わる秘剣”虎ノ眼”の後継者でお闇討ちの実行犯ではないかと疑われる事になる。


○兼光周助
牧家の遠縁にあたる兼光の家の跡取り。七十石取りの納戸役を勤める。
地味な容姿の寡黙で勤勉なだけが取り柄の男。終盤に少しだけ登場する。


以下ネタバレ注意
























闇夜ニ剣ヲ振ルウコト白昼ノ如シ

暗夜ノ物ヲ見、星ヲ見、マタ物ヲ見ルとも申したそうじゃ。察するに闇夜の斬り合いに勝ちを得る剣じゃの。虎ノ眼と申すもその意味であろう

春のある日。
この日、海坂藩では城下最大の道場である服部道場と浅羽道場の対抗試合が行われていた。試合は予想以上の大盛況に見舞われ、既に三組が試合を終ていた。そして四組目の組み合わせは、服部道場の牧達之助と浅羽道場の清宮太四郎であった。
清宮に相対した達之助は、清宮と自分がぶつかるこの組み合わせは、自分が合うように仕組んだのだと告げる。そしてそうまでして清宮との試合を求めた理由は、虎ノ眼の秘剣を遣い父を殺した清宮を、その手で討ち果たす為であった。

そう、志野は全てを兄に話したのだ。自分が清宮と肉体関係を持った事も、その逢瀬の場所が鷹匠町の近辺であったことも。
それを聞いた達之助は「嫁入り前の娘を弄んだ」という理由で志野と清宮の婚姻関係を解消させる。そして自身も調べた結果と照らし合わせ、お闇討ちの日のあの時間帯、鷹匠町近辺に居た空鈍流の遣い手が清宮のみだったことを確認し、清宮を虎ノ眼の遣い手であると確信したのだった。
それを聞いた清宮は然し、自分は虎ノ眼の遣い手ではないと否定する。だが達之助は聞く耳を持たずあくまで立ち合いを望み、清宮もまた仕方なくそれを受ける。
二人は溢れんばかりの殺気と共に激しい剣戟の応酬を繰り返す。当然、あくまでも対抗試合であるこの試合において相手を殺すことなど許されない。二人の殺気を感じ取った判じ役の宮坂は二人を止めるため走り寄りそして――

七年後。
志野は兼光周助と籍を入れていた。
清宮との婚姻が破断した後、志野は誰とも籍を入れようとしなかったが、そんな志野を持て余した達之助が強引に兼光との縁談を進めてきたのである。志野は兼光と籍を入れて以降、平凡でそれなりに幸せな暮らしを送ってきた。清宮の事は既に遠い記憶となり、思い出すことも少なくなっていた。
結局清宮と兄達之助の試合は判じ役が入った事で死者が出ることもなく終わっていた。その後清宮は他の某かと婚姻を結んだ、というのが志野が最後に聞いた清宮の経緯であった。
達之助もまた、試合が終わってからは憑き物が落ちたかのように清宮に対する執着を失い、今は妻ももらい城勤めに熱中している。

そんな風に日々が過ぎてゆく中、志野は見てしまう。
それは、志野が外に居た父子を家に呼び戻そうとした時の事であった。
父子に近づいた志野は、父周助の声を聞く。

「星を見たか。よし、今度はそこにある石を見ろ。石も、星のようにはっきり見えてくるものだ。そう見えるまで、目をこらせ」

周助のその言葉を聞いたとき、志野の胸に過ぎったものは達之助から聞いた、虎ノ眼の秘剣の鍛錬法だった。それは暗夜ノ物ヲ見、星ヲ見、マタ物ヲ見ルというものであった。
志野は必死に記憶を手繰る。周助の態度に何か、微かでも違和感は無かったか。だが何も無い。記憶の中の周助はただの平凡な、七十石取りの納戸役であった。

「さあ、もう一度こっちの石を見るのだ。これは丸いか、それとも角ばっておるかの」

父子のやり取りは続く。それはよくある父と子の遊びにも、あるいは暗殺者の家系の秘技を伝える声にも聞こえ、志野はただその場に立ち尽くすのみであった。


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最終更新:2020年09月06日 10:37