水野勝成(戦国武将)

登録日:2021/05/24(月) 15:40:30
更新日:2024/02/06 Tue 02:58:55
所要時間:約 8 分で読めます




水野(みずの) 勝成(かつなり)は日本の戦国武将にして狂犬のような前半生から穏やかな名君となった後半生の落差に定評のある人物。(1564-1651)


●狂犬の誕生

1564年、水野忠重の子として誕生。ちなみに彼の父と徳川家康の母は兄弟のため、家康とは従兄弟の関係にあたる。
初陣は1579年、16歳のときである。叔父の敵である岡部元信も出陣していたため士気も相当高かったようだ。
初陣にして15をの首級を取り、信長からも「なんかすげえ奴が来た」と大層驚かれたようである。
1582年の天正壬午の乱*1では従兄弟の家康に属して戦う。この際家康の幼馴染で関ケ原で壮絶な戦死を遂げることとなる鳥居元忠と共に出陣し、北条の大軍を森林にて少数で迎え撃つが、「俺は俺の好きなように戦わせてもらう」と言い放ち、勝手に先陣を切り、多くの首を刈り、武名を上げた。なんだこの狂犬。
結果的にはこの戦いの勝利によって真田昌幸を筆頭に周囲の小大名や土豪らが徳川に傾き、この戦は徳川有利な結果で終わった。
1584年の小牧・長久手の戦いでは、眼痛を理由に兜をかぶらず出陣。例えるならノーヘルでバイクに乗ったというところだろうか。
これを見かねた父から「もし頭を狙われたらどうするんだ、その兜は肥溜めか!」と叱責されるも、勝成は「そんときはそんときだ!」と答え、やはり勝手に敵陣に突撃したあげく多くの首級を取っては武功を稼ぐ。
なお、悪名高い森長可を討ち取ったのは彼の軍である。
その後、父の家臣と喧嘩になったためそれを殺害し、激怒した父から勘当されることとなる。
しかし、この浪人生活が後年彼の別の才能を開花させることとなる。それはまだここから約40年も後の話である。


●浪人時代

父と喧嘩し、奉公構*2まで出されたため食う宛にも困っていた勝成は仕方なく上洛*3
やはり町中でも大喧嘩や殺害などは日常茶飯事で、問題児だったようだ。
逃げるように「六左衛門」と名前を変え、羽柴軍に仕えてみたり、やはりそこでも問題を起こしては逃げ、各地を流浪する身に。
しかし、実力の高さを買われ、佐々成政や小西行長、黒田官兵衛といった面々に仕え、いわば傭兵のような扱いだった。
なお、他家に仕えて戦っているという情報を聞いた家康や父に追手を差し出されているのだが、悉く勝成に返り討ちにされている。
そうして戦を求め西へ西へと向かっていき、最終的には九州の戦にまで参加していた。
なお、この間に備後国に居候しており、大名である三村家の姫との間に嫡男である勝俊をもうけている。後に備後の藩主となるのは運命だったのだろうか。


●父との和解と鬼日向

秀吉が死に、戦の気配を敏感に感じ取った勝成は帰国。15年経てばわだかまりも解消したのか、すんなり父と和解した。
しかし、和解した直後に父が惨殺されてしまう。そのため水野家の家督を相続することとなった。
父の無念を晴らすべく、勝成は大垣城を攻撃し、見事これを落とすことに成功する。
ちなみにこの大垣城は独断の攻撃であり、実は落とせていなかったらしいのだが、敵が誰も守っていなかったため結果的に落城に成功したのだとか。
家康が関ヶ原に勝ったので、勝成も官位を賜ることとなるのだが、貰った官位がまさかの日向守。あの光秀とであり、人々から忌避されていた呪いの官位である。ちなみに勝成のあだ名である「鬼日向」はここから来ている。
続く戦国時代最後の戦いである大坂の陣では、大将を任され、家康からは「いいか、先陣を切るなよ?絶対に切るなよ?」と再三釘を刺されるも…まあお察しください。勝成からはただの前フリとしか思われてなかったらしい
なお、この際あの宮本武蔵と出会い、共に戦っている。
その後大和郡山に転封となる。これでようやく家康の注意が本気の戒めと言うことに気づいたようだ。
あれだけ武功を立てたのにと非常に不満気だったが、秀忠から「親父が死んだらもっといいところに行かせてあげるから」とこれを了承する。
そして1619年、福島正則の改易に併せ、勝成は備後福山に転封する。
ここでようやく鬼日向のもう一つの才能が発揮されることとなる。


