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日本の空母 - (2011/06/28 (火) 00:01:27) のソース

#CONTENTS
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**太平洋戦争当時の帝国海軍の空母についてですが、当時の空母の飛行甲板にエレベーターはありましたか?
エレベーター3基
赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴
エレベーター2基
上記以外のすべての空母
#right(){(4:839)}

**どうして瑞鶴と翔鶴は「妾の子供」と言われたのですか?
同じ第1航空艦隊に配属されている先輩空母に比べて
戦争直前に竣工したため練度が低かったこと、その2隻が珊瑚海海戦時に備えて
日本海軍でも主力部隊とは程遠い第4艦隊に転属されたためだったと思います。 
#right(){(9:55)}

**旧日本海軍の三段式空母、やめた理由は何なのでありましょうか。
飛行機が発達すると共に大きく重くなった結果、着艦用の最上飛行甲板では手狭になってきたことと、
発艦時に屋根のある下部飛行甲板では危険になってきたためです。
それに同じに発進できる航空機の数を増やす為には飛行甲板は出きるだけ広い方が良い事がわかってきたからでもあります。
また中央部の飛行甲板はほとんど使われていませんでした。

いずれにせよ、三段式飛行甲板は航空母艦発達史の中ではかなり初期の試行錯誤の産物と考えて良いでしょう。
#right(){(6:211)}

**雲龍などの日本空母が緑色で表現されているのは事実だからですか?
日本の海を見てみましょう。 
結構緑がかってると思いません? 
実際に信濃、隼鷹、雲龍は暗緑色で塗装されていました。 

大戦後期になると緑の塗装が増えますが、一説には対空砲台として 
使用するため、山を背景にとけ込む迷彩として使用したと言う話もありますが、 
真偽のほどは不明です。(迷彩検討の試行錯誤の一環と取れなくもないですが)
#right(){(12:眠い人 ◆ikaJHtf2)} 

**【天城】の艦底部分だけは浮桟橋としてそのまま残され、青函連絡船用として函館に回航されたという。
>とのことですけど、どなたかその後どうなったかしりませんか?
「終焉の日」からかな。
んでその桟橋は長さ119.92m、幅14.2mの巨大な桟橋だったそうです。
連絡船が廃止されても桟橋は残ってるようだけどこれがソレなのかは不明。

まーもし現存していたとしても周りは完全にコンクリに覆われているでしょう。
#right(){(14:787)}
浮き桟橋とのことですから、臨時施設でしょう。
従って、青函連絡船が整備された頃には、恒久的なものが整備されています
ので、恐らく海の底ではないでしょうか。
#right(){(14:眠い人 ◆ikaJHtf2)}
**関東大震災で破棄された改装空母天城は赤城と同じ設計なのでしょうか。
天城と赤城は姉妹艦でしたから、若干の差異はあったでしょうが、同じ艦型になっていたはずです。
#right(){(17:眠い人 ◆ikaJHtf2)}

**何故赤城の艦橋は左に付いているのでしょう?
先に改装した加賀と比較のため
#right(){(17:181)}

**赤城や加賀は90機搭載できるのに、どうして信濃は、47機しか搭載できないのですか?
1)必要とされなかった。信濃は中継空母として計画されたので自身が
 多数の航空機を搭載する必要がなかった。
2)中継空母ゆえ重装甲化する必要があり、その代償として重心位置低下のため
 格納甲板が単段となった。
3)想定された艦載機が、大戦末期に計画された大型機であったため、戦前の
 ものを想定していた初期の空母より見かけ上少なくなった。初期の航空機なら
 もっとたくさん搭載できます。
パッと思いつくところではこんなところ。あと少なく見積もっていたとかいう話も。
#right(){(19:137)}

**雲龍型空母は、なぜ艦名が山の名前になってしまったのでしょうか?
昭和17年以降の決定であったと思いますが、空母建造を続けると~龍、~鶴といった
空母系統の名前のネタ切れ(カコワルイ名前しか残らない)を危惧した海軍が~山の名前を採用することとなりました。
#right(){(24:762)}

**改造空母の大鷹や雲鷹から零戦が離陸できたのでしょうか?
今判る範囲で調べてみましたが。

12試艦上戦闘機(A6M1)離陸滑走距離は風速12m/Sで70m以下(試作要求案)
艦上爆撃機「彗星11型」(D4Y1)(無風)199m(風速12m/s)85m
艦上爆撃機「彗星33型」(D4Y3)(無風)240m
艦上偵察機「試製彩雲」(C6N1)(風速13m/s)124m(正規重量)182m(過荷重)

