絶望(小説)

登録日:2019/06/21 (金曜日) 19:37:11
更新日:2023/02/25 Sat 19:28:58
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神作 天才による完璧な小説 犯罪小説 ゲルマン・カルロヴィチ 天才 保険金殺人 芸術作品



やあ、アニヲタ諸君。僕の名前はゲルマン・カルロヴィチ。しがないドイツのチョコレート工場経営者さ。
そして同時に……稀代の天才小説家でもあるんだ。
ドストエフスキーもコナン・ドイルも目じゃない真の天才作家だよ。まあ、僕に言わせればふたりともまだまだ詰めの甘い三流小説家だけどね。
コナン・ドイルは最後まで『ホームズを犯人にする』というアイデアを思いつけなかった無能だし、ドストエフスキーもデビュー作とはいえ書簡体小説なんて構成に欠陥があるものを執筆した大馬鹿野郎さ。

別に宣伝しているってわけでもないけど、チョコレートっていうのはいいものだよね。
ビターは好まないなんてお嬢さんもいるけれども、そんなの厚顔無恥な美食家気取りもいいところさ。

さてさて、そんなことよりも僕の処女作であり、才能を詰め込んだ一冊『絶望』の紹介に移ろうか。
なに? そんなどうでもいい前置きをしている暇があったらさっさと本題に入れだって? やれやれ、アニヲタ諸君は気が短いね。それじゃあ、さっさと説明していこうか。

えーと、大見出しのつくりかたってこれでよかったんだっけ……




【あらすじ】

話は僕がプラハまで出張していた時までさかのぼる。妻への土産話をつくりつつ、そこらへんを散策していたんだけどとんでもないやつに出会ったんだ。フェリックスという名前の浮浪者なんだけどね、結構頭のわるそうなやつ。まあそこはどうでもいいか。
そいつは驚いたことに僕と瓜二つの人間であったんだ。本当に全く同じ顔なのさ! びっくりしたよ! ……とにかく僕とフェリックス、ふたりは同じ顔をしていた。そこが重要なんだ。

それから少ししてなんだけれども僕はちょっとお金に困っていた。何があったって? ……別にいいだろ、そんなことは。本筋には関係ない。とにかく少しばかりお金が必要になったんだ。それも出来る限り早急に。
そこで僕は金を手に入れるための、素晴らしい計画を思いついた。自画自賛するようだけど本当に素晴らしい計画なのさ。こんなところで計画を聞けるアニヲタ諸君は感謝をした方がいい。

計画はフェリックスを使うことだった。さっき言ったように僕とフェリックスはよく似ている。だからね、フェリックスを僕に偽装させて殺してしまおうと思ったんだ。死んだことにしてしまえばもうお金を請求されることなんてないし、何より僕は自身に多額の保険金をかけている。あとは共犯者である妻に保険金を受け取らせ、あとは雲隠れして優雅に暮らすだけ。
実に素晴らしい犯罪計画だろう? いっそこれはひとつの芸術と言っても過言ではない

そしてその中で僕は思ったんだ。
こんな素晴らしい芸術作品は、是非記録しておかなければならないと。
もともと僕は天才だからね。完成した物語は僕の計画と並ぶもう一つの芸術作品となるだろう。

これがゲルマン・カルロヴィチによる最高の犯罪小説『絶望』さ。

さてさて、えーっと、次は登場人物紹介かな。






【登場人物】

◆ゲルマン・カルロヴィチ
僕のことだね。天才的な頭脳を持つ僕はまさに主人公と言えるものだろう。同時にこの『絶望』の著者でもある。
上でも書いたように、ドイツでチョコレート工場を経営しているまだ若い紳士さ。
死んだ父親はレーヴェリ出身のドイツ人で農学士、亡き母は生粋のロシア人で由緒ある公爵家の血筋だった。
今は妻のリーダ、メイドのエルザと共に暮らしている。結構いい家に住んでいてね、特に日当たりのいいバルコニーがお気に入りなんだ。最近月賦で買ったダークブルーの粋な自動車も置いてある。まあそこそこ幸せな生活をしていると言ってもいいだろう。
そんな僕だけどお金に困ってしまってね……理由? そんなのどうでもいいってさっきも言っただろ、しつこいな。とにかく僕はお金が必要になったところ、前に出会ったフェリックスを使った完全犯罪を思いついた。それが瓜二つということを使った入れ替わりの保険金殺人さ。実に素晴らしいだろう?この僕の完全犯罪を描いたのが『絶望』というわけだ。
ところでちょっと話は横にそれるけれども僕は母のことでちょっとうそをついた。実際は公爵家でもなんでもなくて、ただの庶民の家柄なんだ。しょうもない嘘だと思うだろうけど、まあ僕が軽妙で才気あふれる法螺吹きってことで許してくれよ。

