袁世凱

登録日:2020/01/04 Sat 07:20:24
更新日:2024/04/29 Mon 01:43:38NEW!
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袁世凱とは、清朝末期から中華民国初期までの人物。
清帝国の官僚であり、中国史上最初の大総統であり、最後の皇帝である。
生没年は1859~1916年。



【生涯】

◆出生

咸豊帝9年の生まれ*1、河南省は陳国府の項城県の出身。
生家は何人もの官僚や軍人を輩出した地元の名族だった。

こうした家系で育った若き日の袁世凱も野心と向上心に満ちており、当然のように清朝の官僚としての立身出世を志したが、科挙試験に二度挑戦し、二度とも失敗してしまう。
科挙官僚には気質からして向いてなかったらしく、科挙のためあらゆる知識を詰め込まなければならない時期に、馬に乗って駆け出していたという逸話も残る。

本人も科挙は無理と分かっていたらしく、二十一歳にして官僚コースを早々にあきらめて軍人コースに転出。
当時、西洋式の武装を編成していた李鴻章麾下の淮軍に所属した。
淮軍には呉長慶という幹部がいた。彼は、袁世凱の叔父*2の友人であり、その叔父の葬儀も執り行なってくれたため、その縁を頼ったそうである。

かくして淮軍に入隊した袁世凱は、まもなく頭脳の明晰さと機敏さが認められ、呉長慶の幕僚に抜擢された。


◆朝鮮の若き才子

朝鮮半島への進出を進めていた日本に対抗するため、李鴻章の命令で呉長慶が李朝末期の朝鮮半島へと配属されると、呉長慶の幕僚だった袁世凱も共に朝鮮へと送られた。
当時の袁世凱は若干二十三歳の青年だったが、赴任するや外交参謀としていきなり頭角を現す

ほどなく朝鮮で起きた壬午政変(1882)と甲申政変(1884)にて、若き袁世凱は知略を巡らせつつ見事に鎮圧。半島情勢を清朝サイドに有利に収めた*3
才覚を顕した袁世凱は李鴻章の信任を受け、また甲申政変と前後して上官であり恩師でもあった呉長慶も没したため、呉長慶の軍を引き継ぎ、朝鮮半島における清朝の最高司令官となった。

当時袁世凱、弱冠二十五歳
一躍、清帝国における少壮軍人のホープとなった袁世凱は、以後、朝鮮半島における清朝の代理人として十年に亘って同地に留まり、李朝朝鮮を内政や経済までコントロールするほどの辣腕を発揮する。


袁世凱はこの朝鮮時代に、権力に初めて触れたといっていい。
また、これは袁世凱の人生にも因縁あさからぬ明治日本との初めての激突ともなった。


◆日清戦争

しかし1894年、朝鮮の反乱をきっかけとして日清戦争が勃発。親分・李鴻章の作った虎の子の淮軍が大敗してしまう。
袁世凱も敗軍の将の一人となり、朝鮮半島を追い出された。

中国は歴史的に、平時であっても官僚や軍人の腐敗が著しい。王朝末期となるとそれに拍車がかかるのが常だ。
当時の清朝および清軍もその例に漏れず、将校は予算を横流して兵卒は騒ぐだけ、という状況であった。
中国史ではそういう軍隊も決して珍しくはないのだが*4、古来より戦争を社会への奉仕として重要視してきた西洋軍や、持ち前の生真面目さで近代戦争の規律や戦意を骨の髄までたたき込んだ日本軍には、中国らしい粗雑な軍隊ではとうてい対抗できなかったのだ。


いや、あるいは清朝そのものが限界に達していたからだろうか。
日清戦争が起きたのは1894年。
この時からちょうど100年前、清朝はイギリス大使ジョージ・マカートニー伯爵の訪問を受け、イギリスによる対清貿易の自由化を要求されたことがある。
これに対して、齢八十代になっていた乾隆帝治下の清朝は剛柔取り混ぜた交渉を行った。
当初、マカートニーに「三拝九叩頭の礼」を求めたが、マカートニー側が拒絶したため「夷狄には夷狄の礼があろう」ということで、乾隆帝の手に接吻するというイギリス式の礼で妥協した。
しかしその「妥協」と引き換えにして、清朝はイギリス側の求めていた開港・自由貿易の要求を拒絶し、清朝が求める戦略的実益を確保できた。

