WJプロレス

登録日:2023/01/06 Fri 00:45:00
更新日:2023/10/14 Sat 23:38:03
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WJプロレスは、かつて存在した日本のプロレス団体。正式名称はワールド・ジャパン・プロレス。そこ、文法オカしいとか言わない。
キャッチフレーズは「目ん玉飛び出るようなストロングスタイル」。
立ち技・総合問わず格闘技全盛、プロレス冬の時代であった2000年代初頭に颯爽と現れ、わずか1年半ほどの活動期間にもかかわらず、数々の話題を提供した奇跡のプロレス団体である。



■設立の経緯

2002年2月、新日本プロレスで現場監督を務めていた長州力は、武藤敬司らが全日本プロレスに引き抜かれたことの責任を取らされる形で監督の任から降ろされてしまう。
これと前後して新日の企画宣伝部長であった永島勝司も全日本プロレスから引き抜きの話を受けたことで、当時の新日オーナーであるアントニオ猪木からの不興を買い退社に追い込まれた。
永島はプロレスの企画会社を立ち上げたが、2002年5月、新日本の体制を批判して退社した長州が合流することになった。

永島と長州は、古くからの長州のタニマチであった企業家福田氏の協力を得て、2002年11月にファイティング・オブ・ワールド・ジャパン(WJプロレス)を設立。
福田氏が代表取締役社長、永島が専務取締役、長州が取締役に就任することになった。

福田氏からは1億円(後にさらに1億円追加して2億円)の融資を受け、旗揚げ前から都内一等地への道場の開設、巡業用トラック・バスや社長専用車の購入、
著名人を招いての忘年会などが話題となった。

また所属選手についても前年10月に新日本退団を表明していた佐々木健介鈴木健想、プロレスリング・ノアの大森隆男を引き抜いたほか、かつて長州と行動を共にした谷津嘉章越中詩郎らフリーのベテラン勢が入団。
また、当時中学生でありながら空手の全国大会で優勝した{中嶋勝彦}が入団したことでも話題となった。
天龍源一郎、大仁田厚、馳浩、安生洋二などの参戦も決定した。
移籍してきた選手には、プロレス団体としては破格の500万円の支度金が支払われたという。

長州はWJを旗揚げするにあたり、マスコミを通じて「プロレス界のど真ん中を行く」と発言していた。
この「ど真ん中」はWJを象徴する言葉として使われることになる。


■旗揚げ

2003年3月1日、横浜アリーナで旗揚げ戦を開催した。
同日、首都圏ではノアの日本武道館大会や、K-1 WORLD MAXの有明コロシアム大会が開催されており、他団体のビッグマッチとバッティングした強気な日程、大会場での開催で話題を呼んだ。
この日は、その他にも女子プロレスなど、合計11のプロレス・格闘技団体が首都圏で興行を開催していた。
特にノアでは三沢光晴VS小橋建太のGHCタイトルマッチが行われ、あまりの激闘ぶりにこの日放送席で解説を務めた高山善廣が「今日よその団体を見に行ったやつはアホだな!」とコメントするほどであった。*1

当日の首都圏は大雨であり、当日券もあまり伸びなかったが、旗揚げ戦ということもあり、観客は5~6割程度の入り。公式発表では13,200人、実数は8,000~9,000人程だったと言われている。
オープニングマッチの石井VS宇和野のように評価の高い試合もあったものの、当日に行われた東スポの出口調査では観客の68%が不満を表明するなど、WJの行く末を案じさせる大会であった。

この旗揚げ興行の模様は、TBSテレビの深夜に旗揚げ前のドキュメントも加えて録画中継され、同局にとってはUWFインターナショナル以来のプロレス放送となった。
なお、TBSは放送したプロレス団体が崩壊するというジンクスを抱えており、WJもそのジンクスから逃れることはできなかった。*2