◆リーダ・カルロヴィチ
愛すべき僕の妻だよ。
かわいいやつなんだけれども同時に頭の悪いおまぬけさんでもあってね。例えば犯罪小説を読むのが趣味なんだけれども、続きが気になって仕方がなくなるけどそれじゃだめだと思っているから、なんと本を引きちぎって最後の方だけを隠してしまうんだ。これだけでも面白いのに、いざ読もうとすると、どこに隠したのか忘れていて結局読めない。それなのに「見つからなかったらあたし死んじゃうわ」と叫んでいるのさ。おばかでかわいいだろ?
彼女も僕のことを深く愛していてくれているんだ。まあリーダはおばかさんだから、僕みたいな頭のいい奴が付いていないとダメなんだろう。実際彼女は僕の言うことなら大体はちゃんと信じてくれる。
そして当たり前だけど今回の計画で保険金を受け取るのは彼女ということになる。もちろん正直に言うわけにもいかないから、フェリックスは僕の生き別れの弟で過去の従軍のトラウマで死にたがっているということにしたんだ。リーダはあっさり信じてくれたよ。

◆アルダリオン
僕の友人の売れない画家。
訛りの抜けない方言から分かるように脳たりんな男。なのに哲学じみたことをいうのが大好きでね、よくわけのわからないことを言っているんだ。そのたびに僕に言い負かされている。まあこいつは頭が悪いから言い負かされているということにすら気が付いていないかもしれないけどね。
ところでこの前アルダリオンの家に行ったら、リーダが彼のベッドで半裸になっていたんだ。あれなんだったんだろうね。

◆フェリックス
プラハで偶然出会った浮浪者。ちなみにフェリックスは「幸福」という意味だよ。
何故か僕と瓜二つの容姿をしているんだ。しかも庶民というのは頭が悪いのか、僕とそっくりであるということに全く気が付いていない。ホント庶民っていうのはダメだね。品がない。
そして僕は考えた末に彼を殺し、保険金を受け取る完全犯罪を思いついたんだ。
それにしても本当に素晴らしい計画だよね。何回も言っているはずなのに、何回も言いたくなっちゃうよ。


これだけだと流石に項目が寂しいな……。解説でもつけるか。





【解説】

◆「罪と罰」について
「罪と罰」はドストエフスキーの代表作として有名な作品でね、主人公のラスコーリニコフが金のために殺人をするんだけどぼくもそれになんとなくシンパシーを感じたんだ。それでだけど……


あ、ちょっと待って。
失礼、今潜伏先のホテルのロビーでこの項目を書いているんだけど、なんかそこにいたフランス人どもがいきなり僕に話しかけてきたんだ。
ちょうど今いいところなんだけど……。フランス人っていうのは空気が読めないのか?
なんか彼らが言うにはドイツで悪質な殺人事件が起きたらしいんだ。まあ祖国で起きたっていうのはちょっと気になるけどどうでもいいかな。
とは言っても僕は今あんまり不審な動きは出来ないわけだし、また会った時の話題合わせのために読んでおくか……。

なになに、殺人犯が自分に保険金をかけておいて身代わりにした他人を殺害した……。なんだかどこかで聞いたことのある事件だね。
被害者の身元は……浮浪者であったらしくまだ判明していない、と。
それで殺人犯の身元はもうわかっていると。警察にしては有能じゃないか!

それで名前は……『ゲルマン・カルロヴィチ』だって?
僕の名前だ……!

