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太平洋戦全般 - (2011/06/18 (土) 20:16:45) の編集履歴(バックアップ)




第2次世界大戦にて、特に日本軍で航空機が活躍したのはどの戦いでしょうか?

真珠湾攻撃とミッドウェー海戦
(3:958)

日露戦争や第一次大戦、第二次大戦でもヨーロッパではで多大の戦果をあげた機雷。

しかし、太平洋戦争では日米とも積極的には機雷戦というのをやっていないですよね。(戦争末期に日本封鎖に使われたが)
例えば、ガ島戦で東京急行の通り道に機雷をしかけるとか、輸送船団の通りそうな海峡にしかけるとかすれば、
戦果が上がったように思うのですが、なぜしなかったんでしょう?
想像でしかないのですが、太平洋戦争は戦域が広すぎたのでは?
広い太平洋に漫然と機雷をばらまいても仕方ないですから。
東京急行といっても輸送路が完全に一緒ではないですからねえ。

さらに戦線の移動速度が早かったので、機雷の設置があまり意味を持たなかったとも考えられます。

ただ日本軍の機雷戦が不活発だったのは分からないですね。
沖縄にしろ硫黄島にしろ周囲を機雷で囲めば少しは戦果がありそうですが。
(8:419)

太平洋戦争の終わりごろに、米軍機が日本本土の民間人を銃撃、殺傷したような事は多く有ったのでしょうか?

俺の親父は戦後、米軍の飛行機に低空で追っかけまわされて
大人に「防空壕へ逃げろ!!」とか言われたらしい。
相手はふざけてやったんだろうが、その時は子供だったから本当に殺されるかと思ったと言っていた。
(15:46)

辻ーんとは誰の事ですか?

悪評高い旧陸軍の参謀・辻正信のことだ。
(15:358)

空の神兵って軍歌で、歌われているのは陸軍落下傘部隊ですか?

映画「空の神兵」は陸軍の落下傘部隊の話なので
その主題歌の「空の神兵」は、
陸軍の落下傘部隊を歌ったものだと思われます。
(16:230)

金日成率いる抗日パルチザンと戦った日本軍は何部隊ですか?

一連の反金日成本では現地駐留警察の交番を襲った、というのが真相としています
証拠として掲載されていた当時の大阪日日新聞の記事もそうなっていました
実際の被害としては、中年の日本人巡査1人が殺害されたほか、周辺の朝鮮人家庭が略奪されたようです
反金日成本の著者の多くは金日成体制からはみ出した元共産主義者のため、
記述の大半が自己弁護に費やされている例が多く、襲撃に参加したと主張している著者も
略奪した民家は親日主義者であるとして、罪とは認めていません
(16:264)

米軍は民間人も含めた全ての日本人を積極的な攻撃対象にしていたのでしょうか?

していました。公文書に「目標 民間人」とかいてある訳ではありませんが、
空襲の際の戦術をみると、明らかに一般市民の殺戮を目的としていたものがあります。
(まず市民の逃げ道になる所を炎上させる、等)
東京大空襲における12万人の犠牲は、こういった戦術による「戦果」です。
また、米軍の日本空襲は、1942年の空母を発進したB25爆撃機によるものが最初ですが、
このときすでに、中学生が意識的に機銃掃射の対象になっていたはずです。
では、なぜ、このような行為が行われたのか。

まず、当時の「戦略爆撃」の理念・目的があります。
20世紀になり、大規模な戦争は、その国の工業力・生産力といった後方の力も戦力とする「総力戦」になったことはご存じでしょう。
そして、「戦略爆撃」は、この後方の生産力・工業力だけでなく、民衆の戦意の低下も目標として考えられた「戦法」です。

こういった民間人と戦闘員を区別しない「戦法」がうまれた背景には、
第一次大戦における前線の兵士の犠牲が、それまでの人類史上、非常に大きなものであったので、
大戦間に、民間人を目標として攻撃し、敵国の戦意をなくすことができれば、トータルの死者はへる、
すくなくとも自国・味方の死者はすくないはずだ、という考えがあったようです。

あと、米国の特殊な歴史があります。米国史上最大の犠牲者を出した戦争は1861~65年の南北戦争ですが、
この南北戦争の終結に、北軍による南部の都市・産業基盤の破壊、民間人を区別しない攻撃が大きな役割を果たしました。

また、建国以前からの対先住民(インディアン)戦争にも戦闘員・非戦闘員の区別はありませんでした。
 さらに、米国は、一人一人が「主権」をもつ民主国家であり、民間人といえども国政に対する責任を持つというという、
彼らにとって「空気」のような発想、自分たち米国人にとって、一番「いやな」損失が、人命であり、
民間人の犠牲だ、という感覚を、当時の米国は無意識的に他国に投影していた、という面もあるしれません。
(17:愚考)

いつから「太平洋戦争」っていうようになったんだい?戦争中は「大東亜戦争」だったんしょ?