当時の清朝はやや陰りの兆候こそ見えていたが、まだ剛柔取り混ぜた外交を行い、求める結果を出すだけの力と知恵があった。

しかし乾隆帝とマカートニー大使の戦いから50年を経て、アヘン密輸に始まるイギリスの卑劣な陰謀*5に清朝は対抗しきれず、「アヘン戦争」に大敗を喫したあげく、植民地として欧米列強に食い荒らされることになった。

そのアヘン戦争からさらに50年。
清朝は、かつての康熙帝や雍正帝、乾隆帝のような大皇帝がいたころの、偉大なる清朝ではなかった。
時はもはや「清末」と呼ばれる代に入っていたのだ。


◆北洋軍閥

順調に出世の階段を上っていた袁世凱のキャリアもこれで終わりかと思われたが、この後、袁世凱は人生最大のチャンスに恵まれる。

新興国日本に大敗を喫したことで、遅まきながら近代化の必要性に気付いた清帝国は、西洋式の軍制による「新式陸軍」の創設を決意。
そしてその「新式陸軍」の創設を命じられたのが、他ならぬ袁世凱だった。
以後の数年を袁世凱は「新式陸軍」の創設に全力を尽くし、それまでの中国にはなかった近代的な軍を一から創り上げた。
彼は兵士から士官・将校に至るまで、西洋式の最新兵器と、それを使いこなすだけの技術・規律を徹底的に仕込み、精強な陸軍を作り上げることに成功。
その実力は欧米列強や日本さえも驚くほどのものである。
小柄な袁世凱のあだな「ストロングマン」は、その実力からついたものである。

この「新式陸軍」こそ、袁世凱が自分のために創り上げた人生最大の財産であり、その後の歴史における袁世凱の活躍を支える最大の基盤となった。
以後、袁世凱は麾下の洋式陸軍の増強に邁進。やがてこれは袁世凱の勢力「北洋軍閥」として成長する。


◆戊戌の政変

洋式改革の徹底を目指したのは、なにも袁世凱だけではない。
清朝の中枢では、洋式改革の徹底を目指す「変法派」が、守旧派と激しく争っていた。
その「変法派」のボスはほかならぬ清朝皇帝・光緒帝である。彼は康有為梁啓超ら改革派知識人の影響もあり、日本の明治維新をモデルに内政改革に着手した。
しかし、それは国内の保守勢力、すなわち清帝国の影の女帝たる西太后との対立を意味していた。

当時の清帝国は、光緒帝の伯母に当たる西太后が三十年近くにわたり権力を握っており、光緒帝の即位も西太后の後援によるものであった。
光緒帝は皇帝でありながら実権はなく、清帝国の最終決定権は西太后が握っていた。

光緒帝を中心とする新法の実施は、それまで西太后が握っていた権力が西太后から光緒帝へと移って行くことを意味する。
西太后は当然ながら若き皇帝の改革を快く思わず、朝廷内は光緒帝を中心とする改革派と、西太后を中心とする保守派に二分された。

もともとの権力は西太后のほうが圧倒的に強かったため、劣勢の改革派は武力クーデターによる巻き返しを図った。
この時にクーデターの実行役として改革派に目をつけられたのが、他ならぬ袁世凱であった。

袁世凱は「新式陸軍」の責任者だった関係上、平素より西洋の技術や新制度の導入に積極的な姿勢を取っていた洋務運動の象徴であり、世間からは改革派の一人と見なされていた。
光緒帝から秘中の秘であるクーデター計画を打ち明けられた袁世凱は、感動の面持ちで計画に賛同し、もし事あらば全軍を率いて光緒帝の下に駆けつける事を誓った。

しかし、実はこのとき袁世凱は既に保守派に繋がっており、光緒帝のクーデター計画は全て西太后の耳に筒抜けとなった。
激怒した西太后は逆にクーデターを実行。
光緒帝は宮廷の離宮に幽閉され、康有為と梁啓超は日本へと亡命、他の改革派は軒並み処刑され、改革は失敗に終わった。