旗揚げシリーズについては、予定されていた長州VS天龍の6連戦が天龍の負傷欠場により3戦で取りやめになってしまう。
実際は天龍の怪我ではなく、長州の体調不良によるものであり、団体のメインである長州の顔を潰さないために、天龍が泥を被る形になったことが後年明らかになっている。*3
結局長州も程なくして負傷欠場となってしまう。
当時参議院議員であった大仁田もイラク戦争の発生によって議員会館での待機を余儀なくされ、欠場するなど計画通りにいかず、前途多難な幕開けであった。


■相次ぐトラブル、選手の退団

7月20日に団体のフラッグシップタイトルとして「WMGヘビー級王座」が制定された。
両国国技館でWJ最強決定トーナメントが行われ、優勝者である佐々木健介が初代王者に認定されたが、当日までにチャンピオンベルトの完成が間に合わず、
ベルト無しの王座披露と前代未聞の出来事となってしまった(後述)。

7月28日、プロレス転向を希望してWJでトレーニングしていた総合格闘家のジャイアント落合*4がWJ道場での練習中に意識を失い、10日後に急性硬膜下血腫により死去。
事件性はなく、団体関係者が責任を問われることはなかったが、旗揚げ時からスポンサーを務めていた大手電機店がスポンサーから撤退してしまう。
団体の経営はより一層厳しいものとなってしまった。

WJは、旗揚げ当初から観客動員に苦戦して収益を上げることができず、2億円の資本金も無駄な出費や赤字の補填ですぐに使い切ってしまったため、資金不足に陥ってしまう。
選手に対してギャラの未払いが発生し、旗揚げから半年に満たない8月に鈴木健想、9月に谷津嘉章が相次いで退団。
WJで営業を担当していた谷津は、東スポで給料未払い等を暴露してWJを痛烈に批判するなど、WJの苦しい経営状況が表面化した。
給与未払い問題については越中詩郎らによるユニット「レイバーユニオン」が結成されるギミックとして利用され、長州や天龍との抗争が展開されることになった。

WJでは発表された興行が中止となる事態が多発していた。「諸般の事情により中止」とされることが多かったことから、この言葉もWJを象徴するネタとして扱われている。
最も話題になった興行中止は、2002年10月22日の「後楽園ホールダブルブッキング事件」である。
WJはこの日に後楽園ホール大会を開催することを発表したが、直後にネット上で、同日同時刻に後楽園ホールでボクシング興行が予定されていることが指摘される。
フロントが後楽園ホールに確認したところ結果的にスケジュールが押さえられておらず、急遽お詫びと興行中止を発表することになってしまった。
代替興行として首都圏でビッグマッチを行うと発表したが、結局行われることはなかった。


■X-1開催

興行の不振の打開策として、2003年9月6日に横浜文化体育館で総合格闘技イベント「X-1」を開催した。
PRIDEなどの総合格闘技が人気を博していたことが背景だったが、純プロレスを標榜していたWJとは真逆の方向性に、長州は「逆方向のど真ん中」と評した。

中嶋勝彦が異例の若さでプロ格闘技デビューすることもあり、開催前は一定の注目を集めたが、
  • 招聘した選手のレベルが著しく低い
  • 総合ルールに不慣れなレフェリーが昭和プロレス並みに不可解なレフェリングを連発する
  • 設営していた金網が外れてしまい、応急措置としてスタッフや若手選手が手で金網を押さえて試合を続行する
という失態が相次ぎ、観客の失笑を買い、酷評されてしまう。その観客も入りは4~5割程度であり、招待客と思われる子供や高齢者が多数含まれていた。

K-1選手を多数招待していたが、来たのは武蔵ただ一人であった。
その武蔵も開催後のコメントで「金網が壊れたのが一番面白かった」と発言するなど、投げやりであった。

大会プロデューサーとして名を連ねていた長州だったが、X-1発表会見で「今ルールを知った」と発言するなど、名前を貸しただけなのは明らかであった。
興行当日も一言もコメントしないまま大会の終了を待たずに帰宅。
観戦に訪れたファンはもちろん、永島に加え、本大会で手首を骨折してしまった佐々木を激怒させることとなり、長州との遺恨を生じさせる一因となってしまった。

