タモリ

登録日:2019/02/03 Sun 21:48:46
更新日:2023/12/26 Tue 17:43:53
所要時間:約 20 分で読めます




タモリの芸名で知られる森田一義は、日本のお笑い芸人、タレント、テレビ司会者。
主な愛称はタモさん。


■概要

ビートたけし明石家さんまと並ぶお笑いBIG3の一人で、共演も多かった三人の中では一番年長であることから、たけしとさんまからは敬語を使われているが芸歴は彼等より下である。
後に、彼等と肩を並べるまでになりBIG4と呼ばれるようになった所ジョージとも仲がよく、やはり共演も多かった。

嘗ては、82年から31年半も続いた『森田一義アワー 笑っていいとも!』にて、フジテレビのお昼の顔としても知られていた。
『いいとも』に起用される切っ掛けとなった『オールナイトニッポン』では「ネクラ」に「ネアカ」という言葉を生み出し定着させている。
また、元祖熟女好き芸人。重篤なサユリスト。おっぱい星人。……etc.でもある。

また、長年に渡り『いいとも』を通じて親交を深め、相棒的な関係となった笑福亭鶴瓶よりも年齢は上だが芸歴は下である。(鶴瓶はたけしや志村けんと同期)

トレードマークのサングラスは、小学校3年生の時に電柱のワイヤーにぶつけて右目を失明しているのが影響していると思われる。
コスプレでは、右目にアイパッチをしている姿も定番だった。

デビュー当時から現在まで基本的な容姿に殆ど変化が無く、キッチリとしたオールバックについては20年以上前からカツラ疑惑が真しやかに囁かれ、当の本人にもネタとしてフラれることがあった。

TV司会者として最も有名な人物の一人といえ、多くの人気番組の司会を務めてきた。
特に『いいとも』は、生放送形式のバラエティー番組としては世界一の放送期間だったとしてギネス認定されており、これは、タモリ自身も変わらず司会を務めてきたということでもある。
ある時期には『いいとも』のタモリは変わった、つまらなくなった、とする論評もあったものの、そうした風評をも越えて風景となり得るまで続けられたのはタモリだったから、こそと言える。
その一方で、非常に多趣味で興味の対象も広く、オタク的でマニアックな方面の番組でも人気を博しており、90年代後半からの『タモリ倶楽部』や、00年代後半から開始された『ブラタモリ』も熱心なファンを生んでいる。


【生誕~学生時代~デビューまで】



■幼少期

非常に複雑な家族関係の中で育ち、3歳の頃に両親は離婚していたが悲壮感のあるようなものではなく、基本的には(養)祖父母に育てられながらも、実の父と母との思い出もある。*1

祖父は満州で30代にして南満州鉄道の駅長となった程の人で、一族も満州で富裕層として暮らしていた。
しかし、信心深く神道や仏教に傾倒していた祖母がお告げを受けると、一族は後ろ髪を引かれつつ戦火に包まれる前に一足早く引き上げ、その際に持ち物も処分したことで、多くの富を得て帰ってきたのだという。
家族や親類は、平和な時代しか知らないことから、集まると満州の思い出ばかりを語っていたという。(鉄道好きは血筋かもとも分析されていたり。)

1945年8月22日福岡県福岡市(現在の南区相当)生まれ。(終戦のちょうど一週間後。)
3歳上の姉が居り、彼女は値切り(商売や交渉事)の天才だという。(容姿は女装した時のタモリににているそうだ。)
名付け親は祖父で、尊敬する元総理大臣の田中義一にあやかって義一とされるところを、この字面では頭でっかちな子供になるとして、逆さにされた。
後の芸名と合わせて、自ら「逆人生」とも称している。
幼少期より変わった子供であったと回想しており、偽善といったものの意味を子供ながらに悟り、偽善的な行いや、そうした意識が見栄隠れする決まりごとには嫌悪感を持っていたという。
幼稚園への入園が決まった後で、自らの足で20分もの距離を歩いて幼稚園を見に行き、そこで他の子供達が『ぎんぎんぎらぎら』を振りを付けて歌う姿を見て、自分には出来ないと悟った。
祖父母に無理だと言って幼稚園の入園を拒否すると、それからは一人ぼっちで家の前の坂道を行き来する人々を眺めて、その人達のことを祖父母に聞いて暮らしていたという。(これが知識欲や坂道好きの原点。)