飛行甲板の広さと速力は。

翔鶴 242×29m 34ノット
瑞鳳 180×23m 28ノット
大鷹 172×23m 21ノット

秒速12メートルというのはおおむね24ノットですから、いくらかの風があればOK、
甲板に並べる機体を(つまり同時に発艦する数を)減らして滑走距離を大きく取れば
無風でもなんとか(ただし大型新鋭機は不可)といったところではないでしょうか。
#right(){(27:ふみ)}

**信濃の引き上げは不可能なのでしょうか?
不可能と言いきる事は出来ませんが、
信濃の沈んだ潮ノ岬沖は、海流の早いことで有名な海域ですので、
艦体が見つかったとしても、サルベージは最高級難度でしょう。
#right(){(28:43)}

**日本の空母の艦橋って周りに毛布がついてるけど何で?
戦闘時の防弾用
普段はハンモックとして使用
#right(){(32:361)}

**日本の空母はでかいジャイロみたいな装置を積んで艦の揺れを抑えていたそうですがどれくらい効果があったのでしょうか?
ジャイロ・スタビライザーを装備したのは鳳翔と龍譲だけ。
鳳翔の場合片舷15度の動揺を5度以内に軽減できたそうです。
#right(){(40:944)}

**日本軍の空母の搭載機が米軍に比べて少ないのは何故でしょうか?
日本は露天駐機しないから。
#right(){(47:557)}
米海軍と日本海軍とでは、格納庫の使用方法が違う事が挙げられるでしょう。
日本の場合、搭載機を全て格納庫に収めて運用しようとしたのに対し、米海軍
の場合、格納庫はメンテナンス・スペースとして使用していました。
で、搭載機の大半は露天駐機にしていた訳なのですが、ここでまた、米空母の
日本空母に対しての特徴である、同排水量艦の比較において、飛行甲板の面積
が大きいと言うメリットが効いてきます。
プラモデルか、同縮尺の平面図で比べると解るのですが、日本の空母と比べると
明らかに米空母の方が広いです。
あと、格納庫の構造の違いもありまして、米空母は開放式の格納庫になっており、
一段式ではあるのですが、幅も艦体の横幅ギリギリまで取っているのに対し、密閉
型の日本空母は、二段式以上ではあっても、格納庫の周りを士官室など、居住区
その他に使用しており、艦体の横幅よりも格納庫の幅はかなり狭いものでした。
#right(){(47:569)}
日本の空母においても露天係止(露天駐機)は日常的に行われていました。
http://www.warbirds.jp/ansq/11/A2002406.html
米空母の搭載機数の多さはカタパルトの能力も関係してます。
http://www.warbirds.jp/ansq/2/B2000666.html

**日本空母の艦尾付近にある耳のような出っ張りが気になるのですが,これはどんな機能があるんでしょうか?
着艦標識のことかな?
この標識を通過したら機体を三点姿勢にしろという目印。
#right(){(51:940)}

**日本海軍の空母の艦橋に、戦闘時に括り付けられる白いモフモフは何ですか?
>わざわざ燃えやすい物を括り付ける意味がわからない
あれは「マントレット」といって、ハンモックを硬く丸めて縛り付けたもの。
被弾した時に破片が周囲に飛び散るのを防ぐ。
#right{(353:864)}

**空母赤城の甲板にアって書いてあるのはなんでですか?
上空から空母の艦名が識別できるように書かれた識別記号。
「ア」はアカギのア。
艦隊組んで行動してると間違って別の空母に着艦しちゃう機が続出したので、識別のために描かれた。
日本の他の空母にもそれぞれ艦名を示すカタカナが書いてある。
#right{(364:334)}