「太平洋戦争」は終戦後しばらく経った昭和20年12月15日に
占領軍司令部の指令で「大東亜戦争」の呼称の使用が禁止された為に
臨時の代用名として考案されたんだそうな。

占領軍が「大東亜戦争」の呼称を軍国主義的だと考えたらしい。
(18:606)

朝鮮軍2個師団は朝鮮半島に終戦時まで駐屯していたのでしょうか?

抗日ゲリラの活動はせいぜい派出所を襲撃して、単独でいる巡査を殺すぐらいでした
朝鮮軍2個師団とはいいますが、定数は大幅に割っております
(19:89)

日本軍が第二次世界大戦であげた戦果ってのはどんなもんなんでしょうか?総計でお願いします。

戦艦:Prince Of Wales、Repulse、Oklahoma、Arizona
空母:Hermes、Lexington、Yorktown、Hornet、Wasp
軽空母:Princeton
護衛空母:Gambia Bay、St.Lo、Liscome Bay、Ommaney Bay、Bismark Sea
重巡洋艦:Canberra、Dorsetshire、Cornwall、Exeter、Northampton、Chicago、
       Houston、Indianapolis、Astoria、Quincy、Vincennes
軽巡洋艦:Helena、Atlanta、Juneau、Peath、Sydney、Java、De Ruyter

駆逐艦以降は多すぎて略。
(20:眠い人 ◆ikaJHtf2)

太平洋戦争ですが、日本はアメリカと戦うために南方に侵攻したんでしょうか?

南方の資源が欲しいから進出しました
アジアを鬼畜米英から解放する、というのも理由ですが、まぁ建前みたいなもんです
(21:947)

伝単って何すか?

伝単とは日本軍が作った反戦、厭戦を目的とした謀略ビラで、飛行機、
砲撃によりばらまかれたものです。
元々は中国で言う宣伝ビラのことですけどね。
(30:眠い人 ◆ikaJHtf2)

旧華族の太平洋戦争での戦歴が知りたいです。

有名なところだと、
加賀の前田利為侯爵
バロン西・西竹一男爵

皇族では、
伏見宮博英王(伏見宮軍令部総長の4男)
日華事変だけど、北白川宮永久王
(34:197)

真珠湾奇襲や他の海戦で空母から艦載機が全機発艦するのに、ものの15程度と書いてありますが実際そんな短時間にスムーズに何十機も発艦できるものなんでしょうか?

真珠湾で最も多い赤城から発艦したのは36機15分(?)だとすると1機当たり29秒で発艦すればよい。
艦戦→艦爆→艦攻と軽い順から離艦するからまぁ妥当な時間だと思うがね

カタパルトに頼っていた米軍はヘタれ
(くだらない質問はここに書け!:335)

張鼓峰事件でモンゴルは、なぜソ連と共に日本の関東軍と戦ったのでしょうか?

モンゴルは世界で2番目に登場した共産主義国家で、当時、ソ連と相互援助協定を結んでいました
(36:934)

米軍がトラック島を占領しなかった理由はなんでしょう?

エニウエトク環礁を既に根拠地としていたアメリカ軍にとって次の目標たるマリアナと比べると回り道。
またフィリピン攻略を考えるとウルシー環礁に比較してフィリピンから遠すぎる。
太平洋の地図を西から眺めるとよくわかる。

米軍の太平洋戦線における戦略は飛び石戦略。艦艇の泊地、飛行場等が確保できれば良い。
基地の設営は米軍の能力を以ってすれば容易。わざわざ要塞化された堅固な土地を狙う必要性は無い。
ラバウルも同様にスルーされている。
(354:439,443)

何故、ミッドウエー海戦の様な大逆転が日本側になかったの?

ミッドウェーの大逆転は、米軍が日本海軍の暗号を解読して事前に打てる手を全部打っていたから
できたことだ。
それに対して我が海軍情報部は、マリアナ海戦の前に敵の無線通信の統計的分析により、大規模な
侵攻作戦が間近いことに折角気づきながら、暗号は解読できなかったために敵の侵攻方面を単なる
推測で判断して警報を出し、結果的に連合艦隊を敵の侵攻地点とは異なる海域に「遠足」させて
貴重な燃料を無駄にし、敵のマリアナ侵攻を許し、基地航空隊を壊滅させてしまった。
この時点で、日本側の逆転の勝機は失われた。
(357:661)

真珠湾奇襲攻撃で「第一次攻撃隊」「第二次攻撃隊」のように複数回に分けて攻撃を行ったのはなぜですか?