■小学生時代

小学校に入ると団体に埋没し、自己と対峙することも自己と真摯に向き合うこともしなくなったとタモリは語っている。要は普通の子供らしくなったということで、自分の精神的なピークは5歳とも述懐している。
小学校3年時に事故で右眼を失明。
7ヶ月の休養を取るが回復はしなかった。
4年生の時に親友と思っていた男に裏切られ、対処法を見つけるまで人間嫌いになった。
5年生の時に自ら『喜劇カラス天狗』の脚本を書いて予餞会で披露した。
その時は余り受けなかったそうだが、後に脚本家となっていた同級生に「面白かった」と評されたそうである。
タモリの代表的な特技、趣味として知られる料理は、この頃に「男子厨房に入らず」とも言われていたような時代にやはり変わり者であった祖母より、将来何かあったら困るから等との理由で、台所で祖母が料理をする姿を見せられている内に身につけたもの。
本人曰く「TVゲームも(無いような時代で)習い事も無く暇潰しには持ってこいだった」とのこと。
この技術は、貧乏学生時代にも大いに役に立ったという。
スポーツにも興味があり、野球をやっていた他、野球やラグビーの観戦も好きだった。


■中学生時代

中学時代は、突如として悪天候にもめげずに熱心に平尾にあるバプテスト教会に通っていたが、別に信仰に目覚めた訳ではなく、そこの外国人宣教師(R.H.カルペッパー)の片言の日本語や身振り手振りが面白かったから…という不謹慎な理由。
この時の経験は、持ちネタであるインチキ宣教師役の動きに活かされており、デビュー当時は勿論、すっかりと大御所になった『いいとも』でもお馴染みのネタだった*2
中学時代は陸上部と剣道部を兼ねており、また、船が好きで毎日の様に港に眺めにいっていたそうだ。(船好きの原点)


■高校生時代

高校時代は剣道部と吹奏楽部を両立させ、剣道では居合道場にも通って二段を取得している。
吹奏楽部では、トランペット奏者として活躍する傍らで司会もこなし…と、後の片鱗が見られる。
ジャズにハマったのは、それなりに家庭に音楽のある生活を送ってきたと思っていたのに、友達の家で聞かされたジャズが、当時のタモリには全く理解不能のジャンルだったから、らしい。
また、アマチュア無線クラブにも入っており通信士にも憧れたそうで、受験も電気通信大学を目指していたが失敗。
大学浪人中には押し入れに篭り、混線で聞こえてくる米軍放送や北京放送やら、韓国語のラジオに耳を傾けていたそうで、内容も解らないこれらの音が、得意のインチキ外国語芸のネタ元になった。


■大学生時代

一浪した後、早稲田大学第二文学科西洋哲学専修に入学。
モダンジャズ研究会に入り、得意のトランペットを…と思ったが「マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているがお前のラッパは笑っている」と酷評されて三日でペットを首になり、それからはマネージャー兼、司会として活躍。
この時から、森田をバンドマン読み(ズージャ語、逆さ読み)したタモリがニックネームとなる。
この頃にTBSラジオの『大学対抗バンド合戦』に参加し、才能を大橋巨泉に認められている。
大学2年の時に友人二人と旅行に行き、取り敢えずの旅費としてタモリの授業料を使ったものの、それが返済されずに授業料の支払いに滞りが出るようになる。
そして、3年時に授業料の未払いを理由に退学処分とされてしまうも研究会ではタモリを手放さず、以降はバンドのマネージャーとしてあちこちを周り、大学生の初任給を遥かに上回るギャラを貰っていたという。
後に『いいとも!』等で演奏を披露している他『ジャズタモリ』では、自ら選び出したジャズの名盤を紹介している。
バンドの打ち上げでネタを磨き、タモリが世に知られる切っ掛けになったのも山下洋輔との出会いだったりと、この頃の生活がタモリというタレントの原点である。
実際、タモリの芸の構成は作家の河野典生にジャズ的と評されており、自らも、TVでのやり取りで敢えてアドリブを盛り込んでいったり、それによって共演者と起きる反応をセッションと称している。


