藤原道長

登録日:2010/09/03 Fri 13:31:59
更新日:2024/04/26 Fri 16:58:55
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「この世をば  わが世とぞ思ふ  望月の  欠けたることも  なしと思へば」



藤原 道長(ふじわら-の-みちなが)(966-1027)
天皇家と強力な外戚関係を結び、摂関政治の最盛期を築いた平安時代を代表する貴族政治家。
天皇すら凌ぐ権勢は「帝王の如し」とまで畏れられた。


【日本史上最も幸運な男】

後の摂政・藤原兼家の五男として誕生、伯父に藤原伊尹がいる。

父の引き立てで26歳の若さで権大納言(大臣に次ぐ地位)に昇進したものの、道隆、道兼ら兄の陰に隠れて目立たない存在だった。

……だが、道長30歳の時、歴史は大きく動き出す。

まず995年、兼家の後を継いでいた長兄の道隆が43歳で急死。
それと時を同じくして起こった麻疹の大流行により、次兄・道兼ら上級貴族たちが次々に倒れた。
結果的に、自身より高位の6人のうち5人がわずか数ヵ月の間に死亡するという事態に見舞われた道長は、
その中で唯一残った藤原伊周(道隆の子)に勝利して内覧・左大臣となり、朝廷最高権力者の座に上り詰める。
さらに長女・彰子と一条天皇の間に、のちに後一条天皇、後朱雀天皇となる外孫の皇子たちが産まれるなど、順調に権力基盤を固めていく。

もっとも、本当に恐ろしいのはここから。
道長に敵対する立場にあった人々は、皆もれなく不運に見舞われたのだ

  • 藤原伊周
女性をめぐる勘違いが元で、そうと知らぬままに花山法皇に矢を射かける事件を起こして自滅。
失意のうちに37歳で病死。

  • 藤原定子
一条天皇の皇后(中宮)にして、伊周の妹。
一条天皇とはとても仲睦まじかったらしく、彼女に仕えた清少納言の『枕草子』にもその様子が垣間見られる……が、
兄(伊周)の失脚などで心労が祟ったのか、出産の時に崩御。25歳であった。

  • 藤原顕光
右大臣、道長の従兄。
道長に対抗して娘を天皇に嫁がせたが、妊娠したはずの娘は「水を産んで」赤っ恥をかく*1

  • 三条天皇
一条天皇の従兄、道長の次女の夫。
36歳という壮年で即位し、道長は娘を入内こそさせたが、不仲であったとされる。
持病の眼病が悪化して政務をとれなくなり、わずか5年で退位。

まさしく「持ってる」男

1017年には嫡男である頼通に摂政と藤原氏長者の座を譲り、後継体制を固めると、
その2年後には出家して政界から引退し、浄土信仰に傾倒。
寺社建立に情熱を注ぐが、息子・娘たちに相次いで先立たれる不幸に見舞われ*2
最期は自ら築いた法成寺阿弥陀堂でひたすら極楽往生を願いながら死去したとされる。享年62。


【エピソード】

  • 人物像
「平安時代の貴族」について、現代に生きる人の中にはナヨナヨしたイメージを持たれている方も多いと思われるが、
道長はどちらかというとかなり豪胆で活発な――悪く言えばヤンチャな――男であったようだ。

例えば、花山天皇が「月明かりのない夜、真っ暗なままで殿に行ってこい」と肝試しを命じた時のこと。
尻込みして逃げ帰る者が多い中、道長は堂々と真っ暗な殿の中に入っていき、
やがて戻ってくると木屑を手渡し、「これを明日、殿の柱の傷と合わせてください」と言ったという。
もちろん当時は現代のような煌々とした灯りなどなく、今よりも夜は非常に暗かったであろう上に、
「闇には物の怪がいる」などの迷信も深く信じられていた時代だったから、こういった肝試しは、度胸を示す手段としてはこの上ないものだった。
何しろ、「百鬼夜行」という言葉が説話に登場していたような時代である。
帝はその報告を受けて「大したものだ」と笑ったという。

また弓馬に長け、特に競射では若い頃から名手と認められていた。
『大鏡』の『競べ弓』の段では競射で兄弟を負かした上に「自分の家から帝や后が立つならばこの矢よ当たれ!」と言いながら矢を放ったところ本当に当たったという描写がある。

  • 文学への貢献
道長は創作に熱心で、特に漢詩を好み詩作の宴をよく主催した。
『大鏡』「三船の誉の段」などからもこのことは窺い知れる。
道長の日記『御堂関白記』は直筆本が残っている極めて貴重な史料で、国宝に指定されている。
ただ大ざっぱな性格だったのか誤字脱字が多く、サボっている日も結構ある。