●名君と慕われた福山藩主

浪人時代に培った経験を活かし、畳の生産や水道の整備に力を入れ、福山藩を現代にまで続く都市に発展させていった。
また、浪人時代にお世話になった三村家を家老にしたり、改易された宇喜多家や福島家の人間を家臣に迎えたり家臣の福利厚生を充実させたり、非常に先進的な名君だったと言われる。
彼をはじめとした水野家が藩主の間は福山藩は反乱や一揆が一度も起きなかったため、領民からも非常に慕われていた。
出奔せざるを得なくなった家臣には推薦状を持たせ、他家に仕えさせるよう奔走したり理想の名君として皆から愛されていたようだ。

1637年、とある一報が勝成の元に届く。そう、島原の乱である。
久々に大好きな戦が出来ると喜んだ勝成は即座に出陣。このとき御年75歳である。元気だな
子と孫も引き連れ友人の宮本武蔵も誘い、勇み足で島原へ。
戦国の世を知る男は殆どが既に世を去っている中、貴重な戦国時代を知る男である彼と立花宗茂で一番槍を争ったのだとか…無理すんなジジイども
既に名君と慕われるようになって久しいこの二人だが、勝成は親子三代で首を獲りに行くわ、宗茂は宗茂で「もっと戦いたいから長く続いてほしい」と発言するなど、彼らは生粋の武士だった。

1651年、88歳と言う現在でも高齢と言われる年齢で大往生を遂げる。
戦国の世を好き勝手に渡り歩いた男だが、その最期は畳の上で安らかに生涯を終えたのだった・・・

勝成の死後は息子である勝俊が後を継ぐことになる。この息子も父の血を色濃く受け継ぐ男で名君として慕われた。血気盛んで我先に勝手に一番槍を争いたがるところまで似てしまった
また、勝俊の母、勝成にとっての妻は備後の大名であった三村家の姫であり母方の故郷に凱旋したとも言えるだろう。

なお、残念ながら福山藩の水野家は玄孫の代で無嗣断絶*4によって改易されることとなるが、後に曾孫が家名のみを継いで大名になり、下総結城藩主として明治まで続いているしかし戊辰戦争時旧幕府か新政府かで内乱になる羽目に。血統自体は既に養子縁組等で勝成の末裔ではなかったが
また、天保の改革で知られる水野忠邦は彼の一族(勝成の叔父の末裔)である。