■福岡時代~上京まで

そうして楽しくやっていたタモリだったが、祖母が死んだことを理由に、祖父の世話をするために23歳で福岡に戻される。
しかし、タモリは聞かされていなかったが祖父には既に世話をしてくれる再婚相手が居り、呆れつつもやることがなくなってしまったタモリだが、親族(叔父)の斡旋もあって、東京へは戻らずに地元で保険の外交員となることに。
この頃に、成績の悪いのを助けてくれた職場の2歳上の女性(春子さん)と結婚。
夫婦に子供はなく、替わりに野良猫なんかを飼ったりしており、野良の餌付けが趣味だと語っていた時期もあった位だが、結局はそれに文句を言っていた奥さんの方に懐くそうだ。
3年程勤めた後に旅行代理店に転職し、系列のボウリング場の支配人となった。
1972年に、渡辺貞夫のコンサートに同行していたジャズピアニストの山下洋輔トリオ(山下、森山威男、中村誠一)が、ホテルの一室で打ち上げで乱痴気騒ぎをしている場面に出くわし乱入。(タモリも同じホテルにツアーに参加していた知人を訪ね、呑んでから帰る所だった。)
乱入したのは、廊下で聞いた山下達の芸の応酬の内容から「絶対に自分と気が合う。合うんなら乱入してもいいはずだ」と思ったからだといい、これがタモリ自身も語る運命の扉となった。
そこで、山下達の芸を越える芸を見せつけて爆笑をかっさらったタモリだが、明るくなったのに気づいて帰ることに。
呼び止められたタモリは去り際に「モリタです」としか名乗らなかったものの、この時のやり取りで衝撃を受けた山下は、タモリを当日にホテルに集合していたジャズファンに違いないと見抜くと、福岡で一番古いジャズバーに連絡して「モリタ」の行方を探し、遂に再会。
再会した時には、タモリは“ウィンナーコーヒー”を注文されると“ウィンナー入りコーヒー”を出すような、変わり者として噂になっていた喫茶店マスターに転職していた。
山下は福岡に来る度にタモリの喫茶店を訪れるようになり、親交を深めていく。
そして、山下は東京でも常連であった新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」でもタモリの話を聞かせ、自らのエッセイでも「伝説の九州の男・森田」を取り上げ、名前が知られるようになっていく。
遂には、ママのA子が音頭を執り、噂のタモリの芸を是非とも見たいと著名人ばかりの仲間内で盛り上がった結果、皆でカンパしてタモリを東京に呼び寄せるのであった。

そして、タモリは御披露目会の場にて期待通りの巧みな話芸と持ちネタを見せて筒井康隆や奥成達といった観客達を感嘆させると、それから月イチでカンパされては上京して、オーダーされためちゃくちゃな即興芸を披露する生活が始まるのであった。
奥成は「恐怖の密室芸」と名付けており、タモリも自分が得意としているのは「宴会芸」だとして、後に先輩からオールナイトニッポン起用の話が来て、テストのために一人で録ったネタテープのつまらなさから「その場で笑ってくれる人が居ないとやりにくい」とも語っている。

……この噂を聞きつけてやって来た漫画家の赤塚不二夫は、タモリの芸にいたく感動すると共に、予定されていた自分の番組にタモリを出演させるべく自宅に連れ帰った。
タモリとしても、大学時代に登場した『天才バカボン』で感銘を受けていた赤塚との出会いは僥倖となり、互いに親子や兄弟の様に思いながら付き合っていくことになる。
番組までの間に一度帰りたいとタモリが言うと、別れを惜しんだ赤塚は自宅マンションや愛車のベンツを自由に使っていいことを条件に引き留め、それからは赤塚に月20~30万ものお小遣いを貰いつつ、友人を招いたり赤塚や山下とバカ騒ぎする生活を送りながらテレビ出演の時を待った。
タモリは、赤塚程の男ならば他にも家を持っているのだと思っていたのだが、これによって赤塚は仕事場で寝泊まりする羽目になってしまい、ロッカーを倒してベッドにする等、タモリが出ていくまでの9ヵ月もの間、侘しい生活を送ったという。
赤塚はタモリに遠慮して着替えを取りに行く時にもわざわざ連絡を入れた程だったとか(そして、お目当ての服はタモリが着ていたらしい)。

途中で事実を知ったタモリも、申し訳ないとは思ったものの、ここで普通に感謝したり卑屈になってはいけない、
そこまでして赤塚が自分を買ってくれているのなら応えなければいけないと発奮し、
恵まれた居候の境遇を当然のこととして受け入れることを決意し、赤塚や山下にも存在を明かさず、当の本人に対しても半年間も何も言わずに福岡で待たせていた妻を呼び寄せ、こうしてタモリは東京で暮らしていくことになる。
居候のコツは卑屈にならないことと語る持論はこの時の経験から得たもので、余りの境遇の良さから自分の後に居候は居ない、とまで語るようになった。
この時の経験からか、自分でも居候を何人も抱えていたそうである。