**大戦中の日本の正規空母の速力が34ノットくらいあるのはどういう要求によるものなのでしょうか? 
巡洋艦と遭遇した際に逃げられる足と合成風力を作るための高速性が要求されました。 

日本はどの空母でも同じように発艦できるよう、合成風力が同じ値になるように速力を調整します。 
向かい風が強いときは速力を落し、弱いときは速力を上げます。 

零戦は向かい風12m/秒=43.2km/時、つまり合成風力23ノット強での離陸距離70mを要求されています。 
九九艦爆は同10m/秒で離陸距離100m(ただし爆弾搭載せず)。 
実際には機動部隊所属艦中最も低速な艦の「最大戦速」、つまり過負荷でない戦隊レベルの最高速度での運用が通常。 
これ、正規空母なら30ノット。つまり最大34ノットの「4ノット」は余裕分とみていい。 
#right(){(466:264,268)}
**帝国海軍の空母のうち、飛行甲板が甲板で覆われていたのは信濃と大鳳だけですよね?他の空母は木製の飛行甲板だったのでしょうか?
甲板がないのに飛行甲板とはこれ如何に
などという突っ込みはともかく、例示された両空母以外は全て木甲板。戦艦もそうだ。
勘違いしているフシが見受けられるが、木の下は鋼の甲板。鉄がむき出しのデッキだと日差しで凄まじく熱くなったり(艦内も)、
乗員の足腰の負担が増えたり歩行の音が下に響いたりするので、それらを和らげるために木を張っている。

材は米松、チークなど。戦艦「長門」には試験的に檜が使われたが、これはあまり宜しくなかったらしい。
厚さは38~100mm、幅は100~229mm。これをデッキにボルト止めし、ボルトの入った孔は木栓を打ち込んで塞ぐ。
#roght(){(351:763)}
**どうして日本の初期空母は、煙突を下向きにしたんですか? 
>甲板上の気流の乱れとか言いますが、米空母は普通に上向きだし 
>日本空母は荒波を考えて開放型格納庫を避けたとも聞くので 
>むしろ日本の場合は下向き煙突だと海水が入り込むリスクがありますよね。 
いや気流の乱れを嫌ったから。 
あと甲板上にでかい構造物があるとやっぱり甲板上の気流に乱れが 
生じて艦上機の離発着に影響を及ぼす。 
それを避けた。 
ちなみにあの湾曲煙突は上面に蓋がついていて、波がひどい時や艦が 
損傷浸水して極度に傾いた時にはその蓋を開けてそこから排煙する。 

米空母もレンジャーのように起倒式煙突を採用したりして、初期に試行錯誤はしている。
#right(){(349:180,182)}
**日本陸軍が空母持ってたというのは事実ですか?
とりあえずこのサイトでもどうぞ
http://www.h3.dion.ne.jp/~okumoto/page026.html
#right(){(347:842)}

**瑞鳳級など、飛行甲板の先っちょの方がないのはどうしてですか
>結局、改装して延長したそうですが、なぜ最初からそうしなかったんでしょうか。
飛行甲板が長いとその分重量配分がトップヘビーになる。
なので短くて済むならそれに越したことはない。

また、艦体構造と一体化されておらず支柱で支えられている甲板は、
波等で艦体がたわむと艦体本体とは別のねじれ方やたわみ方をする。
結果艦体との境界部に亀裂が入ったり折れたり支柱が曲がっちゃったり
するので、艦の構造上余り好ましくない。

なにより瑞鳳の艦橋は飛行甲板先端の下部にあったわけで。
「ひさし」に当る部分を長くしたら斜め上すら見えなくなるわ支柱が邪魔で
前方視界が妨げられるわで艦の操艦に支障が出る。

実際改装工事後は「艦橋からよく廻りが見ぇねぇ」と激しく不評だった。
#right(){(337:76)}

**CV赤城の三段甲板は一番上の甲板以外からも離陸出来たんですか?
一番下は長さ56.7mの大型機発艦用甲板、その上は長さ15mの小型機発艦用甲板、一番上は長さ190mの発着艦用甲板になっています。
#right(){(330:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
下段が大型機発艦用甲板
中段が小型機発艦用甲板
上段が発着艦甲板

の予定でした。が、中段の飛行甲板は艦橋を拡大した結果、
格納庫との連絡が無くなりデッドスペースになりました。
#right(){(330:527)}
>何故一枚甲板にしてしまったんでしょうか?
中段の小型機発艦スペースとかアホみたいに短い。
飛行機黎明期はこれでもよかったんだけど、だんだん大型で高性能な艦載機が
開発されるにつれ発艦時の滑走距離が増加。中段は無理、下段でもどうだろう、という状況になり、
なら広くて大きい飛行甲板があった方が良くね?ってことになって一枚になりました。
英国もフューリアスとかで似たような試行錯誤をしています。
#right(){(330:534)}
**日本空母は爆弾、魚雷の誘爆がなくとも数発の爆弾で使い物にならなくなる脆弱なものだったのでしょうか。 
>ミッドウェー海戦で加賀4発 蒼龍3発 赤城2発で最終的に沈没になっています。 
>わずか数発で沈没にまでいたってるのは換装作業中の爆弾や魚雷に誘爆した影響も 
>大きいということですが、飛龍が3発でやはり沈没しています。 
当時の日本空母だけでなく、装甲甲板を充分に施されて無い空母 
または巡洋艦以下の航空攻撃への弱さはそんなものだ 