◆清朝随一の実力者へ

「戊戌の政変」で、袁世凱は世間の予想を裏切り、保守派についた。わけても、袁世凱の支持を受けたと思った西太后の喜びはひとしおであった。

しかし、それは西太后の早合点である。

1900年、「義和団の反乱」が起きる。
尊皇攘夷を掲げて欧米列強を駆逐しようとする義和団に対して、西太后は「義和団と結んで欧米列強を打ち払え!」と命令を下した。
しかし袁世凱は、西太后の命令を無視して義和団を鎮圧
さらに北京近郊の清軍*6が列強に壊滅されるのを放置し、ライバルを減らして「中国最強の軍閥」としての立場をより高めていった。
1901年には死期を悟った李鴻章から北洋通商大臣*7・直隷総督*8といった地位も継承。
名実ともに清朝随一の実力者となった袁世凱は、実質の総理として清朝の国政をも左右するほどとなった。


◆失脚

1908年に光緒帝と西太后が相次いで没すると、光緒帝の甥の溥儀(ふぎ)宣統帝として即位するが、彼はまだ二歳の幼児であったため、宣統帝の父親である醇親王(じゅんしんのう)載灃(さいほう)*9が摂政として実権を握った。
彼は政権を握るや否や、すぐさま袁世凱から政治権力を取り上げ、袁世凱を引退に追い込んだ。
醇親王は十年前の「戊戌の政変」で、袁世凱の密告によって実兄である光緒帝が監禁された経緯をよく覚えており、袁世凱に対して強い不信感を持っていたのである。

しかし、このころの袁世凱は、もはや清朝の手に負える相手ではなくなっていた。
確かに表向き、彼は「全権を解任」されて故郷の河南省にて「隠居」したものの、北洋軍閥の実権は掌握しており、政権中枢まで届く権力ネットワークもがっちり握っていた。
彼が失脚直後に繰り出された、醇親王の暗殺計画さえ、事前に察知して対処したほどに。

そして、西太后もすでに亡く、屋台骨などなくなっていた清朝にとって、袁世凱はもはや「なくてもいい」存在ではなかった。


◆辛亥革命

1911年、孫文を首班とする革命派が、中国南部の都市「武昌」で清王朝からの独立と中華民国の樹立を宣言。
この革命、当初は大した規模でもなかったのだが、衰退しきった清朝にはこれすら手に負えなかった。

慌てた清王朝は北洋軍に鎮圧を命じるも、袁世凱の子飼いの部下たちは朝廷の命令に従わず、代わりに袁世凱の司令官への復帰を願い出た。
朝廷内の多くの重臣たちからも「袁世凱でなければ事態の収拾は難しい」という意見が出たため、醇親王も渋々ながら袁世凱の復帰に同意した。

こうして復権を果たした袁世凱は、清王朝より内閣総理大臣に任命され、反乱鎮圧のために革命軍の本拠地・武昌に向かって進軍した。
しかし「一度追放した相手を結局起用した」この顛末は、清朝にはもう袁世凱を支配できないことのなによりの証明であった。


北洋軍を率いて武昌に攻め入った袁世凱は、まず革命軍と一戦を交え、革命軍に大きな打撃を与えた。
「革命軍」と言っても所詮はアマチュアの集まりである。戦争のプロフェッショナルである北洋軍の敵ではなく、革命政府はたちまちのうちに窮地へと追い込まれた。

しかし袁世凱は、革命軍に対する仕上げの総攻撃を一切仕掛けなかった。
それどころか、窮地の革命政府に対して「共に手を取り合って清帝国と戦おう」と持ち掛けた。
袁世凱が革命政府に突き付けた条件はただ一つ、「清王朝の打倒に成功した暁には、自分を新しく誕生する共和制政府の大総統とせよ」というものだった。

壊滅寸前の革命政府は、結局この袁世凱の要求を呑むしかなかった。
それでなくても、大した戦力などない革命軍は、袁世凱でなくとも倒せる相手である。
逆に、中国最強の勢力である北洋軍閥を「仲間」にすることができれば、「張子の虎」の革命政府は「本物の虎」になれるかもしれない。