この、テレビ出演の前に「ジャックの豆の木」のママ(A子)を社長、山下を常務とするマネジメント会社「オフィス・ゴスミダ」(タモリのインチキ韓国語に由来)を立ち上げて所属タレントになっているが、程なくして解散している。
件の赤塚の番組でのパフォーマンスを見た黒柳徹子から、その日の内に電話が掛かってきて、続いて黒柳の番組に赤塚と共に出演。
黒柳とも、後々まで親交を深めていくことになる。*3
続いて京都大学の学園祭にも呼ばれているが、この時の金銭トラブルが切っ掛けでゴスミダは解散している。

何れにせよ、着々と実績を作っていく中で赤塚や山下は次なる目標をタモリの芸能界デビューと定めて、作戦を練っていく。

当初、タモリの特異な芸風から所属事務所が難航していたが、知人の紹介により田辺エージェンシーの所属となり、正式な芸能界デビューが決定する。
以来、タモリは拾ってくれた社長の田邊昭知と親友の間柄となる。
田邊は、タモリが『いいとも』を引き受けた際に、周囲の多くの人と同様に深夜芸人だったタモリが潰れてしまわないようにと心配して、息抜きの出来る番組として『タモリ倶楽部』をスタートさせた恩人である。
田邊への恩義は勿論、大御所となってすら派閥を作らなかったタモリの所属は、現在でも田辺エージェンシーのままである。

デビューに際し、
①誰の弟子にもならない。
②組織には属さない。
③頭をなるべく下げずに金を儲ける。
④色紙に書くようなモットーは持たない。

…を、タモリは掲げている。
実際、タモリの芸風、キャラクターは特異で目立つものであり、
デビュー時には既に普通の人間以上の人生経験を積んできた貫禄の三十路男であったこともあってか、お洒落な雰囲気の番組等への出演等、直ぐに一般的なお笑い芸人とも違う、特殊な立ち位置での活躍の場を得ていくことになる。
このような事情のためか、芸能界に師匠と呼べる人間は本当に居らず、師匠と呼べる人間としては恩人の赤塚の名を挙げている。
2008年8月2日の赤塚の告別式にて、人生初の弔辞をアドリブで読み上げた最後に、出会って以来、初めての感謝の言葉と共に、私も貴方の数多くの作品の一つですと述べている。


■デビュー後

75年に芸能界デビューしてからは、マニアックでアングラな匂いのする芸風から深夜枠での活躍が多かった。
タモリの本来の芸風は過激で、27時間テレビに乱入した江頭2:50が「あの時代にタモさんみたいな芸風の人が『いいとも』やる意味がわかるか!?」と熱弁し、自分と同じ「底辺の人」と語ったように、どちらかといえば眉をひそめられる側の人間だった。
これについては当人も言われるまでもなく認めており、タモリの芸の本質は素人芸や宴会芸、面白ければいいという、下品で意味のないものが本質であるといい、こうしたスタンスは司会業に入ってからも回しの基本としており、かつての『いいとも』での乱入事件等についても「生放送は面白い」と言ってのけている。

得意としていたのは、何かしらの台詞や発言を真似するのではなく、その人物を憑依させたと言えるまでに想像で行う物真似。インチキ外国語。インチキ日本語であるハナモゲラ語。イグアナの形態模写。…等。
本人も受けると思っていなかったという、それらの芸の下地は福岡時代に身につけ、それを酒宴での即興芸として、リクエストした人物の想像以上のクオリティで見せていくことによって磨かれていったそうだ。

得意の4か国語麻雀も、元々は山下のただの思いつき。
しかも、本来は昭和天皇や、当時の田中角栄首相の物真似も加わっていたそうで、そっちは流石に電波に乗せられなかった*4
筒井康隆等からのリクエストは、奇妙な癖にいやに詳細なシチュエーションのネタばかりだったが、*5それらを少し考えた後で、素晴らしいクオリティで披露してみせたのがタモリだった。

昔のタモリの代名詞だったハナモゲラ語は、元々は山下と仲間が「外国人が聞いた日本語」として、日本語に聞こえるデタラメ語として、日々研究(?)していたものを、タモリが引き継いで完成させたもの。
それ以前から、そうした芸風や流行と呼べる物(大橋巨泉が万年筆のCMで発した「はっぱふみふみ」)はあったものの、ハナモゲラ語としてはタモリだとして、その昔はレコードまで出している。