二回目の攻撃ともなれば、敵も準備してくるわけで攻撃隊の危険度も大きいし、攻撃は集中して一回で行ってもよいような気がします。
つ発艦能力
第一波で抵抗拠点を潰して第二波で戦果拡張
(377:906)

まず攻撃時の混乱で十分な戦果が挙げられない可能性が一つ。
例えばもう十分にダメージを与えた目標を引き続き攻撃してしまうとか。

だがそれ以上に、物理的に全機を一度に投入することができないのである。
正規空母クラスは大体搭載量の半数強くらいしか一度に発艦させられない。
発艦スペースとその後方の駐機スペースの兼ね合いから。
(377:907)

一隻の空母から艦載機が数十分の間に発艦できる数には限りがあります。
一攻撃隊の発艦に何時間もかかっていたのでは先に発艦した攻撃機の燃料を無駄に消費してしまうだけでなく、攻撃隊全体の滞空時間を著しく下げてしまうからです。
一攻撃隊の数は空母の数と発艦能力、それと目標までの距離(滞空時間)の兼ね合いによって自ずと限界が決まってしまいます。
(377:924)

南太平洋海戦後に、一時的に日米の空母戦力が拮抗しましたが、今の内にアメリカと講和をしようという考えは日本にはなかったんでしょうか?

アメリカにその意思が無いから無理。
色々と戦略眼の無さが指摘される日本海軍and陸軍だが、
アメリカが戦力を整えるまで、守りに入っている事だけは認識していた。
(377:261)

あ号作戦を、攻撃隊のパイロット達は「この作戦は失敗する、あほう作戦だw」と揶揄していたそうですが、何故パイロット達は作戦が失敗すると分かっていたんですか?

操縦桿を握った事も無い(飛行機の操縦が出来ない)高級将校が
飛行機のカタログスペックの航続距離だけ見て立案した作戦だった為。

確かに、当時の日本海軍空母機の航続距離だけ見れば、
アウトレンジ作戦は可能と言えるが、これだけの長距離を飛ぶと
ちょうどパイロットの疲労がピークに達した頃に敵艦隊の上空に到達する事になる。

酷評すれば、ヒューマンファクターというものを全く考慮していない
スペック厨ミリオタ的発想のDQN作戦だったわけですな

実際にマリアナ沖海戦に参加したベテラン艦爆乗り・阿部善次氏曰く
「真珠湾のベテランが揃っていたって絶対無理」
(378:545)

アメリカはどのようにウラジオストクへ物質を輸送していたのですか?

ソ連船籍の船で輸送していた。
1941年12月8日以降日本にとってアメリカは敵国だったが、ソ連とは不可侵条約を結んでいたので公海を行くソ連船を止めることができなかった。
実際にはソ連の旗を掲げたアメリカ船も多かったらしいが。
(377:182)

ごく普通に千島を抜け宗谷海峡を通っていた。
上で出てるような理由で日本側は手出しができないので。

ちなみに、間宮海峡(タタール海峡)は冬は凍るので、船は通れなくなる。
(377:198)

米軍はなぜ空襲する前に警告のビラを空から撒いたのか

 都市空襲だけ見ると市民を焼き殺すのが目的に見えるが、ビラを撒く=脅迫する事で得られる効果もある。
 例えば、
1)都市郊外に避難させることで、都市近辺に集中する重工業・工場の労働者(や家族)を減らしたり、避難のため労働効率を落とさせることが出来る
2)米軍が好き勝手に行動できる=日本軍はあてにならないといった不信感の醸成、戦争に勝てないといった不安の醸成(厭戦気分ってやつです)

 ビラ単独で何かの効果を得るものでも、都市空襲での免罪符を得るつもりのものでもなく、いわばタイマンで殴りあいしていても、拳(爆撃)を振るうだけでなく、口(ビラ)ででも追い込みかけるようなものと見てみれば良いかと思われ
(456:249)

太平洋戦争の終戦時、米軍は原爆を何発持ってましたか? 落とす気になってたら八月九月で何発投下できたのでしょうか?

0発。ウラニウムは製法自体もまだ統一されておらず、供給が間に合いません。
プルトニウム(ファットマン型)は、爆弾のパーツ自体はすでにティニアン島に届いていました。
肝心のプルトニウムコアも8月13日には完成しており、ティニアンに運んで組み立てればいい状態。
といっても1週間程度かかると考えると、3発目の使用は8月20日以降。
どう急いでも8月15日の終戦には間に合わなかったでしょう。
(456:50)


大東亜戦争がアジア・アフリカの独立をうながしたというのは事実?

WW2が宗主国の弱体化に寄与し,結果的に多くの武器を現地民にもたらすことになったことは確かだろう.
だが,日本軍が行かずとも独立は出来た可能性が高い.
産品収奪や要人殺害など,場所によっては日本軍がアジア独立にとってマイナスの要素となったことも合わせて見なければ客観的とは言えない.

インドって独立したとき,イギリスに賠償請求したの?

東南アジア諸国は独立したとき,宗主国に賠償請求したの?

