ウォーリー・ピップの悲劇

登録日:2018/06/16(土) 8:14:36
更新日:2024/04/01 Mon 22:26:42
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ウォーリー・ピップの悲劇とは、1925年に起きた米国・メジャーリーグにおける出来事。


概要

かつてニューヨーク・ヤンキースには、ウォーリー・ピップという不動の一塁手のレギュラーがいた。
1915年にヤンキースに加入したウォーリー・ピップは2年連続本塁打王に輝く、チームを3連覇に導く、さらにはワールドシリーズ制覇にも貢献するなど、まさしくチームの柱としての八面六臂の活躍を見せつけていた。
そんな中、1925年6月2日に頭痛を訴えたピップに対して当時ヤンキース監督のハギンスは、ピップが当時不振であったことも含め試合を欠場させることにした。
これは当時のヤンキースでちょくちょく行われていたスタメン変更の1つであった。








 …その後、ウォーリー・ピップがヤンキースのレギュラーとしてプレーする日は、もう二度と訪れる事は無かった…。









当時のヤンキースには、ルー・ゲーリックという控え内野手がいた。
ルー・ゲーリックは当時3Aからメジャーに昇格したばかりの21歳の若者だったのだが、ウォーリー・ピップが怪我で試合を欠場した事で、その試合にウォーリー・ピップの代役としてスタメン出場する事になった。
ところがその試合でまさかの大活躍をしてしまった事で、当時のハギンス監督はルー・ゲーリックを一塁手のレギュラーにし、ウォーリー・ピップを控えにする事を決断してしまったのである。

ルー・ゲーリックはその後の試合も、ウォーリー・ピップを上回る程の凄まじいまでの大活躍を見せつけ、すっかり一塁手のレギュラーに定着してしまった。
その後も伝説の大リーガーと呼ばれる事になるベーブ・ルースと共に、ヤンキースの名選手として歴史にその名を刻む事になるのである。
その一方で控えに甘んじる事になったウォーリー・ピップはすっかり出場機会を失ってしまう。さらにその1ヶ月後に練習中に頭蓋骨骨折の怪我を追ってしまう。
スタメン落ちしてしまった上に大怪我した選手に対する風当たりは強く、シーズン終了後に追い出されるような形でシンシナティ・レッズへと移籍する事になってしまった*1









たった1試合…そう、たった1試合だけ、痛みが引かなかった事から大事を取って試合を欠場した事で、3Aから上がって来たばかりの控え選手にレギュラーの座を奪われ、最終的にチームを去る事になってしまった…。
ウォーリー・ピップにとって、これ程理不尽で残酷な出来事は無いだろう。










タック川本著書「ここが変だよ日本のプロ野球」によると、この一連の出来事は「ウォーリー・ピップの悲劇」と呼ばれ、米国全土において非常に有名な話であるとされている。
米国でプレーする野球選手の誰もが、自分がウォーリー・ピップの二の舞にならないようにと、一連の出来事を心に刻んでプレーしているのだそうだ。
よく日本のプロ野球において、死球を受けて派手に痛がって悶絶したり、あるいは相手投手に激高して乱闘を仕掛ける選手をたまに見かけるが、タック川本は同書において、

「その程度の選手はメジャーのレベルにおいては、所詮は三流、四流、五流でしかない。」
「メジャーにおける一流の選手は、例え悶絶する程の死球を受けたとしても、自分がウォーリー・ピップの二の舞になったらたまった物ではないと、痛みを堪えて一塁へと歩くのだ。」

と語っている。
何しろ米国の大リーグにおける選手層の厚さは、日本のプロ野球の比ではない。
1軍の下にファームチームが2軍しか存在しない日本のプロ野球と違い、米国ではメジャーの下に3A、2A、1A、ルーキーという分厚いファーム組織であるマイナーリーグが存在するのだ。
そこで毎日壮絶な生き残りゲームを展開している他の選手たちが、いつか自分がマイナーから這い上がりメジャーのレギュラーに定着してやろうと、虎視眈々とその機会をうかがっている。
だから代わりの選手など、幾らでもマイナーから調達すれば済む話なのである。