さらに言うと、辛亥革命にはまともな指導者がいなかった。
そもそも孫文は辛亥革命に関わっていない。最初の「武昌蜂起」が起きた時、彼は遠くアメリカにいて、新聞で革命騒ぎを知った次第である。
しかもその革命勢力にも「我こそ」と名乗りを上げる指導者がおらず、慌てて帰国した孫文に「知名度のあるあなたなら」とあっさり譲り渡した始末。

選択の余地などどこにもない。むしろ、袁世凱がリーダーになってくれるというのは、革命軍にとっては僥倖でさえある

満場一致で革命政府のリーダーとなった袁世凱は、革命軍を率いて首都である北京に進軍すると、幼い皇帝に対して退位を迫った。
すでに清朝には抵抗する術などなく、「ラスト・エンペラー」宣統帝がついに退位*10して、三百年近く続いた清王朝は滅亡
袁世凱は、まず「臨時」がつくものの大総統となり中華民国の元首、中国の代表となった。
その三日後、袁世凱は中華民国の初代大総統に就任したのだった。


◆中華民国大総統

中国第一の軍閥にとどまらず、中国全土の元首となった袁世凱は、いよいよ中国全土の運営・統治に着手。
日本含む列強から大規模に資金を借り入れ、その資金を元手にインフラを整備。
反対する勢力が各地で反乱を起こしたが、北洋軍の力は伊達ではなく、これらの反乱をあっさりと鎮圧

かつて「四億の人民すべてが匪賊となった!」*11といわれたほどに乱れていた中国が、袁世凱の鋭敏な手腕とどっしりとした権力によって、ようやく秩序を取り戻したのである。

西欧的な議院内閣制を訴えた宋教仁暗殺し、反乱に関与した孫文らを追放、国民党を解散させるなどしているが、袁世凱の勢力はびくともしなかった。

◆第一次世界大戦

1914年、第一次世界大戦が勃発する。
「世界大戦」とはいえ、「欧州大戦」とも呼ばれたように基本はイギリスなどの連合軍とドイツなどの同盟軍に二分されたヨーロッパの戦争であり、袁世凱はこれに関わろうとしなかった。

しかし日本は違った。当時イギリスと同盟を結んでいた日本は、「連合軍側の一員として、盟邦イギリスを苦しめるドイツを攻撃してイギリスを支援する」という名目のもと、ドイツが植民地としていた膠洲湾を攻撃し、これを占拠
袁世凱はこれを「本来は中国の領土」として中国に渡すよう交渉したが、できなかったばかりかかえって「二十一ヶ条要求」を飲まされてしまう。
膠洲湾についてはドイツから日本への移動であり、戦争に関わらなかった袁世凱には関与する余地がそもそもなかったのだが、「西欧に奪われた土地の奪還」こそが問われていた当時、植民地の奪還に失敗し、あまつさえ「二十一ヶ条要求」まで受けたのは、やはり外交的な敗北といえる。
これはさしもの袁世凱の威光にも陰りをもたらすものであった。

また、袁世凱は欧米列強から莫大な資金援助を受けており、これが北洋軍閥と並ぶもうひとつの戦力であった。
しかし第一次大戦で欧米列強の目はヨーロッパ戦線に立ち返ってしまい、袁世凱への支援が薄くなっていた。これもまた、袁世凱へのダメージとなる。

◆皇帝即位

この状況下で、袁世凱は水面下で皇帝即位運動を展開させ、表向きは「人民の嘆願に答える」という形をとりつつ、1916年の正月より正式に皇帝として即位した。
国号はズバリ「中華帝国」、元号は「洪憲」である。
袁世凱の皇帝即位は、もちろん皇帝になりたいと願う中国人らしい野心があってこそだが、同時に「混迷いちじるしい中華を束ねるだけの、強大な力を持った立憲君主制」を指向したものでもあった。
皇帝という称号は、そこに権威と権力が備われば、それだけの威信がある。
そして袁世凱は長年にわたって絶大な権力を保有しており、その実績がすなわち彼の権威でもあった。