植民地独立に際して旧宗主国と独立した国家との間の賠償の例はあるよ.
インドなどでは,接収した鉄道設備などについてイギリスに賠償しているはず.
賠償というのは不法行為による損害を相殺して支払われるものだから,一般論としては,独立する側が接収資産に対して賠償することになるのが普通だね.
ただ,政治的には独立後も自分の勢力圏に留めたい宗主国側が,請求権を放棄する場合が多いようだけど.
また,独立に際して宗主国との間で戦争状態が起きれば,戦時賠償と相殺したり,どのみち喧嘩別れ状態なら事実上は踏み倒すって場合もある.

ついでに言っとくけど,日本と朝鮮の間の賠償関係も理論上では日本側が払ってもらわないといけないことになる.
賠償ってのは現に発生した損害額で計算するもので,現地で接収された資産価格と相殺だから.
だから,日韓条約の場合は賠償ではなく「補償」として請求を受け,独立祝い金としての援助を実施することで決着している.
補償だと,タラレバの金額を参入して額を膨らませることができるからだ.
やれ強制連行とかいわゆる従軍慰安婦とかプロ市民が騒いでるのは,「戦時賠償」じゃなく「戦後補償」だから間違えないでね.

世界史板


第2次大戦中に日本軍がベトナムで米を徴発しすぎたため,ベトナムの1000万人が飢え死にしたというのは本当ですか?

ベトナムの独立宣言文で最大限水増ししても200万人です.


戦争中,日本国内にいた,連合国側の外国人・帰化人はどうなったのでしょうか?

 日本国内にいた,日本国籍を持つ欧米系外国人は,スパイの疑いがあるとして,憲兵による監視下に置かれていました.
 かのグラバーの子息倉場富三郎や外交官寺崎英成の妻女(娘マリコの名が日米交渉の暗号に使われたのは有名)など,かなりひどい目にあったようです.

 日本国籍を持たない外国人は,開戦と同時に拘束された後,日本と連合国が行った在留者相互交換により本国へ強制送還されました.
 日英および日米の交換船は,合わせて4回,抑留者の交換を行っています.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE他

 日米第一次交換船で,米国のグルー駐日大使を始めとする,米国,カナダ,ブラジル,メキシコなど交戦国の外交官とその家族142名,宣教師,教師,新聞記者,実業家など一般人274名,更に便乗組で未だ中立だったチリの新聞記者5名が横浜から乗船.
 香港で377名,サイゴンで米国領事など23名とタイを引き上げてきた駐タイ米国公使など91名を収容,
 また,上海で米国人407名,カナダ人10名,エル・サルバドル人3名など計636名が乗船しています.

 日英交換船は,日本本土,満州,中国,仏印,タイ,フィリピン在留の英国のクレーギー駐日英国大使を始めに英国大使館員79名,オーストラリア,ベルギー公使館員5名,エジプト,オランダ公使館員11名とマニラ駐在のオランダ外交官の息子3名,ノルウェー,ポーランドなどの大公使館・領事館員,一般在留民の一部1,800名,タイから送還の英国系住民114名を便乗させ,送還しています.

 日米第二次交換船では,外国人135名(主に宣教師)を乗せて日本を出発し,上海で1,035名の送還者,香港で146名のそれ,フィリピンのSan Fernandoで151名,サイゴンで33名が乗船しています.
 なお,この時にチリの外交官も引き上げています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi支隊

第2次大戦時に,米国に在住していた日系人が強制収容所に収容された事は有名ですが,米国在住の日本人の処遇はどの様な物だったんでしょうか?

開戦後の外交官に関してなら,外務省のHPにこんな記事
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/ honsho/shiryo/reference/reference_07.html
がありますよ.
 それによれば,交換協定に基いて互いに祖国へ帰還したそうです.

枢軸国側の外国人は日本国内で自由に行動できたのでしょうか?


 枢軸国住民は,関東なら軽井沢と富士五湖,箱根に分散して収容されていました.
 関西なら六甲山山上が主な収容場所でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi支隊

 あちこち出歩くことは不可能で,何処に行くにも,憲兵,あるいは特高の尾行,または警官の尋問があったそうです.
 精々,都市部の周辺,軽井沢,富士五湖くらいが関の山で,農村部などへの買い出しにも苦労したようです.
 当然,要塞地帯や軍事施設周辺への出入りは不可能でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

イタリア・ドイツは日本より先に降伏しましたが,日本の敗戦までの期間は,国内にいた伊・独人はどのように扱われたのでしょうか?

東京周辺の枢軸国人については,軽井沢と富士五湖へ,関西近辺の枢軸国人は神戸山手・有馬近辺へと軟禁(移動の自由がないだけで,牢獄にぶち込まれることはない)されていました.
 但し,反ナチと目された人間に関しては,大使館のSSが降伏後も,と言うか降伏後束縛が無くなり,日本の憲兵と協力して彼らを逮捕し,危うく空襲で焼き殺される所だった,と言うケースもあったそうです.

小笠原諸島の硫黄島が飛行場としての戦略的価値があるとして戦いになりましたが、他の島は飛行場として使えなかったのですか?