つまり試合を怪我で欠場でもしよう物なら、マイナーから上がって来た代わりの選手が代役を務めてしまう。
その選手は当時はまだ控えレベルでしかなくても、いつか自分を押しのけてレギュラーに定着してしまうかもしれない。
メジャーに上がってくる選手の誰もが、それだけの潜在能力を秘めているのだ。
だからこそ死球を受けたからといって易々と試合を欠場してしまえば、自分が同様に「ウォーリー・ピップの悲劇」に見舞われかねない。
よってメジャーでプレーする一流の選手の誰もが、激痛を伴う程の死球を受けたからと言って、簡単に引き下がったりしないのだそうだ。

この「ウォーリー・ピップの悲劇」はそれ程までに、米国全土において衝撃的な話として広まっているのである。

が、これはあくまで100年以上前の話であり、上記の本の内容も2001年と20年以上前の内容であることに注意。
現代のメジャーリーグはメジャー契約やスタメン契約、移籍拒否条項などさまざまな契約によって出場を保証・移籍の拒否ができるようになっている選手が多い。
「○○試合以上の出場で年俸追加ウン万ドル」とかいう出来高が当たり前のように設定されている現在のメジャーリーグにおいて、
「年俸抑制のために選手起用が抑えられる」などというのは選手にとってとんでもない不利益なのだ。

当然怪我で出場できないでいる間にポジションを奪われるということはありえるが、スター選手が数試合出れなかっただけで全く出場機会が無くなるということはまず無いと言っていいだろう。

同様の事例

エディ・ギャラード(中日横浜

恐らく日本のプロ野球において、上記の悲劇を忠実に再現してしまった選手の1人。
引退した宣銅烈に代わるクローザーとして2000年に中日に加入。
シーズン途中での入団にもかかわらず来日1年目でいきなりセーブ王を獲得する、日本で通算100Sをマークするなど、まさに中日の絶対的な抑えのエースとして君臨し続けていた。

ところが2003年6月、甲子園の外野でウォーミングアップをしている最中、飛んできた打球を素手でキャッチしようとして両手を負傷してしまう。
あまりにも軽率な行動による負傷だった事から、当時の山田久志監督は激怒。2軍に懲罰降格となったのだが、代役として抑えを務めていた大塚晶文が大活躍をしてしまった事で、自分が1軍に戻った後も大塚に抑えの座を奪われてしまったのである。

これに納得が行かなかったギャラードは起用法を巡って球団幹部と対立し、中日を退団。
ウェーバー公示にかけられ横浜へと移籍する事になるのだが、その横浜でも2004年にマリナーズから佐々木主浩が復帰した途端に、またしても起用法を巡って球団幹部と対立。
同年6月に肘の手術を受ける為に帰国する事になったのだが、そのまま球団から戦力外通告を受けてしまった。

余談

ウォーリー・ピップからレギュラーを奪い取ってしまったルー・ゲーリックであるが、実は彼をドラフトで獲得するよう球団幹部に推薦したのは、他でもないウォーリー・ピップ自身だとされている。
コロンビア大学での彼のプレーをその目で見たウォーリー・ピップは、彼を自身の後継者として見出したのだそうだが、
まさか自分が後継者として見出した選手にレギュラーの座を奪われる事になるとは、思いも寄らなかったのでは無いだろうか。

またこの出来事は、日本でもドキュメンタリー作品としてDVD化もされている。
ルー・ゲーリックの活躍を収めた作品の中で、一連の出来事を紹介されている…という形ではあるが、現在は絶版となっており入手困難。




追記、修正は試合を1日欠場しただけでレギュラーの座を奪われてしまった人がお願いします。


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最終更新:2024年04月01日 22:26

*1 その後3年間活躍して引退