試合結果は以下のとおり。

第1試合 ○ジム・チョンボン・キクチ(1R1分6秒KO)デヴィット・ヴェラスケス×
第2試合 ○ジェフ・フォード(1R2分58秒TKO)フィリップ・プリース×
第3試合 ○ダニエル・ピューダー(判定)ジェイ・マコーン×
第4試合 ○ジミー・ウェストホール(1R1分33秒TKO)アダム・バーノン・グェラ×
第5試合 ○ジョン・フィッチ(1R2分41秒TKO)ゲイヴ・ガルシア×
第6試合 ○中嶋勝彦(1R1分25秒TKO)ジェイソン・レイ×
第7試合 ○佐々木健介(1R2分35秒フロントネックロック)クリスチャン・ウェリッシュ×
第8試合 ○ボビー・サウスワース(2R0分41秒TKO)ブライアン・バードー×
第9試合 ○ダン・ボビッシュ(1R1分33秒TKO)ベイシル・キャストー×

なお、佐々木健介の対戦相手であったウェリッシュは当時弁護士志望であり、学費を稼ぐためにX-1に参戦したことも話題になった。後にUFCにも参戦し、勝利を挙げている。

また、一時期のネット掲示板の格闘技大会のスレッドでは、釣りとして高い確率でX-1の試合結果が貼り付けられていた。


■そして崩壊へ

11月以降、所属選手であった越中や大森は他団体に参戦し、長州もZERO-ONEを主戦場に、ハッスルなどにも参戦した。
有名な長州と橋本の「コラコラ問答」もこの時期のことである。
健介も長州らとの金銭問題のもつれなどからWJと決裂、12月に退団した。天龍もこの頃にはWJから離脱している。

2004年1月、X-1でリングデビューした中嶋がプロレスデビュー戦を行う。
中嶋は15歳9か月でのデビューで男子プロレス史上最年少プロレスラーとなったが、4月に保障上の不安から退団。

2004年3月1日には、後楽園ホールで一周年記念大会を開催するも、試合後に会場使用料の未払いが発覚し、当日券の売り上げを含めても使用料に18万円足らず、
永島が後楽園ホールに足止め*5されてしまう。
このときは、選手やスタッフの所持金をかき集めて何とか支払いを行うことができた。

その後も不定期に、長州ら所属選手とインディー団体の選手が参戦する形で単独興行を行っていたが、8月に所属選手がWJから分離して設立されたリキプロへ移籍。
長州自身はWJに残留したとされたが、以降の長州のマネジメントはリキプロが行っており、WJプロレスは旗揚げから1年5ヶ月で崩壊することになった。


■崩壊の原因

  • 放漫な団体経営
何といっても、団体崩壊の一番の原因は放漫すぎる経営体制にあった。
旗揚げ戦も行っていない団体が出資金を使い切ってしまうという異常事態は、メジャー団体である新日本プロレスのトップであった長州と永島の金銭感覚の欠如にあったと言われている。
最終的な負債額は3億円に上ったとされ、5億円が1年半で消えてしまった計算になる。
WJ崩壊後に、長州と永島は融資した2億円の返済を求めて福田氏から訴えられることになる。
長州は3000万円、永島は7000万円の返済で和解が成立。長州は自宅を売却して全額返済、永島は返済能力がないと見なされ、3年間毎月5万円を払うことで実質的に容赦されたという。
メジャーではないインディー団体として身の丈に合った経営が求められていたのだろう。

  • 営業能力の欠如
そもそもWJのスタッフには永島以外、プロレス団体にかかわったことのある人材がほとんどいなかった。
選手兼営業だった谷津は離脱前から「営業のノルマがきつい」と漏らしており、実際巡業のコースを設計したり仕切れる人間がおらず、常に行き当たりばったりだったという。
地方大会の問い合わせ先がスナックだったという、信じられないような笑い話が常態化していた。