これを見れば、飛行場が置けそうな大きい島が硫黄島の他には父島と母島しかないのがわかる。
http://www.iwojima.jp/ogasa1.html
しかし実際は父島と母島は大きな飛行場が作れるなだらかな場所に乏しい。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/058/0020/05804160020013c.html より抜粋する。
父島、母島に飛行場をつくるのに適する土地があるかどうかという点は検討中でございますが、
昔、父島に軍の飛行場がありまして現在は八百メートル程度の状態でございます。
この飛行場あとがその程度でございますので、これをいまの飛行機の発着というには
ちょっと無理ではないかという気がいたします。

つまり硫黄島以外に適地はなかったんだな。
(362:684)

太平洋戦争で、メキシコは日本に対して宣戦布告していましたが、戦闘は行われていたでしょうか?

それらしき資料を探しましたが、P‐47やB‐25をアメリカから供与したことやフィリピンでの戦いに参加したことしかわかりませんでした。
1941年4月の墨米相互扶助協定締結時には、GrummanG-23を中心とする小規模飛行隊しかありませんでした。
1942年5月29日の対枢軸宣戦を機に空軍の近代化が始まり、DouglasA-24、North American NA-16、
Fairchild PT-19、Vultee BT-13/15、Douglas Dakota、Lockheed Roadster、Beech C-45などの
供与が開始され、近代空軍の要員養成が開始されます。
その後、乗員の養成が完了して、次の段階として1945年初頭にRepublic P-47Dの供与を受け、
飛行隊を編成して、実戦訓練が行われます。
しかし、南太平洋戦線への出動を企図していましたが、編成中に終戦となり、実戦への参加はしていません。
(506:650:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

太平洋戦争の末期、もし日本が降伏しなかったら、九州に侵攻した後、東京に侵攻すると聞きました

ではなんで中国・関西・東海地方はスルーされることになったのでしょうか?
それなりに戦略的価値はあったと思うのですが。素人の意見ですが、沖縄攻略後すぐに横浜に上陸したり、
ソ連の影響力を削ぐために北海道を攻撃してもいいんじゃないのかな?と思いました。
九州の助攻として数個師団を以て四国高知に上陸する計画はありました。
高知平野を平定し、其処に飛行場を建設してしまえば、中国、関西地方は元より、
次に実施される関東上陸作戦での戦闘でも充分にエアカバーが利用出来ますから。
中国・関西地方は内海ですから、海峡の出口を封鎖し、交通網を破壊してしまえば、
物資の輸送が滞り、干上がります。
東海地方については、足がかりとなる地区が余り無い事も原因と思われます。
(518:585:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

インパール作戦みたいにインドを解放する作戦って、もっと早い時期に計画しなかったの?

ビルマ攻略の勢いで追撃すれば、勝てたんじゃない?
早期のインド侵攻はいくつか検討されたようで、1942年8月には21号作戦が立案されています。
第18師団を主力とする2個師団でインド東部へ陸上侵攻する計画でした。

しかし、現場の第18師団長が、
  • 険しい山道であること
  • 交通網の未発達
  • 雨季となった場合の道路の泥濘化
  • 過疎地帯で食料徴発は困難
といった理由から、補給が不可能として強く反対意見し、
同年11月に無期延期決定となっています。

なお、当時の第18師団長の名前は、牟田口廉也といいます。
(533:◆yoOjLET6cE)

アリューシャン列島の占領は陽動作戦で、ここは大して戦略的に重要な場所ではなかったですよね。

それなのに、なんで後に、この重要でない場所のために、何千人もの兵を敵の攻撃に晒すという意味不明な作戦をしたんですか?
MI作戦の囮でついでに占領しました。

アメリカの領土を占領しているというプレゼンスがあるため。
だから、アメリカもこんなところに大兵力で奪回にきた。

  • 米軍に飛行場を作られると日本本土への侵攻拠点となるおそれがあった。
  • 取り戻されると敵に「勝利」と宣伝材料に使われるおそれがあった。
  • ミッドウェー占領に失敗してるので、それを覆い隠す戦果として確保する必要があった。
  • 偵察機を置いて哨戒拠点にして、本土への敵艦隊の接近を発見するのに価値があった。
(542:596-602)

オーストラリア軍が航空機で漂流者を何度も反復攻撃して海が血の色に染まる映像を身内に配って回ってたというのは本当?

なんとそれが大筋で事実だからオージーは侮れない。
昭和18年3月3日に起きたビスマルク海戦(空襲)の結果、陸軍の兵士を乗せた
輸送船8隻と駆逐艦4隻が敵機の攻撃により沈められましたが、沈没した日本
の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物につかまり漂流中の千名の兵士達に対し
て、アメリカとオーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射をおこない、機関
銃の弾を撃ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、映画撮影のカメラマンまで乗せて
何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けました。
「決して男らしいやり方ではなかった」と第5爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中
で報告していました。「隊員の中には気分が悪くなる者もいた」。
救命ボートやその周辺を文字どおり血の海に変えたその殺戮の様子を、機上か
ら撮影した実写フィルムが10年ほど前にオーストラリアのテレビ局から放映され
て、国民に大きなショックを与えました。
「我々はフェアーな戦をしたと思っていたのに.....と」。
(容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別、ジョン・ダワー著)
(552:742)

米軍が日本の重要な軍事施設を把握していたのは何故?