当時の中国に「皇帝」の称号が似つかわしくなかったというと、そうでもない。
なにせ、後年に張勲なる人物が、あの愛新覚羅溥儀を担ぎ上げて「復辟」を実行しているのだ。
この張勲復辟は無惨な失敗に終わったが、選択肢として常識の発想で十分あり得たということである。
袁世凱の「末裔」も、さすがに「皇帝」の号こそ用いなかったものの、毛沢東は明清の皇帝よろしく紫禁城の天安門で手を振り、蒋介石は台湾の政権を息子に世襲させた。孫文も、革命の時期に「明の陵墓に反清復明を祈念した」という。
皇帝という名前、あるいは皇帝という存在は、宣統帝が退位したからといってそうそう消え去るものではない。

いやそれより、「大総統」という名前自体が「中国史」においてはなじみが薄すぎる。
「皇帝」はもう二千年以上も至高の称号であり続けた。なにより、中国の指導者は今も昔も「皇帝的」なのだ。
袁世凱は「中国第一の実力者」である。それが「中国第一の称号」を備えて、名実ともに中国代表となるのに、なんの不都合があるか、と彼が考えても不思議はない。


◆思わぬ転落

ところが、事態は袁世凱の予想だにしない顛末を迎える。
袁世凱の皇帝即位に対して、中国内外を問わず猛烈な大ブーイングが起きたのだ

まず、いわゆる「進歩的」な学生たちが、袁世凱の帝号を「古くさい」ものとして激しく糾弾。
これだけならばしょせんは「権力を伴わない学生運動」であり、袁世凱にとっては取るに足らない騒ぎだったのだが、この騒ぎに各地の中小軍閥も便乗し始める。
それでも、北洋軍閥の軍事力ならば十分鎮圧できたはずであった。

だが、「皇帝反対」の怒号は頼みの北洋軍閥の内部にも発生した
袁世凱が中華民国の大総統であれば、袁世凱の死後、自分が大総統としてトップに立てる可能性もある。
しかし袁世凱が皇帝になってしまうと、袁世凱の死後に皇帝となるのは袁世凱の血を引く者であり、自分たちは生涯、袁王朝の家臣として生きるしかなくなる。
故に実力者ほど袁世凱の即位に難色を示した。

これこそが袁世凱にとっての致命傷となる。
袁世凱の権力の源泉にして中枢、彼の生命そのものであった北洋軍閥が、彼の威光に従わなかったのだ。

そして第二の致命傷となったのが、袁世凱の皇帝即位に欧米列強までもが反対したことである。
袁世凱にとっては、北洋軍閥の軍事力と、欧米列強からの財政支援があっての「袁世凱皇帝」であった。
しかしそのいずれをも失った袁世凱には、もはや歴史を動かす力はなかった。


◆天運尽きる


は雲に乗り、騰蛇*12は霧のなかで戯れる。しかし雲が去り霧が晴れれば、龍はミミズや虫ケラと同じだ
――と、春秋戦国時代の慎到はいった。
袁世凱は権力を握っている限り、元帥であり大総統であり皇帝である。
しかしその権力を失ってしまえば、ひとりの人間でしかない。

王侯相将、いずくんぞ種あらんや*13
――と秦末漢初の陳勝はいった。
この言葉を借りれば、袁世凱もチャンスさえあれば皇帝になることはできた。
しかしこの言葉は、帝王や将軍といえどもきっかけ次第で落ちてしまうことも意味する。

自らの不利を悟った袁世凱は、悲願の末に手に入れた皇帝号を返上した。即位からわずか八十三日後の、三月二十二日のことである。
2137年前の始皇帝即位に始まる「中華の皇帝」は、ここにその長い歴史の幕を閉じたのである。


これまでも袁世凱は、失脚や暗殺の危機に見舞われたことは何度もある。しかしその都度しぶとく返り咲いてきた。
念願の皇帝号にもあまりこだわらず、三カ月と待たずに返していたのも、あるいは他日の再起を期していたのかもしれない。
だが、もはや袁世凱の天運は尽きていた。退位からほどなくして病に倒れたのである