もしかしてこの事件は僕の計画のことを言っているのか?
どういうことだ? ぼくの計画は完璧のはずだぞ。無能な警察共がそう簡単にわかっていいものじゃない。そもそも殺してからそんなに日は経っていないぞ。僕とフェリックスは瓜二つの容姿をしているんだから、こんなに早く分かるはずがない。

一体、何が起きているんだ……。

























絶望』とは1936年に出版されたロシアの文豪ことウラジミール・ナボコフの小説。
及び作中の主人公ゲルマン・カルロヴィチが執筆したという設定の同名の作中作
ゲルマンの犯行が彼の一人称視点で語られており、時たま読者に語り掛けてきたりしながらつらつらと自身の動きを語っていく。

本書は独特の形式をしており、ゲルマンの執筆した作中作である『絶望』がそのまま本書のテキストになっている。
まあ手記形式の小説の捻りだと考えると分かりやすいか。





【特徴】


本作の最大の特徴は叙述トリックが仕込まれているということである。
とは言っても、別にゲルマンは読者をだまそうとして叙述トリックを仕込んだというわけではない。というかそもそもゲルマンが執筆した目的は自身の天才性を証明するためであるのでわざわざ事実を歪曲する必要性はない。つまり叙述トリックは著者たるゲルマンの意図しないところで発生したものであるということになる。
ではなぜ叙述トリックが仕込まれることになったのか。


単純に、ゲルマンがありえないレベルの大馬鹿野郎、というか馬鹿すら超えているナニカだったからである。


突き詰めれば、


ゲルマンとフェリックスが似ているというのは、
ゲルマンの勝手な思い込みであり完全な勘違いであった。


ということになる。
つまりゲルマンという男は自身が天才であるかのように吹聴しているが、実際はそんなことはなくむしろ人一倍頭の悪い人間であったのである。
実際作中でゲルマンとフェリックスが瓜二つだと思った人間は彼しかいない*1。新聞や警察は何故こんな事件が起こったのか不思議がっているほどである。ちなみにフランス人がゲルマンにいきなり話しかけたのはどう見ても犯人っぽい男がロビーで堂々としていたから。
要するにミステリー用語で言う「信用できない語り手」ということになる。

瓜二つだと勘違いしたのも、ゲルマンが五感に異常があったとかのことは一切なく、本当に頭が悪かったために深読みした挙句勝手に「似ている」と思ったのである。
バカってレベルじゃねーぞ!

フェニックスを自身に偽装させたうえで射殺しご満悦のゲルマン。しかし潜伏先のホテルで読んだ新聞には被害者がゲルマンであるとは欠片も思われていなかった。それどころか「保険金を狙った悪辣な詐欺」とまで書かれていた。
このことに衝撃を受けたゲルマンは、自分は間違っていない、自分の計画は完璧であると証明するために原稿を書き始める。それこそが『絶望』なのである。

つまり本作はゲルマンの恐ろしいまでに緻密な犯罪計画を実行していく、などというかっこいいものではない。
自分を天才だと勘違いしている無能な芸術家気取りことゲルマンの転落を描いたものなのである

【登場人物】


◆ゲルマン・カルロヴィチ
一応本作の主人公。自称天才芸術家……と言っているが繰り返すようにただの無能である。
そもそも本人はなんとかごまかそうとしているが、お金が必要になった利用は行間部分を読み取るに単に知人の会社から融資を受けたがその金を返せなくなったからである。つまり借金
一応序盤では母親のことでどうでもいい嘘をついたりと、自身が信用できない人物であるということをほのめかしている。
ちなみに小説家としての腕についてだが、確かに情景豊かに説明する文章力にはそこそこ長けている。しかし自分語りやどうでもいい余談ばかりしたがるものだから犯行計画について明かされるのが中盤近くになるなど、絶望的に構成力が足りない。挙句の果てには本作の中核であるフェリックスとの出会いを「面倒くさいから」と後回しにしようとするほどである。なんだこいつ……
ちなみに前半では数々の名作をバカにしていた彼だが、後半になるにしたがってそれをパロディしようとする情けない姿を見せた。それはそれとしてナボコフは大のドストエフスキー嫌いとして有名だが。

◆リーダ・カルロヴィチ
ゲルマンの妻。頭の悪い女性であり、彼には見下されながらも愛されている。
だがここまでの説明で気が付いた方もいるかもしれないが、実はゲルマンに隠れて浮気をしている。しかも相手はよりによって同じくゲルマンが見下している人間であるアルダリオン。
……というかゲルマンは嫁が友人のベッドに半裸で寝ているという状況に対し、何か少しでいいから疑問に思わなかったのだろうか?
ゲルマンはなんだかんだ言いながらも窮地になった際にはリーダに頼るなど、彼女のことを強く信頼しているだけになかなか悲しい話である。

