師岡一羽(剣豪)

登録日:2009/12/10 Thu 13:59:04
更新日:2024/01/02 Tue 08:12:15
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1532年生~1593年没

戦国~安土桃山時代の剣豪。
諸岡一羽とも呼ばれる。


美濃国の土岐氏一族の家系に生まれたとされる。父は当時江戸を修めていた土岐原氏に軍師として仕えていた師岡常良。
幼い頃より父から剣術を教わり、元服する頃には既に神道流皆伝の腕前であった。
後に武者修業の旅へ出て、鹿島にて新当流開祖塚原卜伝に出会い、弟子となる。
およそ7年の修業を終え帰郷、自ら『一羽流』を興す。噂を聞いた土岐原氏は大変喜び、重臣として召し抱え、立派な道場を与えた。
一羽は剣術を教えるのに身分の隔てなく接した上に稽古代金を取らなかったので、武士や百姓、商人などがこぞって一羽に教えを請いに来たという。
しかし、順調だった生活はここまでだった…

土岐原氏が北条氏に従属していた為に豊臣秀吉の小田原征伐(北条征伐)の対象となってしまい、『鬼義重』こと佐竹義重に攻められて滅亡してしまう。
一羽は隠棲し、門下生に稽古を付ける日々を送っていたが、やがて病に倒れてしまう。
一羽が病に倒れた事で道場は廃れ、遂に門下生は『一羽の三高弟』こと根岸兎角 、岩間小熊、土子(ひじこ)泥之助の三人だけになってしまった。

後に兎角は一羽を見限り出奔。その三年後に一羽はひっそりと死亡する。
葬式の参列者は泥之助と小熊だけだったと伝わる。


【一羽流】

一つ一つの攻撃を急所に当てるように鍛練し、一撃必殺を身上とする。
また足運びは踵まで地に付け、移動は擦り足。重い一撃を出せるようなものが基本。
また新当流の分流としては珍しい、先手必勝の剣術ではなく後の先を取る剣術が目立つ。

その奥義は《炯眼》と呼ばれ、
『足を視、手を視、目を視る。万事見通し彼(か)の動きを読むべし』
とある。

出奔した兎角は一羽流を微塵流と称して江戸に道場を開いており、これを心苦しく思った泥之介と小熊は「片方が兎角を討ちに行き、片方が道場を継ぐ」という内容でくじ引きをし、その結果小熊が討つこととなった。
小熊は「日本無双」の看板を掲げるなどして兎角を挑発し、木刀での決闘に持ち込み見事勝利。兎角はそのまま逃げたため、小熊は微塵流の道場を奪い一羽流は名誉を回復した。
しかし恨みに思った門弟たちにより、小熊は熱湯風呂に入れられてのぼせて出てきたところを斬殺される。
一方逃げた兎角は、西国で細々と微塵流を伝えていたという。


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最終更新:2024年01月02日 08:12