例えば飛行機工場なら、昭和のはじめの絵葉書や昔の航空機写真を探し出す
戦前の航空機工場の建設には先進国である英仏米の協力が必要だったが
当時日本の航空機工場建設を指導した米英仏国人の記録や記憶で航空機工場の所在地を割り出す。
さらに、捕虜からの情報、日本軍は捕虜になった際の教育をしていなかった
「捕虜になる前に死ね」という教育なので、捕虜になった後どうすべきかは教えなかった。
だから捕虜になった人は「鬼畜米英」と教わった人たちから親切にされて、雑談ついでにいろんな情報をしゃべってしまった。
例えば、「あなたの家の近くには有名な神社がありますよね、でその近くには有名な飛行機工場がありますね
その飛行機工場は最近できた日本でも最新鋭の自慢の工場じゃないですか。すごいですね。」と聞かれると
日本人なら「いや、某所の工場ほどたいしたものではないですよ、あそこはもっとたくさん飛行機を・・・」とつい謙遜してしまう。
さらにはは戦死者の日記や手紙からの分析、飛行機の残骸にある製造番号からの分析によって大まかな工場所在地や工場の能力を割り出し
本土空襲前にB29の偵察専用機F-13により徹底的に写真撮影して分析
そこまで情報を集めた上で、空襲しています。
(554:233)

太平洋戦争で米軍の死者は30万人出たそうですが、これは当時の国力比からしたら、善戦したほうなんでしょうか?

また、アメリカは無理に地上戦を行わず、持久戦に持ち込み、無制限潜水艦戦、高高度爆撃を繰り返したら、
正規兵死者1万人以下で日本に勝てたといっていた人がいましたが、実際それは可能だったのでしょうか?
前段に関しては30万人でも少ないとも言えるし、30万人だと多いと言えるし、立場、状況などに
よって何とでも言えますから。

1944年の島嶼戦では、例えばサイパン島では日本側3万人戦死に対し、米軍側4500名、テニアン島
では日本側1万名に対し、米軍側400名、グァム島では日本側1万7000名に対し、米軍側2000名、パ
ラオ島では日本側2万名に対し、米軍側1500名の戦死。
1945年の戦線だと、例えば硫黄島でやっと日本側2万8500名の戦死に対し、米軍側5500名、沖縄戦
でも日本側11万名に対し、米軍側7500名と、常に米軍側の戦死者の方が少なかったりします。

加えて、輸送中に喪った人員なんかも米軍より日本軍の方が膨大になります。
そもそも、輸送船で輸送するのに、全員分の救命胴衣が確保出来ないから代わりに丸太を積むみたいな
お粗末な話ですが。
人を重要な資源と考えた米国と、人を使い捨ての資源と考えた日本の違いかな、と。

後段に対しては、1944年の時点(極端に言うならば1942年の時点)で、日本が手を挙げていればその程度
で済んだかも知れませんが、より確実に日本を締め上げるならば、例えば北海道や日本海側にも隈無く
爆撃をしたり潜水艦を配置したりしなければなりませんので、本土に近い何処かに基地を設ける必要が
あります。

米軍の上陸作戦の要諦は、戦闘機が離発着できる飛行場を設け、其処を拠点に制空権を確保して、
その行動半径の範囲内で次の拠点を陥落させると言うものですので、どうしても島嶼戦を行わなけれ
ば成りません。
日本本土に接近するのであれば、それなりの犠牲は伴いますので、1945年以降なら難しいでしょうね。
(346:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

占領したアリューシャン列島にいた民間人を連行したが、彼らは結局同島に生還できなかった ・・・これ本当?

原住民のアリュート人40人と、あと研究者のアメリカ人夫妻が連行され北海道小樽に抑留、後者が抑留中に死亡。

1980年10月号の今年休刊してしまった「諸君」に「昭和十七年 小樽、四十名アリュート人」が
載ってるわ。
(566:194,195)

太平洋戦中の極東ソ連軍の兵力は?

極東ソ連軍の兵力は独ソ戦開始に伴って減少し
狙撃師団×21、騎兵師団×3、戦車師団×1など
総兵力80万、戦車約1000、航空機約1000まで減少したと関東軍は見積もりました。

実際、極東ソ連軍は諜報活動により日本参戦の見込みなしと判断して後急速に西送され、
41年9月以降狙撃師団×16、戦車師団×3、自動車化狙撃師団×1等が同年中に欧州に向かいました。

しかしながらその後の兵力補充や部隊入れ替え等もあり
42年7月時点での極東ソ連軍は
狙撃師団×29、騎兵師団×3、戦車師団×2など
総兵力144万、戦車・自走砲2589、航空機3178にも達していました。

ソースは『ソ連軍侵攻と日本軍』(国書刊行会)。
(571:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)

日本軍はインドネシアで民兵組織を指導していたそうですが?