  • 試合内容
それでもプロレスは試合内容さえ良ければ一定数のファンはついてくるものである。
しかし、引き抜きによって得られた人材は、知名度こそあったもののほとんどが全盛期を過ぎており、団体の核とはなりえなかった。
特に、旗揚げ当初のメインであった長州VS天龍は、当時でも両者50歳を超えており、メインで客を呼ぶのは難しい状況にあった。
若手選手の多くも長州の「ハイスパート・レスリング」のコピーが多く、全体的に試合時間が短く、観客を満足させられるものではなかった。


崩壊するべくして崩壊したWJではあったが、十数年後にトップレスラーとなる石井智宏や中嶋勝彦を輩出したのは紛れもないWJの功績であった。
「しょっぱい」*6と揶揄されながらも、苦難の時期を乗り越え、覚醒した佐々木健介の存在も忘れてはならない。
彼らの活躍がある限り、WJプロレスという団体は決して否定されるものではないだろう。



■認定タイトル

  • WMG王座
WMGの正式名称はWorld Magma the Greatest(ワールド・マグマ・ザ・グレーテスト)。そこ、文法オカしいとか(略。
王座決定トーナメントを制した佐々木健介が初代王者として認定されるが、チャンピオンベルトの完成が間に合わず、ベルト不在のまま王者が認定されるというトラブルが発生している。
その後、1度の防衛戦(ダン・ボビッシュ戦)を行った後、健介が退団し王座返上。新王者を決定しないまま封印された。

  • WMGタッグ王座
シングル王座同様に王座決定トーナメントを行い、天龍&長州組が初代王者となったが、防衛戦を行わないまま天龍が離脱したため王座は宙に浮いた存在となった。
後にリキプロの興行で2代目王者の決定戦が行われて金村キンタロー&BADBOY非道組が勝利して2代目王者となるが、その後は防衛戦も行われずこちらも封印された。



■最終所属選手

ご存じ「革命戦士」。詳細は該当項目を参照。
プロレス界のアングル*7やギミック*8を嫌い、自身を中心とした試合だけでWJを盛り上げることを主張していたとされる。
長州の前時代的な考えがWJの失敗を招いたことは事実であるが、WJの不遇な時期を過ごした経験によって角が取れ、後年お茶の間の人気者として再ブレイクを果たす礎となったという意見もある。

  • 石井智宏(いしい ともひろ)
1996年、天龍源一郎率いるWARに入門。1999年フリーへ転身し、インディーマットを転戦する。
その後、2002年9月に長州力がサイパンで合宿している処へ単身乗り込み弟子入りを直訴、WJ所属選手となる。
旗揚げ戦での宇和野戦は、オープニングマッチにしてWJのベストマッチであると評価する声も多い。
2003年8月に「ヤングマグマトーナメント」の決勝で高智政光を破り、優勝。
WJ崩壊後は新日本に移籍。田中将斗とのNEVER無差別級王座を巡る戦いで頭角を現し、「NEVERに魂を吹き込んだ男」とまで言われるほどになった。

  • 宇和野貴史(うわの たかし)
高校時代は柔道全国大会ベスト8の成績を残す。
大学推薦の道を断って上京し、新日本プロレスの入門テストを受けるが不合格。IWAジャパンの選手として1998年にプロレスデビュー。
プロレスに見切りをつけ引退も考えていた時に、WJの選手募集告知を知り、WJに移籍した。
WJ崩壊後はリキプロへと移籍。後年は新日前座戦線のレギュラー選手となり、新日の中心選手となる内藤哲也のデビュー戦相手としても知られる。
2008年に引退。2017年に限定復帰している。

  • 和田城功(わだ くによし)
アマチュアレスリングで国体にも出場した実績を買われ、WJに入団。
しかし、アマチュア時代の古傷に泣かされ、WJ時代は数試合しか試合を行えなかった。
2010年、怪我のために新日本プロレスで引退。その後は治療家を目指し、鍼灸整骨院に勤務していた。
2015年、「ケアしてる患者さんに自分の試合を見せたい」として現役復帰。以後、資格を活かしたメディカルトレーナー、セコンドとして様々なプロレス団体をサポートし、選手としても参加。
中嶋勝彦は「X-1」でデビュー戦を行っているため、和田が唯一のWJのリングでデビューした選手である。