もっとも、日本の艦船は総じて攻撃能力偏重とかで 
ダメコン能力(被害受けても、火災や乗員の死傷を拡大させずに食い止める能力)は 
元々低かったというのもあるんだが… 

現代の軍艦でも巡洋艦は対艦ミサイル3発、空母は4発程度で沈むと言われている 

とりあえず爆弾が3発当たれば空母は飛行甲板が壊れるので空母としては使い物に 
ならなくなる。 
後に飛行甲板に急降下爆撃に耐えられるだけの装甲を張る様になるが、そうなると 
重くなりすぎて色々と不都合が出た。 
イギリスの空母には装甲甲板にして特攻機の直撃に平然と耐えたものがあるが、 
装甲化で重くなった分の重心を低くするために格納庫を2段から1段にしなくては 
いけなくなり、搭載機数が半分になった。 
その辺の事をクリアするために、空母はどんどんデカくなって行く。 

あと、日本の空母は基本設計として250kg爆弾(日本の急降下爆撃機が積める爆弾)に 
攻撃される事を前提としていたが、アメリカの急降下爆撃機は1000ld、454kg爆弾が 
積めるので、想定以上の被害が出た。 

3空母の喪失については、転換作業中というのではなく、攻撃隊が発艦開始直後に爆撃を受けたもの。 
そのため、飛行甲板上で、艦爆、艦攻に搭載されていた爆弾および魚雷が誘爆を起こし、 
ダメコンも有効な手が打てずに、航行不能に至った。 
飛龍についても同様で、薄暮攻撃のために甲板上に攻撃機を待機させていたところに、 
急降下爆撃を食って、3空母の後を追うハメに陥った。 
また、当時の空母は一般的に飛行甲板が弱体で、容易に飛行甲板を爆弾が貫通し、船体内での被害も大きかった。 
これに日本空母の場合は、消火設備等のダメージコントロール設備やダメコンの練度度不足などが重なり、 
あっけなく航行不能のやむなきに至っている。 
#right(){(597:131-138)}
**日本海軍の空母にカタパルトがなかったのはなぜ?
日本海軍は、空母用に油圧カタパルトの実用化に失敗したため, 
火薬式のカタパルトを使ってましたが、火薬式だと、 
作動時に急激な加速がかかることもあり, 
艦攻、艦爆を発進させるだけのパワーのあるものを作ろうとすると装置自体が巨大化するのと、 
艦攻、艦爆の構造強化まで手をつけなくなり、断念しています. 
#right(){(325:112)}
参考までに
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q117190956
**日本が第二次世界大戦で、客船を航空母艦に改造した理由
>航空母艦には乗組員の数が多いので、客室が多い客船が好都合だったから?
順番が逆。空母に改装できる客船を政府が助成して建造した。 

当時は軍縮条約が有効だったので、改造前提の覆面軍艦が必要だった。 
当時は貨物船やタンカーでも1万トンで大型と言われており、客船以外に、空母に必要となる容積を 
みたす大型民間船は口実とならなかった。 

さらに言えば、その「客室」とやらも結局は可燃物で作った仕切りなので、手間をかけた防火対策の 
必要があった。 

だいたい、上甲板から上は全部撤去で、船体内に弾薬庫だのガソリンタンクだのを増設する大工事 
なのに「居住設備」が改装対象の理由になるかよ。 
#right(){(622:ふみ ◆Y.QUKJBduY)}
**空母赤城と加賀では何で赤城が旗艦に選ばれたの? 
>速度以外は加賀のほうが完成度が高いじゃん? 
艦橋が小さく、作戦指揮を行うのに不都合があると判断されたから。 
#right(){(625:426)}