インドネシア歴史教科書・第一章 日本占領時代におけるインドネシアの社会生活の日本語訳より
「他方、日本は軍事訓練を施す方法でインドネシア人を国防へ参加させようと試みた。これは占領初期から実際には考慮されていた。
このために1943年4月全青年層を対象として兵補(軍人補助隊)となる機会が与えられた。彼らは日本の陸海軍組織の下に直接配置された。
構成員となるためには、健康かつ性質良好で年齢は18-25歳のあいだ、そして小学校卒業以上の資格が必要だった。軍人の補助ではあったが、
彼らには標準的な軍事訓練が施された。兵補の構成員の大半が対空砲[*1]操作の訓練を受けた。兵補設置の他、日本はタンゲランの青年道場
と呼ばれる訓練所でも青年たちの訓練を行った。タンゲランの柳川青年道場卒業生は情報部隊へ配属された。」
で、この時にインドネシア人側からの提唱でPETAが誕生、日本軍の指導を受けたわけだが、理由はこのとおり民族独立とか関係なし。
(576:145)

アメリカが日系人を工作員としてインドシナ半島などに潜入させていたという話、

日本兵を装って現地民に危害を加えたり、逆に現地民になりすまして日本軍を攻撃して報復を誘発させ、
現地での反日感情を煽る離間工作を行なっていたと何かで読んだのですが、
軍情報部 Military Intelligence Service(MIS)の日系人のことかな
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/mis.html
語学兵たちの配属先は主に太平洋戦線だった。
サイパン、グアム、オーストラリア、そしてビルマ、インドにフィリピン。
ヨーロッパでイタリア兵やドイツ兵と戦った第442連隊の日系兵たちと異なり、まさに日本兵と顔つき合わせての戦争である。
顔が日本人であるため、味方のアメリカ兵からも日本兵と間違えて攻撃される危険があり、
語学兵にはそれぞれひとりのボディーガードがついた。
なにしろ、高度な日本語解読能力を有した語学兵は稀少で、「替えが効かない」のである。
 彼らは太平洋戦線で、日本軍捕虜から捕獲した日記や郷里からの手紙などを解読し、そこから戦闘情報を読み取った。
また、例のマニュアルを活用して、捕虜たちの尋問を行なった。
戦争が進み、日本の敗北が濃厚になると、降伏をうながす日本語のビラを撒いたり拡声器で呼びかけたりした。
時には日本人のふりをして敵陣に乗り込み、「上部から降伏せよとの指令がおりた」などと言って降参させる
トリックまで披露してみせたという。
 終戦後もMISの活動は終わらなかった。語学兵たちのうち優秀な者は占領統治軍GHQに加わり、東京裁判においても通訳として貢献した。
日本兵を装って現地民に危害を加えたり、
逆に現地民になりすまして日本軍を攻撃して報復を誘発させ、
現地での反日感情を煽る離間工作を行なっていたと
さすがにこれはないかと、
日系人と日本人と見分けつかないのにそんなことしたら
まわり敵だらけになってしまいますから
(339:936)

アメリカの対日作戦計画はオリンピック作戦とコロネット作戦が有名ですが、ソ連が北海道、続いて東北地方に上陸してくる可能性はあったのでしょうか?

とりあえず北海道はソ連のものになっていた
だから戦後もスターリンは北海道を欲しがっていた
そのために日米安保条約を国民総反対のなかで締結した。
安保デモがあったころ事実ウラジオストックではソ連軍が演習してた。
(337:101)

がっちりハワイ

仮に真珠湾奇襲のとき、日本が総力を挙げてハワイを占領したら?
真珠湾には当時強力な沿岸砲台+三個師団五万人の陸軍が配備されていました。
海軍を全部沈めたとしても、それを制圧するためには最低三個師団の陸軍とそれを運ぶ百隻強の輸送船+護衛艦が必要で、
そんなことをすれば南方資源確保作戦(言うまでも無く、戦争目的からしてもこちらがメインで真珠湾は枝)が破綻します。
運良く占領できても、長大な補給線を維持する力は日本にはなく、米海軍の潜水艦に補給路を絶たれてハワイ守備隊は無力化されるでしょう。

まあ真珠湾を占領することは絶対不可能だったと、当時の海軍指導者が戦後言ってますから、「もしも」としてもありえなさ過ぎます。
(333:468)

先の大戦では沖縄では沖縄本島以外は戦場にはならなかったんでしょうか?