二カ月ほど病床で憂悶した末に、1916年の6月6日、一世の梟雄袁世凱は、56歳で波乱の生涯を終えた。


◆死後

袁世凱が死んだからとて、中華民国も北洋軍閥も滅びるわけではない。
まず、副大総統の黎元洪がくりあがって大総統に就任。
北洋軍閥の実権は、段祺瑞馮国璋が握った。段祺瑞の一派は「安徽派」、馮国璋の一派は「直隷派」と呼ばれる。

しかしこれは、国家元首たる黎元洪は権力を持たず、国家の実権はふたつに分裂し、しかも段祺瑞も馮国璋も一抜けるような権威を持たないことを意味する。
権力と権威がバラバラになってしまったのだ。袁世凱とともに、彼が持っていた辣腕とカリスマも世を去ってしまったのだ。
かくして、落ち着きを取り戻しつつあった中華大陸はふたたび混迷に陥り、黎元洪は一年で失脚した。
北洋軍閥も分裂を繰り返し、安直戦争、奉直戦争と内紛に明け暮れて崩壊。


だが、時代はやはり変遷する。
袁世凱の死後、かつて追放されていた孫文が帰国。政治手腕は相変わらずイマイチだったが、「大砲」といわれたほどのカリスマにますます磨きを掛けて帰ってきた。
帰国からすぐさま動き回った孫文は、袁世凱没後の翌年・1917年には広東に自らの軍閥「中華民国・広東軍政府」を設立。
その広東政府の中枢・中国革命党は、やがて「中国国民党」に改称し、いつしか中華民国の、ひいては中華大陸のリーダー、中国史の主人公として突っ走るようになる。
さらに、上海マフィア――「青幇」の大ボス・杜月笙らの支援を受ける蒋介石も、孫文に抜擢されて中国国民党から頭角を現していく。

また、第一次世界大戦の結果爆誕したソビエト連邦から社会主義運動が中国に流入し、中国共産党が出現。これはやがて孫文と連合し、そこから天才的な軍事指導者・毛沢東が出現する。

他方で、中国第一の辣腕であった袁世凱の死は、折しも第一次世界大戦のまっただ中であり、欧米列強の目がヨーロッパに釘付けになっていた時期と重なる。
これは中国大陸進出を図っていた日本にとっては僥倖であり、日本は段祺瑞に巨額の借款を行なうなど、大陸進出を進めていくことになる。
いずれにせよ、袁世凱を通じて中国近代史が大きく進んだことに、変わりはない。


【余談】

  • 日露戦争
あまり話題にならないが、日露戦争では表向きは中立を表明しつつも、諜報工作などの点で日本を支援している。
袁世凱と日本は、日清戦争期には朝鮮を、第一次世界大戦では膠州湾を巡って対立したが、あくまで局面だけのことであったようである。

  • 袁世凱と孫文
中国と台湾の双方で現代中国の父とされ、高い評価を得ている孫文と比して袁世凱の評価は低い。
しかし、とにかく、袁世凱が一時的なものであったとは言え、中国の国家元首として、中国大陸を安定させたのは紛れもない事実である。
袁世凱が居なければ辛亥革命の成功は無く、中国大陸は形骸化した清王朝の支配の元、泥沼の内戦と植民地化の一途を辿っていたであろうことは想像に難くない。
だいたい孫文は革命軍のリーダーとなる素質が欠けている。ハワイ育ちの彼は長年諸外国を渡り歩いて「中国の革命家」としては知られていたが、中国本土では地縁や人脈などの権力基盤を持っていなかったのだ。

また権力を握った後の「反民主的」な動きは後年批判されたが、中国の歴史を俯瞰すればこうした「民主的」な運動が根付いたかは極めて疑わしく、かえって混乱を招くだけだった可能性が高い。

なにせ、孫文ですらが「民主主義」についてよくわかっていなかったからである。
孫文の有名な理論に「五権主義」というものがある。欧米諸国は立法・行政・司法の「三権」が分立しているが、わが政権は立法・行政・司法に加えて「考試*14」「監察*15」を独立させた「五権」分立主義だ、といった。しかし、数を増やせばいいというものではないし、三権でも制御が難しいのに、制御がますます難しくなるのは目に見えている。