タモリが、こうしたインチキ言語を好んだのは「意味の世界」や「言葉ありきの常識」が嫌いで壊したかったから、だという。
『一杯のかけそば』ブームを終わらせたのもタモリで、胡散臭い実話小説を「涙のファシズム」と呼んでお涙ありきで、文句を言わせ難くしていることを指摘してみせた。

滅多に披露しなくなったイグアナの形態模写も本来は素っ裸でやるそうで、赤塚と二人で他の客もお構いなしに岩風呂を這いずり回っていたりもしたそうだ。

また、元々は「自分のお尻の形がいいのが自慢」として裸になるのにも抵抗が無く、TVでポルノ女優相手に金粉ショーをしたりもしていた。
お昼の顔になってからも、TVでは脱がなくなったがプライベートでは脱いでおり、鶴瓶のような親しい友人の家や別荘に招かれた時に、さっと脱いでいたりしたそうである。

デビュー当初は周囲からの評価は低く、「せいぜい3年」と言われていた。


■お昼の顔へ

80年代に入って直ぐに若手漫才ブームが起きて、第二世代と呼ばれる若い世代の芸人達が持て囃されるようになったが、タモリは輪にも入れず相変わらず独特の立ち位置にいた。
しかし、皆が先輩の中でしれっと年齢相応の、なんとなく偉そうな立ち位置に潜り込んだ。

そして、ジャズ研の先輩がラジオ局にいた伝で『オールナイトニッポン』のパーソナリティに抜擢されたりと、幅広い人気を獲得し始めていた。
それに目をつけてタモリを誘ったのが、件の漫才ブームの仕掛人でもあった横澤彪で、
漫才ブームの若手芸人達が活躍していた枠を引き継いだのが『いいとも』であった。

タモリの『いいとも』への起用について、成功を確信していたのは横澤だけで、局は勿論のことタモリもタモリの周囲も失敗すると思っていた。
タモリも自分のような人間に昼の番組なんか務まる訳がないと思っており、「3ヶ月だけの繋ぎ」のつもりであったが、ゲストの坂本龍一が発案した「友達の輪」「わっ」のフレーズが大当たりし、わずか1カ月程で手応えを感じ、本人も「これは何年もやっていかなければならない」と覚悟をするようになったという。

結局、番組は30年以上も続き、30代後半だったタモリは還暦を過ぎるまでお昼の顔となり続けた。
お昼の顔となったタモリは、幾つもの番組でも司会を務め、いつしか誰も手の届かない域にまで到達してしまった。

この、落ち着いてしまったタモリを叩くのが通ぶった人間の90年代前半の風潮で、すっかりと出来上がった『いいとも』の空気感については、レギュラーだった松本人志も反発し、ダウンタウンも僅か3年で降板している。

しかし、そうした空気感の中でもタモリ自身は面白さを求め続けており、さんまとのただの雑談をコーナー化したことに胸を張った。

90年代後半に入ると、ナインティナイン(特に岡村隆史)やSMAP(得に中居正広、草彅剛、香取慎吾)と絡むようになり、年齢の離れた彼等とのやり取りは好爺の様な雰囲気を醸し出し、今度はタモリを持ち上げるのが流行した。

こうして、偉くなっていったが慕われる分はともかく、自らは派閥を作ったりせず、誰もが知っているのに、実態は誰も知らないというのが、タモリを示した言葉としても使われる。

タモリ自身も、自然体で何事も期待せずにやれるようになっていったとのことで、自分の番組を見たりはしないそうだが、TVに出てる自分の方が本物だと感じる、とも答えている。


■交遊関係


  • 赤塚不二夫は、タモリが世に出る切っ掛けを作った存在であり、タモリも敢えて感謝を口にせずに肉親の様に付き合った。プライベートでは、お互いにそれが他人の別荘に招かれた状況だったとしても一緒にバカをやり、遂には「いっそのことホモになっちゃえ!」と、ベッドインまでしてみたそうだが、タモリ曰く「体は正直で30分まさぐりあってても興奮しなかった」とのこと。

  • 同じくBIG3と呼ばれるビートたけし、明石家さんまとは偉くなっていった為に年末にゴルフ企画をやっていた頃から、既に夢の共演と呼ばれていた位で一緒に番組をやる、といことは殆ど無かったが、矢張りある種の同志的な意識は持っているらしい。タモリがゴルフの腕を上げたのは、そのBIG3での対決でたけしとさんまにバカにされたのが切っ掛けだったといい、こうした負けず嫌いな所は『いいとも』や他の番組での対決コーナーでも見られる。また、たけしが謹慎から解けた時には『いいとも』のゲストに迎えている。『いいとも』終了の数年前程の頃に、ふらりとたけしの楽屋を訪れて「辞める時は僕に言ってね。先越されるのはやだから。あなたがやってるから私もやってるんだから」と、タモリは発言したという。さんまは『いいとも』に十数年も付き合った仲だが、タモリの自宅には二度と行かないと誓ったという。それは、タモリと喋りに行ったのに、いきなり夫婦して自分をもてなす為の料理をし始めて、嫌味も込めて叫んだ感想以外は相手をしてもらえなかったからだとか。