◆アルダリオン
ゲルマンに見下されている画家。
だが実際にはゲルマンの嫁を裏で密かにNTRしているなどむしろ見下されるのは彼の方である。
前半部分におけるゲルマンに次ぐ伏線担当のキャラクター。実際上述のゲルマンとの口論の際には「似ている部分しか見ないのはド素人のやること」という伏線とも皮肉とも言える発言を残している。またゲルマンの夢の中では彼の肖像を描いていたが、何故か目だけが描かれていなかった(一応アルダリオンは「目を描くのは一番の楽しみ」と言っていたが)。
また後述するがゲルマンの対であり、本作の勝ち組と言えるキャラクターである。

◆フェリックス
プラハに住んでいるホームレスのおっさん。
無能な天才気取りであるゲルマンに勝手に瓜二つの容姿であると間違えられ、勝手で穴だらけの計画のために殺されてしまうというある意味かわいそうな人。
それにしても警察の方々も、浮浪者の男が全くの別人の衣服をまとって殺されているという状況には首をかしげただろう。


【ラストシーン】


警察に追われる身となり、ゲルマンは潜伏先を変えながらせめてもと『絶望』の執筆を続けていた。焦りからそれはもう小説の体をなしておらず、もはや日記や手記に近いものになっていた。
そしてここまで書いた原稿を読み返すうちにゲルマンはとんでもないことに気が付かされる。
彼は自身の服を着せたフェリックスの遺体を愛車の中に「ツヴィカフ生まれのフェリックス・ヴォールハルト」と焼き印の押された杖をうっかり置いたままにしていたのだった。遺体は「ゲルマン」のはずなので、「フェリックス」などと書かれた杖は存在していいはずのものではなかった。
自ら計画を破綻させていたことに気が付いたゲルマンは、ここに至りようやくこの犯行計画は芸術作品などではなく矛盾まみれの駄作であるということに気が付かされた。
このどうしようもない絶望的な物語にゲルマンは『絶望』というタイトルをつけるのだった。

そのころ、部屋の外が騒がしくなっていた。窓からのぞき込むと間取りした家を多数の警官ややじ馬たちが取り囲んでいた。ついに所在を暴かれてしまったのだ。自棄になり発狂したゲルマンはその人だかりに向って何か演説を始めようとした。そのシーンで物語は唐突に終わっている*2。本書はゲルマンの手記(という設定)であるので、この直後のシーンで捕まったため続きが書けず物語が終わったのだと考えられる。

そしてゲルマンはもうひとつの芸術作品の制作にも失敗していた。それは『絶望』という作品の制作についてだ。
もともとゲルマンは本書をちょうど10章とキリのよい数字で終わらせるつもりであった。しかし逃亡生活の焦りや絶望感、何より杖によって自ら計画を破綻させていたことに気が付いたことにより不安定になったゲルマンは予定通りの長さで終わらせることができなかった。結局『絶望』は11章構成というなんともしまりの悪い終わり方をしてしまったのである。

こうしてゲルマンは自らの手によって「完璧」であるはずの『絶望』の制作を完成させられず失敗に終わらせた。
そしてその瞬間、「無能な芸術家気取りであるゲルマンの転落」を描いたウラジミール・ナボコフの『絶望』は見事に完成したのである。
そういう意味では本書はメタフィクションの構造を持っているとも言えるだろう。

【解説など】


◆本作の目的
アクロイド殺し』と並んで叙述トリックの祖と言われている作品である『絶望』。
そんな本作の目的は小説の本質を描くという実験的なものである。
では小説の本質とはなんなのだろうか? シンプルに言えば、文字によって描かれているということである。逆に言えば、どんなに綿密に描いたとしてもそれは文字でしかないということだ。

そんなの当たり前じゃないか、と思うかもしれないがこれは決してバカにできないことである。

実際ゲルマンとフェリックスは全くもって似ていないが、ゲルマンが『絶望』のテキストに「ゲルマンとフェリックスは似ている」と書いてしまえば我々はそうイメージするしかなくなる。というか、小説のテキストをいちいち疑っていては読むどころではなくなってしまうだろう。