それにほかの国の歴史を見ても、「民主主義を採用した国がすべて民主主義の思想を実行した」ということはない。
事実、袁世凱の時代から百年以上経った現在でも、中国は未だに中国共産党による一党独裁体制が続いており、選挙等による民主的な手段で政権が交代した事は皆無である。
あのソマリアも一度は民主制を敷き選挙もやったが、結果は部族主義と内戦を引き起こすだけに終わり、それから半世紀を経た現在も無政府状態である。
袁世凱だけに「民主革命を裏切った」と批判するのは、過剰なものいいであろう。彼がいなくても中国に民主主義は根付かなかったはずだ。

また、反対派を弾圧するというのはなにも袁世凱だけの行ないではない。袁世凱以前も袁世凱以後も、中国の権力者は反対派と議論したりはしない。反対勢力は力で倒す。それが中国史なのだ。
袁世凱だけに「西欧人であれ」と求めるのは酷だろう。

  • ご先祖様?
袁世凱の生まれ故郷である項城県のすぐ西にあるのが河南省は周口市の商水県で、ここは三国時代の群雄、袁紹袁術の故郷である。
同じ「袁」姓であることから何らかの繋がりがあるのかもしれない。本当に汝南袁家の末裔なのかも。

  • 萌王EX
「歴史上の人物を萌えキャラにする」という中国で展開されているスマホゲーム「萌王EX」では、始皇帝や光武帝や永楽帝などとともに参戦。
名義は「袁世凱」のまま。二つ名は「最後の天子」。
………………その袁世凱だが、スク水ロリである。
スク水ロリである。

水色の髪に赤い大きな瞳にあざといほどに明るいロリフェイス。
大総統時代の勲章や装飾が施されたスクール水着。
当たり前のようにつるぺったん。
ボロボロになった中国伝統の五色の旗と、中華帝国が五族共和の理念で掲げた「田」型の旗をふたつ持つ。

スク水ロリである。



気でも違ったのか中国!!?



といいたいところだが、このゲームにはもっとヤバい人選が何人かいるので、まだ常識の範疇である
恐るべし中国四千年史!




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最終更新:2024年04月29日 01:43

*1 西暦1859年

*2 かつ育ての親

*3 日本はこの二度の政変で朝鮮に介入し、とくに後者は改革派に軍事支援までしたが、袁世凱の猛攻で敗退。その後の講和条約は李鴻章と伊藤博文のあいだで決着したが、全体としては清朝優位の結果になる。また、時期を同じくしてロシアやイギリスも、それぞれ朝鮮に介入する

*4 中国には「良い鉄は釘にはしない」という諺があるが、これは「優れた人間は兵士にならない」という意味。中国の軍隊はろくでなしの雪崩れ込む職業なのだ。前漢~後漢過渡期の「赤眉の乱」では「赤眉に会うとも太師に会うまじ(賊軍よりも官軍のほうがよりひどい)」という言葉が流行った。

*5 アヘンなどという麻薬を外国に流し込んで利益を吸い上げ、あまつさえそのアヘンに対する清朝の規制を口実として侵略戦争を仕掛ける、という外道極まりない策略には、イギリス内部でも反対論が強かった。のちに自由党党首となるウィリアム・グラッドストンは「正義は(異教徒・半文明の野蛮人なる)中国にある」と断言。またアヘン戦争の予算を出す会議では、賛成派と反対派が拮抗し、賛成派はわずか9票差での僅差だった。

*6 西太后の命令で義和団と呼応し、欧米列強に宣戦布告した。

*7 外務大臣

*8 東京都知事・兼・首都防衛長官

*9 光緒帝の弟

*10 その後も彼は礼遇された。やがて彼は日本に招かれ「満州国の皇帝」となり「康徳帝」と称される。しかし「康徳帝」としての溥儀が「中国の皇帝」とみなされることはない。

*11 談:岑春煊。

*12 中国の蛇神。飛行能力を持つが翼はない。

*13 帝王や貴族、宰相や将軍になるのに、生まれつきの条件はない

*14 要するに「科挙」の現代的な言い方。

*15 いわゆる「御史大夫」、役人への監察官のこと。