■主な所属選手

「殺人ボルケーノ」。詳細は該当項目を参照。
新日退団後、ニューヨークのグラウンド・ゼロ(911テロ事件の現場)を訪れていたところ、偶然ニューヨークを訪れていた永島と再会。
一緒にマジソン・スクエア・ガーデンを訪れ、「ここで闘う君が見たい」と説得されたことからWJ参戦を決意…というのが公式設定。
WJのエースとしてWMG初代チャンピオンとなるも、金銭問題のもつれなどから、WJ、そしてプロレスの師匠でもあった長州と絶縁。2023年現在もその関係は修復されていない。
退団後はメジャーからインディーまで幅広い団体に参戦。妻である北斗晶や中嶋勝彦を交えた「健介ファミリー」を結成し、「健介オフィス」を設立。
新日、WJ時代とは比べ物にならないほどの幅広いプロレスで観客を魅せるようになり、完全に覚醒。真の意味でのトップレスラーとなる。
2014年に引退。2023年現在は妻の北斗晶とともにに芸能界で活躍中。

  • 谷津嘉章(やつ よしあき)
「幻の金メダリスト」*9
WJでは営業本部長を務めていたが、「長州をはじめとするWJフロント陣はインディー団体を分かってない!」と痛烈に批判し、2003年9月にWJを退団。
糖尿病の影響で右足を膝下から切断するも、義足レスラーとして復帰。2023年現在はYoutuberとしても活動している。

  • 越中詩郎(こしなか しろう)
「ド演歌ファイター」
盟主でもある長州力の片腕的存在だったが、越中も金銭面で揉め、先述のように大森隆男らと共に「レイバーユニオン」を結成する。
だが、事態の解決には至らず、2003年10月にWJを退団しフリーランスとなる。若手時代の盟友・三沢光晴とのシングルマッチを実現した他、2007年には「アメトーーク」での越中詩郎大好き芸人を皮切りにブレイク。後楽園ホールで行われたIWGP王座戦では、男泣きで入場した。

  • 大森隆男(おおもり たかお)
「ワイルドハート」
入団会見での終始目が泳ぎっぱなしで受け答えをする姿がネタにされてしまった。
越中詩郎とのタッグチーム「レイバーユニオン」では、長州、天龍の両巨頭からシングルでピンフォールを奪う実績を作った。
退団後は、ZERO1-MAX所属を経て、再び全日本プロレスに所属。征矢学とのタッグチーム「GET WILD」で新たな一面を見せた。

  • 鈴木健想(すずき けんそう)
「ミスター・パッション」
WJでは悪童キャラで長州や団体を批判するが、長州の運転手をしていたことから、イマイチ説得力がなくなってしまう。
WJ退団後はケンゾー・スズキの名前で、妻の浩子と共にWWEで活躍。その後はKENSOと名を改め、様々な団体で活躍。
2017年に共同テレビジョンに入社し、2023年現在はプロデューサーとして活躍している。

  • 中嶋勝彦(なかじま かつひこ)
「戦慄の蹴撃」「令和の理不尽大王」
先述のとおり、WJでデビュー(正確には「X-1」)し、男子プロレス史上最年少プロレスラーとなる。
WJ退団後は「健介ファミリー」入りし、プロレスラーとしての腕を磨く。
佐々木健介の引退に伴い、健介オフィス*10を退団。フリーランスとして活動した後、健介オフィス時代から主戦場としてきたプロレスリング・ノアへの入団を発表、2016年よりノア所属選手となる。
GHCヘビー級王座を2度戴冠するなど、令和時代の新生ノアの中心選手として活躍している。


■主な参戦選手

ご存じ「ミスタープロレス」。詳細は該当項目を参照。
苦難の連続であったWJでは泥を被る形になることが多く、先述の対長州6連戦での欠場はその最もたるものであった。
2002年8月にはWJ入団が発表されたが、実際はギミックで契約はされておらずフリー参戦の状態であった。