小説が文字によって表現されている、というのはラジオのスポーツ中継に似ている。
スポーツで何か動きがあれば、アナウンサーがその様子を言葉で実況する。そしてラジオである以上目の前の映像を言葉で解説することになる。聴取者はその言葉を基にして脳内でスポーツの様子をイメージすることになる。

小説も同じだ。一人称小説ならそのキャラの視点、三人称小説なら神の視点というように物語世界にはカメラが置かれている。そしてその物語世界の映像は文字に変換されることになる。それが小説のテキストだ。そして読者はそのテキストを基に脳内で物語世界をイメージするのである。
言い換えれば読者は物語世界に対して盲目であると言える。

つまり物語世界があり、そこで起きていることを著者が文字に変換し、それを読んだ読者が脳内でイメージするというのが小説の本質的な部分なのである。

この小説ならではのシステムを使ったのが『絶望』だ。
つまり物語世界を著者が文字に変換するなかで、その変換する著者がゲルマンのようにボンクラであればシステムは成り立たなくなってしまうというわけである。
アニヲタ的にはラヴクラフトらクトゥルフ神話など語り手が狂気に陥っているために物語が真実か妄想や幻覚の類かはっきりしないまま終わるような作品が近いか。
そもそも『アクロイド殺し』など叙述トリックものに顕著であるが、物語世界をどのように文字に変換するのかは完全に著者の匙加減次第になる。
例えば目の前に葉っぱがあったとして「葉っぱがある」と簡素に表現することも出来るし、「針のような形で静脈は……」というように細かく表現も出来る。「文字で表現する」というのは絵画や音楽など他の芸術と比べて、本当に異質なものなのである。

御覧のようにこの本質は表裏一体の長所と短所を持つ。
にもかかわらず作中でゲルマンは無邪気に文学がリアリズム性*3を持っていると過信してしまっている。
絶望』の真の作者であるナボコフとの違いはこのあたりにあるのだろう。

ちなみに繰り返しになるようだがゲルマンがポカしたのはひとえに文学の盲目性に気が付いていないことにある。
それに対して、ゲルマンが見下している(と思い込んでいる)アルダリオンは画家であるためこの問題点をあっさりクリアすることができる。
……どこまでもアルダリオンに勝てない男である。

◆本作の背景とか
上述のとおり作者はロシアの文豪ことウラジミール・ナボコフ。アニヲタ的には世界最高(最悪?)のロリコン小説である『ロリータ』などで有名か。
ちなみに本作は『ロリータ』や『カメラ・オブスクーラ』などと並ぶ代表作とされている。

1934年に『ロシア雑記』に雑誌連載され、その後1936年に書籍として出版された。また、その翌年の1937年にはナボコフ自身の手によって英訳版が出版された*4。しかし1937年は第二次世界大戦中で国中がすったもんだしていたということもあり、在庫の大半は灰になってしまった。残念である……。
しかしナボコフはめげずに1965年に二度目の英訳版を出版している。ちなみにこちらではアメリカ向けに意図的に少し表現を変更されている。日本でもロシア語版、英語版、それぞれを日本語に訳したものが出版されているので読み比べてみるのも面白いだろう。


ちなみにこんな作品であるが映画化している。
タイトルは『デスペア 光明への旅』で1977年に公開された。
明らかに叙述トリックで映画化に向いていない作品であるが、「主人公はつねにガラスか鏡ごしに人と会話し、決して人と目を合わさない」という強引かつ雑な演出によってクリアされた
まあ監督のファスビンダーの十八番の演出である。



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最終更新:2023年02月25日 19:28

*1 例えばフェリックスはゲルマンに「何かに気が付かないか?」と聞かれ露骨に「何言ってんだこいつ」と言いたげな表情を浮かべていた

*2 英語訳改訂版ではゲルマンが「なんとか映画の撮影中ということにしてごまかせないか」と考えるシーンが追加されている。これについて光文社古典新訳文庫版の翻訳者である貝澤哉は「ナボコフは密かに映画化をたくらんでいたのではないだろうか」とコメントしている

*3 目の前にあるようにそっくり瓜二つに描くタイプの芸術のこと

*4 もともとナボコフはアメリカで暮らしていたこともあり英語に強い興味を持っていた。実際『青白い炎』や『アーダ』など最初から英語で出版されている書籍もある