沖縄戦に先立って攻略したのは慶良間諸島(3/26)
伊江島上陸は、沖縄本島での戦闘が始まって以降の4/14
ちなみに慶良間諸島を先に制圧した理由は、艦隊の泊地として、弾薬の補給や、
乗員の休息のため。

他の島が戦場にならなかった理由は、ラバウルと同じで、南九州攻略の足場となる沖縄本島に
兵力の集積拠点と飛行場を作れば用が足りるので、不要な島を攻略して無駄な犠牲を出したくなかったから。
1944年に陥落したマリアナ諸島でも反撃できる戦力もない、ロタ島なんか無視されて戦争終結までそのままになってる。
(589:30,33)

日本は連合国と講和することは無理だったのですか?

まず第一に開戦に先立って
日本はドイツに対米参戦してもらう代わりに
日独の単独不講和の約束していた。
これにより、ドイツを無視して勝手に講和を結ぶことは裏切り行為になることが1つ。

次に、アメリカとイギリスは
この戦争を機会に邪魔な勢力を徹底的に排除しようと目論んだ事。
そのため戦争中に日本やドイツには無条件降伏以外を求めないという公式の決定をしている。
国家の無条件降伏という要求はよほどの事で
それなりの講和などが期待できる状況ではなかった。
ソースがありましたら、明示した頂けましたら幸いです
日独伊単独不講和協定も知らないのか

これが協定として成立したのは開戦後の11日でも
すでに開戦前から日独間で交渉は行なわれて
6日にはリッペントロップが、大島大使に
「日米戦争が起れは、独伊もすぐに戦争状態に入る」
ということを伝えている。

昭和16年12月6日の第75回連絡会議において
「対独交渉に関する件」として大島大使から報告されている。
(590:201-231)

なぜ日本は本土決戦しなかったの?

武器や航空機なんかを温存してたし。どうせ無条件降伏するのなら本土決戦をやれば良かったんじゃないかと思うのですが
  • 講和を仲介してくれるはずだったソビエトが不可侵条約を破棄して侵攻して来たこと
  • アメリカが一発で都市を消滅させることができる新型爆弾を実戦投入してきたこと
  • 既に食糧自給の見込みが立たず、このままでは年内に本土で餓死者が発生する可能性が高いこと
  • 沖縄と硫黄島の戦例から、米軍の戦力に対しては「時間を稼ぐ」ことは出来ても対抗することは
 不可能であること
といった状況から、「本土決戦しても講和に持ちこめる可能性がない」と判断されたから。

一応、戦後のシミュレーションだと九州を切り捨てて戦力を関東に集中させて関東に上陸して来た
米軍を迎え撃てば、ほぼ全滅するのと引き換えに米軍の上陸部隊に壊滅的な打撃を与えることは
できただろう、と判断されている。

ただし、それと引き換えに国内の大都市は軒並み核兵器で焼き払われる上に、国民の半数が餓死するし
国内の農漁工商業は産業として壊滅するし、北海道はソビエトの制圧下(つまりその後永遠に返って
こない)に置かれたと考えられてもいる。

要するに米軍に大打撃を与える(でも、米軍そのものが全滅したわけではない)のと引き換えに「日本」と
いう国家の形が維持できなくなるわけで、そんなことしてもしょうがない。
戦後のシミュレーションのソースは?
戦後米軍の陸軍大学(CGSC)で行われた研究の一つに
「日本本土決戦をやったらどうなったか?」
というのがあって、その中で
「日本が取れるベストの選択」
はそんな感じの結論になっていた。

ただし現実的に九州を切り捨てられたかは疑問だし、もし鹿児島だけでも九州を制圧されたら
そこから中距離爆撃機が西~東日本の鉄道交通網を破壊しまくるだろうから、関東に兵力を
集中させてコロネット作戦を待ち構える、のは現実的困難が大きすぎるだろうな。
(590:402,406,620)

サイパン島の戦いって日本側の死者がやたら多すぎるような気がするんだけど

サイパン以外にも当てはまることだが
島嶼戦は防衛側に退却路がないため
どれだけ劣勢になっても戦力が消耗しきるまで戦闘が続く事になる。

さらに日本軍は降伏を潔しとしないことに加えて
米軍も情報収集のために必要な数以上の捕虜はとらず現場で殺害する場合が多いため
防衛側の日本兵の死者が多いのが太平洋戦争末期の島嶼戦の特徴。
(600:51)

コロネット作戦で米軍がサリンを使用する計画、というのをよく聞くのですが、本当でしょうか。

大戦当時、アメリカ軍はまだサリンガスを保有していません。
サリンの毒性にいち早く注目したのはドイツで、大戦中に秘匿生産していましたが
アメリカ軍がサリンを兵器体系に組み込んだのはこの毒ガスを戦後押収して以降、1950年代に入ってからです。

すなわち、コロネット作戦にサリンガスが出る幕はありません。
当時アメリカ軍が装備していたのはマスタードガス等です。
(608:807)

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