  • 馳浩(はせ ひろし)
参戦当時、自民党所属の衆議院議員。文部科学大臣を経て、2023年現在は石川県知事を務める。
盟友である佐々木健介とのタッグで活躍していたが、2003年7月の大会を最後に離脱した。

  • 大仁田厚(おおにた あつし)
参戦当時、自民党所属の参議院議員。
電流爆破で越中や長州と対戦するも、長州は電流被爆せず、噛み合うことはなかった。

  • ホーク・ウォリアーアニマル・ウォリアー
80年代のプロレス界を席巻した「ロード・ウォリアーズ」。
インターネットでWJ設立を知ったホークが軍団を引き連れて参戦。長州はこの参戦に「来たか」と発言した。
両者ともにこの時点では全盛期を過ぎており、往年の雄姿を見せることはできなかった。
ホークは参戦直後の2003年10月に死去。アニマルは2020年に死去。

  • ダン・ボビッシュ
総合格闘技の元世界チャンピオン*11という触れ込みで来日。
WJでは外国人選手のエース格、健介のライバルとして扱われていた。
後にPRIDEにも参戦しているが、3戦全敗。その後ハッスルにも参戦するがフェードアウトしていった。

■主なスタッフ

  • 永島勝司(ながしま かつじ)
専務取締役。
1988年、新日本プロレスに入社。渉外担当・企画宣伝部長として、「10・9」として知られるUWFインターナショナルとの対抗戦など様々なヒット企画を生み、
「平成のプロレス仕掛人」あるいは「背広レスラー」の異名を取るまでになった。
WJでは仕掛けは功を奏せず団体は崩壊。その後は長州と袂を分かち、WJの内情を綴った「地獄のアングル」を出版。
後に、永島を主役としてWJの内幕を描いた漫画作品「地獄のど真ん中」(作画:原田久仁信*12)が宝島社より発表された。

  • 保永昇男(ほなが のりお)
レフェリー。現役時はIWGPジュニアヘビー級王座を獲得したこともある名レスラーだった。
WJの惨状を見かねて、佐々木健介に助言し、佐々木のWJ離脱、フリー転出にも関与したとされる。



■余談

旗揚げ前に行われた忘年会は、屋形船で豪勢に行われ、参加者には1個数万円の夕張メロンがお土産にふるまわれた。1晩で500万円が使われたと言われている。

2003年に18年ぶりに優勝した阪神タイガースの人気に便乗し、阪神グッズを身に着けた人は2000円OFFサービスを行うも、客入りには結びつかなかった。

週刊プロレスの携帯サービス「週プロiモード」の「(2003年)7月のビッグマッチ最も満足した大会は?」において、票を買い込んだ愉快犯が大量に投票。
総投票数の6割以上を集めるぶっちぎりの1位を獲得してしまい、週プロは遺憾の意を示した。

2003年年末、WJクリスマス&賀正福袋が限定100個、7000円で販売されたが、中身は長州のブランド「LOCK-UP」の売れ残り品であった。



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最終更新:2023年10月14日 23:38

*1 後にこの一戦はこの年のプロレス大賞において年間最高試合賞を受賞。

*2 WJのほかに、国際プロレス(1981年崩壊)、UWFインターナショナル(1996年崩壊)。

*3 4戦目が行われる予定だった試合会場では、長州は6人タッグに少しだけ出場した。

*4 元プロ野球選手・監督である落合博満の甥。

*5 永島曰く「後楽園ホール監禁事件」。

*6 試合内容がつまらない、という意味のプロレス界の隠語。

*7 プロレスにおける試合展開やリング外の抗争などに関して前もって決められた仕掛け、段取りや筋書きのこと。

*8 プロレスラーの触れ込みのこと。プロレスにおいてリング上やテレビ番組上で演技がなされる。

*9 日本代表として参加するはずであった1980年のモスクワオリンピックを、政治的な事情で日本がボイコットしたため。

*10 当時は団体名をダイヤモンド・リングに改称していた。

*11 アメリカの総合格闘技団体であるKOTCスーパーヘビー級。

*12 名作プロレス漫画「プロレススーパースター列伝」(原作:梶原一騎)の作画担当として知られる。