●逸話

  • 旅館で入浴中、刀を盗まれる。それに気付いた勝成は全裸で追跡。無事盗人を殺害し取り返す。殺害するというところが如何にも勝成らしい。
  • 旅館で宿泊中、体調不良が原因で夜泣きしている子供に秘薬と称した自身の垢を子供に飲ませた。すると子供の夜泣きは収まり、体調も回復した。恐らくはプラシーボ効果なのだろうが、長生きしたことを鑑みるともしかしたら彼の細胞は病気を退ける何かを持っていたのだろうか
  • 父との和解に当たっては禿頭を模した兜を作らせていたが、父が殺害された際に神社へ寄贈された。兜の件の意趣返しとして父の前でこれを被って戦う予定だったのだろうか。
  • いわゆるDQN四天王(代表例は伊達政宗)に勝るとも劣らぬ逸話の持ち主。しかし出奔中の事績を語るソースが自伝しかない後半生でDQNとは程遠すぎる名君ぶりを発揮したため四天王入りを逃した。善政を敷いたことがマイナス査定になっている辺りが…というか四天王は全員為政者として超優秀なので単に知名度の問題だろう
  • 家康の母(勝成の叔母)曰く、水野家は彼以上のDQNが多かったらしい。彼女の言葉を額面通りに受け止めるなら彼はまだまともな部類らしい。
  • アンサイクロペディアが嘘を書けなかった男としても名高い。事実は小説より奇なりである。
  • 大坂の陣で一番槍を挙げたのは上述のとおりだが、政宗と喧嘩になり、伊達軍の兵が水野軍の兵を殺害→逆に水野軍が伊達軍の兵を殺害し、馬も奪うという事態に発展した。
  • 死の1年前、87歳の時には鉄砲の射撃で見事に的に命中させており、文字通り死ぬまで戦えることをアピールした。
  • 彼を表す言葉として倫魁不羈(りんかいふき)というものがある。これは余りに傑物過ぎて誰にも縛れないと言う意味である。アニヲタ的にはミスターアンチェインと呼ばれている彼が一番近いか。
  • 政治の先進性を顕す逸話として、一番遠くて伊勢神宮までという条件付きであるが「家臣に旅行することを許可している」というものがある。封建君主ばかりの江戸時代の旅行とは別の国を渡るも同然、旅行先でトラブルが起きれば何が返ってくるかもわからないので禁止するのは当然である。だがそれをも受け入れ旅先の話を楽しみにしていたというのが器の大きさを示している。
  • 余りの善政ぶりに隣の岡山藩主である池田光政から「良将の中の良将」と称えられ、彼の政治を参考にした。なお、池田光政も屈指の名君である。
  • 地元の愛知県刈谷市には彼をモチーフにしたゆるキャラの「かつなりくん」がいる。エピソードが全くゆるくないのにゆるキャラ


●創作

不遇。
あの徳川家康と血縁・あの宮本武蔵と親友・濃いエピソードの多さとネタにはこと欠かさないはずだが、ほとんどの創作で登場しない。

信長の野望では少し武勇が高いだけの三流武将であったし、なんなら出ていない作品もそれなりにあった…
大坂の陣をテーマにした「創造・戦国立志伝」でようやく能力の見直しが行われ、一流の武官となり、後半生の名君ぶりも評価され政治のステータスも上昇。しかしまだ物足りない
続く「大志」では暴れん坊ぶりが評価され武勇が90の大台を突破する。
作品によっては暴れん坊ぶりよりも晩年の名君ぶりを評価され、政治のステータスのほうが高いこともある。

戦国大戦でもアンコモンとして登場。
能力値もコスト1.5で武力5統率4と若干平均を下回るが、代わりに最大兵力(HP)が多い「軍備」特技持ち。
計略も武力ダメージを減らすという防御的な一枚に仕上がっている。
イラストは戸橋ことみ氏でイケメンよりである。が良くも悪くも無難な仕上がりの武将であり地味
前述の通り年齢によって全く違う面を持ちながらもこのゲームに登場したのはノンレア1枚だけという、やっぱり不遇である。
しかし群雄伝では出番が多く特に大坂の陣シナリオでは活躍している。「道明寺の戦い」と「誉田の戦い」はほとんど出ずっぱりである。
また上記の政宗との喧嘩も弱冠ながら再現されている。とはいえ同士討ちになったりはせず、戦闘が終了した頃には互いの年齢の事もありなんやかんやで和解した。
なお妹の清浄院(加藤清正の継室)と養女の八十姫(加藤清正の娘)も登場しているが、全員UCである。

TCGでも登場したがそちらは高レアリティで鬼神のようなイラストで非常にかっこよく仕上がっている。





追記修正は全ての戦で勝手に一番槍を挙げながらお願いします。


この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 水野勝成
  • 戦国武将
  • 武将項目
  • 武将
  • 大名
  • 三河国
  • 刈谷藩
  • 大和国
  • 郡山藩
  • 備後国
  • 福山藩
  • 愛知県
  • 奈良県
  • 広島県
  • 家康の従兄弟
  • 日本史

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年02月06日 02:58

*1 本能寺の変によるゴタゴタとそれによる北条氏の裏切りによって空白地帯と化した信濃・甲斐・上野の三国を徳川・上杉・北条が取り合った戦い

*2 追放した上で他の家にも雇用させないという処分。現在で言う絶縁

*3 京都へ行くこと

*4 跡継ぎがいなかったため断絶