本項目冒頭にある有名な「望月の歌」を詠んだのは陰暦の16日夜で、実は満月が昇った日ではなかった
このせいで和歌が下手なうえに傲慢というイメージがあるかもしれないが、この時道長は酔っ払っていた上に「即興の作」と断っており、
この歌は日記にも歌集にも入っていない*3ことからも、本人的には黒歴史、あるいは「酔った勢いで適当に言っただけ」のようだ。

しかし、道長に批判的だった貴族・藤原実資が「こいつこんな歌詠んでやがったよ」と記録したものが有名になってしまったのだ*4
ちなみに実資はこの時、道長に「俺も詠んだんだからさ!」と返歌を振られたが、彼は返歌を断って代わりに「いい歌だしみんなで繰り返そう」と皆で吟じることを提案している。
切り返し力パネェ。
結果として、死後およそ千年以上もの間、後世の人に自身の黒歴史の晒し上げを食らった道長は浄土で何を思うだろうか……。

同時に道長は優れた文学者を保護するパトロンでもあった。
紫式部とは、彼女の雇い主であるだけでなく、一説には愛人関係にあったとも言われており、
彼女が主役となる2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』では、道長との関係が物語の軸の一つとなっている。

  • 日本最初の糖尿病患者
好物は蘇蜜(古代のチーズに、はちみつをかけたもの)。
信仰上の理由で殺生を嫌い、肉食・魚食は避けた。
さらに平安時代のグルメというのはとにかく「普通の人が食わないもの(うまいとは言ってない)」が基本だった*5ため、そもそも健康に悪い。
道長ほどの貴族となれば、そんなものが供される祝賀に呼ばれまくってるので健康を害すのは当然である。
それ故にか、晩年は「喉の渇き」「吹き出物」「倦怠感」「視力の低下」などに苦しみ、おまけに「狭心症」まで併発していたらしく、
その症状がまさしく糖尿病のそれであるため、現代の糖尿病学会から「日本最初の糖尿病患者」に認定されており、学会のイメージキャラクターとして切手にもなっている*6


【余談】

「摂関政治の象徴」と言われ、当時最も権勢をふるった人物として有名だが、意外なことに関白にはなっていない
ここを読む時間で勉強した方がいいと思うがテストの引っかけ問題にたびたび出題されるので要注意。確かに『御堂関白記』は書いているけどなったとは言ってない。
ここを読んで間違えたら赤っ恥だ。

道長自身、三十歳を過ぎてから病気がちだったことに加えて、
  • 親政を志向する一条天皇や三条天皇との政治的軋轢
  • 入内してもなかなか皇子を産めない娘達
と多くの困難が立ちふさがり、ようやく摂政の座を掴んだ時にはすでに五十歳。
さらには持病の糖尿病の諸症状が重くなりはじめたこともあって、嫡男の藤原頼通に家督と摂政の座を譲って後継の筋道をかためると、さっさと隠居&出家してしまった。
名実ともに絶頂期だったのは、実際には非常に短い間でしかなかったのだ。

道長は孫にあたる後一条と後朱雀に自分の娘を嫁がせている。
つまり叔母甥婚
彼らの父親・一条天皇もその母は道長の姉である。

近親相姦?、いいえ人間ダビスタです。

スペイン・ハプスブルク家もびっくり。
危険な配合ってレベルじゃねーぞ!*7



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最終更新:2024年04月26日 16:58

*1 想像妊娠か別の病気だったらしい

*2 三男・顕信、次女・妍子、三女・寛子、六女・嬉子が道長に先立って亡くなった。

*3 お気に入りの作は「~~と詠んだ。みんなに誉められた」と日記に書いている。

*4 ただし実資はこの歌に対しては単に記録としてとどめただけで、批判の意図はなかったとする学者もいる。彼は日記に様々なことを記しており、「殿上において暑すぎて氷室の氷水を飲んだ」なんていう話も残しているほどで、さほどの重要性はなかったのではないかという。もちろんそれでも晒しものとして後世に残そうという意図はあったのかもしれないが、少なくともかつてこの項目に書かれていたような嘲笑の意図が文章から読み取れないことは確かである。

*5 食事が食材から調理方法へシフトしたのは鎌倉時代以降と言われている。実利重視の鎌倉武士と、禁葷食の仏教によって「煮しめ」をはじめとした技術が発達したという話である。この辺はアニヲタ的には『逃げ上手の若君』の解説あたりが一番接しやすいかもしれない。

*6 なお、よく酒を飲んでいたという道長の兄・道隆の死因も「飲水病」…つまり、糖尿病であったとされている。

*7 当時としては近親相姦という考えの範疇の外にあったことに留意すること。摂関政治全盛のこの時代、63代冷泉天皇から71代後三条天皇まで両親は皆従兄弟以上の近親者である。