  • 笑福亭鶴瓶は、東京進出が最初は上手くいかず大阪に帰るところだった所を『いいとも』に起用された。起用したのは横澤で、鶴瓶が上手くいかなかったことをふまえてのことだったという。鶴瓶は去る者は追わず、のタモリが引き留めた男で、後には名コンビとしてプライベートでも付き合うようになった。中居と共に『いいとも』終了を知らされていた。

  • 岡村隆史は、共演を通じて東京のお父さんと呼ぶ程に慕っているという。一方、08年の対談では後進に後を譲るようにと語り、自身の悩みを吐露しているが悩むやつはこの世界がツラいはず、と後に岡村が潰れたのにも繋がるようなことをタモリは言っている。

  • 中居正広は、共演を通じてタモリが力を認めた男であり、鶴瓶同様に予め『いいとも』終了を教えていた程。草彅剛と香取慎吾もプライベートも含めて可愛がってもらったそうで、タモリへの想いが強いとのこと。


■余談

  • デビュー当初は『お笑いスター誕生!』の審査員や『今夜は最高!』など、日本テレビの番組に頻繁に出演していたが、1989年の『今夜は最高!』終了を最後にレギュラー番組を持っておらず、以降日テレ系の番組への出演も極端に減った*6。その理由として「番組スポンサーのパイオニアがタモリに失礼な発言をし、それに怒ったタモリがキレて打ち切りを宣言した」と長らくwikipediaに掲載されていたが、タモリの座付作家である高平哲郎氏は著書の中でこの件を否定。タモリさんはそんなことで怒る人ではないと証言している*7

  • タモリは 「エビフリャー」の元ネタ である。
    1980年代にタモリが「名古屋人はエビフライを『エビフリャー』と呼ぶ」と揶揄するネタを連発し続けて結果、
    「名古屋人はエビフライが好き」 というミームが生まれ、名古屋自体もそれに乗っかった結果が今日の「名古屋名物・エビフライ」である。
    なお名古屋弁が語尾に「みゃあ」を付ける傾向にあるのは事実だが、「名古屋弁でエビフライをエビフリャーと発音する」というのは 完全なタモリの創作
    また名古屋とエビフライを結び付けたのも件のタモリの発言が由来であるため、そもそも名古屋は別にエビフライが名物という訳でもなかった。
    因みに、これ以外にもタモリは名古屋を揶揄する様な発言が大量に記録されている。

  • 嫌いな言葉に 「等身大の○○」 を挙げている。
    理由は、例えば「幸せ」なら「等身大より大きいからこそ幸せ」なのであって、等身大なら幸せじゃない、とのこと。






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最終更新:2023年12月26日 17:43

*1 祖父母には子供が出来ず、それぞれに一番下の弟と妹の子を養子にしており、これがタモリ姉弟の両親である。離婚の理由は母の方が気が合わなかったからとのこと。

*2 なお、現在では教会が「タモリのインチキ宣教師の元ネタ」と公式に紹介している。

*3 タモリと黒柳は共に『徹子の部屋』であると語っているが、当時はまだ同番組は始まっていなかった。尚、2013年まで同番組の年末最後のゲストはタモリというお約束があったが『いいとも!』終了と同じく中断。その後、2021年年末に久々に復活した。

*4 1985年に行われた筒井康隆の全集刊行記念パーティーで昭和天皇の物真似を演じたことが明るみに出て、田辺エージェンシーの社長・田邊昭知が右翼団体に拉致される事件にも発展した。

*5 「中国製のターザン映画」「宇宙飛行士になった大河内傳次郎が、宇宙船の中で苦しんでいるのを韓国語で」「日本製のウィスキーをこれは悪しき飲み物だと言っていた中国人が、これは素晴らしい飲み物だと言い始める」

*6 民放ではテレビ東京・TBSテレビも20年以上疎遠となっている。

*7 終了の理由についてはトラブルがあったことは事実だが、その理由についてはわからないとしている。