**旧日本海軍はどこら辺に問題があって空母用カタパルトの開発が出来なかったんでしょう? 
>ていうか火薬式の連続使用ってどこら辺に問題があるんでしょう? 
日本が油圧式のカタパルトを開発できなかったのは、優秀なオイルシールが 
生産できなかったから。これがないと油圧駆動なんて無理。 
火薬式がダメなのは、白化させたときに急激にGがかかり、機体が持たないから。 
あと、重くなる一方の艦載機に合わせて火薬の量を多くするとカタパルト自体が 
火薬の爆発に耐えられるように頑丈にする必要があり、そうなると重くなりすぎるから。
#right(){(660:223)}
**日本の空母が湾曲煙突や傾斜煙突なのに対して、他所のは直立煙突ですが、着艦の際に悪影響はなかったのでしょうか? 
影響は当然出てるけど、それを許容範囲とみなすか、みなさないかの差というのが、戦鳥さんとこの回答。 
http://www.warbirds.jp/ansq/2/B2000830.html
#right(){(661:429)}
「着艦の際に悪影響は」ありました! 
煙突の悪影響を避ける試行錯誤が、「湾曲煙突や傾斜煙突」です。 
しかし、どうしても悪影響は出ました。 
決定的な方法は存在しませんでした。 
原子力になって煙突が無くなり、悪影響が止みました。 

「煙突がない 離着艦スペースが広くとれ、排煙が航空機の着艦を阻害することがない」 

下記、 
ウィキペディアの原子力空母の原子力化のメリットを参照ください。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%A9%BA%E6%AF%8D
#right(){(661:霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg)}

しかし艦橋構造物は大型化しているので、着艦に影響する乱流そのものは根絶していない、と。 

空母が艦載機の運用を行うことを第一義のフネとするならば、飛行甲板は艦載機の運用の都合だけを 
考えたい。それを突き詰めていくと、なるたけ多くの飛行機を並べることで発艦を短時間に行えるように 
したい。とくにカタパルトの後方は発艦待ちの艦載機のためのスペースにするのが望ましい。 

しかし、通常動力空母の場合、機関室とその煙路の都合もあって、オーバーハングでせり出すにせよ、 
場所をあけるためにアイランドを後退させるにせよ限界がある。それを原子力化によってアイランドの位 
置はかなり後退させることができた、と。 
http://www.globalsecurity.org/military/systems/ship/images/midway.gif 
しかしもっと駐機スペースをとりたいので、エレベータの数を減らしてでも場所をつくり、艦橋をさらに後 
退させた。エレベータが減っても能力が3割あがれば補いがつくし。乱流については別対処する、と。 
http://www.globalsecurity.org/military/systems/ship/images/cvn-78-side.gif 
http://www.globalsecurity.org/military/systems/ship/images/cvn-78-deck3.gif 
#right(){(661:ふみ ◆Y.QUKJBduY)}
**赤城と加賀をワシントン条約で空母にしていますが、トン数から考えて、赤城と加賀やめて飛龍型5隻にしたほうが得ではなかったでしょうか。
>ついでに、龍襄とほう翔もやめれば、飛龍型6隻できたと思うのですが
時系列を完全に無視してる。WW1直後の複葉機の時代に「大型空母」
を造ろうなんてアタマは「軍縮条約で余った戦艦を流用して」って話以外で出てくるわ
けがない。1万t級で十分に運用可能だ。

 ロンドン条約で規制されるまでは1万t以下の空母に枠はなく建造は自由だった。

 公称27000tの赤城、加賀を潰すとなんで飛龍が5隻造れると考えるのかも分からん。
「開戦時に」ってのも実は「後だしじゃんけん」。もし、開戦してなかったら、飛龍級
は1950年代初期にはジェット化に対応できずに除籍されていたろう。

 蒼龍自体が「ワシントン条約の建造枠の残り」に合わせた設計で、赤城、加賀を先に
建造していて、鳳翔と龍ジョウ(当初計画9800t)がロンドン条約で枠に入らなければ
存在しなかった艦形。
#right(){(295:533)}
**タミヤの信濃を買って初めて知ったんですが・・・・空母ってホントに緑色なんですか?
1944年頃の日本空母の塗装は、主戦場の南洋の海の色に合わせる為に、濃い緑色に
塗装したと言う話を何処かで聞いた覚えがあります。
戦艦の場合は、日本近海の海の色に合わせるために、濃い鼠色ですが。
#right(){(294:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**呉大空襲で、空母でありながら鳳翔が損傷が小さかったのは何故なんでしょうか?
鳳翔は戦争のほとんどを練習空母として使われ、激戦の前線には出ていない。
戦争後期には航洋を捨てて飛行甲板を拡張して、外洋に出れなくなった。

1945年には飛行甲板に木を載せて島に偽装されるようになり、米軍の攻撃を
逃れた。バレバレだったが・・・。

もっとも、米軍にしてもより攻撃するべき目標があった状況下では、こんな
「小物」には構ってられなかったのだろうというのが真相だろうが。
#right(){(294:741)}
**ミッドウェー海戦後に日本海軍は空母の大量建造計画立ててましたが、比較的な期間が短くて済みそうな金剛型の空母化改装が行われなかったのはどうしてですか
構造物ひっぺ返して格納庫と飛行甲板付けて降着装備を付けて…
と、言った感じで新造と大して変わらない手間が掛かります。
また、金剛級はその空母の貴重な護衛戦力となるので空母化からは除外されています。
検討され、実際に空母化されたのは損傷受けていた伊勢、日向の二隻です。
後部甲板だけの中途半端なものですが。
#right(){(286:964)}

**日本帝国海軍空母の飛行甲板の平面図を見ると、木甲板の横方向に、ところどころ灰色の線が描き込んでありますが、
>あれは何を目的に描いてあるのでしょう?
おそらく自在継ぎ手と思われ。 
船というのは、波浪を受けて意外なほど船体がしなるものです。 
そういった場合に、ゆがみを吸収するための継ぎ手が、日本海軍の空母の飛行甲板には設けられていました。 
>歪みを吸収、ということは、ゴムかなにかで出来ていたのでしょうか。 
>アメリカやイギリスの空母では見かけませんが、それはやっぱりあれらは飛行甲板まで塗装していたからでしょうか。 
伸縮継手(自在継ぎ手)は、飛行甲板部分は板で隙間を塞げるように 
片側だけ固定してかぶせるように設置してあり 
船体の側壁部分はΩ型のフレームで繋いであるような構造だったようです。 
ですので金属の強度によって歪みを吸収していたということになります。 

飛行甲板を強度甲板とした最初の空母はイギリスのアークロイヤルで1938年に竣工しています。 
アメリカ空母の飛行甲板が強度甲板化されるのは1955年竣工のフォレスタルからとなります。 
というわけで、第二次大戦中のアメリカ空母とイギリスのアークロイヤル級以外の空母は 
伸縮継手を供えているけれども塗装でいまいちわからないということだとと思います。 

多くの艦艇に大戦末期まで迷彩がされなかったのは 
日本の迷彩塗装の研究が遅れていたのが原因だと思います。 
#right(){(103:368-373)}
**空母赤城の乗員の内訳は?
赤城型航空母艦定員表 
昭和12年4月23日 内令第169号改定 
昭和16年 第784号改正 

艦長 大佐 1 、副長 中佐 1 、航海長 中少佐 1 、砲術長兼分隊長 中少佐 1、通信長兼分隊長 中少佐 1 
運用長兼分隊長 中少佐 1 、飛行長 中佐 1、副砲長兼分隊長 少佐・大尉 1、飛行隊長 中少佐 5 、 
分隊長 少佐・大尉 15 、乗組 兵科尉官 12、中・少尉 9 、整備長 機関中佐 1 、機関長 機関中佐 1 
工作長兼分隊長 機関少佐 1 、分隊長 機関少佐・機関大尉 9、乗組 機関科尉官 5 、機関中・少尉 5 
軍医長兼分隊長 軍医中少佐 1 、乗組 軍医少佐・軍医科尉 3 、主計長兼分隊長 主計中少佐 1 
乗組 主計科尉官 1 、乗組 特務中・少尉 4 、飛行特務中・少尉 22 、整備特務中・少尉 9 、機関特務中・少尉 3 
工作特務中・少尉 1 、看護特務中・少尉 1 、主計特務中・少尉 2 、兵曹長 4 、飛行兵曹長 33 、 
整備兵曹長 14 、機関兵曹長 4 、工作兵曹長 1 、看護兵曹長 1 、主計兵曹長 1 、兵曹 110 、飛行兵曹 145 
整備兵曹 131 、機関兵曹 84、工作兵曹 21、看護兵曹 4、主計兵曹 12、水兵 318、整備兵 328、機関兵 211 
工作兵 31、看護兵 9、主計兵 49、 
合計 1630 

赤城 
士官 77、特務士官 42、准士官 58、下士官 507、兵 946 
合計 1630 
#right(){(130:156)}
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